刑場の娘

紫乃森統子

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第十章 告白

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「馬は役に立ったか」
 感情の窺い知れぬ顔で、虎之助は尋ねた。
 秋津を助け出したその日のうちに、学館の厩舎へ馬を返しに行った時のことだ。
「江戸にいる間、昔奥女中と小姓が密通したという話を聞いたことはあるか?」
 手綱を渡しながら、恭太郎は礼もそこそこに本題とも言える話を振る。
 思ってもみない話題だったのだろう、虎之助は大いに訝った。
「そういう話は古今いくらでもあるだろ? 人の口から口へと伝わる間にどんどんヒレが付く」
「いや、そう昔と言うほどでもないな。十五、六年ほどは前の話だろうが……」
「なんだ、いやに具体的だな」
 殊更眉を顰める虎之助に、恭太郎は懐中から一振りの短刀を取り出してみせる。
「秋津が持っていた物だ」
 差し出された短刀を暫時じっと見詰め、それからやっと虎之助の視線が恭太郎へと戻される。
「どういうことだ。……まさか、死んだのか?」
「いや、気を失ってはいたが、医者に預けてある」
「そ、そうか……。ならいいんだが」
 言葉とは裏腹に、虎之助の表情は複雑そうに見えた。
 いっそのこといなくなってしまえば、恭太郎の目も覚めるだろうと考えたのかもしれない。
「柄に家紋が入っているだろう」
 示されるままに虎之助も短刀の柄を覗き込む。
「立浪紋だ。この辺りではあまり見ない。もしかすると、この短刀から秋津の血筋が分かるのではないかと思ったんだ」
 正直に打ち明ければ、虎之助は数拍の沈黙を置き、やがてどっと重い溜め息を吐いた。
「まさかおまえ、調べる気ではないだろうな? 仮に血筋が分かったところで、その家が後見に付いてくれるとでも思うのか? 一族の不義の証のような娘だろう。知らぬ存ぜぬで通されるぞ。もし受け入れられたにしても、そんな生い立ちじゃ即刻尼寺にでも送られて終わりだ」
 と、虎之助は呆れ顔で諭す。
 無論、そんなことは恭太郎自身も既に考えてはあった。
 これだけ歳月の過ぎた話を、短刀一つで探し当てるのは困難だろう。
 だが、僅かなりとも身元を示す物証があるのなら、と思わずにはいられなかった。
「そもそも奥女中と言っても、それは江戸城の女中で間違いないのか? 江戸には各国の邸が集まっているんだぞ。それこそ、そんな不祥事があればどんな家であれ隠したがる。だから臆測が臆測を呼んで、ひどけりゃ原型を留めない噂話にまでなって広まるんだ」
 身元を割り出したところで、徒労に終わる。
 そう言いたげな様子だ。
「……分かっている。だがそれでも、或いはと──」
「ああはいはい、おまえがそんなに入れ込むなんてなぁ。それとも……何か弱味でも握られているのか?」
「馬鹿を言え。あれは私を励まし、叱咤し、包み隠さず弱音を吐いても聞き入れてくれる、優しく強いおなごだ。弱味に付け込むどころか、逆にいつも私の立場を気に掛けている。……私が近付きたくとも、なかなか踏み込ませてはくれない──」
 訪ねて行っても、声を掛けても、憚るのはいつも秋津のほうだ。
 身分の差を理由に気兼ねしているのは、いつも秋津だった。
「そりゃあ、秋津のほうが道理を弁えてるな。酷なことを言うようだが、身分を盾に体良くおまえを拒んでいるのかもしれないぞ。そう考えたことはないのか?」
 そうだとすれば、間違いを起こす前に己を律する良い機会だろうとさえ、虎之助は言った。
 
 ***
 
(──本当は、拒んでいる?)
 秋津の休む部屋の前まで来て、虎之助の言葉を思い起こし、俄かに緊張が走り、胸にずきりと痛みを感じた。
「さ、こちらですよ」
 波留は恭太郎の心中などいざ知らず、すっと障子を開け放った。
 目の前に、床から起き上がる秋津の姿に釘付けとなる。
 綺麗に梳られ緩く束ねられた長い髪と、清潔な着物。
 まだ体調が優れないのか、顔色はあまり良くない。
 未だ引かぬ熱や痛みのせいか、瞳はやや潤んでいるようで、一見して泣いているのかとさえ思った。
「少し席を外して貰えるか」
「勿論構いませんけどね、まだ本調子じゃないですから、あまり無理させると悪化しますよ」
 ここまで先導してきた波留を下がらせると、恭太郎は静かに秋津の傍らに膝を折り、差料を外し右手に置く。
「あの、ありがとうございました」
 先に口を開いたのは秋津だった。
 助けられたこと、医者に見せてくれたことを列挙し、その場に平伏したのである。
 ──身分を盾に体良く拒んでいる。
 またも脳裏を過る言葉が、恭太郎の心の臓を絞めつける。
「顔を、上げてくれ。そんなふうにされると、突き放されているようで……辛い」
 思えば最初から秋津は遠慮がちだった。
 叱咤されたのも、あの時以来一度もない。
 贈り物を素直に受け取ってくれたことも、なかったように思う。
 こちらから頼んで初めて、おずおずと意を汲んでくれる。
 今も、頼んで漸く、ゆっくりとその上体を起こしてくれた。
 それでもその顔は俯いたままだ。
 考えれば考えるほど拒絶されているように思えて、胸に刺すような痛みを覚える。
「どうして、目を合わせてくれないんだ……?」
 僅かに声が震えた。
「あたしは、この取調べが終わればすぐにもここを出ます。どうしても探さないといけない物が……」
「取調べではない、私はおまえが心配で……!」
「火の手が上がった時、あたしは河原にいたんです。煙が上がってるのを見て、町に知らせに走ったけど、短刀を置いたままにしていたから岩屋に戻った……それくらいしかお話しできることはないんです」
 恭太郎の言葉を聞いてか聞かずか、秋津は淡々と当時のことを声に乗せる。
 そこで漸く顔を上げた秋津は、力無く笑った。
「けど、こんなことがあったらもうあの場所で暮らすのも危ないだろうし、頭や十兵衛もきっと心配してる。だから、大人しく長屋に戻ろうかと──」
「駄目だ!!」
「えっ──」
 思わず、その腕を掴んでいた。
 気圧されるように目を見張った秋津の腕を、恭太郎は尚も強く捕らえる。
「で、でもあたしは元々長屋住まいで……」
「身体が癒えた後のことは、私に任せて貰えないか。元宮家の別邸に、おまえを迎えたいと思っている」
 大身の家は、主から別邸を賜ることも多く、元宮家も例に漏れず郭外に別邸を構えていた。
 だが当然、家督を継ぐ前の恭太郎に好き勝手出来るようなものでもない。
「表向きは使用人としてだが……暮らす上で必要なものはすべて揃えるし、作法も学べる。刑場で働くよりずっと良いはずだ」
「き、急にそんなことを言われても……、長屋に戻って頭や十兵衛に──」
「その十兵衛に、おまえを渡したくないから言っている!!」
 思わず、声が大きくなった。
 怒鳴るつもりはなかったが、捕まえたままの腕がまたびくりと震えた。
 恭太郎の手から逃れようとでもするかのように、その身が後退る。
「だけど、あたしは──」
「暫くはこのままここで療養して欲しい。その間に、考えてくれ」
「…………」
「どうか、戻らないで欲しい」
 拒絶に繋がる言葉を遮り、返答の無いことには堪えられず、更に念を押すように呟く。
「確かに私は、おまえに情けないところばかり見せてきた。おまえにとっては迷惑でしかないのかもしれないが、それでも私は──」
「……あ、あの、恭太郎様」
「私は、おまえが好きだ。私の身分ではなく、私自身を見ていて欲しいんだ。おまえに目を逸らされ、余所余所しくされると、悲しくなる……」
 気まずい沈黙が流れることを恐れて、恭太郎は徐に懐から短刀を取り出すと、秋津の手に握らせた。
「! これ、あたしの……?」
 渡された短刀と恭太郎の顔とを交互に見、秋津は何かを言い掛けて口を開く。
「抱き上げた時に、おまえの手に握られていた。大事な物なのだろうと思って持ち出して来たんだが、返すのが遅くなってすまない」
 短刀さえ戻れば、秋津が無理に出歩く理由はなくなる。
 無理を重ねて欲しくはなかったし、外へ出ればきっと長屋の者と会うだろう。
 そのまま長屋へ戻ってしまうことが、怖かった。
「まだ火付けの犯人も捕縛出来ていない。またいつこんなことに巻き込まれるか、気が気でないんだ……ここで療養すると約束してくれ」
「けど、怪我は大したことは……」
「約束してくれ、決して勝手にここから出ないと」
 驚きか困惑か、秋津はぽかんと口を開けて目を瞠ったまま、やっとのことで一つこくりと頷いたのだった。
 
 ***
 
「ちょっとちょっと先生!」
 薬棚の前でその残量を確認していた孝庵に、波留は慌てて駆け寄った。
「何です、波留さん。ばたばたしないで、埃立つでしょ」
「大変大変! 元宮様が大変だよ!」
「えっ? 何かあったのか!?」
 奥の一室に通しているはずの恭太郎に何か粗相があれば、ただでは済むまい。
 すわ一大事かと身構えたが、波留の顔は意外にもにやにや緩んでいる。
「ちょっと波留さん、何笑ってんの。元宮様がどうしたの」
「いえね、人払いされるもんだから、きつーい尋問でもなさるのかと思ったら、それがねぇもう……」
「うん。……え?」
 人払いした後の話を、どうして知っているのか。
 孝庵が顰蹙すると同時に、波留は前のめりに声を潜めた。
「元宮の若様、あの娘に相当惚れ込んでるよ……!」
「はぁ……? って、いやいやいや波留さんあなた、盗み聞き? 良くないよ?!」
「だってお薬持って行こうと思ったら、聞こえちゃったんだもの。わざとじゃないですよ? 元宮様ったら懇願するようなお声で、そりゃもう悲痛なまでの口説きっぷりでね」
「もー、だからやめなさいよ、そういうのォ」
「いいねぇ、なんだかこっちがドキドキしちゃうよ!」
 孝庵の腕を平手でばしばしと叩きながら、波留はにやけ顔で喜んでいる。
「あっ、ちょっ、痛っ、波留さん痛いから!」
「羨ましいわぁ、私ももうちょっと若かったらねぇ」
「えぇ……波留さんじゃ無理じゃないの」
「ハァ!? ひどいこと言うわね先生、これでも若い時は言い寄る男がたくさんいたんだからね!」
「んもー、そういうとこばっかりちゃんと聞くんだから……」
 兎に角、と孝庵は語気を強める。
「盗み聞きはダメ! 元宮家が非人のおなごを嫁に迎えるわけないんだから、変な波風立てないように、黙って知らないフリしときなさいよ!?」
 波留を咎めつつも、確かに昨日ここを訪れた時の倉皇ぶりや青褪めた表情、加えて人目に付かぬ最奥の部屋を指定して休ませるよう申し付けられたことなどから、何か事情がありそうだとは思っていた。
 だが、それはあくまでも火事の参考人として重要だからだとばかり思っていたのだ。
 それがどうも波留の話では様子が随分違う。
 今の波留の話は聞かなかったことにしよう、と心に誓う孝庵であった。
 
 ***
 
 約束を呑んだことで、恭太郎はまたすぐに奉行所へ戻り、秋津は漸く息をつくことができた。
(約束、してしまった……)
 半ば強引に取り付けられたようにも思うが、恭太郎の必死の形相を前に、他に何と返事が出来ただろうか。
 恭太郎から受け取った短刀をぼんやり眺め、秋津は微かに残る頭痛の波を感じる。
 先日櫛を贈られた時からだろうか。
 恭太郎の様子が変わったように思う。
 勿論、火が出たことで要らぬ心配と負担を掛けてしまったことは承知の上だが、つい今しがたの恭太郎には、どこか鬼気迫るものを感じた。
 時折声を荒らげる様に驚きが先に来てしまったが、言われた言葉をよくよく考えてみれば、単純に好意を寄せられているということだ。
 今になってじわじわと気恥ずかしくなってくる。
 あれほど真っ直ぐに好意を告げられるとは考えてもいなかっただけに、恭太郎が退室してからも暫く身動きすら出来なかった。
 告げられた一つ一つが思い起こされ、頭の中を止め処なく巡ると、今更ながらに顔が熱くなる。
 長引く頭痛と相俟って、何をどう受け止めれば良いのか皆目見当もつかなかった。
(元宮様の別邸──)
 使用人とは言え、身元の明らかでない者を安易に雇い入れることなど出来るものだろうか。
 第一、大きな邸の使用人など務まる自信もない。
 これまでの非人長屋の暮らしが身に染み付いてしまっている。
 刑場の手伝いなら慣れたものだが、自分が武家の使用人など想像もつかない。
 それも下級の武家などでなく、家中でも指折りの家格を誇る元宮家だ。
 考えて欲しいと言われても、世話になる理由もなければ、格式ある家の使用人に推挙されるような後ろ盾も実力もない。
 願ってもない話には違いないし、有り難いことではある。
 だが、元宮家の側にしてみれば、若君が気紛れで拾ってきた厄介者でしかない。
 けれど、と秋津は思う。
 先程のあの様子では、もし承諾したなら──いや、丁重に断ったとしても、この診療所から真っ直ぐに別邸へ連れて行かれるのではないか。
 それこそ、源太郎や十兵衛に一度も顔を見せないままに。
 一夜が明けて、源太郎や十兵衛がどうしているかも気に掛かる。
 長屋にも戻らず、焼け跡にもおらず、行方を晦ましたように思っているのではないか。
 無事であることだけでも伝えたかったが、勝手にここを出ないという約束を交わしてしまっている。
 次に恭太郎が訪れるのがいつになるのかも分からないが、それを待っていては失踪したと思われやしないか──。
「薬を持ってきたけど、具合はどう?」
 逡巡に暮れていると、廊下から波留の呼び掛ける声が聞こえた。
 静かに障子戸が滑り、にこにこと人の良い笑顔を浮かべた波留が盆を片手に現れる。
「頭が痛むんだろ? これを飲めば楽になるはずだから」
「あ、ありがとうございます」
 差し出された湯呑みと薬包を受け取る。
 断続的に続いていた痛みは幾分薄らいではいたが、秋津は有難くそれを服用することにした。
「この薬も、本当ならあたしなんか飲めやしないのに……」
「気にすることないんじゃないかい? 折角元宮の若様が面倒見て下さるって言うんだから、甘えりゃいいのよ」
 けろっと明るく言い放つ波留に、秋津は些か驚く。
 波留の視線が秋津の膝元に移ろい、おや、というように眉を上げた。
「短刀って、それかい?」
「あ、はい。さっき、恭太郎様が返してくれて……」
「ふぅん? 良かったじゃないの。わざわざ持って来て下さったんだね。元宮様もよっぽどあんたを外に出したくないんだねぇ」
 波留はそう言って、呵々と笑う。
「こんなにされちゃあ、あんたが恐縮するのも分かんなくもないわ」
「助けられて、その上こうしてお医者にまで掛からせてもらって……。あたしが返せるものなんて何もないのに」
「あんたが元気になることが、一番のお返しだよ。月並みな文句で悪いけど、あの御方にとったら本当にそれが一番の望みだろうからさ」
 そもそも何かを返してもらおうとは思っていないだろう、と波留は笑う。
「感謝してるんなら、元宮の若様の言う事を聞いて、大人しくしておくことだね」
 さっき交わしたばかりの約束事を思い出し、秋津はぐっと返答に詰まる。
「……でも、あたしがここにいることは、長屋の頭にだけでも伝えておかないと」
 町の人が非人の住む長屋を訪れることはまずない。
 恐らく波留もそうした界隈には近付きもしないだろう。
 町人街とは雰囲気も異なり、普段から遠巻きにされている一帯だ。
 伝言を頼もうにも、頼み辛い。
「一度だけ、長屋へ行って来たいんです。すぐに戻りますし、なんなら人目のない夜にでも」
 すると波留はぱちりと目をしばたたき、秋津の顔を覗き込む。
「それはー……ちょっと聞いてやれないよ。ついさっき、元宮様の許可なく出しちゃいけないって釘を刺されたばかりだから……」
「えっ、波留さんにもそんなことを……?」
「そうだよ。先生にも、くれぐれもあんたを人目に触れさせないようにって言い置いてからお出になったからね」
「そ、それなら、頼み難いんですが、あたしがここにいることを非人頭の源太郎という人に伝えてもらうことは……」
「悪いけどそれも出来ないよ。あんたを狙った可能性もあるから、ここにあんたがいることは隠したいってさ」
 今度は秋津が驚く番だった。
 まさかそこまで手を回しているとは。
 これでは療養を建前にした幽閉のようなものだ。
 いくら火付けの犯人が捕まっていないからと言っても、少々やり過ぎではないだろうか。
 思ったままを告げると、波留も困ったふうに笑う。
「火を付けた奴が早く捕まればいいんだけどねぇ」
「それじゃ、あたしはそれまでここを出られないってことになるじゃないか……」
「そうだねぇ、まああの様子じゃ元宮様もまたすぐに来られるだろうから、直接頼んでみたらどうだい?」
 終始明るく軽い口調の波留だが、一言断っておくと前置きして、声を硬くする。
「あんたに勝手をされると、孝庵先生に迷惑がかかるからね。それだけは忘れないでおくれよ」
 夜半にこっそり抜け出すことも、やってやれなくはないだろう。
 しかしそれが万一露見した時には、孝庵と波留にも累が及ぶ。
 それを見越してかどうかは定かでないが、波留の抜け目なさに秋津は愈々八方塞がりとなるのであった。


【第十一章へ続く】
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