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第三章 クラウディアの魔力
閑話 アンナは辟易し、奮起する。
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「お前が着いていながら、何故ディアに虫が付く。」
アンナは「姫様の意思を優先致しました。」と口にしそうになった唇を噛み、静かに深く頭を下げる。
「隣国の王子などという面倒な肩書さえなければ、このような静観などという生ぬるい対応で済ませないものを。」
室内がシュヴァリエの苛立ちに呼応するように、重苦しい圧力が満ち始める。
皇帝の執務室には普段は5名程が、大国の皇帝であるが故の膨大な政務の補佐をしする為に滞在し仕事をしている。
現在、その執務室内には、側近筆頭であるマルセルと、クラウディア付き女官のアンナのみ。
二人とも豊富な魔力と強靭な精神力を持つヴァイデンライヒでも上位にある強さを持っている。
この二人でも辛うじて身体が地面に倒れるのを耐える程の濃縮された魔力は、普段執務室で仕事をしている文官職がメインの者には耐えきれないであろう。
マルセルは室内に満ちる余計な事を一言でも発すれば斬ってきそうな空気を察して、青い顔をしながら無言を貫いている。
シュヴァリエとて普段はここまで制御のない圧で側近を威圧する事はないが、今回は少しばかり箍が外れてしまったらしい。
皇城内でこれほど圧力のある魔力を感じれば、敵襲の可能性を大事になってしまうが、シュヴァリエ直々に執務室内に何重にも結界が施されており、魔力も会話も漏れ出る事はない。
まだ隣国の客人が滞在している皇宮で漏れ出る事があれば大騒ぎである。
シュヴァリエは、悪趣味な程に仰々しい権威を込められた椅子の背に寄りかかると、不遜な表情をしながら腕を組み、解消されぬ苛立ちを大きなため息で吐き出した。
美しい顔立ちの額には青筋すら浮かんで見えないこともない。
「ディアがアレを気にかけてさえいなければ、隣国に戻る長い道中の不幸な“不慮の事故”も起こり得たのだがな。隣国といえどそれなりに距離はある、深い谷も鬱蒼とした森も避けて通れば倍以上日数も掛かるからな。
整備された公道を移動したとて賊というのは何処にでもいる。いくら帝国とはいえど旅とは危険と隣り合わせなのは当然の事。時として不幸な出来事は残念な事に消えないものだ…だろう?
だが、その選択肢はもうないな。ディアが悲しむのはダメだ。アレを思って涙を流すのも、心を痛めるのも。」
シュヴァリエが心の内を独り言のように語り続ける。
我々に訊かせるつもりで語っているのか、ただ口にしているだけか。
未だ頭を上げる許可を貰っていないアンナは深く頭を下げながら、身体を地面にひれ伏せとギリギリと押さえつけられるような重い魔力を頭上に感じていた。
全身の皮膚がビリビリと痺れる程の覇気を、更に魔力で数十倍にも負荷を増幅させ、獲物を嬲るようなジワジワとした重圧をかけてくる。
(相変わらず姫様以外にはお人が悪い…っ)
「申し…訳、あ、りません…っ」
酸素を極端に薄く感じ、酷い息苦しさに言葉を発するのも呼吸をするのすらままならない。
(…ひれ伏せば余計にお怒りになるくせに、本当に姫様以外には……っ)
「……もうよい。」
シュヴァリエは、興が削がれたとでもいうように素っ気なく吐き捨てた。
フッと重圧が消え、意識を保ち地に伏すのを耐える事が出来てホッ息が漏れ出る。
アンナはあの地獄の訓練の日々に感謝した。
後継こそ狙えはしないが、我が家のしきたりであれほどの地獄を見させられる鍛え方をされていなければ、恐らくものの数秒で地面にキスしていただろう。
これだけの覇気と重圧を浴び、気合いだけではあるが陛下の御前をかろうじて立っていられる。それだけで自分の中では及第点だ。
(これで御年十二歳とか―――この目で見ていなければ信じられない所だ)
アンナは、今にも崩れ落ちてしまいそうな身体を内心で叱咤しつつ、ほんの少しだけ力を抜き静かに佇む姿を保ち続ける。
少しでも力をこめれば、ぷつりと崩れてしまいそうな程に疲弊していた。
細く深く酸素を取り込み体内に循環させ圧によって乱された正気を保つ。
少しずつ己の魔力を体内で素早く循環させながら、精神と身体の回復を強制的に促す。
じわりじわりと身体の芯に力が戻ってくるのを感じながら、いつの間にか詰めている息を吐いた。
我儘な子供が駄々を捏ねているのではない。
この残酷な思考に支配された顔を見るのは初めてではないが、不思議な事にこの幼い皇帝は精神は成熟している。
生まれてたった十数年で老成している―――と、感じる時すらある。
戦局を読む頭脳も、相手を翻弄する外交手腕も、下手な大人より完璧にこなす。
残酷で非道で暴君のような態度をするが、計算しての事だと忠臣達は分かっていた。
だが、一度、姫様が関係すると残酷な思考に支配されるらしい。
その顔を姫様には見せる事はないが、裏で手を回すよう指示をする時に側近たちには見せるのだ。
この少年の皮を被った老成した何かである皇帝は、姫様の前では年相応に感じられる少年のような態度を取り、可愛く拗ねて見せたりするのだから、忠臣一同驚愕である。
アンナはその時いつも思うのだ。
帝国の安寧は姫様と共にあるのではないかと。
そして、この帝国に姫様が居て本当に良かったと。
姫様は、人の子としては持て余す程の力を持ってしまった皇帝を人としてこの世に繋ぎ、きっと一番心の柔らかい部分を出せる相手だから。
だからこそ、何があったも私は姫様をお守りせねば。
陛下が「俺より国より何よりも、クラウディアを優先して護れ。何があろうとも、己の命がこと切れるその一瞬すらも、それだけは遂げよ。」と言うのは一理ある。
姫様に万が一が起こった時――――
その先を考えるだけで身体が震えてしまう。
(明日は隣国の使節団が自国へと帰国する為に皇城を出立する日。姫様もお見送りに出られると訊いている。陛下は何を憂いているのか。姫様は友人としての感情しかお持ちになっていられないご様子だというのに。)
苛立ちが少しばかりでも鎮火したのか、シュヴァリエはアンナを見遣り話し出す。
「アンナ、お前はディアの世話役として、ディアが赤子の頃から傍にいたな?」
「…? はい。姫様のお世話を赤子の頃からさせて頂いております。」
「その前は、ディアの母親である側室付きの監視役として女官をしていたな?」
シュヴァリエの質問の意図が分からないながら「はい、姫様の母君の女官として監視しておりました。」と答えた。
「俺の父は、ディアの母親を特別に寵愛していたと訊く。俺の記憶の中でも、皇妃である俺の母親がかつてないほどの嫉妬で荒ぶっていたと記憶している――――」
シュヴァリエは過去を探るように目線を上へと彷徨わせた。
「ディアを孕むまで、閨へも連日通ったと訊く。相違ないか?」
「はい、間違いないかと。連日連夜、通う事は当たり前でございました。また、そのまま数日間部屋から出ない事も。」
「――――ふむ。」
何やら思案するような表情のシュヴァリエ。
「何かご心配ごとでもございますか?」
「恐らく間違いないとは思うのだが、それだと寵愛深くディアの母へと俺の父が連日通っていた中で、そんな針の糸を通すような隙をどうやって突いたのかが不明だな。
まがりなりにも側室だ。護衛は数人配置され、女官にメイド数名も世話をやいていた筈だ。昼間に忍び込むにしても、事を成すような時間―――
そのような長い隙が生まれるとは考えづらい。
それも孕むまで頻回に忍び込まねばならぬし。それとも一度で孕んだのか…
体調を壊したと不調を訴えた記録など医務官が残していればソレか。
流石に臥せっている女を抱くほどあの男も鬼畜ではあるまい。 」
シュヴァリエは皮肉気に嗤う。
己の身体に流れる二つの血脈のひとつである父は、肉欲に囚われ過ぎた愚かな男だった。傀儡にさせられていると分かっていながら破滅へと舵を取り続けた男。
不貞を働かれていると気付いていても、それすらもしかしたら喜んだのではないか。
答えはもう知る事はないが。
アンナはその言葉に戦慄した。
それが指す答えはひとつ、クラウディアが前皇帝陛下の御子ではないという恐ろしい話に繋がるからだ。
「いいえ! 我ら一族の監視付きだった側室様が不貞を働く隙などあろう筈がありません! 陛下、そのような懸念は姫様のお立場すら揺るがす事であると理解しておられるのでしょうか!?」
アンナは必死である。我が主の安寧を脅かすような事はしないで欲しい。
大国の皇女であるから、堅牢な皇城で庇護出来ているのだ。
亡き側室の類まれなる美貌をそのままに、純粋で素直な心根をそのままに人を疑う事を知らない天使のように育ってしまった。
それは、皇女としては望まれない資質かもしれない。
魑魅魍魎が闊歩する皇宮では、致命的ともいえる欠点といえる。
けれど、アンナはそんなクラウディア姫だからこそ身命を賭して守りたいのだ。
だが守るにも限界がある。
恐ろしい皇宮だが、シュヴァリエが居る限り、何者も打ち砕けない堅牢な安全圏なのだ。そこを出されるような事があってはならない。
齢七歳でも匂いたつような類まれなる美しさ、そして現皇帝に匹敵する豊富な魔力、まだ年若い所も含めて、世界中の王族が望むであろう様々な可能性を秘めたクラウディア。
シュヴァリエがこれほどにクラウディアに心を傾けていなければ、大変に素晴らしい政略結婚の駒となるだろう。
シュヴァリエが存命する限り、駒に成りうることは皆無であるが。
当初アンナは「自国の信頼のおける者へと降嫁させる」と言うだろうと思っていた。
側近の公爵家嫡男も未だ婚約者を持っていない。
しかしアンナの予測は外れることとなった。
シュヴァリエは、己の目が届かぬ他国へ嫁がせたくないのかと思えば、自国すらダメらしい。
シュヴァリエにも、かつて婚約者候補なるものが十名程いたのだが、新皇帝に即位と共に全ての候補は解消された。
懇意にしていた候補も居なかったとの事だし、一度真っ新にして選び直すのかと思えば、そのような動きもない。
引き継いだばかりの帝国を正常化する事が忙しいという事もあるし、未だ諸外国を黙らせる為の戦が続いてる事もあるのかもしれない。
が、それだけではない何かを日頃のシュヴァリエから感じてしまう。
婚約者は置かないだろう、これから先も。
「―――父の周りには碌な家臣が居なかったからな。…やりようはいくらでもあったか。アンナ、マルセル、この事はお前らの胸の中に留めておけよ。クラウディアの最大の秘密になるだろう――」
そこでアンナはクラウディアの稀有な魔力の事、それは絶滅したと言われたかつて世界で争奪戦が勃発した程のものであること。
そして、枢機卿はそれに本日の茶会で気付いただろうこと。
シュヴァリエの継承の瞳は魔眼よりも精度のある見通せる力を持ち、その瞳でしっかりと確認してあること。
「姫様が……」
茫然と呟くアンナ。
「クラウディアは膨大な魔力持ちだ。それも、俺に匹敵する程の。
絶滅したとされるあの種族の力のひとつに、己の魔力を対象に分け与える事が出来るという力がある。
それすら有り得ない能力だが、供給された魔力は通常の数倍の威力を持つ。その魔力を使い魔法を行使するだけで、初期魔法程度の威力が高位魔法として発揮するという。その上、供給する本体は魔力枯渇知らずだ。与えても与えても湧き出る能力も持っている。
後はみなまで言わずともわかるだろう? 魔法を扱う者にとって夢にすら見た事のないような、最強で最高の存在だ。
永久的に攻撃魔法が撃ち続ける事が出来るし、強大な魔法攻撃を防ぎながら結界を維持し張り続ける事も出来る。
―――どれほどの人数に供給できるかは不明だが、一人でひとつの師団は賄えるだろう。そいつらがずっと最善で最上の状態を保ちながら魔法展開し続けるんだ、魔法力の強くない国でも簡単に強国へと仲間入りだ。
絶対に奪わせるつもりはないが、アンナも最大限に警戒しろ、例え今まで味方だと思っていた者でも警戒は怠るな。」
アンナはクラウディアを思った。
大好きアンナと無邪気に微笑む姿、少し拗ねて口を尖らせる表情、私の私室に花を飾ってくれと活けてくれたこともあった。
姫様の為に己の命を賭けてお守りすると誓った事に、一切の変わりはない。
これまでもこれからも、私の中での全てにおいて優先する存在。
「身命を賭して、その役割を全う致します。」
「ああ、頼んだ。俺よりも優先して守れ、いいな。」
「愚問でございます。以前からそのようにしか動いておりません。」
「はは、なら僥倖。枢機卿にも密偵を放った。何かあれば報告する。今日はもうよい、下がれ。」
騎士のように背筋を伸ばし礼をする。
「では、失礼します。」
退室し、皇族居住エリアへと続く回廊を歩きながら考える。
(姫様は何という桁違いの能力を秘めていたのだろうか…。確かに違和感は常にあった気がする。陛下を苦しめた筈の幼い器に対する魔力過多による病のような体調不良が、私が想定していたよりも軽く、幾日も引きずっていないこと。皇帝陛下と同等の魔力量だとして、これほど症状が軽い事を不思議に思いつつも、いつ症状が暗転するか常に気を付けていた―――)
――もう、そんな事を思案することも不思議に思う事も全く意味がない。
ばちぃぃん!
アンナは己の両頬を両手で叩く。
(もう過ぎ去ったくだらないことに思考を使うな、気合いを入れろ! 警戒レベルを引き上げろ!)
「……よしっ」
『例え今まで味方だと思っていた者でも警戒は怠るな。』
陛下の言葉がアンナの胸に深く刺さる。
全てを疑え―――とは、護衛に選抜した近衛騎士もということか。
少なくともマルセルは信用していいのだろうが。
陛下の傍を離れる事はない相手だ、陛下への安全な連絡手段のひとつくらいにしかアテには出来ないだろう。
(身辺をこれでもかと調べ上げたが、もう一度徹底的に調べるか…)
アンナは瞳に並々ならぬ決意を宿して、クラウディアが待つ月の宮へと足早に歩を進めるのだった。
アンナは「姫様の意思を優先致しました。」と口にしそうになった唇を噛み、静かに深く頭を下げる。
「隣国の王子などという面倒な肩書さえなければ、このような静観などという生ぬるい対応で済ませないものを。」
室内がシュヴァリエの苛立ちに呼応するように、重苦しい圧力が満ち始める。
皇帝の執務室には普段は5名程が、大国の皇帝であるが故の膨大な政務の補佐をしする為に滞在し仕事をしている。
現在、その執務室内には、側近筆頭であるマルセルと、クラウディア付き女官のアンナのみ。
二人とも豊富な魔力と強靭な精神力を持つヴァイデンライヒでも上位にある強さを持っている。
この二人でも辛うじて身体が地面に倒れるのを耐える程の濃縮された魔力は、普段執務室で仕事をしている文官職がメインの者には耐えきれないであろう。
マルセルは室内に満ちる余計な事を一言でも発すれば斬ってきそうな空気を察して、青い顔をしながら無言を貫いている。
シュヴァリエとて普段はここまで制御のない圧で側近を威圧する事はないが、今回は少しばかり箍が外れてしまったらしい。
皇城内でこれほど圧力のある魔力を感じれば、敵襲の可能性を大事になってしまうが、シュヴァリエ直々に執務室内に何重にも結界が施されており、魔力も会話も漏れ出る事はない。
まだ隣国の客人が滞在している皇宮で漏れ出る事があれば大騒ぎである。
シュヴァリエは、悪趣味な程に仰々しい権威を込められた椅子の背に寄りかかると、不遜な表情をしながら腕を組み、解消されぬ苛立ちを大きなため息で吐き出した。
美しい顔立ちの額には青筋すら浮かんで見えないこともない。
「ディアがアレを気にかけてさえいなければ、隣国に戻る長い道中の不幸な“不慮の事故”も起こり得たのだがな。隣国といえどそれなりに距離はある、深い谷も鬱蒼とした森も避けて通れば倍以上日数も掛かるからな。
整備された公道を移動したとて賊というのは何処にでもいる。いくら帝国とはいえど旅とは危険と隣り合わせなのは当然の事。時として不幸な出来事は残念な事に消えないものだ…だろう?
だが、その選択肢はもうないな。ディアが悲しむのはダメだ。アレを思って涙を流すのも、心を痛めるのも。」
シュヴァリエが心の内を独り言のように語り続ける。
我々に訊かせるつもりで語っているのか、ただ口にしているだけか。
未だ頭を上げる許可を貰っていないアンナは深く頭を下げながら、身体を地面にひれ伏せとギリギリと押さえつけられるような重い魔力を頭上に感じていた。
全身の皮膚がビリビリと痺れる程の覇気を、更に魔力で数十倍にも負荷を増幅させ、獲物を嬲るようなジワジワとした重圧をかけてくる。
(相変わらず姫様以外にはお人が悪い…っ)
「申し…訳、あ、りません…っ」
酸素を極端に薄く感じ、酷い息苦しさに言葉を発するのも呼吸をするのすらままならない。
(…ひれ伏せば余計にお怒りになるくせに、本当に姫様以外には……っ)
「……もうよい。」
シュヴァリエは、興が削がれたとでもいうように素っ気なく吐き捨てた。
フッと重圧が消え、意識を保ち地に伏すのを耐える事が出来てホッ息が漏れ出る。
アンナはあの地獄の訓練の日々に感謝した。
後継こそ狙えはしないが、我が家のしきたりであれほどの地獄を見させられる鍛え方をされていなければ、恐らくものの数秒で地面にキスしていただろう。
これだけの覇気と重圧を浴び、気合いだけではあるが陛下の御前をかろうじて立っていられる。それだけで自分の中では及第点だ。
(これで御年十二歳とか―――この目で見ていなければ信じられない所だ)
アンナは、今にも崩れ落ちてしまいそうな身体を内心で叱咤しつつ、ほんの少しだけ力を抜き静かに佇む姿を保ち続ける。
少しでも力をこめれば、ぷつりと崩れてしまいそうな程に疲弊していた。
細く深く酸素を取り込み体内に循環させ圧によって乱された正気を保つ。
少しずつ己の魔力を体内で素早く循環させながら、精神と身体の回復を強制的に促す。
じわりじわりと身体の芯に力が戻ってくるのを感じながら、いつの間にか詰めている息を吐いた。
我儘な子供が駄々を捏ねているのではない。
この残酷な思考に支配された顔を見るのは初めてではないが、不思議な事にこの幼い皇帝は精神は成熟している。
生まれてたった十数年で老成している―――と、感じる時すらある。
戦局を読む頭脳も、相手を翻弄する外交手腕も、下手な大人より完璧にこなす。
残酷で非道で暴君のような態度をするが、計算しての事だと忠臣達は分かっていた。
だが、一度、姫様が関係すると残酷な思考に支配されるらしい。
その顔を姫様には見せる事はないが、裏で手を回すよう指示をする時に側近たちには見せるのだ。
この少年の皮を被った老成した何かである皇帝は、姫様の前では年相応に感じられる少年のような態度を取り、可愛く拗ねて見せたりするのだから、忠臣一同驚愕である。
アンナはその時いつも思うのだ。
帝国の安寧は姫様と共にあるのではないかと。
そして、この帝国に姫様が居て本当に良かったと。
姫様は、人の子としては持て余す程の力を持ってしまった皇帝を人としてこの世に繋ぎ、きっと一番心の柔らかい部分を出せる相手だから。
だからこそ、何があったも私は姫様をお守りせねば。
陛下が「俺より国より何よりも、クラウディアを優先して護れ。何があろうとも、己の命がこと切れるその一瞬すらも、それだけは遂げよ。」と言うのは一理ある。
姫様に万が一が起こった時――――
その先を考えるだけで身体が震えてしまう。
(明日は隣国の使節団が自国へと帰国する為に皇城を出立する日。姫様もお見送りに出られると訊いている。陛下は何を憂いているのか。姫様は友人としての感情しかお持ちになっていられないご様子だというのに。)
苛立ちが少しばかりでも鎮火したのか、シュヴァリエはアンナを見遣り話し出す。
「アンナ、お前はディアの世話役として、ディアが赤子の頃から傍にいたな?」
「…? はい。姫様のお世話を赤子の頃からさせて頂いております。」
「その前は、ディアの母親である側室付きの監視役として女官をしていたな?」
シュヴァリエの質問の意図が分からないながら「はい、姫様の母君の女官として監視しておりました。」と答えた。
「俺の父は、ディアの母親を特別に寵愛していたと訊く。俺の記憶の中でも、皇妃である俺の母親がかつてないほどの嫉妬で荒ぶっていたと記憶している――――」
シュヴァリエは過去を探るように目線を上へと彷徨わせた。
「ディアを孕むまで、閨へも連日通ったと訊く。相違ないか?」
「はい、間違いないかと。連日連夜、通う事は当たり前でございました。また、そのまま数日間部屋から出ない事も。」
「――――ふむ。」
何やら思案するような表情のシュヴァリエ。
「何かご心配ごとでもございますか?」
「恐らく間違いないとは思うのだが、それだと寵愛深くディアの母へと俺の父が連日通っていた中で、そんな針の糸を通すような隙をどうやって突いたのかが不明だな。
まがりなりにも側室だ。護衛は数人配置され、女官にメイド数名も世話をやいていた筈だ。昼間に忍び込むにしても、事を成すような時間―――
そのような長い隙が生まれるとは考えづらい。
それも孕むまで頻回に忍び込まねばならぬし。それとも一度で孕んだのか…
体調を壊したと不調を訴えた記録など医務官が残していればソレか。
流石に臥せっている女を抱くほどあの男も鬼畜ではあるまい。 」
シュヴァリエは皮肉気に嗤う。
己の身体に流れる二つの血脈のひとつである父は、肉欲に囚われ過ぎた愚かな男だった。傀儡にさせられていると分かっていながら破滅へと舵を取り続けた男。
不貞を働かれていると気付いていても、それすらもしかしたら喜んだのではないか。
答えはもう知る事はないが。
アンナはその言葉に戦慄した。
それが指す答えはひとつ、クラウディアが前皇帝陛下の御子ではないという恐ろしい話に繋がるからだ。
「いいえ! 我ら一族の監視付きだった側室様が不貞を働く隙などあろう筈がありません! 陛下、そのような懸念は姫様のお立場すら揺るがす事であると理解しておられるのでしょうか!?」
アンナは必死である。我が主の安寧を脅かすような事はしないで欲しい。
大国の皇女であるから、堅牢な皇城で庇護出来ているのだ。
亡き側室の類まれなる美貌をそのままに、純粋で素直な心根をそのままに人を疑う事を知らない天使のように育ってしまった。
それは、皇女としては望まれない資質かもしれない。
魑魅魍魎が闊歩する皇宮では、致命的ともいえる欠点といえる。
けれど、アンナはそんなクラウディア姫だからこそ身命を賭して守りたいのだ。
だが守るにも限界がある。
恐ろしい皇宮だが、シュヴァリエが居る限り、何者も打ち砕けない堅牢な安全圏なのだ。そこを出されるような事があってはならない。
齢七歳でも匂いたつような類まれなる美しさ、そして現皇帝に匹敵する豊富な魔力、まだ年若い所も含めて、世界中の王族が望むであろう様々な可能性を秘めたクラウディア。
シュヴァリエがこれほどにクラウディアに心を傾けていなければ、大変に素晴らしい政略結婚の駒となるだろう。
シュヴァリエが存命する限り、駒に成りうることは皆無であるが。
当初アンナは「自国の信頼のおける者へと降嫁させる」と言うだろうと思っていた。
側近の公爵家嫡男も未だ婚約者を持っていない。
しかしアンナの予測は外れることとなった。
シュヴァリエは、己の目が届かぬ他国へ嫁がせたくないのかと思えば、自国すらダメらしい。
シュヴァリエにも、かつて婚約者候補なるものが十名程いたのだが、新皇帝に即位と共に全ての候補は解消された。
懇意にしていた候補も居なかったとの事だし、一度真っ新にして選び直すのかと思えば、そのような動きもない。
引き継いだばかりの帝国を正常化する事が忙しいという事もあるし、未だ諸外国を黙らせる為の戦が続いてる事もあるのかもしれない。
が、それだけではない何かを日頃のシュヴァリエから感じてしまう。
婚約者は置かないだろう、これから先も。
「―――父の周りには碌な家臣が居なかったからな。…やりようはいくらでもあったか。アンナ、マルセル、この事はお前らの胸の中に留めておけよ。クラウディアの最大の秘密になるだろう――」
そこでアンナはクラウディアの稀有な魔力の事、それは絶滅したと言われたかつて世界で争奪戦が勃発した程のものであること。
そして、枢機卿はそれに本日の茶会で気付いただろうこと。
シュヴァリエの継承の瞳は魔眼よりも精度のある見通せる力を持ち、その瞳でしっかりと確認してあること。
「姫様が……」
茫然と呟くアンナ。
「クラウディアは膨大な魔力持ちだ。それも、俺に匹敵する程の。
絶滅したとされるあの種族の力のひとつに、己の魔力を対象に分け与える事が出来るという力がある。
それすら有り得ない能力だが、供給された魔力は通常の数倍の威力を持つ。その魔力を使い魔法を行使するだけで、初期魔法程度の威力が高位魔法として発揮するという。その上、供給する本体は魔力枯渇知らずだ。与えても与えても湧き出る能力も持っている。
後はみなまで言わずともわかるだろう? 魔法を扱う者にとって夢にすら見た事のないような、最強で最高の存在だ。
永久的に攻撃魔法が撃ち続ける事が出来るし、強大な魔法攻撃を防ぎながら結界を維持し張り続ける事も出来る。
―――どれほどの人数に供給できるかは不明だが、一人でひとつの師団は賄えるだろう。そいつらがずっと最善で最上の状態を保ちながら魔法展開し続けるんだ、魔法力の強くない国でも簡単に強国へと仲間入りだ。
絶対に奪わせるつもりはないが、アンナも最大限に警戒しろ、例え今まで味方だと思っていた者でも警戒は怠るな。」
アンナはクラウディアを思った。
大好きアンナと無邪気に微笑む姿、少し拗ねて口を尖らせる表情、私の私室に花を飾ってくれと活けてくれたこともあった。
姫様の為に己の命を賭けてお守りすると誓った事に、一切の変わりはない。
これまでもこれからも、私の中での全てにおいて優先する存在。
「身命を賭して、その役割を全う致します。」
「ああ、頼んだ。俺よりも優先して守れ、いいな。」
「愚問でございます。以前からそのようにしか動いておりません。」
「はは、なら僥倖。枢機卿にも密偵を放った。何かあれば報告する。今日はもうよい、下がれ。」
騎士のように背筋を伸ばし礼をする。
「では、失礼します。」
退室し、皇族居住エリアへと続く回廊を歩きながら考える。
(姫様は何という桁違いの能力を秘めていたのだろうか…。確かに違和感は常にあった気がする。陛下を苦しめた筈の幼い器に対する魔力過多による病のような体調不良が、私が想定していたよりも軽く、幾日も引きずっていないこと。皇帝陛下と同等の魔力量だとして、これほど症状が軽い事を不思議に思いつつも、いつ症状が暗転するか常に気を付けていた―――)
――もう、そんな事を思案することも不思議に思う事も全く意味がない。
ばちぃぃん!
アンナは己の両頬を両手で叩く。
(もう過ぎ去ったくだらないことに思考を使うな、気合いを入れろ! 警戒レベルを引き上げろ!)
「……よしっ」
『例え今まで味方だと思っていた者でも警戒は怠るな。』
陛下の言葉がアンナの胸に深く刺さる。
全てを疑え―――とは、護衛に選抜した近衛騎士もということか。
少なくともマルセルは信用していいのだろうが。
陛下の傍を離れる事はない相手だ、陛下への安全な連絡手段のひとつくらいにしかアテには出来ないだろう。
(身辺をこれでもかと調べ上げたが、もう一度徹底的に調べるか…)
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