上 下
32 / 40

願われずとも(リウト)1

しおりを挟む
 リウトは、手のひらから伝わる熱に痺れた。

 ずっと騎士の仮面を被り、理性的な良き夫としての顔をシャルフィには見せてきた。
 けれど、意識すらしていない自分のにおいを偽り続けることは難しい。現にリウトは身だしなみは整えていたが、シャルフィの敏感な嗅覚を慮って香水はつけないようにしていた。
 だからリウトのにおいは、リウトそのもの。
 シャルフィの言葉は、リウトそのものが好きだと、ドキドキすると言っているように聞こえた。いや、シャルフィ自身は無意識かもしれないが、はっきりそう言っているのだ。
 そう思うと、胸の音が早まった。
 もちろん、喜ばしい。じわりと滲む幸福感。

 だが同時に、恥ずかしくなった。
 年長者だから、守る側だからと言いながら、無駄に格好を付けていた自分に気がついたからだ。
 何が年長者か。恋をしたことを衒いなく認め、見せることができるシャルフィのほうが、よほど成熟している。何が守るだ。自分の心を守るために逃げ続ける夫を、果敢に捕まえに来る逞しさまで持つ女性相手に。

 シャルフィに、強烈に吸い寄せられる。
 心のままに生きてもらいたいという尊崇と奉仕の念だとか、大切に慈しみたいと思う庇護欲だとか、自分こそが彼女の唯一の理解者であるという自負と独占の心だとか、それから、わずかな罪悪感を伴うどろりとした情欲もすべて、リウトは自らシャルフィに捧げていると信じていたけれど。

 違う。リウトの意志など嵐の中の草舟のようなものなのだ。シャルフィはいつでも、リウトのすべてをいとも容易く攫っていく。
 いつの間にかリウトが傍にいなくても平気そうな顔をしているのを見て、幾度腹立ちを覚えたことか。それでもこうして自ら捕まえに来てくれて、どれほど安堵したことか。
 騎士としても夫としても、男としても、目を覆いたくなる愚かな他愛なさだ。さすがに平静ではいられない。
 だが、どれほど狼狽え口惜しくとも、シャルフィの手が草舟リウトを掬い上げるなら、それに勝る幸せはないと思ってしまうのだ。

 わかっていたことだが、やはり完敗だ。
 手放せない。いや、失えない。去られたくない。
 すでに夫婦であろうが、想い合っていようが、安心できない。
 リウトは、酩酊しているような状態で、それでもどこか冷静に切り替えた。
 求められれば、自分の心が死のうとも願いを叶えようと思っていたが。むしろシャルフィの夫でいるために、自ら心を殺してでも願いを叶えてみせようと。


 だが一つだけ、切に願っておきたいことがある。
 すべては彼女の心のままとなるのは決まっていることだが、どうしても。

「シャルフィ、約束して欲しい」
「私にできることなら」
「口先だけでもいい。だが、守る努力はして欲しい」
「……なに?」

 押しつけるような切り出しになったが、シャルフィは紅茶色の目を瞬くと、落ち着いて耳を傾けてくれた。

「無事で。無事でいてほしい」

 母は妹の妊娠で弱り、産褥で深い傷を負い、その後長く苦しみ続けた挙げ句に死んだから。さらりと言おうとして、リウトは声を失った。

 リウトが十になるかならないかの歳だった。
 お産が始まったと母以外の家族が揃った食卓で知らされて、その後夜半に身の毛のよだつような叫びが長く屋敷に響いたのが、リウトの悪夢の始まりだった。
 だが思えば、弟を産んだときから母は線が細くなっていたのに、家族の誰も気に留めていなかった。また妹か弟が増えると父に聞いて、そうかと思っていただけだ。弟の時と違って、あまりお腹が大きくないなと思ったのは母が痩せすぎていたからだ。
 大量の血を失い、母は産褥から起き上がれなくなった。こけた頬、かさついた肌、血の気のない顔からだ。
 何が悪いのか、どうすれば母が救われるのか、産婆はわからないと言いながら男の医師の診察を撥ね付けた。リウトは少年の身ながら、医務院に出向いて書物をあさり、出産経験のある使用人に尋ね回り、必死に母体のことを学んで支えようとしたが。
 とても叶わなかった。
 産褥の血で汚れていると、男性は立ち入りを禁じられ、父も兄も見舞いに来れない暗い部屋。弟は死のにおいを恐れて怯え、リウトは一人、困った顔をする使用人たちを子供だから許されるはずだと押し退けて見舞いに通った。そしてそのまま、家族で一人母を看取ったのだ。

 股から止まらぬ血を流し、使用人が当て布の交換に触れるだけで痛がり泣くほどの陰部の爛れと腹の痛みに苦しむ母。高熱で朦朧とする時以外は、ずっと呻き続け、歯ぎしりをし、顔貌も変わってしまった母。ずっと、最後に産んだはずの赤子のことを尋ね続けた母。
 神に幾度祈っても、母はひと月苦しみ続け、やがて苦しむ力も失い、枯れ木のようになって死んでしまった。
 神など、いるものか。

 それが、リウトを神に仕えて生きるしかない生家から出奔させた絶望だ。
 その先でこうしてシャルフィと出会い、今また、暗く恐ろしい喪失の予感に震えているのは、神の下した罰だろうか。
 大切なものが抗えない力で奪われるのは、震えるほどに恐ろしい。
 恐ろしいのだと、易々と口にできないほどに。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

初恋の呪縛

緑谷めい
恋愛
「エミリ。すまないが、これから暫くの間、俺の同僚のアーダの家に食事を作りに行ってくれないだろうか?」  王国騎士団の騎士である夫デニスにそう頼まれたエミリは、もちろん二つ返事で引き受けた。女性騎士のアーダは夫と同期だと聞いている。半年前にエミリとデニスが結婚した際に結婚パーティーの席で他の同僚達と共にデニスから紹介され、面識もある。  ※ 全6話完結予定

おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。

石河 翠
恋愛
主人公は神託により災厄と呼ばれ、蔑まれてきた。家族もなく、神殿で罪人のように暮らしている。 ある時彼女のもとに、見目麗しい騎士がやってくる。警戒する彼女だったが、彼は傷つき怯えた彼女に救いの手を差し伸べた。 騎士のもとで、子ども時代をやり直すように穏やかに過ごす彼女。やがて彼女は騎士に恋心を抱くようになる。騎士に想いが伝わらなくても、彼女はこの生活に満足していた。 ところが神殿から疎まれた騎士は、戦場の最前線に送られることになる。無事を祈る彼女だったが、騎士の訃報が届いたことにより彼女は絶望する。 力を手に入れた彼女は世界を滅ぼすことを望むが……。 騎士の幸せを願ったヒロインと、ヒロインを心から愛していたヒーローの恋物語。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:25824590)をお借りしています。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

この誓いを違えぬと

豆狸
恋愛
「先ほどの誓いを取り消します。女神様に嘘はつけませんもの。私は愛せません。女神様に誓って、この命ある限りジェイク様を愛することはありません」 ──私は、絶対にこの誓いを違えることはありません。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。 ※7/18大公の過去を追加しました。長くて暗くて救いがありませんが、よろしければお読みください。 なろう様でも公開中です。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

この恋に終止符(ピリオド)を

キムラましゅろう
恋愛
好きだから終わりにする。 好きだからサヨナラだ。 彼の心に彼女がいるのを知っていても、どうしても側にいたくて見て見ぬふりをしてきた。 だけど……そろそろ潮時かな。 彼の大切なあの人がフリーになったのを知り、 わたしはこの恋に終止符(ピリオド)をうつ事を決めた。 重度の誤字脱字病患者の書くお話です。 誤字脱字にぶつかる度にご自身で「こうかな?」と脳内変換して頂く恐れがあります。予めご了承くださいませ。 完全ご都合主義、ノーリアリティノークオリティのお話です。 菩薩の如く広いお心でお読みくださいませ。 そして作者はモトサヤハピエン主義です。 そこのところもご理解頂き、合わないなと思われましたら回れ右をお勧めいたします。 小説家になろうさんでも投稿します。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...