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第十五章 次代へ
しおりを挟む源太郎は謹慎の上で役を解かれ、その後に吉治が就いたという。
その謹慎も然程に長いものではなく、火刑執行の五日後には解かれたと聞いていた。
今度は吉治を補佐して、まだ働いているらしい。
と言っても、主に動くのは口ばかりで、殆どが吉治の一人娘さよの相手をして過ごしている。
今も、さよは囲炉裏端で破れた草鞋を直す源太郎の手許をまねて藁を縒っていた。
城下を発つ前の日、秋津は非人頭の家を訪ねていた。
吉治も突然振られた役付きの立場に慌しくしているようだったが、秋津が顔を出すとすぐに駆け寄り、
「本当に、月尾に行っちまうのか」
と眉を八の字にした。
「うん、たぶんそれが一番良いんだ。色々迷惑を掛けて、悪かった」
「馬鹿か、んなこたぁ気にしてねぇよ。なぁ、お頭」
と、吉治は源太郎に声を掛ける。
「おい吉治、今はおめぇが頭なんだぞ。いつまでも俺を当てにしてんじゃねえ」
「あ、悪ぃ」
ぽりぽりと頬を掻く吉治に、秋津は思わず小さく微笑んだ。
吉治がその後釜に収まった事で、源太郎の暮らしがそう大きく変わることはなかった。
「吉治にも似合ってるじゃないか、羽織」
「そうか? どうも馴れなくてなぁ、ついつい着忘れちまうんだが、そこの元お頭にどやされるんだわ」
軽口を叩く吉治に、源太郎は憮然とした面持ちになる。
が、囲炉裏端で動かす手は止めず、秋津の名を呼んだ。
「月尾で嫌な目に遭ったら、いつでも逃げて帰って来い。りよはおめぇだけでも幸せに暮らせるように、ここに置いてったんだからな」
母が託した相手は、確かに間違いのない人間であったと、秋津も思う。
源太郎と十兵衛でなければ、今日まで生き延びることも難しかったかもしれない。
小さな子供が一人で放り出されれば、一月と持たずに飢えと寒さにやられてしまっただろう。
「俺も話を聞いた時ゃ驚いたが……、だけどおめぇ、元宮様のところじゃなくて本当に良いんだな? こんな話、二度とねえぞ?」
勿体ないと言わんばかりだが、秋津が
「いくら何でも、元宮様じゃ雲の上過ぎるよ」
と答えれば、それもそうかと吉治は納得する。
「……元宮様じゃなくたってなぁ、おめぇみてえな強情な跳ねっ返りが、武家でうまくやれるたぁ誰も思ってねえ」
十兵衛を失い、随分気落ちしたのだろう。
以前に見た時よりも髪は白く、頬も痩けてまさに老人の風体になっていた。
それが痛ましくて、胸の辺りに言葉が閊える。
「頭、十兵衛のこと……」
ずっと詫びねばならないと思っていた。
「馬鹿野郎、そんな顔するんじゃねえ。あいつもあいつなりにおめぇを想っての結果だ。おめぇが幸せでいりゃそれでいい」
「………」
「ただ、あいつのことは忘れずにいてやってくれ」
「……うん」
皆まで聞かず源太郎は遮ったが、その声に秋津を咎める色はなかった。
ただやはり、叱咤の割にまだ悲嘆の癒えない声音だった。
***
「まずは江戸まで行くことだ。そこで月尾の藩邸を訪ねるといい」
安藤家の門前で、虎之助が見送りに立つ。伴に自らの奉公人を付け、路銀と旅支度まで用立ててくれたことに恐縮しつつも、秋津は深く礼を述べた。
陽は照っていても、風が涼しい日だった。
「あの、──」
「なんだ?」
「……いえ」
言い掛けて、秋津は言葉を呑み込む。
が、その先を見透かしたのか、虎之助はやれやれと息をついた。
「今朝、おれも恭太郎を訪ねたんだがな。あいつめ、塞ぎ込んでおるらしい」
見送りぐらいはさせてやろうと訪ねたのに、相変わらず情けないことだ、と虎之助は失笑する。
「そういうわけだから、恐らくあいつは来ぬだろう」
何か言伝があれば承る、という。
「最後に一目お会いできればと、思ってましたが……。その……」
言い淀む秋津に、虎之助は首を傾げる。
「なんだ、言い難いことか?」
「いやその……。あたしも、恭太郎様が好きでした、と──」
「え……?」
預かった言伝に、虎之助は目を瞬いた。
秋津は懐から柘植の櫛を取り出し、胸に押し抱く。
「恭太郎様に髪を梳いて貰ったことがあるんです。普通、薄汚れた非人の女の髪なんて触れたくもないでしょう? それを優しく梳いてくれたんです」
それまで、壊れ物のように扱われたことなど一度もなかったように思う。
気恥ずかしいような、擽ったいような、落ち着かない気分だった。
「しかし……、あいつは随分情けない姿を見せていただろう? それを好きだとは、変わったおなごだな」
「そうですね、あたしも自分で不思議に思います。でも、いつも正直で、身分でなく人を見るんです。情けないわりに強引だったりもしますけど、そういうところに心惹かれたのかもしれません」
すると、虎之助は声を上げて笑った。
「なるほどな、わかる気がする。おれも長い付き合いだが、あいつのそういうところが何となく放っておけなくてな」
一頻り笑い合う声に交じり、安藤家の庭木の高い場所から、鶫の鳴く声が聞こえた。
秋を知らせるその鳴き声に、秋津も虎之助もふと沈黙して聞き入る。
「それじゃあ、そろそろ参ります」
「ああ、道中長いだろうが、気を付けて行けよ」
深々と一礼し、秋津はくるりと背を向けた。
***
中庭の立ち木が風にそよぎ、庭石は柔らかな日差しを受けて白く光を弾く。
それらを見るでもなく、恭太郎はただぼんやりと眺めていた。
雲の流れと共に、庭石の表を陰りが流れていく。
今朝、虎之助が屋敷を訪ねて来たということは、恐らく今日が出立の日なのだろう。
とても見送る気にはなれなかった。
(もう、行ってしまっただろうか)
今日を逃せば、二度と会うことはないだろう。
恨んではいないと言ったその声で、自分では駄目なのだと答えを聞かされた。
それ以上、何も言えなかった。
「恭太郎、入りますよ」
襖の向こうから母の声が掛かり、恭太郎は慌てて居住まいを正す。
襖を滑らせて部屋に入った母の顔は、いつになく険しいものだった。
「母上、如何されましたか」
どことなく様子の違う母を訝って尋ねると、母はきつく眦を吊り上げて恭太郎を睨めつけた。
「成田家の姫との縁談、進めて良いのですね?」
母も、父・帯刀に急かされているのだろうか、ほんの僅か居丈高な雰囲気を漂わせている。
「今すぐでなければなりませんか。まだ、心の整理が付いておりません」
こんな心境で縁談に臨むのは、先方にも失礼だろう。
あの日きっぱりと拒絶された時の秋津の言葉が、今も深々と突き刺さったままだ。
思い出すだに胸が潰されそうになる。
「何とも情けないこと。それでも父上の子ですか」
母が正面に膝を着き、項垂れる恭太郎を真向から睨み付ける。
歳を重ねても容色衰えることのない母は、かつては家中でも一番の美人と評判であったらしい。
普段は父の側に控えて穏やかに微笑んでいるだけだが、それがこうまで憤りを顕にしているのは大変に珍しいことだった。
「わたくしの実家がどこであるか、貴方は知っていますか」
「? 御奏者の桐野家ですが……」
家格は比較的高いほうだが、禄も四百五十石と中身の家柄だろう。本来はあまり褒められた縁組ではなく、陰口を叩く者もちらほらあったと聞く。
母は一つ頷き、険しい声で続けた。
「ええ、桐野家からこの家に嫁ぎました。しかし桐野はわたくしを養女としただけの家なのです」
「……は?」
初耳であった。
「わたくしの生まれは、七十石取りの代官の家。決して元宮家と釣り合いが取れるような家ではありません」
家格の釣り合わない婚姻を成立させる為、第三者の養子縁組を挟むことは、ない話ではないが、如何せん随分と格差の大きなものだった。
「殿は八方手を尽くして外堀を埋め、身分に遠慮して頑なに固辞し続けるわたくしを、それはもう強引に掻っ攫ったようなものです」
「あの父上が?」
そうですよ、と母はあっさり答える。
「それは……、御苦労をされたのですね」
「まったくです」
はぁ、と短く吐息して、母は含みありげに恭太郎に視線を投げた。
「身分を弁え、お諫めし続けたわたくしの言葉など、あの頃の殿は一向にお聞き入れになりませなんだ」
「…………」
秩序を重んじ役目に忠実、主君への忠義も厚く、また主君からの信任も厚い。
自慢の父ではあったが、それ故に嫡子としてのし掛かる重圧は生半可なものではない。
だが母の語る父は、今の姿からは想像も及ばなかった。
まさに今の自分自身とぴたりと重なるような話だ。
「しかし、身分を返上する覚悟で請うても、それでも私では駄目なのだと言われましたので……」
「そんな重い覚悟で迫られれば、誰でも委縮しますよ」
それに、と母は続ける。
「殿は言葉に出さずとも、わたくしの本心を見抜いていましたよ。貴方はどうなのですか」
言の葉に乗せたものだけが、人の心の全てではない。
良きにしろ悪しきにしろ、常に揺れ動く。
あれも、本心からの言葉だったのだろうか。
と、恭太郎は押し黙った。
「まあ貴方が諦めるというのなら、このまま成田家とお話を進めますから、それはそれで結構ですけれど」
***
「やっと行ったか」
門扉のそばで恭太郎を見送った美代の背に、帯刀の声が掛かった。
玄関から前庭に出た帯刀の砂利を踏む音が近付く。
「はい、今し方」
「長年非人に紛れていた娘なんぞ……。美代、そなたも苦労するやもしれんぞ」
「あら、わたくしのように下手に生家の仕来りに染まっていないほうが、馴染むには早いかもしれませんよ。そのご様子では既にお調べになられたのでしょう?」
父子の一悶着から数日のうちに、配下の者が邸を訪れていたが、件の娘について知り得るだけの報告を持ってこさせていたのだろう。
「気付いておったのか」
「ふふ。ご様子を窺っていれば、自ずとわかるものですよ」
帯刀は奇妙に顔を顰めて美代を一瞥する。
「その娘、どうも検視から逃げ出した恭太郎を叱り飛ばしたことがあるらしい」
「まあ。それは頼もしいではありませんか」
「そなた同様、肝の座った娘ではあるな」
先日の意趣返しとでもするかのように、帯刀は取ってつける。
が、美代は素知らぬ振りで微笑み返した。
「御家老に何と説明すれば良いのか、全く……。根回しとて楽なことではないのだぞ。面倒な倅じゃ」
厳めしい顔をげんなりさせてぼやく帯刀に、美代は苦笑する。
「本当に、御前様にそっくりですこと」
「……月尾の島崎とやらに、使いを出さねばならんな」
「あら、お気の早い。恭太郎がしっかり捕まえて戻ってからになさいませ」
仏頂面はそのままに、帯刀は一つ仰け反るとこれみよがしに肩を上下させ、邸の中へと戻って行った。
「……」
「これは奥方様」
帯刀が背を消すのと殆ど同時に、開けたままの門扉から、安藤虎之助が顔を覗かせた。
ちょうど入れ違いになったらしい。
「安藤殿でしたね。恭太郎なら今頃は、街道を馬で駆けている頃ですよ」
***
城下から南へ延びる街道には日陰となる場所も少なく、歩き通せば足は段々と重く、じわりと汗ばんでもくる。
慣れぬ旅支度での徒歩のせいもあるが、今後の不安も大きかった。
遠く見知らぬ土地の、血だけが近い従兄のもとへ行って、一体どんな扱いを受けるのか。
嫁の来手がないような家だとも聞き、それもまた不安を煽る。
話に聞いたものがすべて真実とは限らない。
ましてや母の一件を鑑みれば秋津の存在は疎まれこそしても、歓迎されるようなものではないはずだった。
主要な街道故に人の往来も多いが、皆速歩で軽快に見える。
一歩毎に重くなる足を引き摺り、ようよう一里を超えたあたりだろうか。
遠く山々を臨む街道の北の方で俄にざわついた気配がした。
振り返ってみれば、今擦れ違ったばかりの道行く人々が足を止め、道端に寄る。
その先に、こちらへ向かって疾駆する馬首が見えた。
「何ですかね、ありゃ」
と、伴の者も訝るが、それに相槌を返すよりも早く、秋津はその馬上に跨る人の姿に目を瞠った。
恭太郎だった。
見慣れぬ旅装束だというのにすぐにそれと見抜いたのか、秋津の前で手綱を引き絞る。
勢い付いた馬足は前後に踏み鳴らしたが、馬上から飛び降りるや否や、恭太郎は秋津の目の前に立ちはだかった。
余程に急がせて来たのだろう、馬が何度も小さく嘶き興奮している。
そして恭太郎はと言えば、小袖に袴、二本だけは差していたが、よく見れば足袋も付けず、裸足に下駄を引っ掛けただけの出で立ちだ。
「秋津!」
「恭太郎様……、なんでここに──」
「おまえの本心が知りたい。おまえが私を嫌っているというのなら諦める。だが、もしもそうでないなら──」
「落ち着いてください。こんな人目の多いところで……!」
気が変わって見送りに来たのかと思えば、捲し立てるばかり。更には腕を掴まれ、秋津は思わず周囲を行き交う人々を見回した。
案の定、昼日中から大声で旅の女に迫る武士をちらちらと気にして、人々は何度も振り返りつつ通り過ぎていく。
が、恭太郎本人は一切気に留めることもなく、尚も真っ直ぐ秋津の顔を覗き込んだ。
「私は、おまえでなければ駄目だ!」
「で、ですから、それはもうお断りした話で──」
「何も考えず、私を好きか嫌いかで答えてくれ!」
「っそれは……、その──」
出立の時に託した言伝を思い出し、秋津は思わず顔が熱くなるのを感じた。
「あ、安藤様から言付けて頂いた通り、です」
気恥しさが勝り、目を泳がせつつ辛うじて答えるが、腕を鷲掴みにする力は殊更に強くなった。
「私の目を見て答えてくれ」
こちらを間近から覗くその目をちらりと仰ぎ見て、また逸らす。
が、逃す様子は一縷も見えず、秋津は意を決して恭太郎を見返した。
「あたしは、恭太郎様が好きです──」
でも、と続けようとした途端、目の前が暗くなった。
瞬時に何事かと慌てたが、耳元に降る恭太郎の声で胸に抱かれている事に気付く。
「ならば、もう迷うことはなにもない」
***
刑場の片隅に、供養塔はひっそりと佇む。
刑死者や餓死者、水死者を弔うものだ。
大抵の庶民や賤民は墓を持つことが許されておらず、殆どが河川での水葬だ。
飢饉で餓死が相次ぐような折には、毎日のように枯れ枝のような遺体が川上から流れて来る。
刑死した罪人などは、執行の後に刑場脇のの河岸からぞんざいに打ち捨てられ、流されていく。
小さな供養塔は、枯草の中に傾きながらも建っていた。
鼻を突く香の煙が細く立ち昇り、冬へ向かう風が掻き消してゆく。
石碑に向き合い合掌すると、秋津は静かに瞑目した。
どれほどの間、そうしていただろうか。
乾いた風が吹き抜け、下生えをかさかさと揺らしていく。
その音で漸く顔を上げた。
「この供養塔も、手入れしてやらねばならんな」
背後で同様に手を合わせていた恭太郎の声に、秋津は振り返る。
「こんな有り様では、死者も浮かばれないだろう」
「……最下層の人間なんて、こんなものだよ。死ねば跡形もなく消えてく。墓なんてもんはさ、当人にとったらあっても無くても一緒なんだ。残された人間のためのもんだよ」
傾いた石碑の表面は風化し、刻まれた文字すら曖昧になっている。
自分自身も、果てはただ消え去るのみと思っていた。
風に乱れた結髪に手をやって、秋津は一撫でする。
上等な衣を泥に汚さぬよう注意を払うのは、思いの外疲れるものだった。
「やはり、きちんと建て直そう」
不意に恭太郎が背後から秋津の両肩を掴み、寄り添いながら言う。
「この刑場に消えた者たちの慰霊と、それから──、おまえのように、残された者のために」
「……ありがとう、ございます」
「まあ、未だに十兵衛には少し妬けてしまうんだがな」
恭太郎が冗談めかして言い、軽く笑って視線を交わす。
それから今一度揃って合掌すると、手を取り合って刑場を後にした。
【了】
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