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箱庭の夢
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王都編までのあらすじ
ミリアンネは、幸運をもたらすテラリウム、精霊の箱庭の作り手として、王都では著名な令嬢だった。若き辺境伯クラークと恋に落ち、この度、無事に婚姻式を終え、辺境の領地へと向かったミリアンネ。
しかし、夫クラークは入れ違いで王都へと向かい、式以降一度も顔を合わせないまま、ひと月が過ぎようとしていた。何よりも武を尊ぶ辺境の地では、精霊の箱庭は求められておらず、ミリアンネは賓客扱いのまま。義妹の乳姉妹アメリには、ミリアンネを主君の妻として認められない事情があるらしく、ことあるごとに巧妙に貶めようとしてきたが、母である侍女頭を通じた所業が領主代理である義母マーズに露呈し、その裁定により事態は収束したように見えた。
だが、クラークが準備していたテラリウムの工房が存在することもわかり、義妹ロジエンヌともわずかに打ち解けたころ、アメリが工房から箱庭や材料を盗み出すという暴挙に出た。その悪意に衝撃を受けるミリアンネの元に駆けつけたのは、昔馴染みの赤髪の子爵だった。彼はミリアンネが冷遇されているとの噂を聞きつけて、真偽を確かめに辺境の地を訪れていたのだ。
一方王都では、クラークがミリアンネの父サリンガー侯爵と姉アリアルネ、そして国王の要請に応じ、ミリアンネの箱庭に対する誹謗中傷を過激に煽る一派の探索と殲滅とに奔走していた。過激な犯行に及ぶものは下級貴族や商家にゆかりの者が多く、一見なんの関わりもない者たちを結んだものは、とある小神殿の隠された布教活動だった。異端の信仰をもつ神官たちは、精霊を神の欠片と信じ、それを箱庭に封じるミリアンネを、魔女とまで呼んでいたのだ。
姉アリアルネが貴族間の不穏な噂を打ち消し、クラークは首座と呼ばれる神殿の最高指導者と手を組み、異端の神官たちを一網打尽にしたのだが。すでにその時には、一部の異端者は王都を離れ、ミリアンネと箱庭を狙って辺境へと向かっていたのだった。クラークはすぐさま、一路辺境の地へと駆け戻る。道中、ミリアンネの状況と、アメリの犯行を知ったクラークは、アメリの夫ジェイが預かるアンガスの街へと辿り着き、即座に狼煙を上げさせた。
——叛逆あり。領境を封鎖、各家の代表には即座にエルコートに集まるように。
辺境の都、エルコートにいるミリアンネには、まだその報は、届かない。
*******
「クラーク様がおかえりです!」
階下からの従僕の大声に、ミリアンネは眠りから弾き出されたように立ち上がった。膝から何かが落ちたが、後で拾えばよい。扉を開けて、廊下に出る。かいだんは、どちらだっただろう。
廊下の対面にある大きな鏡に、自分が一瞬だけ映った。
すぐに右に走る。
なぜ、右に出たのだろう。
走りながら、どこかでぼんやりと考えている。
先ほど落としたのは、刺繍途中のシフォンタイだ。クラークの目の色に合わせた、青い布に、金糸で小さな縫い取りをしている。
——でもあれは、もう完成して贈ったはず。
鏡に映ったミリアンネは、濃い髪を全て下ろし、首元の開いたドレスを着ていた。
——婚姻式を済ませてからは、髪は半分以上結い上げ、首まで詰まったドレスを着ていたはず。
廊下は長く、どこまでも続いている。
こんなに急がなくても、先触れさえもらえたなら、玄関でお迎えができたのに。突然訪問されるくせは、直らないわね、と口を尖らせる。
——どれほど走っても、息は乱れない。
初対面の時も、だって、ミリアンネがくつろいでいたティールームに、クラークは突然乱入してきたのだ。社交界では当時人気で話題の人だったのに、残念な方なのね、と思ったのだった。お化粧もしていない姿を見るなど、着替えを覗くのと同じだ。
けれど、その素の顔がお気に召したらしいから、ミリアンネとしては恥ずかしいやら、すこし腹立たしいやら、だ。だって、淑女への求婚の文句としては、よろしくないわよね。だってそれ以降、会う時はいつも目一杯綺麗にしていたのに、見たかったのはそれじゃない、と言っているような。
ミリアンネは可笑しくなってくすくすと笑った。
その求婚の時だって、領地へ帰る途中に、どうしてもと思い立って、馬を飛ばして王都へ戻ってきたのだと、馬から降りたそのままの格好だった。泥だらけで埃だらけで、綺麗な金の髪も砂埃で色が褪せて。なんなら少し、お髭もあったかもしれない。場所も、廊下で。
でも、嬉しかった。
勘違いで拒絶して、気がついた時には失っていた恋が、ひらりと還ってきてくれたようで。
ひらり、と蝶が舞った気がして、横を見た。廊下の両側にずらりと並ぶ、色とりどりの扉のひとつが、少し開いて、青く、黄色く、明滅して光る不思議な翅が、ひらひらとその中から出てきて、すうっと後ろへと滑るように飛んでいった。
いつか作った、箱庭の蝶に似ていた。
クラークと出会った頃は、物心ついてからずっと、取り憑かれたように作り続けていた大作が完成したところだった。毎日続けていたことを、する必要がなくなって。不思議と、思い出しもしなくなって。工房にも、出来上がった箱庭にも、近寄りもしなくなっていたと、あとで聞いた。
きっと、ミリアンネは全てを吐き出しきって、空き箱のようになっていたのだろう。放っておいたら、潰れてしまっていたかもしれない。
クラークの、飾り気のないけれどぐいぐいと真っ直ぐな思いの示し方は、そんなミリアンネのこころの隙間を、ぴったりと埋めてしまったのだ。
——それで、幸せなはずなのに。どうして心に冷たい風が吹いているのだろう。
体はひたすらに前に進もうと足掻いている。
思うように進まない。もっと早く、足を動かさなければ。
焦れば焦るほど、景色は時が止まったように澱む。
そういえば、ここは、どこだろうか。
辺境伯領の屋敷ではない。
王都のサリンガー侯爵邸でもない。
廊下の両側にずらりと並ぶ扉は、いつの間にかすべてが開いていた。通りすがりに隙間をのぞくと、夜闇に馬を走らせるクラークが、美しく装って不敵に笑うルージェが、そして暗い部屋で酒らしきものを手に、だれかと語り合うクラーク……。
どれも、ミリアンネが見たはずのない場面だ。けれど確かに、どこかで見たことのあるような光景だった。
——これは、夢だ。
ようやく、ミリアンネは思い至った。
前触れなく訪れるのは、クラークだけではない。精霊がもたらす夢もまた、ミリアンネの夢を突然訪れる。
これは、精霊の囁きだ。きっと何かを、伝えてくれる。
けれど詳細を見る前に、扉は次々と固く閉ざされていく。その度に、廊下は明るさを失った。
階段に、たどり着かない。
廊下はいつの間にか螺旋のようにうねり、伸びて。
ふと、足がひんやりと冷たいものに触れた気がした。
何気なく下ろした視線が、ドレスに隠れて見えないはずの足首に絡みつく、黒く霞んだ紐のようなものを見た。
目を見開く。助けを求める手を伸ばす。けれどすべてが間に合わず。
ミリアンネは、廊下が立ち上がったかのように、元来た方へとするすると落ちた。落ちる先、廊下の突き当たりには、重たげな扉がひとつ。それが、まるで手招くかのように、大きく口を開いた。
おそろしさに一瞬気を失ったのだろうか。
いつの間にか、ミリアンネはティールームにいた。サリンガー侯爵家のティールームだ。ミリアンネが工作用に占拠して、日中の一番長い時間を過ごしていた場所だ。
慣れ親しんだ空気に、さきほどまで悪夢からは逃れたのだと、ほう、と息をついた。目が覚めて、よかった。
窓の外は薄暗く、雨が降っていた。
ティールームの窓際には、日差しを和らげるために梢が重たくなりにくい種類の木が植わっている。その葉から葉へ、水が伝って落ちる音が、いつものように静かに聞こえている。
そういえば、夢でクラークが来てくれたような。
そうだった。今日は朝から雲が重たく垂れ込めていたので、出かける約束だったのを中止して、このティールームでお茶をしましょうと、朝一番に手紙をやりとりしたのだった。
——婚姻式のために忙しさをかき分けて王都に出てきてくれたクラークと、婚約者として二人で過ごせる時間はこの時が最後で、とても嬉しかったのだ。
……嬉しかった? どうして、過去形なのかと、少し眉を顰める。
ティールームの大きな一角を占めているのは、ガラス天板の大きなテーブルだ。
硝子工芸が発展しているサリンガー侯爵家でもこの一枚しかないほどの、大きな一枚のガラス板。その下の木のテーブルは中心がくり抜かれ、ミリアンネが三人は寝そべることができる広い空間が空いている。
空いている、というと中空のようだが。そうではない。
そこには、ひとつの不思議な街が詰まっている。
風が吹き、水が流れ、笑い声が絶えず、今日という日を過ごしている、小さな世界。それは、それは、大きな箱庭だ。
砂色の四角い箱が背丈を変えていくつも立ち並び、時に段違いに繋がったり、直角に交差したり、迷路のように繋がって、ひときわ高い城壁の中を埋め尽くし、斜めからの光に濃い陰影を抱いている。
四角い屋上では女が色鮮やかな布類を干し、広場の隅、公共の井戸には、数人の女性がたむろしている。子供たちは広場から走り出て、水路にかかる橋まで追いかけっこをしている。
うちの一人が覗き込んでいるのは水路だ。小型の船が行き来するほどの広さ。小舟が橋桁に水飛沫を浴びせている。橋は三色の三角旗で飾られ、猫がそれを構っている。
水路脇にぽつんと置かれた、半ばまで割れた植木鉢からは、にょきにょきと伸びたサボテンという植物。ひとつ、ふたつとてっぺんに咲く黄色い花。その花が挨拶をするように寄りかかるのは、砂色の中で一棟だけ目立つ、真っ白な背の高い建物だ。
壁一面に、装飾のない四角い窓が並んでいる。屋上には、白地に金の蔦と赤い十字の旗。街にとって、おそらく、なくてはならない場所。喜びも悲しみも、等しく包み込むその建物の、ひとつの窓。
ちょんととまった小鳥もまた、白い。
真っ黒な瞳で窓の中を見て、首を傾げ、そしてそっと、咥えていた贈り物を窓辺に落とした——。
ふと瞬くと、目の前には白い四角い部屋があった。何の装飾もなく、柱の出っ張りもなく、材質も不確かな、滑らかな壁と天井、そして床。壮絶な違和感を感じるが、この部屋を、ミリアンネは知っていた。
部屋は白いが、薄暗い。ミリアンネの背後は、じりじりと灼けるほどの熱気なのに、室内の空気は冷えて、重たい。窓ガラスもないのに、どうして空気が混じり合わないのか、考えると、自然を首が傾いだ。よろめくと、両足でちょん、と一歩、室内に入ってしまった。
——私、小鳥だわ。
その時、咳が聞こえて、ミリアンネは室内をもう一度見回した。
部屋には何もないのに、ただ、広く、天井も高い。その真ん中に、ぽつりと寝台が置いてある。子供用の大きさ。けれど、子供らしい模様の掛け布もクッションもぬいぐるみもない。ただの、白い寝台だ。
そこに、こどもがいた。
——こども。こどもは、ミリアンネには覚えがない。
痩せている。乾いた金褐色の髪がふわふわと顔周りを覆って、性別はわからない。苦しそうに肩で息をしながら、こちらを、きっと小鳥を、大きく開いた褐色の目が、きらきらと金を散りばめたように光った。
「いつもありがとう」
こどもが小鳥に話しかけてきた。
「でも、外のものは毒だと、処分されてしまうんだ。だから、もう、来ないで」
なんてか細い声だろう。この子の命が、もう僅かにしか残っていないことが、ミリアンネにもわかってしまった。
でもどうして、この部屋にこの子がいるのだろうか。
この部屋は、私の部屋だと思っていたのに——。
ざああ、と空の高いところが揺れる音がして、風が吹きつけた。
首を捻っていた小鳥は、風に攫われるようにして窓枠を蹴った。
ミリアンネは、幸運をもたらすテラリウム、精霊の箱庭の作り手として、王都では著名な令嬢だった。若き辺境伯クラークと恋に落ち、この度、無事に婚姻式を終え、辺境の領地へと向かったミリアンネ。
しかし、夫クラークは入れ違いで王都へと向かい、式以降一度も顔を合わせないまま、ひと月が過ぎようとしていた。何よりも武を尊ぶ辺境の地では、精霊の箱庭は求められておらず、ミリアンネは賓客扱いのまま。義妹の乳姉妹アメリには、ミリアンネを主君の妻として認められない事情があるらしく、ことあるごとに巧妙に貶めようとしてきたが、母である侍女頭を通じた所業が領主代理である義母マーズに露呈し、その裁定により事態は収束したように見えた。
だが、クラークが準備していたテラリウムの工房が存在することもわかり、義妹ロジエンヌともわずかに打ち解けたころ、アメリが工房から箱庭や材料を盗み出すという暴挙に出た。その悪意に衝撃を受けるミリアンネの元に駆けつけたのは、昔馴染みの赤髪の子爵だった。彼はミリアンネが冷遇されているとの噂を聞きつけて、真偽を確かめに辺境の地を訪れていたのだ。
一方王都では、クラークがミリアンネの父サリンガー侯爵と姉アリアルネ、そして国王の要請に応じ、ミリアンネの箱庭に対する誹謗中傷を過激に煽る一派の探索と殲滅とに奔走していた。過激な犯行に及ぶものは下級貴族や商家にゆかりの者が多く、一見なんの関わりもない者たちを結んだものは、とある小神殿の隠された布教活動だった。異端の信仰をもつ神官たちは、精霊を神の欠片と信じ、それを箱庭に封じるミリアンネを、魔女とまで呼んでいたのだ。
姉アリアルネが貴族間の不穏な噂を打ち消し、クラークは首座と呼ばれる神殿の最高指導者と手を組み、異端の神官たちを一網打尽にしたのだが。すでにその時には、一部の異端者は王都を離れ、ミリアンネと箱庭を狙って辺境へと向かっていたのだった。クラークはすぐさま、一路辺境の地へと駆け戻る。道中、ミリアンネの状況と、アメリの犯行を知ったクラークは、アメリの夫ジェイが預かるアンガスの街へと辿り着き、即座に狼煙を上げさせた。
——叛逆あり。領境を封鎖、各家の代表には即座にエルコートに集まるように。
辺境の都、エルコートにいるミリアンネには、まだその報は、届かない。
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「クラーク様がおかえりです!」
階下からの従僕の大声に、ミリアンネは眠りから弾き出されたように立ち上がった。膝から何かが落ちたが、後で拾えばよい。扉を開けて、廊下に出る。かいだんは、どちらだっただろう。
廊下の対面にある大きな鏡に、自分が一瞬だけ映った。
すぐに右に走る。
なぜ、右に出たのだろう。
走りながら、どこかでぼんやりと考えている。
先ほど落としたのは、刺繍途中のシフォンタイだ。クラークの目の色に合わせた、青い布に、金糸で小さな縫い取りをしている。
——でもあれは、もう完成して贈ったはず。
鏡に映ったミリアンネは、濃い髪を全て下ろし、首元の開いたドレスを着ていた。
——婚姻式を済ませてからは、髪は半分以上結い上げ、首まで詰まったドレスを着ていたはず。
廊下は長く、どこまでも続いている。
こんなに急がなくても、先触れさえもらえたなら、玄関でお迎えができたのに。突然訪問されるくせは、直らないわね、と口を尖らせる。
——どれほど走っても、息は乱れない。
初対面の時も、だって、ミリアンネがくつろいでいたティールームに、クラークは突然乱入してきたのだ。社交界では当時人気で話題の人だったのに、残念な方なのね、と思ったのだった。お化粧もしていない姿を見るなど、着替えを覗くのと同じだ。
けれど、その素の顔がお気に召したらしいから、ミリアンネとしては恥ずかしいやら、すこし腹立たしいやら、だ。だって、淑女への求婚の文句としては、よろしくないわよね。だってそれ以降、会う時はいつも目一杯綺麗にしていたのに、見たかったのはそれじゃない、と言っているような。
ミリアンネは可笑しくなってくすくすと笑った。
その求婚の時だって、領地へ帰る途中に、どうしてもと思い立って、馬を飛ばして王都へ戻ってきたのだと、馬から降りたそのままの格好だった。泥だらけで埃だらけで、綺麗な金の髪も砂埃で色が褪せて。なんなら少し、お髭もあったかもしれない。場所も、廊下で。
でも、嬉しかった。
勘違いで拒絶して、気がついた時には失っていた恋が、ひらりと還ってきてくれたようで。
ひらり、と蝶が舞った気がして、横を見た。廊下の両側にずらりと並ぶ、色とりどりの扉のひとつが、少し開いて、青く、黄色く、明滅して光る不思議な翅が、ひらひらとその中から出てきて、すうっと後ろへと滑るように飛んでいった。
いつか作った、箱庭の蝶に似ていた。
クラークと出会った頃は、物心ついてからずっと、取り憑かれたように作り続けていた大作が完成したところだった。毎日続けていたことを、する必要がなくなって。不思議と、思い出しもしなくなって。工房にも、出来上がった箱庭にも、近寄りもしなくなっていたと、あとで聞いた。
きっと、ミリアンネは全てを吐き出しきって、空き箱のようになっていたのだろう。放っておいたら、潰れてしまっていたかもしれない。
クラークの、飾り気のないけれどぐいぐいと真っ直ぐな思いの示し方は、そんなミリアンネのこころの隙間を、ぴったりと埋めてしまったのだ。
——それで、幸せなはずなのに。どうして心に冷たい風が吹いているのだろう。
体はひたすらに前に進もうと足掻いている。
思うように進まない。もっと早く、足を動かさなければ。
焦れば焦るほど、景色は時が止まったように澱む。
そういえば、ここは、どこだろうか。
辺境伯領の屋敷ではない。
王都のサリンガー侯爵邸でもない。
廊下の両側にずらりと並ぶ扉は、いつの間にかすべてが開いていた。通りすがりに隙間をのぞくと、夜闇に馬を走らせるクラークが、美しく装って不敵に笑うルージェが、そして暗い部屋で酒らしきものを手に、だれかと語り合うクラーク……。
どれも、ミリアンネが見たはずのない場面だ。けれど確かに、どこかで見たことのあるような光景だった。
——これは、夢だ。
ようやく、ミリアンネは思い至った。
前触れなく訪れるのは、クラークだけではない。精霊がもたらす夢もまた、ミリアンネの夢を突然訪れる。
これは、精霊の囁きだ。きっと何かを、伝えてくれる。
けれど詳細を見る前に、扉は次々と固く閉ざされていく。その度に、廊下は明るさを失った。
階段に、たどり着かない。
廊下はいつの間にか螺旋のようにうねり、伸びて。
ふと、足がひんやりと冷たいものに触れた気がした。
何気なく下ろした視線が、ドレスに隠れて見えないはずの足首に絡みつく、黒く霞んだ紐のようなものを見た。
目を見開く。助けを求める手を伸ばす。けれどすべてが間に合わず。
ミリアンネは、廊下が立ち上がったかのように、元来た方へとするすると落ちた。落ちる先、廊下の突き当たりには、重たげな扉がひとつ。それが、まるで手招くかのように、大きく口を開いた。
おそろしさに一瞬気を失ったのだろうか。
いつの間にか、ミリアンネはティールームにいた。サリンガー侯爵家のティールームだ。ミリアンネが工作用に占拠して、日中の一番長い時間を過ごしていた場所だ。
慣れ親しんだ空気に、さきほどまで悪夢からは逃れたのだと、ほう、と息をついた。目が覚めて、よかった。
窓の外は薄暗く、雨が降っていた。
ティールームの窓際には、日差しを和らげるために梢が重たくなりにくい種類の木が植わっている。その葉から葉へ、水が伝って落ちる音が、いつものように静かに聞こえている。
そういえば、夢でクラークが来てくれたような。
そうだった。今日は朝から雲が重たく垂れ込めていたので、出かける約束だったのを中止して、このティールームでお茶をしましょうと、朝一番に手紙をやりとりしたのだった。
——婚姻式のために忙しさをかき分けて王都に出てきてくれたクラークと、婚約者として二人で過ごせる時間はこの時が最後で、とても嬉しかったのだ。
……嬉しかった? どうして、過去形なのかと、少し眉を顰める。
ティールームの大きな一角を占めているのは、ガラス天板の大きなテーブルだ。
硝子工芸が発展しているサリンガー侯爵家でもこの一枚しかないほどの、大きな一枚のガラス板。その下の木のテーブルは中心がくり抜かれ、ミリアンネが三人は寝そべることができる広い空間が空いている。
空いている、というと中空のようだが。そうではない。
そこには、ひとつの不思議な街が詰まっている。
風が吹き、水が流れ、笑い声が絶えず、今日という日を過ごしている、小さな世界。それは、それは、大きな箱庭だ。
砂色の四角い箱が背丈を変えていくつも立ち並び、時に段違いに繋がったり、直角に交差したり、迷路のように繋がって、ひときわ高い城壁の中を埋め尽くし、斜めからの光に濃い陰影を抱いている。
四角い屋上では女が色鮮やかな布類を干し、広場の隅、公共の井戸には、数人の女性がたむろしている。子供たちは広場から走り出て、水路にかかる橋まで追いかけっこをしている。
うちの一人が覗き込んでいるのは水路だ。小型の船が行き来するほどの広さ。小舟が橋桁に水飛沫を浴びせている。橋は三色の三角旗で飾られ、猫がそれを構っている。
水路脇にぽつんと置かれた、半ばまで割れた植木鉢からは、にょきにょきと伸びたサボテンという植物。ひとつ、ふたつとてっぺんに咲く黄色い花。その花が挨拶をするように寄りかかるのは、砂色の中で一棟だけ目立つ、真っ白な背の高い建物だ。
壁一面に、装飾のない四角い窓が並んでいる。屋上には、白地に金の蔦と赤い十字の旗。街にとって、おそらく、なくてはならない場所。喜びも悲しみも、等しく包み込むその建物の、ひとつの窓。
ちょんととまった小鳥もまた、白い。
真っ黒な瞳で窓の中を見て、首を傾げ、そしてそっと、咥えていた贈り物を窓辺に落とした——。
ふと瞬くと、目の前には白い四角い部屋があった。何の装飾もなく、柱の出っ張りもなく、材質も不確かな、滑らかな壁と天井、そして床。壮絶な違和感を感じるが、この部屋を、ミリアンネは知っていた。
部屋は白いが、薄暗い。ミリアンネの背後は、じりじりと灼けるほどの熱気なのに、室内の空気は冷えて、重たい。窓ガラスもないのに、どうして空気が混じり合わないのか、考えると、自然を首が傾いだ。よろめくと、両足でちょん、と一歩、室内に入ってしまった。
——私、小鳥だわ。
その時、咳が聞こえて、ミリアンネは室内をもう一度見回した。
部屋には何もないのに、ただ、広く、天井も高い。その真ん中に、ぽつりと寝台が置いてある。子供用の大きさ。けれど、子供らしい模様の掛け布もクッションもぬいぐるみもない。ただの、白い寝台だ。
そこに、こどもがいた。
——こども。こどもは、ミリアンネには覚えがない。
痩せている。乾いた金褐色の髪がふわふわと顔周りを覆って、性別はわからない。苦しそうに肩で息をしながら、こちらを、きっと小鳥を、大きく開いた褐色の目が、きらきらと金を散りばめたように光った。
「いつもありがとう」
こどもが小鳥に話しかけてきた。
「でも、外のものは毒だと、処分されてしまうんだ。だから、もう、来ないで」
なんてか細い声だろう。この子の命が、もう僅かにしか残っていないことが、ミリアンネにもわかってしまった。
でもどうして、この部屋にこの子がいるのだろうか。
この部屋は、私の部屋だと思っていたのに——。
ざああ、と空の高いところが揺れる音がして、風が吹きつけた。
首を捻っていた小鳥は、風に攫われるようにして窓枠を蹴った。
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いつも楽しく読ませてもらってます!
丁寧な文章と絶妙なもだもだ感が最高です。
王都編が一段落な感じなのでそろそろミリアンネとクラーク様の再会が見られますかね…!(期待)
クラーク様、王都ではお姉様やらゼアやらの存在感に押されて印象が薄れがちですが、
従姉妹夫妻のせいでボロボロなミリアンネを救うヒーロームーヴを華麗にキメてくれると期待して応援してます!
チキ子さま!
いつもありがとうございます😊
再会まで良いもう少し。作者としても焦らされてる感出てきましたが、どうぞもうしばらくお付き合いくださいませー。
おもしろい!
お気に入りに登録しました~
ありがとうございます!