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王都19
しおりを挟む「神官一人でいい。多数の目の前で、異端の信仰心を吐き出させる。それだけで、首座として強硬に取り締まれる。助かりました、クラーク」
ふ、と首座が笑うと、猛獣のあくびを見た心地になる。
今日は修行の場ではなく、首座の応接室での面会となった。
石造の室内は、陰鬱な印象になりがちな灰色の壁が隙間なく精緻な織物に飾られ、床には希少な絢木と金による幾何学模様の寄木細工が敷き詰められている。素朴に見える木の椅子もまた、良い香りのする逸品であろう。
全体的に高雅で繊細な印象の部屋に、武人かと見紛うほどの体格の首座が、なぜかしっくりと馴染んでいた。
明るい場で見る首座は、鮮やかな赤い髪が目を引いた。淡い色の目にはちらちらと光を弾く金の輝きが散るようで、眉は髪よりも薄く、彫りの深い顔立ちと相待って、雄々しい獅子を彷彿とさせる。
「さきほど、リガチェに連座させる形で、彼の弟子は全て制圧せよと指令を出した。彼は、いわば前科があり、監視対象だった、想定していたので、手抜かりはなかろう」
「ノキという神官は、リガチェの弟子ではないのだな?」
「否。ノキという名は、リガチェの弟子として聞いたことはない。けれどノキについても、関係者ごと制圧予定だ。よろしいか?」
先日洞穴で会ったときとは違う、不思議な言葉遣いに聞こえた。心地よく揺れる声が、独特の緩急をつけて響くので、言葉だけ聞けばいささか乱暴な言い切り方でも、おっとりと豊かに聞こえる。
それでもなぜか、主君に対してだけは丁寧な物言いをしている。
「関係するものたちを取り逃がさないのであれば、任せよう。それが早そうだ」
「ここまで協力してもらって、無駄にはしない。わずかでも疑わしい者すべて、確保してみせましょう」
神殿の獅子は、喉を鳴らしそうなほど、ご機嫌の様子だ。
ウルスラ・セジームの協力を取り付けてから、七日間。
セーヴィル家、サリンガー家、双方が、金と手段を惜しまず、本気で噂を広めた。これまでの鬱憤を晴らすかのように。
緑の使徒が起こした市街地での騒ぎについて、箱庭への中傷、貴族夫人への魔女呼ばわりと辺境伯への侮辱を赤裸々に、王都のあらゆる社会・組織にばら撒いた。加えて、サリンガー侯爵家の当主と次期当主が、これまでの穏便な姿勢をかなぐり捨てて、怒りを隠すことなく、所構わず犯人探しをしてみせた。
噂は、独り歩きをする。
例えば今夜、アンダート伯爵家で人々が囁いていた内容は、すでに両家が広めた話とは細部が異なっていた。誇張されたところもあり、歪曲されたところもあり、さらに緑の使徒ではなく、セーヴィル家、サリンガー家を責めるような話も当然にあった。
それは想定された犠牲である。
両家は、噂によって家門の名声が負う傷を気にするより、噂によって徹底して敵を炙り出すことを選んだのだ。
その工作と同時に、両家から近しい貴族家に密かに依頼を出し、神官たちへの接触を徹底して拒否するように手を回した。
セウスが、神殿内に潜ませた糸から聞いた限りでは、市井の噂というものは、神殿内にも苦もなく入り込むらしい。
多くの神官たちは、緑の使徒が何者かを知らず。ただ噂を聞いてきては、箱庭について神殿から公式に意見を表明すべし、だの、精霊という存在について改めて神殿内で問答すべし、だのと、寄ると触るとその話題でもちきりとなり。
騒がしさに慣れない神官たちが過敏になっていたところに、二十ほどもの王都の貴族家が、一斉に神官たちを門前払いにし始めた。
神官たちは、大いに当惑し、右往左往したという。
そこへ、仕上げとして。
首座という神殿の最高位から、一滴だけ、不安の源を垂らした。
貴族家の神官たちへの一斉拒否は、セーヴィル・サリンガー両家の意向であり、両家が、緑の使徒の主張に神殿が関与していると疑いを持っているのではないか、と。
結果、波紋は面白いほどに広がり。
「ここしばらく、神殿内は恐慌状態であった。神を語るには過ぎるほど慎重なものたちが、自分とはよそ事とみなすものを語るには、呆れるほど軽薄で、己の都合の良いように解釈して自慰する様は、まことに面白い見ものであった。
その狂騒に誘われて、常日頃は交流のないはずの神官同士が人目を避けて話し込んだり、異端の信心をつい吐露する者もいたようだ。
いかに日頃にない事態といえど、かのように気を緩めることができるとは。人とは呑気なものと、感心する」
仮にも神殿を率いる存在であるはずの首座の毒舌ぶりに、セウスは思わずのけぞりそうになった。
この首座の代になって、異端への取り締まりはかつてなく厳しいと聞いている。この言い方からすると、異端の神官たちに気を緩めさせたのは、意図的だったのではないか。きっとこのお人は、異端を根絶やしにするために、泳がしていたのだ。
箱庭のことも、たまたま今回、きっかけになったに過ぎないのかもしれない。
そもそも、と首座は歌うように語り始めた。
教典に「精霊」という言葉はなくとも、神殿が成り立つよりも前の世の中では、自然の中に人とは異なる命の宿りがあると信じられていたのだという。土着の、信仰というには未分化な御伽噺のようなもの。神殿はそれを否定もせず、あえての肯定も、関与もせず、ただ元よりあったものとして受容してきたはずだったのだが。
五、六年前、箱庭が幸せをもたらすという噂は、その密やかな信仰の種に光を当てた。
それまで意識していなかった心の拠り所に人々の目が向き、美しくも愛らしい小世界に息づく不可思議な命を認識したと感じ、何者ともしれぬ誰かが「精霊」と名前をつけた。
名付けをした、それは、精霊を信じる心が芽吹いた瞬間と言えよう。
すると、それこそ神殿の成り立ちごろから、か細く受け継がれ続けた「唯一神」思想が、それに反発した。光の足元に闇ができるように、幸せが不幸を浮き彫りにするように、くっきりと敵意を露わにして息を吹き返したのだ。
かの一派は、「神は唯一」と唱えては、否定されてきた。
教典によれば、神は数える事ができない。実体を持ち、一体と数えられる存在は、神殿にとって神ではない。
本来、神官は修行を重ねて神の身元に近づかんと精進するのみ。神はその在り方も御心も計り知れず、ただ縋ることのみ許されているという。唯一の神だの光の神だのと名をつけることは、己にとって都合の良い姿に作り替えようとすることとみなされる。
否定され続けてきた一派だが、このたびは、「精霊を否定すべし」という、一見唯一神思想とは関係のなさそうな仮初の主張を前面に出し、じわじわと神官たちを取り込んできたという。
「唯一神派の主要な一人がリガチェだ。これは昔からわかっていた。
彼の本質は善だが、修行に熱心ではなく、甘言を弄する。教典解釈の論争になれば否定されるので、目的のすり替えをして同調者を集めているのが、その真骨頂である。
神官のほとんどが、修行に全てを捧げるため、人との駆け引きを知らない。リガチェのような口上の上手い者相手には、なすすべもなく取り込まれる者が少なくない」
けれどそのリガチェも、今回は弟子の口上で我が身を滅ぼすことになった。
噂は神殿内にも波及する。
神殿へ影響を及ぼすために、市井に噂を流そうとでもしたのだろう。すると、思ったよりも人々は先鋭化した。いや、あるいは、市井の人間の興味を惹き続けるために、より過激な物言いとなっていったのか。それとも、初めから、人々を煽って箱庭を害させるつもりだったのか……。
そのうねりに巻き込まれるのは、市井の人間ばかりではなかったという事だ。
神への冒涜だと、はっきり言い切ってしまった弟子も、緑の使徒と名乗り、「魔女」と言い放った見習いたちも。リガチェが思うよりも遥かに感情的で、視野が狭かった。
「箱庭の噂を操れると勘違いし、舞い上がったものたちの末路よな。
ははは、二十年前、わざわざ息の根を止めずに置いたものが、こういう結果になるとは。
歴史の保存という意義はあると、隅で細々と命を継ぐのを容認しただけなのだが。生かさず殺さずで、はじめは息も絶え絶えだったのが、十年、二十年と経つと、慣れるものらしい。虫が巣を作るように、そろりそろりと仲間を増やし、こそこそと異端の教えを説く……。
興味深い、とも言えるが、平穏に慣れきり、監視の目も忘れ、神殿の威信を踏み躙る行為に手を染めてもまだ、見逃してもらえると考えている。滑稽そのもの」
セウスは、ふと、首座の目が何の温度も持っていないことに気が付き、ゾッとした。
配下の神官に裏切られた怒りでも、異端を信じ身を滅ぼす神官への哀れみでもなく、かといって、声のように朗らかでもない。
いや、わずかに慈悲、いや好奇の色があるだろうか。
それこそ、虫の生き様を観察するような、無感情な目だ。
もしも。もしも神が目を持つのであれば、それはきっと、こんな目だ。
「相変わらずだな」
主君がそう評すのに、驚いた。二度見しそうにまでなった。
主君は度量が広い。それは美徳として知っていたつもりだが、ここまでとは。いいのだろうか。相変わらず、ということは、昔からこのお人がやべー人だったと、そういうことになるのでは。
だが、今代の首座のお披露目は、十年ほど前だったはずだ。十年前、主君は辺境で、まだ若い身の上で爵位を継ぎ、母君と共に奮闘していた時期。以降ゆっくりと王都に来る余裕もなく、二人に接点があったとは到底思えないのだが。
「そうかな? これでも、人間らしくなった。丸くなったと言うらしい」
「確かに、初対面の人間に誰彼構わず殴りかかったりはしていないな」
「二十年も前の話だ。私は子供だった」
二十年前は、主君も子供だ。
頭の中が疑問符だらけだが、話の腰を折るわけにはいかなかった。
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