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序.忘れ得ぬもの
しおりを挟む目白だ。
その小さな鳥が鴨居を潜って迷い込んできたのを、じっと見つめる。
病床から見上げた鳥は、そのままぐるりと室内を飛び回り、やがて枕元へ降り立った。
齢七十を過ぎた今、ものを視る力も衰えてきたというのに、その鳥の鮮やかな色ははっきりと映し出される。
鶯によく似た、けれどもその円らな黒い瞳を、くるりと白い色に囲まれた鳥だ。
大寒も間もなくというこの時季に、目白がいるはずがない。
そう思った時に、自らの死期の近いことを悟った気がした。
明治三十七年、一月十五日。
二日ほど前に寒さの緩んだ帝都は、今日また冬を取り戻し、底冷えのする寒い日となった。
外は時折甲高い音を立てて、身を斬るような風が吹いている。
冬の日差しは弱く、景色を褪せた灰色の世界に変えてしまう。
枕元に降り立った目白は、小さく弾むように近付いて、長国の老いて薄くなった肩にその身を摺り寄せた。
その羽の温もりに、遠い記憶が呼び起こされる。
決して忘れられようはずもない、若き日のことだ。
胸の奥深く沈めたままに、長い年月を過ごしてきたように思う。
今は決して取り戻せないものを、あの頃の自分は確かに持っていた。
その手を離した日から、胸の内にぽっかりと空虚が居座り続けていたように思う。
長い人生の中で、妻も子も、側室までも持った。
しかし藩公としての自分に、自らの意思で何かを選び取るということは殆ど無かったと言って良い。
無論、彼らは大事な家族であったし、彼らもまた慕い寄り添ってくれていた。
その感謝の念も情もしっかりと根付いていたし、支え合って生きて来たつもりでもある。
だが、自らの手で選び取ったものであるかと問われれば、そうだ、とは言えない。
そしてそれは、妻も側室も同じことであろう。自ら望み、歩んだ道ではなかっただろう。
皆、望み望まれる相手を求めることを、許される立場にはなかったのである。
そんな若き日の自分を支え、慕い、片時も離れずに共に歩んだ者がいた。
唯一望み、そして望まれていると信じた者だった。
その日々を忘れたことは、一日たりともない。
「おまえも、忘れずにいてくれたか──」
物言わず寄り添う小さな温もりに、そっと頬を寄せる。
あの日と変わらぬ目白の姿も体温も、ひどく懐かしいものであった。
【一.へ続く】
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