僕のみる世界

雪原 秋冬

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序章

9.鏡

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 踊り場に設置されている大きなガラス窓のおかげで、煌々とした月明りが階段を照らしている。本来なら安心できるはずなのに、冷たく無機質な明るさだと思った。
 ――そして、三階と四階の合間――七不思議とされる踊り場にたどり着く。そこには何ら変わりない鏡が存在しているだけだった。……それなのに、どうしてだろう。思わず掻きむしりたくなるほどの胸騒ぎがするのは。

「……ど、どうするの?」

 うわさの鏡を目前にして緊張が限界になったのか、辛抱たまらないといった様子で、東雲が不安げに問いかける。

「んー……、例の呼びかけ、誰かやってみたいやついる?」
「俺は特に相談とかないからパス」
「わたしも、ちょっと……」

 三咲の問いかけに、須納と東雲が拒否の意を表する。この中で一番イザナイさんに興味を持っていたであろう東雲も、さすがに恐怖心が勝ってきているのだろう。
 しかも今回は複数人いるせいで必然的に相談内容を聞かれてしまうことになるし、そもそも本来はたった一人で最初から最後まで行うはずなのだから、徒労に終わってしまう可能性が高い。

「仕方ないな。それなら――」

 誰も立候補しないのなら自分が、と思ったのだろう。そんな三咲の言葉を遮った須納は、ある提案をしてきた。

「なあ、宮原がやってみたら?」
「…………」

 伊織は何の反応も示さない。

「須納……」

 ピリピリとした空気を醸し出し始めた須納を見かねて、諫めようとしたところで伊織がようやく口を開いた。

「――わかった。いいよ」
「……へえ」

 思ってもみなかった言葉に目を見開く。

「伊織、嫌なら嫌でいいから」
「これは俺のほうがいい」

 前にも似たようなことを言っていた気がする。……そうだ、この計画に誘ったときに「言ったほうがいい」と口にしていたんだ。肝試しのことを、身内に言っても大丈夫だと。
 完全に憶測だが、もしかして図書室の鍵が開いていたことと、何か関係があるのだろうか。どういう意味なのか問う前に、伊織は鏡のほうへ向かってしまった。

「なんだか、宮原くんがやると雰囲気が違うね。それっぽいというか……」
「たしかに」

 東雲と三咲が小声でやりとりをする。二人が話していた通り、普段の振る舞いが影響しているのか、空気が変わったような気がした。……それが伊織の言う、「俺のほうがいい」ということなのだろうか。

「――イザナイさん、聴いてください」

 凛とした声が言葉を紡ぎ始めるのと同時に、心がざわめく。……そういえば伊織でも、イザナイさんの七不思議は知っていたんだな。……都織さんからか?

「――イザナイさん、お願いします」

 伊織が言葉を続けると、ざわめきの強さも増した。心なしか、雰囲気もさらに変わっているような気がする。
 緊張感に包まれるなか、いよいよイザナイさんに「お願い」をする段階だというのに、いくら待っても続きは発せられなかった。引き受けたのはいいものの、何を願うかまでは決めていなかったのだろうか……?

「……おい、続きは――」
「静かに」

 無言の空間に耐えかねた須納が何かを言いかけたが、伊織はそれを制止した。
 そして、そのタイミングを待っていたかのように、床に近い鏡の部分から、じわじわと何かが現れ始める。鏡を伝う水……にしては少し粘度があり、色も黒っぽい。窓から差し込む月明りに照らされたそれは、流れ出る血のようだった。

 ――鏡から血が出ている?
 そんなこと、ありえないと思った。しかし目の前で繰り広げられる光景は現実で、それに対して全員が目を逸らすこともできず、見守り続ける形になってしまう。
 次第に液体だけではなく、何かの塊がぬらりと姿を現し始める。血の気のない、どこか死を感じさせるそれの正体は――

「逃げて」

 伊織がこちらを振り返って一言そう発したが、状況を飲み込み切れていないのか、誰も動こうとしない。その間にも肉色の塊は鏡からうごめき続け、もはや肉片とは形容できない姿になっているこれは――腸だ。
 鏡から、血にまみれた腸が触手のような意思を持って這い出てくる。それでも動こうとしない俺たちを尻目に、伊織は所持している棒状のものに触れ、その身を包む布をはぎ取った。

 そこから現れたのは、鞘におさめられている日本刀だった。なぜ伊織がそんなものを持ってきたのか、そもそもどういった用途で所有しているものなのか、考えは巡るばかりだったが、その疑問を口にすることはできず、伊織と鏡の動向を見守るしかなかった。
 しかし、俺以外の者たちは日本刀という存在を見て少し我に返ったのか、鏡から離れようとして、じわじわと後ずさり始める。

 その間、伊織は日本刀をいつでも抜けるように準備はしていたらしいが、どうしてか抜く気配は感じられなかった。理由は分からないが、ためらっているようだ。
 そして鏡から伸び続ける腸は一本のみならず、複数本確認できるほどになっており、あの独特なきつい鉄のにおいも増していた。鏡に一番近い伊織にはまだ届いていないものの、このままでは時間の問題だろう。

 鏡の異変に意識が向いたまま後ずさっていたせいなのか、誰かが壁にぶつかってしまったようで、軽い打撃音が響く。まるでそれがスタートの合図だったかのように、須納、三咲、東雲の三人は、もつれながらも階下へ駆け下りていった。
 つられて俺も駆け出しそうになったが、伊織はその場から動かずに、血にまみれていく鏡と異物を見つめ続けているのを確認して、思いとどまる。

「伊織」

 情けなく震える声で名前を呼ぶと、一度俺のほうを見てから、ようやく移動する意思を読み取れた。二人で階段を駆け下りたり、廊下を走ってあの鏡から距離を取ろうとするあいだに、伊織は刃を少し出していた日本刀を鞘に戻し、再び布でくるんでいるようだった。

 あの鏡から走って逃げているにもかかわらず、俺たちの慌ただしい足音が響き渡っているほかにも、背後から聞こえてきていた。何かを引きずっているような摩擦音に、液体交じりの粘着質な音。
 振り向いてはいけない――!

 とにかく今は前だけを見て、この状況をなんとかしなければ。……そこで俺は、今さらながらふと気が付いたことがあった。俺と伊織が走り出したのは最後だから、前方に同じく走っている姿か、人の気配がするはずだ。ところがそれらは一切なく、俺と伊織、そして背後にいる「何か」が発する音と気配しか、この周辺には存在していない。
 ……どういうことだ……? どこかに息をひそめて隠れているのか、あるいは違う方向へ行ってしまったのか……。

 入口として利用した図書館へ続く最短ルートをたどっているのは俺たちだから、混乱のさなかで行き当たりばったりに道を選んでしまったのかもしれない。まあ、内側からなら、一階まで行けば手近な鍵を開けて、出られないこともないだろうが……。

 みんながどこにいるのか気になるが、合流するにしても、まずは連れてきてしまっている「何か」を振り切らない限り、どうしようもない。

 どこかに隠れるべきか、立ち向かったほうがいいのか――そんなことを悩みながら校舎内を走り抜けていくうちに、背後から付きまとってきていたはずの音はどこかへ消えてしまっていた。
 相手がこちらを見失ってくれたのか、見逃されただけなのか……諦めてくれたことを祈りたい。心から。

「……もう、追ってきて、ないよな……」

 乱れた息を整えながら、周囲を探る。やはり奇妙な気配は感じられない。

 少しだけ安堵しながら伊織のほうを見ると、疲れを一切感じさせることなく、普段となんら変わりない姿でそこに佇んでいた。けっこう走りっぱなしだったと思うんだが……すごいとしか言いようがない。

「大丈夫」

 伊織は短くそう答えると、スマートフォンを取り出して画面を点灯する。――が、何か予想だにしないものでも見たかのようなそぶりで、明るくなった手元の板を見つめているだけだ。どうしたんだろう、とその疑問を口にする前に、伊織は操作を始めた。どこかへ連絡するのだろうか。……しかし、どこへ?

 ……というか、そうだ。俺も三人に連絡を……。いや、通知音が鳴ってしまう可能性もあるか。どこかに隠れていて、万が一すぐそばに「何か」がいたら――そう考えるだけで背筋が凍った。もどかしいが、連絡はできない……。

 伊織が何のためにスマートフォンを操作しているのか、という点も気になる。三咲や須納と連絡先を交換しているとは思えないから、今どこにいるのか確認しようとしているわけではないのだろう。もしそうだったら先述した通り、音の懸念があるから止めないといけないけれど。

「伊織、そろそろ――」

 いつまでも同じ場所に居続けないほうがいい。そう思って移動を提案しようとしたところで、背後から声が聞こえてきた。
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