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記憶のカケラ 4

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「辺境伯夫人は、昼過ぎにお時間をとってくださるそうです」

 訪いの打診への返事を持ち帰った従者は、満足げに報告をした。非常識な突撃であるにもかかわらず主人がきちんと扱われることは、やはり誇らしさをもたらすものだ。
 部屋はこの町で一番上等の客室である。辺境の地とはいえ、さすがに領主の住まう町。意外なほどに人々は豊かで笑顔に満ち、建物も道も、独自の味わいが随所に見えるものの、清潔で整っている。この宿も、素朴ながら王都の高級宿に引けを取らない質と言っていい。
 朝の光はまだカーテンで遮られ、部屋は薄暗い。その暗がりで、ほんの手のひらぶんの幅の光を浴びて、女は気だるげにキセルをふかしていたが。
 報告を受けて、にやりとした笑みをたたえて振り返った。

「よい子だ。ああ、いや、お前じゃない。ミリアンネのことだ。中のルージェの名前を見て、優先してくれたんだろう」
「別に僕だって、よい子だと褒められて喜んだわけじゃありませんが。——では、まさか夫人はトーリオ・オールレアン子爵の名は、ご存知なかったと?」
「言っていないからな。知る由もない。私が持っているどの爵位の名だって、知らないだろうな。アリアルネがわざわざ教えるとも思えんし」
「ちょ、そんな、見ず知らずの男からの手紙を、夫人が受け付けるかどうか、わからなかったじゃないですか。いや、夫人が知らないと言えば、その手にも渡らないかも。下手したら、追い払われちゃいますよ」

 女は緩く結っただけの淡い色の髪を背に払い、かつん、とキセルの灰を落とした。こみ上げる笑みを、抑えきれないようだ。にやにやと、乳兄弟でもある従者を見やる。差し込む光が、眼鏡の縁にあたって、跳ねた。

「それはそれで面白いな」
「うえええ」
「いいじゃないか。結局、通されたんだから。ミリアンネが冷遇されていると耳にしたが、どうやら、その辺はきちんと扱われているようだな」

 すっくと立ち上がると、葉擦れのような音をさせて、美しいレースを重ねたドレスが揺れた。彼女はおもむろに腕を上げて、額から髪をかきあげ、そのまま鷲掴みにすると、ずるり、と髪を剥いだ。下からはらはらとこぼれたのは、肩につくかつかないかの長さの、赤い髪だ。

「な、何してるんですか」
「着替える。昼過ぎの約束なんだろう?」
「え、そうですけど。え、公務でもないのに、女装、やめるんですか?」

 従者の驚きに、彼女はしばし、黙す。
 そしてやはり、にやりと笑った。

「それはそうだ。あわよくば、あの娘を掻っ攫おうと思っているのに、女装では格好がつかない。さて、男装用の服を用意させていただろう。着替える。手伝え」
「なあに言ってるんですかああああ。攫うなんて、攫うなんて。ここ、領主の膝下ですよ。領主の奥さん攫って、逃げ切るなんてできるはずないでしょう!
 ……馬車じゃ絶望です。馬です。草原の中に森が点々とあったのを見ました。そこをたどって身を隠しながら行くしかないです。王都へ向かっちゃダメですね。一度国を出ましょう。ここと隣国との関係は良好です。そこから、南へ回って、あなたのお祖母様、レディの庇護を求めれば——」
「わかった。冗談だから、もういいよ。お前、私より乗り気なんじゃないか?」

 呆れた声に従者が我に返ると、彼女はすでにドレスを脱ぎ、前開きのコルセットを手早く緩めていた。現れた体は、日に焼けることなく白いが、若々しく張りのある青年のものだ。その顔に化粧が残っていても、もはや女性には見えなかった。
 このままだと、何もかもを自分でしてしまいそうだ。慌てて、手伝いに奔走した。
 高位貴族の屋敷を訪れるのに相応しい装いに身を包み、赤い髪を後ろに流して整える。そして化粧を落とした。ドレスを着て、美しく化粧を仕上げるのにかかる時間に比べて、なんと素早いことか。

「さて、時間がある。まずは敵を知ろうか」

 やっぱり連れて逃げる気満々じゃないですか、と従者が叫ぶのをいなしながら、彼女、もとい彼は、部屋を後にした。
 机の上に残された眼鏡の蔓に、とろりとした縞模様の玉が、物言わず嵌まっていた。

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