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ある男の繰り言~後悔先に立たず~4.
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「……ふうぅ。……もう、なんて男だよまったく」
深い嘆息とともに、シレーヌは尻を払いながら立ち上がった。
水晶玉を着衣で拭い、大切そうに胸元にしまい込む。
そして、放心して視線を遠くに飛ばしている男のそばへ歩み寄る。
兄さんほら、しっかりしなよとぴたぴた頬を軽く叩かれて、彼はびくりとからだを震わせた。
そして、彼にしては珍しい、頼りなげといってよい仕草できょろきょろと回りを見回す。
「……?……」
見慣れた、彼の安宿。狭くはないが、最低限の家具と真っ白な漆喰の壁に囲まれた部屋。
ここは、俺の泊ってる部屋。リヴェアは。あの男たちは。
「気が済んだろ?」
シレーヌは縛られたままの彼を見上げ、からかうでもなく、驚くほど静かな声で言った。
「あんたの恋人は幸せに暮らしてる。よかったじゃないか」
何を言うかと彼は思ったが、口に出しては何も言わなかった。ただぼんやりと、シレーヌの大きくて目じりの吊り上がった、猫のような目を見おろした。
……少女のような幼さと世慣れた狡猾さと。達観した静けさ。
似ている、と思った。
リヴェアは長身で象牙色の肌で清廉な美貌。シレーヌは小柄で褐色の肌で年に似合わず婀娜っぽい。
黒髪、黒瞳以外はまったく異なっているのに、その瞳が。瞳の中に潜む光が。
似ている。だから、手を取ってしまったのだろうか。
……そうじゃない。気の迷いだ。
「早くこいつを解いてくれ」
彼は力なく言った。
まっすぐに見上げてくるシレーヌの瞳を見返すことができず、髪と同じ色の、長い睫毛を伏せたまま。
「もういい、シレーヌ。もう十分だ。未来なんぞ見たくはない」
「そりゃよかった。あたしも今日はもう嫌だ」
シレーヌは子供っぽく唇を突き出して言う。
「とんでもない男だね、兄さん。普通、あんなことにはならないんだ」
「あんなこと?」
「最後、目が合ったろう?」
……そうだった。
自分が、思わず彼女の本当の名を叫んだとき。
リヴェアも男たちも、全員こちらを向いたのだ。
そしてリヴェアは。あの顔は。
……俺の名を呼んでくれたのかもしれない。
と考えてすぐに、何を馬鹿なと彼は頭を振って甘ったれた想像を否定する。あんな目に合わせた俺の名を呼ぶはずなどない。
おまけになんだ。四人もの男があいつを抱いていた……。
口の中が苦くなる。脳裏に焼き付いてしまった、彼女、彼らの激しい淫猥な交合。
恍惚としたリヴェアの顔。吸いつかれ、揉みしだかれるゆたかな胸。男たちの欲望を受け止める秘貝の鮮やかな赤。
くそ、と小声で、しかし雄弁な悪態をつく彼を見つめながら、シレーヌは気が付かないふりをして話し続ける。
「普通は姿を視せるだけなんだけどね。互いの念とか、依頼人の想いが強いと繋がることがあるよ、って母さんが言ってた」
「繋がる?」
「空間そのものが。というか。時空が、というか。……もっとも、今回はびっくりしたよ。界が繋がるなんて」
「……わけがわからん」
現実主義者の彼は言った。
どこかの国の貴族と宜しくやってるんだろう、と思うことにしたのだ。もっとも、今時ラテン語を公用語にする貴族がどこにいるのか知らんが。かの一神教の総本山ならいざしらず。その国ですら、枢機卿たちだって普段からラテン語を話したりしないだろうが。
それに、見たこともない星並びだったしな。
たくさんの「?」に蓋をして、理解の及ばないことはとっとと思考の外に追い出すに限ると思いなおす。
しかし、
「界だ、兄さん」
シレーヌはしつこく言い募った。
縛られたままの彼の腰に手をかけ、長身の彼を見上げるため必死に顔を上げている。
いつまでも不愉快なことを言うなといいたいが、この、いいところ「大人になったばかりの少女」としか見えないシレーヌ相手に毒づくのも大人げないと思う。
「界?なんだそれは」
そう聞かないとシレーヌは縄すら解く気にならないらしい。彼はあきらめて話にのってやった。
「手短に言え。あと早くこれを解け」
「わかったよ。……‘世界’っていうだろう?あたしたちのいるところのこと」
血が出てる、あんた暴れすぎだよとシレーヌは硬くしまった結び目に手をかけながら言った
「天にはたくさんの‘界’がある。地球に似たところだって当然ある。彼女のいるところはそのうちのひとつだ」
よいしょ、よいしょと掛け声が混じる。しっかりと結んだ縄目は、彼が渾身の力を込めて暴れたせいでさらに強く締まり、相当苦戦しているらしい。実際、一向に緩んでくる感触がない。
「あたしは中継地点になってあんたと彼女を繋いだ。だから全部見えてたし聞こえたんだよね。それに、依頼人よりももっと‘感じる’。全身で。……あそこは、地球じゃない」
「どこだ」
「知らないよ」
あっさりとシレーヌは言った。
ナイフで切るしかないかなと小首をかしげている。
「知らない、名前なんて。でも彼らの言葉、夜空、中継してるあたしにだけわかる空気感。……あれは地球のどこにもない。いわゆる‘異世界’ってところかな。どんなきっかけでそうなったか知らないけど、兄さんの彼女はそこにいる」
縄で擦れ、出血した部分が疼き始めたが、彼はその痛みも忘れてシレーヌの話に耳を傾けた。
馬鹿な、と一蹴するには奇妙な説得力を帯びた話に思われる。
「だからさ。……あきらめなよ、兄さん」
声音が変わった。
彼はあらためてまじまじとシレーヌを見下ろした。
またさっきと同じ、奇妙に静かな声。
熱を孕んで光る、彼を映す大きな目。
「恋人、探してたんだろう?もう手の届かないところにいるよ」
「……届きそうだった」
「あんなことはめったにない。いや、普通はあり得ない。あたしを中継にして繋いだ‘界’を渡ろうなんてことをしたら、兄さんはたぶん死んじゃうよ」
「別にかまわん」
ふ、と皮肉な笑みを彼は浮かべた。
さんざん、任務でひとを殺めてきた。彼にとって死は身近だ。くだらない戦闘で死ぬくらいなら‘界渡り’?それで命を落とすのも悪くない。
そして、万一、‘向こう側’に行けたら。
あいつに。……リヴェアにもう一度会えるなら。
恋人がいようがかまわない。会って、誤解していたと。悪かったと言って跪いて詫びて。
そうしたら、もう一度俺を見てくれるだろうか。
「かまわなくないよ!」
シレーヌは黒髪をふりたてて激しく抗議した。
だから早く縄、と彼が言いかけるのを完璧に無視して、
「中継してるあたしの身にもなってよ!膨大な負荷がかかって、まずあたしが先に死んじゃうよ!」
「お前が?」
それは彼の本意ではないのだろう。自嘲めいた笑みは引っ込められ、わずかに眉を寄せている。
「そうだよ!あたしが死んで、兄さんが首尾よく生き残りでもしたら、そんなの理不尽じゃないか!あたしはまだ若いんだからね、死にたくない!!」
「だろうな」
至極まっとうで生命力に満ちたシレーヌの言葉に、きつい目がわからないほどほんの少し、細められる。
くるくるとよく表情が変わるな。
ご機嫌なときのあいつのようだと、また思い出してしまう。
どこからみても「美女」なのに、初心でまっすぐで可愛い女だった。
各種武術、武器の扱い、指揮能力。恐ろしく強くて、冷徹な判断もできる「鋼のリヴェア」。
なのに素の彼女ときたら、男あしらいはとんでもなく不器用で生真面目な女だった。未経験ゆえの「青い妖艶さ」に満ちた、極上の肢体……。
蹂躙したときのことではない。初めて想いを交わし、緊張しきって硬直している彼女を宥め、丹念に蕩かしてから肌を重ねた時のことを思い出して陶然としていると。
「……!?」
いきなりの感覚に全身が震えた。
下肢に。からだの中心にシレーヌの手が載せられている。
彼は目を疑った。
「おい、シレーヌ!」
上下左右に着衣の上から、着衣そのものを刺激の媒体として使いながら、性急に弄っている。
先ほどまで見せられた光景で反応していたそれは、たちまちまた強度を取り戻し、熱を帯びた。
シレーヌはためらいなく彼の下衣を寛げる。いましめを失ったそれは勢いよく跳ね上がり、シレーヌの頬を叩く。シレーヌの手がそれに伸びる。
「よせ!!」
「彼女のこと思い出してるんだろ。……いいよ、それでも」
「う、……!?」
ちゅ、と先端にくちづけられ、彼は呻いた。
今日出会ったばかり。娼婦ですらない、おそらくは少女の域をようやく脱したか、という程度の若い女。そんな彼女の手は憎らしいほどに巧妙に動き回り、彼の分身はあっけなく陥落して凶悪なまでにそびえ立っている。チロチロと這わされる舌は小鳥のように小さいのに、いや、小さいがゆえにこそ、生々しいのか。上から見下ろした彼女の舌が赤黒い分身に丹念に唾液を纏わせているさまは、とてつもなく淫靡だ。
現実に打ちのめされて傷心しているはずなのに、縄で自由を奪われたまま勃起して、それを若い女に咥えさせている。
「やめろ、シレーヌ……っつ、うぅ、ああ!」
力ない彼の抵抗の声は快感の呻きとなって、常ならば引き締まった唇から零れ落ちてゆく。
シレーヌは剛直を深く咥え、大きく舐め、じゅぼじゅぼと音を立てて吸い上げた。
ちいさな手指が繊細に表面をなぞる。浮き上がった筋を丁寧に辿る。
ざらりとした舌はひたすら淫らに這い回る。
ぽったりとした唇はときに大胆に彼を含み、口蓋全体を使って愛撫を施している。
彼は頬を紅潮させ、眉を寄せた。歯を食いしばろうとしたが既に快楽に落ちた今はそれもできず、なまめかしく喘ぐばかり。
「……吐き出せばいいよ、兄さん」
唾液と先走りにてらてらと光るそれに頬ずりをして、シレーヌは優しく囁いた。
「吐き出しなよ、あたしに。……あたしを彼女だと思って」
こんどは浅く口に含んで吸い上げなら、熱に侵されたように言う。
「これも、あんたの想いも、ぜんぶ吐いちまいなよ。……視たんだよ、あたし。……悔やんでるんだろう?愛してるのに、傷つけて。……」
「あう、ああ!!」
やわく責められていたそれが突如としてきつく吸われ、彼はまた声を上げた。
暴力的な快感に視界が霞む。
シレーヌのクセのある黒髪が、リヴェアの肩までのまっすぐなそれと交錯する。
無理やりに口淫を強いた時の、彼女の涙に塗れた顔。拙い舌使い。
先ほど目の当たりにした光景。
「……愛してた、リヴェア。……リヴェア、愛して、る」
わけがわからなくなってきて、彼は声を絞り出した。
目を開ければシレーヌはリヴェアに見える。目を閉じればそのリヴェアが、男たちに身を任せている。
……俺のせいだ。自業自得だ。
「悪かった、赦してくれ、戻ってくれ、あ、あああっ!……頼む、たの、む……!!」
もがき、叫びながら彼は縛られたままできうる限り必死で腰を動かす。リヴェアの中を貪ったときのことを思い出そうとする。柔らかく、きつく彼自身を包み込んだリヴェアの隘路。シレーヌの狭い、熱い咥内。
シレーヌはまた深々と彼の分身を喉奥まで飲み込んでいる。両手で根元を捧げるように持って、唇で覆いきれない部分に愛撫を施して、彼の熱を煽ってゆく。髪を揺らし、額に汗を浮かべながら頭全体を動かして没頭している。
「リヴェア!リヴェア---!!」
最後は彼女の名を絶叫しながら、彼は果てた。夥しい白濁がシレーヌの咥内に溢れかえり、飲みきれないものが唇の端からぼとぼとと零れ落ちる。
「っ、……くそ、……」
口を拭い、せき込むシレーヌを見ながら、彼は絶望的な気分で悪態をついた。
嫉妬でリヴェアを犯し、たぶんそのせいで彼女は手の届かないところへ行ってしまった。
そして、見ず知らずの女に同情され、その女の口淫で達してしまった。……元カノの名を叫びながら。
最低だな、俺は。
彼は誇り高いし、実際、周囲からは傲慢と思われている男だったが、このときばかりは心底そう思った。
フェンシング選手によって真実を知らされた時も思ったが、今はそれ以上だ。
「……大丈夫か」
彼はシレーヌと目を合わせないようにしながら、しかし大変珍しいことに気遣いの言葉を口にした。
「平気だよ」
シレーヌの声には屈託がない。本当にそう思っているようだ。
いっぱい出してすっきりしただろう?と言いながら、水を飲み、二、三回の咳払いののちにナイフを持って再び彼の傍らに立つ。
彼の肌に深々と食い込んだ縄目を女の手にしたナイフで切り解かれるのは、それはそれで彼にしてみれば肝の冷える状況といえたが、シレーヌはなかなか器用に縄だけに切り目を入れ、最後は掛け声とともに引きちぎった。
******
「……あたしを連れってくれない?」
夜明けとともに。
早起きの老夫婦に言って用意してもらった救急キットで彼の傷の手当をしながら、シレーヌは言った。
この程度の傷、とは思ったが、軍人はからだが資本だ。ばい菌がはいったら大変だよと彼女が主張したため勝手に手当をさせているが、その手つきには危なげがない。
「馬鹿なことを言うな」
彼はそっぽを向いた。
取り付く島もない声と表情だが、そもそも「そっぽを向く」ことすら、本来の彼はめったにしない。
この妙に世慣れたシレーヌにはお見通しなのだろう。彼女は全く怯む様子もなく、丁寧に、しかしてきぱきと傷の処置をしながら、
「馬鹿じゃないよ。あたし、けっこう何でもできるし先視もできるし。美人だと思うし」
兄さんの元カノほどじゃなくってもさ、としゃあしゃあと彼女は続けた。
「あっちのことも上手いと思うんだよね。あの程度、序の口なんだけど。気持ちよかっただろ?」
「うるさい」
「強がりなさんなって。どれだけため込んでたんだよ、兄さん。……すっごい量だった」
それを言われると一言もない。
彼はしばし沈黙してから、「あれは事故だ」と言った。
素直じゃないよね、また女に逃げられるよと情け容赦なくシレーヌは言い、なんだとと気色ばむ彼の両手を取った。
ふざけた表情が一瞬で掻き消えて、思わず彼も次の言葉を飲み込んで彼女を見返す。
「頼むよ。お願いします。……連れてってほしい」
「理由は」
短く、問い返す。
彼女の声の中にある真実の響きは、百戦錬磨の彼にはすぐにわかったから。
「昨日のことか?」
「そう。……あいつら、ヤバイんだ。今までも似たようなことがあったけど、今回は特に」
自分が犯罪に手を染めているのではない。奴らが暴走して、金儲けどころではない犯罪に自分を利用しようとしているのだと。
まずいとわかったからしつこく断わったのに、切羽詰まっているのか強引に拉致されそうになっているのだと。
「あたしの力を自分たちのためだけに使わせようって魂胆らしいけど」
気持ちが乗らなきゃ何も視えない、せいぜい顔相くらいしかできないのに、やつらは言っても聞かないんだとシレーヌは続けた。
「頼むよ。あたしはこの街が好きだけど、そうも言ってられないんだ」
「……なぜそんなことを俺に頼む?ここはお前の縄張りだろうに」
彼は握られたままの手を、彼にしては穏やかに、そっと外させた。
そして身をかがめ、射るような視線で女を捉え、問いかける。
「他に頼る奴は?そもそもお前、身寄りは?」
「頼る奴なんていない。ていうか、そいつが組織の一員になっちまってるんだから始末に負えない」
シレーヌは鼻にしわを寄せた。
「懐柔されたらしくってさ。……で、親はいないよ。母さんは四年前かな。あたしを置いて男とどっかへ行った」
「……」
子にとっては迷惑かつ悲惨なことだが、世界中、珍しくもない話だ。
「たぶんすぐ死んだんだと思うよ。いなくなってすぐ、先視の力があたしに移ったから」
悲惨どころではない話になってきたが、シレーヌは顔色一つ変えない。
「母さんも祖母ちゃんももっと前の祖母ちゃんも。ひとりずつ、ずっとこの力をもらってきたんだって。女だけが持つんだって。女はかよわくて身を守るすべを持たないから神様が与えてくれた力なんだよって」
今はそれを目当てにつけ狙われているのだから。
その力、いいのか悪いのか知れたもんじゃないなと彼は思ったが、内心に留めて耳だけを傾ける。
「兄さん、外国の、それも軍人さんだよね?あたしを連れてここを出ることくらい出来るだろ?」
ほんの少しだけ憐憫の色を湛えた暗緑色の瞳を、シレーヌはどう読み取ったのか。
人を食ったような様子はもう微塵もない。
シレーヌは手当を終えた手首を、もう一度とった。
真剣で必死なのに、無意識に彼をいたわるような、優しい手つきで。
初めて見るような目で、彼はとられた手と、そこから視線を滑らせて彼女を交互に見つめる。
「あんたのために先視をするよ。お金だってこうみえて結構持ってる。タダでとは言わない、だから」
「……今日、出国するぞ」
気が付けば、彼はそう口走っていた。
瞬間、彼女は目を輝かせる。
まずった、とは思ったが、撤回する気にもならない。ただ、俺も酔狂なことだなと自嘲する。
多くもない荷物をあっという間に取りまとめ、担ぎ上げた。
嬉しいな、ありがとう、言ってみるもんだと、シレーヌはあけっぴろげに喜びを露わにして言う。彼の回りを邪魔にならない程度に、人工衛星のようにくるくる回るその姿を見ながら、彼は聞えよがしに溜息をついた。
「そういえばお前、パスポートは?」
「あるよ。偽造だけど」
「……それはあるとは言わない」
眩暈がする。なんという女だ。
彼は素早く計算を巡らせた。領事館に、無理を通せる者を素早くリストアップする。
「行くぞ」
「了解!」
「荷物があっても取りに戻ってはやれんぞ」
「わかってる。戻ったらヤバイからね」
きしきしと板張りの階段を踏みしめながら階下へ降り、善良な老夫婦に清算を済ませると、彼らは揃って宿を出た。
潮の匂いがする、清新な夜明けの空気。
まだ薄暗いうちにとりあえず領事館へ、と歩を進めていると、身長差だろう、ともすれば彼女が遅れがちになる。
無言で速度を落としてやると、シレーヌは「有難う」と言った。
かなり悲惨な境遇で育ったと踏んでいたが、彼女は天真爛漫、口は悪いもののされたことに対してきちんと礼を口にする。図々しいようでいて、本当に不快にさせる一線は越えない、というか。
当然、悪い気はしない。
……礼、と言えば。リヴェアはものすごく律儀だったなと、うっかり彼は思い出してしまい、そんな自分に腹を立てて眉をひそめた。
隣でシレーヌがくすりとちいさく笑う。
見透かされたように感じて無言で睨んでやると、シレーヌは「怖いよ、色男が台無しだ」と言って彼の腕に取りすがった。
なんとなく、彼は振り払わなかった。
「ね。あたしたち、どんなふうに見えるかな?」
「知るか」
「兄さんの彼女か、奥さんだと思われるよね、きっと」
「ガキが生意気を言うな」
「そのガキで抜いたくせに」
「お前、……!」
事故だと言ったろう、という声に力はない。
──昨日まではリヴェアを探して気狂いのようになっていた。
そんな自分が、今はへらず口をたたく妙な女を連れて、この街を、この国を出ようとしている。
決してあきらめたわけじゃない、と、彼はひとりごちる。
リヴェアを愛していた。今だって、愛している。何を、どんな光景を見せられようとも。
こんなに愛していたとは。気づくのが、遅すぎた。
もしもまた会えたら。
その時は間違えないのに。
──黙り込んだ彼の横顔を、シレーヌはそっと横目で見やる。
もう遅いのに、と、絶対に彼には聞こえない声で、シレーヌは呟く。
あたしがいるよ、あたしを見て。と、唇だけを動かして、彼女は付け加えた。
深い嘆息とともに、シレーヌは尻を払いながら立ち上がった。
水晶玉を着衣で拭い、大切そうに胸元にしまい込む。
そして、放心して視線を遠くに飛ばしている男のそばへ歩み寄る。
兄さんほら、しっかりしなよとぴたぴた頬を軽く叩かれて、彼はびくりとからだを震わせた。
そして、彼にしては珍しい、頼りなげといってよい仕草できょろきょろと回りを見回す。
「……?……」
見慣れた、彼の安宿。狭くはないが、最低限の家具と真っ白な漆喰の壁に囲まれた部屋。
ここは、俺の泊ってる部屋。リヴェアは。あの男たちは。
「気が済んだろ?」
シレーヌは縛られたままの彼を見上げ、からかうでもなく、驚くほど静かな声で言った。
「あんたの恋人は幸せに暮らしてる。よかったじゃないか」
何を言うかと彼は思ったが、口に出しては何も言わなかった。ただぼんやりと、シレーヌの大きくて目じりの吊り上がった、猫のような目を見おろした。
……少女のような幼さと世慣れた狡猾さと。達観した静けさ。
似ている、と思った。
リヴェアは長身で象牙色の肌で清廉な美貌。シレーヌは小柄で褐色の肌で年に似合わず婀娜っぽい。
黒髪、黒瞳以外はまったく異なっているのに、その瞳が。瞳の中に潜む光が。
似ている。だから、手を取ってしまったのだろうか。
……そうじゃない。気の迷いだ。
「早くこいつを解いてくれ」
彼は力なく言った。
まっすぐに見上げてくるシレーヌの瞳を見返すことができず、髪と同じ色の、長い睫毛を伏せたまま。
「もういい、シレーヌ。もう十分だ。未来なんぞ見たくはない」
「そりゃよかった。あたしも今日はもう嫌だ」
シレーヌは子供っぽく唇を突き出して言う。
「とんでもない男だね、兄さん。普通、あんなことにはならないんだ」
「あんなこと?」
「最後、目が合ったろう?」
……そうだった。
自分が、思わず彼女の本当の名を叫んだとき。
リヴェアも男たちも、全員こちらを向いたのだ。
そしてリヴェアは。あの顔は。
……俺の名を呼んでくれたのかもしれない。
と考えてすぐに、何を馬鹿なと彼は頭を振って甘ったれた想像を否定する。あんな目に合わせた俺の名を呼ぶはずなどない。
おまけになんだ。四人もの男があいつを抱いていた……。
口の中が苦くなる。脳裏に焼き付いてしまった、彼女、彼らの激しい淫猥な交合。
恍惚としたリヴェアの顔。吸いつかれ、揉みしだかれるゆたかな胸。男たちの欲望を受け止める秘貝の鮮やかな赤。
くそ、と小声で、しかし雄弁な悪態をつく彼を見つめながら、シレーヌは気が付かないふりをして話し続ける。
「普通は姿を視せるだけなんだけどね。互いの念とか、依頼人の想いが強いと繋がることがあるよ、って母さんが言ってた」
「繋がる?」
「空間そのものが。というか。時空が、というか。……もっとも、今回はびっくりしたよ。界が繋がるなんて」
「……わけがわからん」
現実主義者の彼は言った。
どこかの国の貴族と宜しくやってるんだろう、と思うことにしたのだ。もっとも、今時ラテン語を公用語にする貴族がどこにいるのか知らんが。かの一神教の総本山ならいざしらず。その国ですら、枢機卿たちだって普段からラテン語を話したりしないだろうが。
それに、見たこともない星並びだったしな。
たくさんの「?」に蓋をして、理解の及ばないことはとっとと思考の外に追い出すに限ると思いなおす。
しかし、
「界だ、兄さん」
シレーヌはしつこく言い募った。
縛られたままの彼の腰に手をかけ、長身の彼を見上げるため必死に顔を上げている。
いつまでも不愉快なことを言うなといいたいが、この、いいところ「大人になったばかりの少女」としか見えないシレーヌ相手に毒づくのも大人げないと思う。
「界?なんだそれは」
そう聞かないとシレーヌは縄すら解く気にならないらしい。彼はあきらめて話にのってやった。
「手短に言え。あと早くこれを解け」
「わかったよ。……‘世界’っていうだろう?あたしたちのいるところのこと」
血が出てる、あんた暴れすぎだよとシレーヌは硬くしまった結び目に手をかけながら言った
「天にはたくさんの‘界’がある。地球に似たところだって当然ある。彼女のいるところはそのうちのひとつだ」
よいしょ、よいしょと掛け声が混じる。しっかりと結んだ縄目は、彼が渾身の力を込めて暴れたせいでさらに強く締まり、相当苦戦しているらしい。実際、一向に緩んでくる感触がない。
「あたしは中継地点になってあんたと彼女を繋いだ。だから全部見えてたし聞こえたんだよね。それに、依頼人よりももっと‘感じる’。全身で。……あそこは、地球じゃない」
「どこだ」
「知らないよ」
あっさりとシレーヌは言った。
ナイフで切るしかないかなと小首をかしげている。
「知らない、名前なんて。でも彼らの言葉、夜空、中継してるあたしにだけわかる空気感。……あれは地球のどこにもない。いわゆる‘異世界’ってところかな。どんなきっかけでそうなったか知らないけど、兄さんの彼女はそこにいる」
縄で擦れ、出血した部分が疼き始めたが、彼はその痛みも忘れてシレーヌの話に耳を傾けた。
馬鹿な、と一蹴するには奇妙な説得力を帯びた話に思われる。
「だからさ。……あきらめなよ、兄さん」
声音が変わった。
彼はあらためてまじまじとシレーヌを見下ろした。
またさっきと同じ、奇妙に静かな声。
熱を孕んで光る、彼を映す大きな目。
「恋人、探してたんだろう?もう手の届かないところにいるよ」
「……届きそうだった」
「あんなことはめったにない。いや、普通はあり得ない。あたしを中継にして繋いだ‘界’を渡ろうなんてことをしたら、兄さんはたぶん死んじゃうよ」
「別にかまわん」
ふ、と皮肉な笑みを彼は浮かべた。
さんざん、任務でひとを殺めてきた。彼にとって死は身近だ。くだらない戦闘で死ぬくらいなら‘界渡り’?それで命を落とすのも悪くない。
そして、万一、‘向こう側’に行けたら。
あいつに。……リヴェアにもう一度会えるなら。
恋人がいようがかまわない。会って、誤解していたと。悪かったと言って跪いて詫びて。
そうしたら、もう一度俺を見てくれるだろうか。
「かまわなくないよ!」
シレーヌは黒髪をふりたてて激しく抗議した。
だから早く縄、と彼が言いかけるのを完璧に無視して、
「中継してるあたしの身にもなってよ!膨大な負荷がかかって、まずあたしが先に死んじゃうよ!」
「お前が?」
それは彼の本意ではないのだろう。自嘲めいた笑みは引っ込められ、わずかに眉を寄せている。
「そうだよ!あたしが死んで、兄さんが首尾よく生き残りでもしたら、そんなの理不尽じゃないか!あたしはまだ若いんだからね、死にたくない!!」
「だろうな」
至極まっとうで生命力に満ちたシレーヌの言葉に、きつい目がわからないほどほんの少し、細められる。
くるくるとよく表情が変わるな。
ご機嫌なときのあいつのようだと、また思い出してしまう。
どこからみても「美女」なのに、初心でまっすぐで可愛い女だった。
各種武術、武器の扱い、指揮能力。恐ろしく強くて、冷徹な判断もできる「鋼のリヴェア」。
なのに素の彼女ときたら、男あしらいはとんでもなく不器用で生真面目な女だった。未経験ゆえの「青い妖艶さ」に満ちた、極上の肢体……。
蹂躙したときのことではない。初めて想いを交わし、緊張しきって硬直している彼女を宥め、丹念に蕩かしてから肌を重ねた時のことを思い出して陶然としていると。
「……!?」
いきなりの感覚に全身が震えた。
下肢に。からだの中心にシレーヌの手が載せられている。
彼は目を疑った。
「おい、シレーヌ!」
上下左右に着衣の上から、着衣そのものを刺激の媒体として使いながら、性急に弄っている。
先ほどまで見せられた光景で反応していたそれは、たちまちまた強度を取り戻し、熱を帯びた。
シレーヌはためらいなく彼の下衣を寛げる。いましめを失ったそれは勢いよく跳ね上がり、シレーヌの頬を叩く。シレーヌの手がそれに伸びる。
「よせ!!」
「彼女のこと思い出してるんだろ。……いいよ、それでも」
「う、……!?」
ちゅ、と先端にくちづけられ、彼は呻いた。
今日出会ったばかり。娼婦ですらない、おそらくは少女の域をようやく脱したか、という程度の若い女。そんな彼女の手は憎らしいほどに巧妙に動き回り、彼の分身はあっけなく陥落して凶悪なまでにそびえ立っている。チロチロと這わされる舌は小鳥のように小さいのに、いや、小さいがゆえにこそ、生々しいのか。上から見下ろした彼女の舌が赤黒い分身に丹念に唾液を纏わせているさまは、とてつもなく淫靡だ。
現実に打ちのめされて傷心しているはずなのに、縄で自由を奪われたまま勃起して、それを若い女に咥えさせている。
「やめろ、シレーヌ……っつ、うぅ、ああ!」
力ない彼の抵抗の声は快感の呻きとなって、常ならば引き締まった唇から零れ落ちてゆく。
シレーヌは剛直を深く咥え、大きく舐め、じゅぼじゅぼと音を立てて吸い上げた。
ちいさな手指が繊細に表面をなぞる。浮き上がった筋を丁寧に辿る。
ざらりとした舌はひたすら淫らに這い回る。
ぽったりとした唇はときに大胆に彼を含み、口蓋全体を使って愛撫を施している。
彼は頬を紅潮させ、眉を寄せた。歯を食いしばろうとしたが既に快楽に落ちた今はそれもできず、なまめかしく喘ぐばかり。
「……吐き出せばいいよ、兄さん」
唾液と先走りにてらてらと光るそれに頬ずりをして、シレーヌは優しく囁いた。
「吐き出しなよ、あたしに。……あたしを彼女だと思って」
こんどは浅く口に含んで吸い上げなら、熱に侵されたように言う。
「これも、あんたの想いも、ぜんぶ吐いちまいなよ。……視たんだよ、あたし。……悔やんでるんだろう?愛してるのに、傷つけて。……」
「あう、ああ!!」
やわく責められていたそれが突如としてきつく吸われ、彼はまた声を上げた。
暴力的な快感に視界が霞む。
シレーヌのクセのある黒髪が、リヴェアの肩までのまっすぐなそれと交錯する。
無理やりに口淫を強いた時の、彼女の涙に塗れた顔。拙い舌使い。
先ほど目の当たりにした光景。
「……愛してた、リヴェア。……リヴェア、愛して、る」
わけがわからなくなってきて、彼は声を絞り出した。
目を開ければシレーヌはリヴェアに見える。目を閉じればそのリヴェアが、男たちに身を任せている。
……俺のせいだ。自業自得だ。
「悪かった、赦してくれ、戻ってくれ、あ、あああっ!……頼む、たの、む……!!」
もがき、叫びながら彼は縛られたままできうる限り必死で腰を動かす。リヴェアの中を貪ったときのことを思い出そうとする。柔らかく、きつく彼自身を包み込んだリヴェアの隘路。シレーヌの狭い、熱い咥内。
シレーヌはまた深々と彼の分身を喉奥まで飲み込んでいる。両手で根元を捧げるように持って、唇で覆いきれない部分に愛撫を施して、彼の熱を煽ってゆく。髪を揺らし、額に汗を浮かべながら頭全体を動かして没頭している。
「リヴェア!リヴェア---!!」
最後は彼女の名を絶叫しながら、彼は果てた。夥しい白濁がシレーヌの咥内に溢れかえり、飲みきれないものが唇の端からぼとぼとと零れ落ちる。
「っ、……くそ、……」
口を拭い、せき込むシレーヌを見ながら、彼は絶望的な気分で悪態をついた。
嫉妬でリヴェアを犯し、たぶんそのせいで彼女は手の届かないところへ行ってしまった。
そして、見ず知らずの女に同情され、その女の口淫で達してしまった。……元カノの名を叫びながら。
最低だな、俺は。
彼は誇り高いし、実際、周囲からは傲慢と思われている男だったが、このときばかりは心底そう思った。
フェンシング選手によって真実を知らされた時も思ったが、今はそれ以上だ。
「……大丈夫か」
彼はシレーヌと目を合わせないようにしながら、しかし大変珍しいことに気遣いの言葉を口にした。
「平気だよ」
シレーヌの声には屈託がない。本当にそう思っているようだ。
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彼の肌に深々と食い込んだ縄目を女の手にしたナイフで切り解かれるのは、それはそれで彼にしてみれば肝の冷える状況といえたが、シレーヌはなかなか器用に縄だけに切り目を入れ、最後は掛け声とともに引きちぎった。
******
「……あたしを連れってくれない?」
夜明けとともに。
早起きの老夫婦に言って用意してもらった救急キットで彼の傷の手当をしながら、シレーヌは言った。
この程度の傷、とは思ったが、軍人はからだが資本だ。ばい菌がはいったら大変だよと彼女が主張したため勝手に手当をさせているが、その手つきには危なげがない。
「馬鹿なことを言うな」
彼はそっぽを向いた。
取り付く島もない声と表情だが、そもそも「そっぽを向く」ことすら、本来の彼はめったにしない。
この妙に世慣れたシレーヌにはお見通しなのだろう。彼女は全く怯む様子もなく、丁寧に、しかしてきぱきと傷の処置をしながら、
「馬鹿じゃないよ。あたし、けっこう何でもできるし先視もできるし。美人だと思うし」
兄さんの元カノほどじゃなくってもさ、としゃあしゃあと彼女は続けた。
「あっちのことも上手いと思うんだよね。あの程度、序の口なんだけど。気持ちよかっただろ?」
「うるさい」
「強がりなさんなって。どれだけため込んでたんだよ、兄さん。……すっごい量だった」
それを言われると一言もない。
彼はしばし沈黙してから、「あれは事故だ」と言った。
素直じゃないよね、また女に逃げられるよと情け容赦なくシレーヌは言い、なんだとと気色ばむ彼の両手を取った。
ふざけた表情が一瞬で掻き消えて、思わず彼も次の言葉を飲み込んで彼女を見返す。
「頼むよ。お願いします。……連れてってほしい」
「理由は」
短く、問い返す。
彼女の声の中にある真実の響きは、百戦錬磨の彼にはすぐにわかったから。
「昨日のことか?」
「そう。……あいつら、ヤバイんだ。今までも似たようなことがあったけど、今回は特に」
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まずいとわかったからしつこく断わったのに、切羽詰まっているのか強引に拉致されそうになっているのだと。
「あたしの力を自分たちのためだけに使わせようって魂胆らしいけど」
気持ちが乗らなきゃ何も視えない、せいぜい顔相くらいしかできないのに、やつらは言っても聞かないんだとシレーヌは続けた。
「頼むよ。あたしはこの街が好きだけど、そうも言ってられないんだ」
「……なぜそんなことを俺に頼む?ここはお前の縄張りだろうに」
彼は握られたままの手を、彼にしては穏やかに、そっと外させた。
そして身をかがめ、射るような視線で女を捉え、問いかける。
「他に頼る奴は?そもそもお前、身寄りは?」
「頼る奴なんていない。ていうか、そいつが組織の一員になっちまってるんだから始末に負えない」
シレーヌは鼻にしわを寄せた。
「懐柔されたらしくってさ。……で、親はいないよ。母さんは四年前かな。あたしを置いて男とどっかへ行った」
「……」
子にとっては迷惑かつ悲惨なことだが、世界中、珍しくもない話だ。
「たぶんすぐ死んだんだと思うよ。いなくなってすぐ、先視の力があたしに移ったから」
悲惨どころではない話になってきたが、シレーヌは顔色一つ変えない。
「母さんも祖母ちゃんももっと前の祖母ちゃんも。ひとりずつ、ずっとこの力をもらってきたんだって。女だけが持つんだって。女はかよわくて身を守るすべを持たないから神様が与えてくれた力なんだよって」
今はそれを目当てにつけ狙われているのだから。
その力、いいのか悪いのか知れたもんじゃないなと彼は思ったが、内心に留めて耳だけを傾ける。
「兄さん、外国の、それも軍人さんだよね?あたしを連れてここを出ることくらい出来るだろ?」
ほんの少しだけ憐憫の色を湛えた暗緑色の瞳を、シレーヌはどう読み取ったのか。
人を食ったような様子はもう微塵もない。
シレーヌは手当を終えた手首を、もう一度とった。
真剣で必死なのに、無意識に彼をいたわるような、優しい手つきで。
初めて見るような目で、彼はとられた手と、そこから視線を滑らせて彼女を交互に見つめる。
「あんたのために先視をするよ。お金だってこうみえて結構持ってる。タダでとは言わない、だから」
「……今日、出国するぞ」
気が付けば、彼はそう口走っていた。
瞬間、彼女は目を輝かせる。
まずった、とは思ったが、撤回する気にもならない。ただ、俺も酔狂なことだなと自嘲する。
多くもない荷物をあっという間に取りまとめ、担ぎ上げた。
嬉しいな、ありがとう、言ってみるもんだと、シレーヌはあけっぴろげに喜びを露わにして言う。彼の回りを邪魔にならない程度に、人工衛星のようにくるくる回るその姿を見ながら、彼は聞えよがしに溜息をついた。
「そういえばお前、パスポートは?」
「あるよ。偽造だけど」
「……それはあるとは言わない」
眩暈がする。なんという女だ。
彼は素早く計算を巡らせた。領事館に、無理を通せる者を素早くリストアップする。
「行くぞ」
「了解!」
「荷物があっても取りに戻ってはやれんぞ」
「わかってる。戻ったらヤバイからね」
きしきしと板張りの階段を踏みしめながら階下へ降り、善良な老夫婦に清算を済ませると、彼らは揃って宿を出た。
潮の匂いがする、清新な夜明けの空気。
まだ薄暗いうちにとりあえず領事館へ、と歩を進めていると、身長差だろう、ともすれば彼女が遅れがちになる。
無言で速度を落としてやると、シレーヌは「有難う」と言った。
かなり悲惨な境遇で育ったと踏んでいたが、彼女は天真爛漫、口は悪いもののされたことに対してきちんと礼を口にする。図々しいようでいて、本当に不快にさせる一線は越えない、というか。
当然、悪い気はしない。
……礼、と言えば。リヴェアはものすごく律儀だったなと、うっかり彼は思い出してしまい、そんな自分に腹を立てて眉をひそめた。
隣でシレーヌがくすりとちいさく笑う。
見透かされたように感じて無言で睨んでやると、シレーヌは「怖いよ、色男が台無しだ」と言って彼の腕に取りすがった。
なんとなく、彼は振り払わなかった。
「ね。あたしたち、どんなふうに見えるかな?」
「知るか」
「兄さんの彼女か、奥さんだと思われるよね、きっと」
「ガキが生意気を言うな」
「そのガキで抜いたくせに」
「お前、……!」
事故だと言ったろう、という声に力はない。
──昨日まではリヴェアを探して気狂いのようになっていた。
そんな自分が、今はへらず口をたたく妙な女を連れて、この街を、この国を出ようとしている。
決してあきらめたわけじゃない、と、彼はひとりごちる。
リヴェアを愛していた。今だって、愛している。何を、どんな光景を見せられようとも。
こんなに愛していたとは。気づくのが、遅すぎた。
もしもまた会えたら。
その時は間違えないのに。
──黙り込んだ彼の横顔を、シレーヌはそっと横目で見やる。
もう遅いのに、と、絶対に彼には聞こえない声で、シレーヌは呟く。
あたしがいるよ、あたしを見て。と、唇だけを動かして、彼女は付け加えた。
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