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18 たつひと 二

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「喜んでいただいたと伺って、嬉しく思います。おっしゃる通り、手合わせというものを一度も見たことがないので、興味を持てるものかどうかすら、私にはわかりませんが。けれど彼らも、貴重な機会だったと父に報告していたようです。……私としては、それだけで、満足に思っています」
「そうですわよね、手合わせなんて」
「手合わせはそうですが、でも、馬は好きになりました。ーーええ、素敵な黒馬です。ベラは本当に……可愛いですわ」

 アメリの言葉を遠慮なく遮ったからか、ロジエンヌが、目を丸くしてこちらを見ていたが、今は気を配れない。正念場だ。

「……可愛いからといって、全てを世話しようと言うのは、わがままだろう。迷惑を被るのは、周囲なのだから」
「あなたったら、もうおよしになったら?」

 アメリが、何かに気づいたように、また夫の話を遮るが、そうはさせない。

「私も、はじめ、厩の者に、馬糞を搔き出すようにと言われた時は、耳を疑いましたわ。体力もなく、要領も得なくて、随分迷惑をかけたと思います。藁なんか、風で飛んでしまうようなものなのに、塊だとあんなに重たいなんて。馬が、走った後、あんなに蹄に屑を挟んでしまうなんて。それを知る機会なんて、これまでだってなかったので」
「ど、どういうこと? ミリアンネさん、まさか、厩の掃除を……?」
「はい、お義母様。ここ半月ほどで、最後のブラッシングまで、なんとか自分でできるようになりましたが、初めの頃は手も腰も背中も足も、どこもかも痛くて。大変なんですね、馬の世話って」

 カトラリーを置き、そっと両手をテーブルの上に出せば、ひっとロジエンヌが息を飲んだ。
 それもそうだろう。重たいものなど持ったことのない手のひらは柔らかく、弱い。初日に皮がずれて水膨れになり、その痛みに夜眠りから度々覚めたものだ。レーヌが適切に手当てをしてくれて、丈夫な革手袋を用意してくれたものの、あちこちに爛れた跡が残っている。

「ば、馬丁頭を呼びなさい……!」

 常にないマーズの鋭い叫びに、執事が食堂を飛び出て、人を呼びにやったようだ。

「お義母様。おかしいと思いながら、慣習の違いかと安易に受け入れた私も悪いのです。まして、言いつけに従っただけの馬丁たちは、悪くありません。むしろ、私のせいで、通常の作業まで遅れてしまっていたようで、申し訳ないことです」

 察しの良いマーズの顔が、厳しくなった。

「ミリアンネさん、その馬の世話のことも、同じお話なのね?」
「おそらくは、同じ根かと思います」

 間も無く、転げるように食堂に現れた馬丁頭は、青ざめ冷や汗を流して、床に膝をついた。

「トーマ、膝はつかなくてよいわ。教えて欲しいことがあるの」
「は、はい」
「ミリアンネさんに、馬の世話をさせたと聞いて」
「はい。あの、差し出た口を聞いちゃならんとは思いますが、新しい奥様にそんなことさせるなんてとんでもねえと思ったんです。実際、大変な苦労をされていたようで。私ら、手を出しちゃならんと言われていたんですが、ああも毎日、不平を言わずに世話をされるなんて思ってもなくて。1日2日のことだと言われてたのに、どうしたらいいかと、さっぱりわからんで……。それで何度もお尋ねしてましたんで。指示は変わらなかったんで、仕方なかったですが、このごろはブラッシングまでされて、私らも嬉しくて」

 厩ももう寝静まって、馬丁たちも住まいに戻っていた時分だ。少し酒が入っているのだろうか、トーマは、灰色の髪を撫で付け、少し赤い鼻をこすりながら、困った顔と笑い顔とを交互に見せた。

「それで、大奥様。奥様は、もう立派にベラの世話ができるようにおなりです。もう、お世話はご自分でされずとも、よいんではないでしょうか」

 最後に、トーマは胸に手を組んで、眉尻を下げて、そう訴えた。
 訴えられたマーズの方は、虚を突かれた様子だった。

「……。よいわ、言いたいことはわかったわ、トーマ。馬の世話は、ミリアンネさんにさせなくてよい」
「そうですか! そりゃ、よかったです。ーーいえ、邪魔だとかじゃないんです。一生懸命で、随分、仕事も早くなりました。ジミーくらいには、上達されましたとも!」
「ジミーくらいね、短期間でそれは、なかなかね」
「ええ、あいつも、大変なよい刺激を受けたようで、おかげさまでございます。ーー奥様、申し訳ございませんでした」

 ミリアンネに向いて、頭を下げてくる馬丁頭の目は、馬を見るときのように、とても優しい。ほっとして、ミリアンネはにっこりと笑って返した。

「トーマ、今回のこと、誰から指示が来たの? いえ、私も驚いているのだけど、私は、そんな指示は出していないの。だから、どこかでうっかり指示内容が違ってしまったんだわ。それは、解決しておかないといけないのよ」
「そ、そうでしたか。いや、おかしいな、と思いはしたのですが……。私は、侍女頭から、奥様の指示だと伺いました。そうでしたか、間違いでしたか。でも、そのあとも何度も、続けるもんか、って尋ねましたんですが。そしたら、侍女頭もなにかお間違えだったんでしょうかね」

 恐縮し、首をひねりながらも、ほっとした様子を見せて、人の良い馬丁頭は下がっていった。

「侍女頭? アジーナが?」

 ロジエンヌがつぶやいて、ちらちらとアメリを伺った。
 ジェイは、複雑そうな渋い顔をして、黙っている。
 マーズは執事を側に呼び、侍女頭を呼び出すように告げた。

「それともう一つ、確認したいの。グレオール、私は、今日のジェイたちの訪問はもちろん、毎日の屋敷の予定を、ミリアンネさんにも毎朝伝えておくように、と彼女が屋敷につく日に指示をしたわよね」
「——はい」

 すでに察している執事は、項垂れた。

「申し訳ございません。アジーナが、レーヌさんとの打ち合わせに毎朝お部屋に伺う予定だと申し出てきましたので、毎朝、彼女に任せておりました」
「お前の仕事に人を使うことは、問題ありません。ただ、いずれミリアンネさんは領地や屋敷の切り盛りをするようになります。その補佐をするのに、信頼関係は必要ですよ」
「おっしゃる通りです。しかと心得ました」
「では、アジーナに、聞いてみましょう」


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