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願われずとも(リウト)1
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リウトは、手のひらから伝わる熱に痺れた。
ずっと騎士の仮面を被り、理性的な良き夫としての顔をシャルフィには見せてきた。
けれど、意識すらしていない自分のにおいを偽り続けることは難しい。現にリウトは身だしなみは整えていたが、シャルフィの敏感な嗅覚を慮って香水はつけないようにしていた。
だからリウトのにおいは、リウトそのもの。
シャルフィの言葉は、リウトそのものが好きだと、ドキドキすると言っているように聞こえた。いや、シャルフィ自身は無意識かもしれないが、はっきりそう言っているのだ。
そう思うと、胸の音が早まった。
もちろん、喜ばしい。じわりと滲む幸福感。
だが同時に、恥ずかしくなった。
年長者だから、守る側だからと言いながら、無駄に格好を付けていた自分に気がついたからだ。
何が年長者か。恋をしたことを衒いなく認め、見せることができるシャルフィのほうが、よほど成熟している。何が守るだ。自分の心を守るために逃げ続ける夫を、果敢に捕まえに来る逞しさまで持つ女性相手に。
シャルフィに、強烈に吸い寄せられる。
心のままに生きてもらいたいという尊崇と奉仕の念だとか、大切に慈しみたいと思う庇護欲だとか、自分こそが彼女の唯一の理解者であるという自負と独占の心だとか、それから、わずかな罪悪感を伴うどろりとした情欲もすべて、リウトは自らシャルフィに捧げていると信じていたけれど。
違う。リウトの意志など嵐の中の草舟のようなものなのだ。シャルフィはいつでも、リウトのすべてをいとも容易く攫っていく。
いつの間にかリウトが傍にいなくても平気そうな顔をしているのを見て、幾度腹立ちを覚えたことか。それでもこうして自ら捕まえに来てくれて、どれほど安堵したことか。
騎士としても夫としても、男としても、目を覆いたくなる愚かな他愛なさだ。さすがに平静ではいられない。
だが、どれほど狼狽え口惜しくとも、シャルフィの手が草舟を掬い上げるなら、それに勝る幸せはないと思ってしまうのだ。
わかっていたことだが、やはり完敗だ。
手放せない。いや、失えない。去られたくない。
すでに夫婦であろうが、想い合っていようが、安心できない。
リウトは、酩酊しているような状態で、それでもどこか冷静に切り替えた。
求められれば、自分の心が死のうとも願いを叶えようと思っていたが。むしろシャルフィの夫でいるために、自ら心を殺してでも願いを叶えてみせようと。
だが一つだけ、切に願っておきたいことがある。
すべては彼女の心のままとなるのは決まっていることだが、どうしても。
「シャルフィ、約束して欲しい」
「私にできることなら」
「口先だけでもいい。だが、守る努力はして欲しい」
「……なに?」
押しつけるような切り出しになったが、シャルフィは紅茶色の目を瞬くと、落ち着いて耳を傾けてくれた。
「無事で。無事でいてほしい」
母は妹の妊娠で弱り、産褥で深い傷を負い、その後長く苦しみ続けた挙げ句に死んだから。さらりと言おうとして、リウトは声を失った。
リウトが十になるかならないかの歳だった。
お産が始まったと母以外の家族が揃った食卓で知らされて、その後夜半に身の毛のよだつような叫びが長く屋敷に響いたのが、リウトの悪夢の始まりだった。
だが思えば、弟を産んだときから母は線が細くなっていたのに、家族の誰も気に留めていなかった。また妹か弟が増えると父に聞いて、そうかと思っていただけだ。弟の時と違って、あまりお腹が大きくないなと思ったのは母が痩せすぎていたからだ。
大量の血を失い、母は産褥から起き上がれなくなった。こけた頬、かさついた肌、血の気のない顔からだ。
何が悪いのか、どうすれば母が救われるのか、産婆はわからないと言いながら男の医師の診察を撥ね付けた。リウトは少年の身ながら、医務院に出向いて書物をあさり、出産経験のある使用人に尋ね回り、必死に母体のことを学んで支えようとしたが。
とても叶わなかった。
産褥の血で汚れていると、男性は立ち入りを禁じられ、父も兄も見舞いに来れない暗い部屋。弟は死のにおいを恐れて怯え、リウトは一人、困った顔をする使用人たちを子供だから許されるはずだと押し退けて見舞いに通った。そしてそのまま、家族で一人母を看取ったのだ。
股から止まらぬ血を流し、使用人が当て布の交換に触れるだけで痛がり泣くほどの陰部の爛れと腹の痛みに苦しむ母。高熱で朦朧とする時以外は、ずっと呻き続け、歯ぎしりをし、顔貌も変わってしまった母。ずっと、最後に産んだはずの赤子のことを尋ね続けた母。
神に幾度祈っても、母はひと月苦しみ続け、やがて苦しむ力も失い、枯れ木のようになって死んでしまった。
神など、いるものか。
それが、リウトを神に仕えて生きるしかない生家から出奔させた絶望だ。
その先でこうしてシャルフィと出会い、今また、暗く恐ろしい喪失の予感に震えているのは、神の下した罰だろうか。
大切なものが抗えない力で奪われるのは、震えるほどに恐ろしい。
恐ろしいのだと、易々と口にできないほどに。
ずっと騎士の仮面を被り、理性的な良き夫としての顔をシャルフィには見せてきた。
けれど、意識すらしていない自分のにおいを偽り続けることは難しい。現にリウトは身だしなみは整えていたが、シャルフィの敏感な嗅覚を慮って香水はつけないようにしていた。
だからリウトのにおいは、リウトそのもの。
シャルフィの言葉は、リウトそのものが好きだと、ドキドキすると言っているように聞こえた。いや、シャルフィ自身は無意識かもしれないが、はっきりそう言っているのだ。
そう思うと、胸の音が早まった。
もちろん、喜ばしい。じわりと滲む幸福感。
だが同時に、恥ずかしくなった。
年長者だから、守る側だからと言いながら、無駄に格好を付けていた自分に気がついたからだ。
何が年長者か。恋をしたことを衒いなく認め、見せることができるシャルフィのほうが、よほど成熟している。何が守るだ。自分の心を守るために逃げ続ける夫を、果敢に捕まえに来る逞しさまで持つ女性相手に。
シャルフィに、強烈に吸い寄せられる。
心のままに生きてもらいたいという尊崇と奉仕の念だとか、大切に慈しみたいと思う庇護欲だとか、自分こそが彼女の唯一の理解者であるという自負と独占の心だとか、それから、わずかな罪悪感を伴うどろりとした情欲もすべて、リウトは自らシャルフィに捧げていると信じていたけれど。
違う。リウトの意志など嵐の中の草舟のようなものなのだ。シャルフィはいつでも、リウトのすべてをいとも容易く攫っていく。
いつの間にかリウトが傍にいなくても平気そうな顔をしているのを見て、幾度腹立ちを覚えたことか。それでもこうして自ら捕まえに来てくれて、どれほど安堵したことか。
騎士としても夫としても、男としても、目を覆いたくなる愚かな他愛なさだ。さすがに平静ではいられない。
だが、どれほど狼狽え口惜しくとも、シャルフィの手が草舟を掬い上げるなら、それに勝る幸せはないと思ってしまうのだ。
わかっていたことだが、やはり完敗だ。
手放せない。いや、失えない。去られたくない。
すでに夫婦であろうが、想い合っていようが、安心できない。
リウトは、酩酊しているような状態で、それでもどこか冷静に切り替えた。
求められれば、自分の心が死のうとも願いを叶えようと思っていたが。むしろシャルフィの夫でいるために、自ら心を殺してでも願いを叶えてみせようと。
だが一つだけ、切に願っておきたいことがある。
すべては彼女の心のままとなるのは決まっていることだが、どうしても。
「シャルフィ、約束して欲しい」
「私にできることなら」
「口先だけでもいい。だが、守る努力はして欲しい」
「……なに?」
押しつけるような切り出しになったが、シャルフィは紅茶色の目を瞬くと、落ち着いて耳を傾けてくれた。
「無事で。無事でいてほしい」
母は妹の妊娠で弱り、産褥で深い傷を負い、その後長く苦しみ続けた挙げ句に死んだから。さらりと言おうとして、リウトは声を失った。
リウトが十になるかならないかの歳だった。
お産が始まったと母以外の家族が揃った食卓で知らされて、その後夜半に身の毛のよだつような叫びが長く屋敷に響いたのが、リウトの悪夢の始まりだった。
だが思えば、弟を産んだときから母は線が細くなっていたのに、家族の誰も気に留めていなかった。また妹か弟が増えると父に聞いて、そうかと思っていただけだ。弟の時と違って、あまりお腹が大きくないなと思ったのは母が痩せすぎていたからだ。
大量の血を失い、母は産褥から起き上がれなくなった。こけた頬、かさついた肌、血の気のない顔からだ。
何が悪いのか、どうすれば母が救われるのか、産婆はわからないと言いながら男の医師の診察を撥ね付けた。リウトは少年の身ながら、医務院に出向いて書物をあさり、出産経験のある使用人に尋ね回り、必死に母体のことを学んで支えようとしたが。
とても叶わなかった。
産褥の血で汚れていると、男性は立ち入りを禁じられ、父も兄も見舞いに来れない暗い部屋。弟は死のにおいを恐れて怯え、リウトは一人、困った顔をする使用人たちを子供だから許されるはずだと押し退けて見舞いに通った。そしてそのまま、家族で一人母を看取ったのだ。
股から止まらぬ血を流し、使用人が当て布の交換に触れるだけで痛がり泣くほどの陰部の爛れと腹の痛みに苦しむ母。高熱で朦朧とする時以外は、ずっと呻き続け、歯ぎしりをし、顔貌も変わってしまった母。ずっと、最後に産んだはずの赤子のことを尋ね続けた母。
神に幾度祈っても、母はひと月苦しみ続け、やがて苦しむ力も失い、枯れ木のようになって死んでしまった。
神など、いるものか。
それが、リウトを神に仕えて生きるしかない生家から出奔させた絶望だ。
その先でこうしてシャルフィと出会い、今また、暗く恐ろしい喪失の予感に震えているのは、神の下した罰だろうか。
大切なものが抗えない力で奪われるのは、震えるほどに恐ろしい。
恐ろしいのだと、易々と口にできないほどに。
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