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暖かな餞別
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─『早起きは三文の徳』と言うのは、先に目覚めた者に全てを選ぶ権利が与えられるからだろう。
心拍が回復し始めると同時に、ポッド内に満たされていた液体がチューブを通ってタンクの中に吸われてく。私はエラ呼吸から肺呼吸に切り替わったせいで、上手く酸素を吸えず、激しくせき込んだ。しばらくすると、呼吸は安定し、心拍数も正常値に回復した。硬直していた全身も解れてきて、指先だけなら握りこめるようになった。液体は完全にポッド内から排出され、一滴も残っていない。私は、病衣のはだけた部分を軽く直して、ゆっくりと上半身を起こした。それと連動するようにポッドのガラス上部が開いた。
滑らないように慎重に濡れた足を大理石の床に下ろした。素足は大理石の冷たさを直に与えて、温かさを私の体から急速に奪っていく。私は身震いした。両手で二の腕を摩りながら、周りを見回した。どこに視線を向けても、同じポッドが目に入った。ポッドとの間隔が人一人分もないために、広い空間では圧迫感を感じる。そんな無数のポッドがある中で、コールドスリープから目覚めた人間は私一人だった。
私は自分の入っていたポッドをまじまじと見た。ポッドは上面のガラス張りは眠っているものの体全体が見られるようになっている。それは中に居ても同じだった。最も、中から外を見ることは殆どいってない。ガラスは水圧に耐えるために強化ガラスが使われている。私は最初、この中が液体で満たされると聞いたとき、エラ呼吸になる旨の説明を受けたがそれでもなにかアクシデントが起こって、肺呼吸になり溺死してしまうのではと何度も不安になった。ポッドの土台は合成チタンで、外側には自分の名前と生年月日、そして眠った順番を表す番号が銅板に彫られている。私の順番は全人口の真ん中あたりで特別早くも遅くもなかった。私の左隣りを覗くと、そこには私の友人である本条《ほんじょう》朔《さく》が眠っていた。彼女の番号は私の番号よりも一つ数字が若い。それは彼女の方が先に眠りについたからだ。そして、順番にいけば彼女の方が先に起きている予定だったのだが、もしかしたら私はほんの少し早く起きてしまったのかもしれない。
右隣には誰が寝ているのだろう。私は自分の後に眠った人のことを知らなかった。好奇心から自分の次に眠った人の顔を拝んでみたくなったのだ。真上から覗いてみると、金髪で右方の眉の真ん中に剃りが入っているが剃られている海パン姿の男が眠っていた。
「あっ」
口元に手を遣って、小さく声を上げる。私はどうか自分の思い違いでありますようにと願いながら恐る恐るポッドの下に打ち付けられている金属プレートを見た。
そこには私が想像していた通りの名前【坂東《ばんどう》 風太郎《ふうたろう》─1109─54970026】と書かれていた。
忘れもしない記憶が無意識に溢れて、冷や汗として流れ落ちた。私は一瞬、呼吸をすることさえ忘れて、震える指先でもう一度彫られている名前の部分だけをなぞった。
「あの坂東だ」
蚊の鳴くような声は無数のポッドたちに吸収されていく。私は何度も何度もうわごとのように呟き、ふらりふらりと体が左右に揺れた。それは一種の夢遊病のようだった。
忘れもしない。高校一年生の春のことだ。夏休み前に私は先輩である三年生のこの男から告白を受けて付き合っていた。人生で初めてのことで浮かれていた。求められることは何でもしたいし、それが快感でもあった。だけど、そんな気持ちに整理が付いたのは、付き合って一か月、路地裏で無理やり体を暴かれてそのまま捨てられたからだ。薄い化粧とどこから洩れているのか分からない液体で肌は乾燥し、泣き崩れる私を置き去りにした坂東は次の日、学校の廊下ですれ違いざま「次は公衆トイレで」と私に耳打ちした。恐怖で青ざめる私に隣にいた朔は背中を撫でて落ち着かせると、坂東の胸ぐらをつかんだ。胸ぐらを掴まれた坂東は女がはむかってくるが面白いとにたにた笑っていた。それにカッとなった朔が彼の頬を打った。もちろん坂東もやり返して、取っ組み合いの喧嘩にまで発展した。その傍らで私は怒鳴り合う二人を見て、泣き叫ぶばかりだった。当時から札付きだった坂東の喧嘩に誰も、止めには入ってこようとはしなかった。しかし、誰かが先生を呼んだらしく、坂東は屈強な体育教師に羽交い絞めにされ、そうしてその時は事なきを得た。だが、話はそれだけでは終わらなかった。坂東は都合の良い私のことを捨てず、別れようという私を殴りながら、自分を殴った女である朔にも手を出していた。朔は当時は何も言わなかったが、私は薄々気付いていた。彼女の腫れた頬を見ながら、自分のことで精一杯だった。
その歪んだ関係に緞帳が降りたのは、坂東が退学させられたからだ。と言うのもこの男が手を出していた女の子は他にもいたらしくそれがようやく警察沙汰にまで発展したらしい。むしろ遅すぎるくらいだろう。
誰かの通報のお陰で坂東が学校を去り、二度と私と朔の前に顔を出さなかった。だけど、私は彼にされたことの詳細を一度も忘れたことはない。
そんな諸悪の根源が今、私の目の前にいる。それも無防備な姿で。
肋骨の辺りから覗くエラから彼が息を吐くたびにポコポコと泡が立った。坂東の命を繋いでいるのはポッドの外側にある、生命維持装置だけだ。少しごちゃついてはいるが、色とりどりの導線が引かれていて、そのどれもがポッド内の坂東の頭に位置にある機械に繋がっている。太いチューブが何本がある。おそらくこれはポッド内の液体を吸い出すものだろう。自分のポッドにも坂東の右隣のポッドにも付いている。
私は、一番手前にあった緑の絶縁体が巻かれた導線に手を伸ばした。少し力を入れただけなのに機械と繋がっている方が緩んだらしい。けたたましい警告音が鳴り響いた。ポッドには赤いランプが明滅し、生命に危険が差し迫っていること知らせている。
私は早鐘を打つ心臓をぎゅっと握りしめながら、緩んでしまった線を指し直し、キョロキョロと周りを見回した。
しばらくしてもそれらしい人は来ず、私は安堵からその場にへたり込んだ。
なにも私はこの男を殺したいわけじゃないんだ。私はただ、反省して欲しいだけだ。謝罪すら必要ない。ただ私と友人の心を蹂躙した彼の、人生の片隅に置かれた記憶が損なわれて欲しいだけだ。
(少し横になろう)
私は結局一人では何も決められなかった。だから目の前の問題をとにかく先延ばしにしようと決めた。せめて、彼女が起きてきて、それからでもまだ遅くないはずだと思った。
私が自分の眠っていたポッドに戻ろうとした時だった。坂東のポッドからごぽごぽとまるで大量の水を排水管に流した時のような音が聞こえた。私は振り返り坂東のポッドを見ると、透明だったチューブに濁った液体が吸われているのが見えた。
私は自分一人で決断しなくてはいけなかった。
もう一度坂東の傍に行き、真上から中を覗き込んだ。先ほどは開いていた肋骨のエラが今、少しずつ閉じてきていた。液体から顔が出せるようになると、胸が微かに上下し始めた。やがて、坂東の目がゆっくりと開かれ、ぼんやりとした焦点のあっていない目が私の姿を捉えた。彼の瞳孔に私の姿が映っても、坂東はまだ私の姿をしっかり認識しているわけではなかった。ただ、近くに何かがいることに安心感を得たのか、眉を下げて、だらしなくへらりと笑った。どこか犬がおやつを強請る姿に似ていた。その皮で泣かせた女は星の数ほどいるんだろう。そう思うと虚しくなった。
その瞬間、指先が私の意志を汲み、私は、緑の線の隣にあった黄色の線を引き抜いた。無意識にも違う色を選んだのは、おそらく同じ轍を踏んでしまう気がしたからだろう。
二又のコンセントがずるりと引き出されてきたが今度は警告音は鳴らなかった。代わりに、今まで順調に抜けていた液体が再びチューブを逆流し始めた。坂東は、とろんとしていた目をカッと見開いて、力強く、ガラスを殴りつけた。何かを大声で必死に叫んでいるが、私にはその様子が餌を求める金魚のようにしか見えなかった。私はそこで一種のトランス状態から戻り、もし、彼の呼吸がまたエラ呼吸に戻ってしまったらどうしようかと怖くなった。そうなれば、私は確実に彼に報復されるだろう。
だけど、一度解凍されて肺呼吸に戻った人間はもう二度とエラ呼吸には戻れないようで、坂東は密室の中で静かに溺れ、ガラスを叩く音も次第に弱弱しくなっていった。やがて完全に聞こえなくなっても恐ろしいことに、坂東はまだかろうじて生きていた。肺に空気が残っているらしかった。私は、そこで、どうせこのまま死んでしまうならと引き抜いた黄色の線を元に戻してみることにした。
すると、チューブからまたポッド内を満たす液体が流れて出ていった。坂東はほとんど意識を失いかけていたが、息を吹き返した。急激な酸素供給に激しくせき込み、肺に入った液体をげーげー吐き出している。そこで私はポッド内を満たす液体が完全に無くならないように調節してまた黄色の線を引き抜いた。そうすると坂東の呼吸が落ち着いたころには、彼の顔の辺りまで液体が戻ってきていた。今度は完全に覚醒しているためにパニックに陥り、必死に上体を起こして、なんとか溺れる時間をしようと粘り始めた。しかし、液体が満杯になっても元の状態に戻るだけだ。私は坂東が意識を手放すギリギリを攻め、線の抜き差しを繰り返した。それは嫌に単調な作業だった。十回を超えた辺りから私の中にあった大きな優越感は萎んでいき、早くこの作業を終わらせたいと思うようになった。同じように坂東の方も疲れてきたのか、抵抗すらしない。液体が無くなれば義務的に肺に溜まったものを吐き出しまた、溺れての繰り返しだった。しかしそんな絶望的な状況でもこの男は液体が抜かれている内はガラスを殴り続けることは止めなかった。
左の方から、ごぽごぽともう聞き慣れた音が聞こえた。私の心は有頂天になった。やっと朔が目覚めるのだ。私は単調な行動で失われた思考が急速に動き出すのを感じ取った。私は黄色の線を抜いて、坂東に勝ち誇った笑みを浮かべた。坂東は叫んだ。もちろん、声は届かないが、それよりもガラスを殴る以外の抵抗を止めていた彼が再び叫ぶ元気を取り戻したのは意外だった。
「おはよう。早起きだね。元気にしてた?」
喉が起きていないらしく掠れた低い声だ。
「おはよう。うん、元気だよ」
朔はあくびをしながら私の真後ろに立った。肩の上から、手元を覗きこんだ。
「坂東……だよね」
「うん」
私はその時には大体どのくらいの時間で液体が排出されるのか、また満杯になるのかを掴んでいた。その感覚では、少しの間くらいなら導線から目を離して、久しぶりに会う友人の顔を見ながら話しをしても大丈夫だった。
「なに、殺すの?」
「ううん。でも、分かる? どうせ死ぬならさ私の苦しみを越えてほしいじゃん」
語尾が震え、自分の口角が不自然に上がったのが分かる。しかし朔はそれに驚くことも過度な否定もしなかった。彼女は歯を見せて笑って、線を握っていない腕に、自分の胸を押し付けて、腕を絡ませた「どこまで、行けると思う?」
朔は導線に手を伸ばした。その時、彼女が一番たわんでいる緑の線を手に取ろうとしたので、思わず大きな声が出た。
「なに? これダメ?」
「うん、変な音鳴って」
朔はふーんと、ぶっきらぼうに言って赤色の導線を掴むと、躊躇することなくそれを引き抜いた。すると、バチっと火花が散って、坂東の体は痙攣を起こした。彼の意志とは関係なく手足が小刻みに震えた。朔はそんな坂東の様子を見て、腹を抱えて笑った。「いい気味だ!」そう吐き捨て、抜いた線を元に戻した。しかし朔が線を戻しても、坂東の体はまだ小さい痙攣を続けていた。
私はその様子見て、朔と同じように体を九十度に折りながら笑っていても、決して自分の線を戻すことは忘れなかった。
「なに、言ってよ」
「ドキドキしたっしょ?」
「した」
私と朔はまた顔を見合わせて笑い、お互いの線を交互に抜きながら、たまには抜く線を交換しながら坂東への思い出を語った。喘鳴を繰り返す、坂東を指差して、ポッド内に聞こえるように大きな声で馬鹿笑いした。私たちは、坂東が何をしてもたとえ同じ反応をしていたとしても面白くて、過呼吸になりながら、彼を水責めにし、電流を与え続けた。ガラスを殴り、時たま叫んでは、私たちがそれを見て笑う。一種のルーティンが出来上がっていた。
ある時、坂東がにやりと笑ったのを見て、私と朔は「えーあいつ笑ってんだけど」「きもーい」とけたけた笑って、また同じように線を入れたのだった。
餞別とは遠く離れる人に贈られる。坂東は、ガラスを渾身の力で叩き割った。
心拍が回復し始めると同時に、ポッド内に満たされていた液体がチューブを通ってタンクの中に吸われてく。私はエラ呼吸から肺呼吸に切り替わったせいで、上手く酸素を吸えず、激しくせき込んだ。しばらくすると、呼吸は安定し、心拍数も正常値に回復した。硬直していた全身も解れてきて、指先だけなら握りこめるようになった。液体は完全にポッド内から排出され、一滴も残っていない。私は、病衣のはだけた部分を軽く直して、ゆっくりと上半身を起こした。それと連動するようにポッドのガラス上部が開いた。
滑らないように慎重に濡れた足を大理石の床に下ろした。素足は大理石の冷たさを直に与えて、温かさを私の体から急速に奪っていく。私は身震いした。両手で二の腕を摩りながら、周りを見回した。どこに視線を向けても、同じポッドが目に入った。ポッドとの間隔が人一人分もないために、広い空間では圧迫感を感じる。そんな無数のポッドがある中で、コールドスリープから目覚めた人間は私一人だった。
私は自分の入っていたポッドをまじまじと見た。ポッドは上面のガラス張りは眠っているものの体全体が見られるようになっている。それは中に居ても同じだった。最も、中から外を見ることは殆どいってない。ガラスは水圧に耐えるために強化ガラスが使われている。私は最初、この中が液体で満たされると聞いたとき、エラ呼吸になる旨の説明を受けたがそれでもなにかアクシデントが起こって、肺呼吸になり溺死してしまうのではと何度も不安になった。ポッドの土台は合成チタンで、外側には自分の名前と生年月日、そして眠った順番を表す番号が銅板に彫られている。私の順番は全人口の真ん中あたりで特別早くも遅くもなかった。私の左隣りを覗くと、そこには私の友人である本条《ほんじょう》朔《さく》が眠っていた。彼女の番号は私の番号よりも一つ数字が若い。それは彼女の方が先に眠りについたからだ。そして、順番にいけば彼女の方が先に起きている予定だったのだが、もしかしたら私はほんの少し早く起きてしまったのかもしれない。
右隣には誰が寝ているのだろう。私は自分の後に眠った人のことを知らなかった。好奇心から自分の次に眠った人の顔を拝んでみたくなったのだ。真上から覗いてみると、金髪で右方の眉の真ん中に剃りが入っているが剃られている海パン姿の男が眠っていた。
「あっ」
口元に手を遣って、小さく声を上げる。私はどうか自分の思い違いでありますようにと願いながら恐る恐るポッドの下に打ち付けられている金属プレートを見た。
そこには私が想像していた通りの名前【坂東《ばんどう》 風太郎《ふうたろう》─1109─54970026】と書かれていた。
忘れもしない記憶が無意識に溢れて、冷や汗として流れ落ちた。私は一瞬、呼吸をすることさえ忘れて、震える指先でもう一度彫られている名前の部分だけをなぞった。
「あの坂東だ」
蚊の鳴くような声は無数のポッドたちに吸収されていく。私は何度も何度もうわごとのように呟き、ふらりふらりと体が左右に揺れた。それは一種の夢遊病のようだった。
忘れもしない。高校一年生の春のことだ。夏休み前に私は先輩である三年生のこの男から告白を受けて付き合っていた。人生で初めてのことで浮かれていた。求められることは何でもしたいし、それが快感でもあった。だけど、そんな気持ちに整理が付いたのは、付き合って一か月、路地裏で無理やり体を暴かれてそのまま捨てられたからだ。薄い化粧とどこから洩れているのか分からない液体で肌は乾燥し、泣き崩れる私を置き去りにした坂東は次の日、学校の廊下ですれ違いざま「次は公衆トイレで」と私に耳打ちした。恐怖で青ざめる私に隣にいた朔は背中を撫でて落ち着かせると、坂東の胸ぐらをつかんだ。胸ぐらを掴まれた坂東は女がはむかってくるが面白いとにたにた笑っていた。それにカッとなった朔が彼の頬を打った。もちろん坂東もやり返して、取っ組み合いの喧嘩にまで発展した。その傍らで私は怒鳴り合う二人を見て、泣き叫ぶばかりだった。当時から札付きだった坂東の喧嘩に誰も、止めには入ってこようとはしなかった。しかし、誰かが先生を呼んだらしく、坂東は屈強な体育教師に羽交い絞めにされ、そうしてその時は事なきを得た。だが、話はそれだけでは終わらなかった。坂東は都合の良い私のことを捨てず、別れようという私を殴りながら、自分を殴った女である朔にも手を出していた。朔は当時は何も言わなかったが、私は薄々気付いていた。彼女の腫れた頬を見ながら、自分のことで精一杯だった。
その歪んだ関係に緞帳が降りたのは、坂東が退学させられたからだ。と言うのもこの男が手を出していた女の子は他にもいたらしくそれがようやく警察沙汰にまで発展したらしい。むしろ遅すぎるくらいだろう。
誰かの通報のお陰で坂東が学校を去り、二度と私と朔の前に顔を出さなかった。だけど、私は彼にされたことの詳細を一度も忘れたことはない。
そんな諸悪の根源が今、私の目の前にいる。それも無防備な姿で。
肋骨の辺りから覗くエラから彼が息を吐くたびにポコポコと泡が立った。坂東の命を繋いでいるのはポッドの外側にある、生命維持装置だけだ。少しごちゃついてはいるが、色とりどりの導線が引かれていて、そのどれもがポッド内の坂東の頭に位置にある機械に繋がっている。太いチューブが何本がある。おそらくこれはポッド内の液体を吸い出すものだろう。自分のポッドにも坂東の右隣のポッドにも付いている。
私は、一番手前にあった緑の絶縁体が巻かれた導線に手を伸ばした。少し力を入れただけなのに機械と繋がっている方が緩んだらしい。けたたましい警告音が鳴り響いた。ポッドには赤いランプが明滅し、生命に危険が差し迫っていること知らせている。
私は早鐘を打つ心臓をぎゅっと握りしめながら、緩んでしまった線を指し直し、キョロキョロと周りを見回した。
しばらくしてもそれらしい人は来ず、私は安堵からその場にへたり込んだ。
なにも私はこの男を殺したいわけじゃないんだ。私はただ、反省して欲しいだけだ。謝罪すら必要ない。ただ私と友人の心を蹂躙した彼の、人生の片隅に置かれた記憶が損なわれて欲しいだけだ。
(少し横になろう)
私は結局一人では何も決められなかった。だから目の前の問題をとにかく先延ばしにしようと決めた。せめて、彼女が起きてきて、それからでもまだ遅くないはずだと思った。
私が自分の眠っていたポッドに戻ろうとした時だった。坂東のポッドからごぽごぽとまるで大量の水を排水管に流した時のような音が聞こえた。私は振り返り坂東のポッドを見ると、透明だったチューブに濁った液体が吸われているのが見えた。
私は自分一人で決断しなくてはいけなかった。
もう一度坂東の傍に行き、真上から中を覗き込んだ。先ほどは開いていた肋骨のエラが今、少しずつ閉じてきていた。液体から顔が出せるようになると、胸が微かに上下し始めた。やがて、坂東の目がゆっくりと開かれ、ぼんやりとした焦点のあっていない目が私の姿を捉えた。彼の瞳孔に私の姿が映っても、坂東はまだ私の姿をしっかり認識しているわけではなかった。ただ、近くに何かがいることに安心感を得たのか、眉を下げて、だらしなくへらりと笑った。どこか犬がおやつを強請る姿に似ていた。その皮で泣かせた女は星の数ほどいるんだろう。そう思うと虚しくなった。
その瞬間、指先が私の意志を汲み、私は、緑の線の隣にあった黄色の線を引き抜いた。無意識にも違う色を選んだのは、おそらく同じ轍を踏んでしまう気がしたからだろう。
二又のコンセントがずるりと引き出されてきたが今度は警告音は鳴らなかった。代わりに、今まで順調に抜けていた液体が再びチューブを逆流し始めた。坂東は、とろんとしていた目をカッと見開いて、力強く、ガラスを殴りつけた。何かを大声で必死に叫んでいるが、私にはその様子が餌を求める金魚のようにしか見えなかった。私はそこで一種のトランス状態から戻り、もし、彼の呼吸がまたエラ呼吸に戻ってしまったらどうしようかと怖くなった。そうなれば、私は確実に彼に報復されるだろう。
だけど、一度解凍されて肺呼吸に戻った人間はもう二度とエラ呼吸には戻れないようで、坂東は密室の中で静かに溺れ、ガラスを叩く音も次第に弱弱しくなっていった。やがて完全に聞こえなくなっても恐ろしいことに、坂東はまだかろうじて生きていた。肺に空気が残っているらしかった。私は、そこで、どうせこのまま死んでしまうならと引き抜いた黄色の線を元に戻してみることにした。
すると、チューブからまたポッド内を満たす液体が流れて出ていった。坂東はほとんど意識を失いかけていたが、息を吹き返した。急激な酸素供給に激しくせき込み、肺に入った液体をげーげー吐き出している。そこで私はポッド内を満たす液体が完全に無くならないように調節してまた黄色の線を引き抜いた。そうすると坂東の呼吸が落ち着いたころには、彼の顔の辺りまで液体が戻ってきていた。今度は完全に覚醒しているためにパニックに陥り、必死に上体を起こして、なんとか溺れる時間をしようと粘り始めた。しかし、液体が満杯になっても元の状態に戻るだけだ。私は坂東が意識を手放すギリギリを攻め、線の抜き差しを繰り返した。それは嫌に単調な作業だった。十回を超えた辺りから私の中にあった大きな優越感は萎んでいき、早くこの作業を終わらせたいと思うようになった。同じように坂東の方も疲れてきたのか、抵抗すらしない。液体が無くなれば義務的に肺に溜まったものを吐き出しまた、溺れての繰り返しだった。しかしそんな絶望的な状況でもこの男は液体が抜かれている内はガラスを殴り続けることは止めなかった。
左の方から、ごぽごぽともう聞き慣れた音が聞こえた。私の心は有頂天になった。やっと朔が目覚めるのだ。私は単調な行動で失われた思考が急速に動き出すのを感じ取った。私は黄色の線を抜いて、坂東に勝ち誇った笑みを浮かべた。坂東は叫んだ。もちろん、声は届かないが、それよりもガラスを殴る以外の抵抗を止めていた彼が再び叫ぶ元気を取り戻したのは意外だった。
「おはよう。早起きだね。元気にしてた?」
喉が起きていないらしく掠れた低い声だ。
「おはよう。うん、元気だよ」
朔はあくびをしながら私の真後ろに立った。肩の上から、手元を覗きこんだ。
「坂東……だよね」
「うん」
私はその時には大体どのくらいの時間で液体が排出されるのか、また満杯になるのかを掴んでいた。その感覚では、少しの間くらいなら導線から目を離して、久しぶりに会う友人の顔を見ながら話しをしても大丈夫だった。
「なに、殺すの?」
「ううん。でも、分かる? どうせ死ぬならさ私の苦しみを越えてほしいじゃん」
語尾が震え、自分の口角が不自然に上がったのが分かる。しかし朔はそれに驚くことも過度な否定もしなかった。彼女は歯を見せて笑って、線を握っていない腕に、自分の胸を押し付けて、腕を絡ませた「どこまで、行けると思う?」
朔は導線に手を伸ばした。その時、彼女が一番たわんでいる緑の線を手に取ろうとしたので、思わず大きな声が出た。
「なに? これダメ?」
「うん、変な音鳴って」
朔はふーんと、ぶっきらぼうに言って赤色の導線を掴むと、躊躇することなくそれを引き抜いた。すると、バチっと火花が散って、坂東の体は痙攣を起こした。彼の意志とは関係なく手足が小刻みに震えた。朔はそんな坂東の様子を見て、腹を抱えて笑った。「いい気味だ!」そう吐き捨て、抜いた線を元に戻した。しかし朔が線を戻しても、坂東の体はまだ小さい痙攣を続けていた。
私はその様子見て、朔と同じように体を九十度に折りながら笑っていても、決して自分の線を戻すことは忘れなかった。
「なに、言ってよ」
「ドキドキしたっしょ?」
「した」
私と朔はまた顔を見合わせて笑い、お互いの線を交互に抜きながら、たまには抜く線を交換しながら坂東への思い出を語った。喘鳴を繰り返す、坂東を指差して、ポッド内に聞こえるように大きな声で馬鹿笑いした。私たちは、坂東が何をしてもたとえ同じ反応をしていたとしても面白くて、過呼吸になりながら、彼を水責めにし、電流を与え続けた。ガラスを殴り、時たま叫んでは、私たちがそれを見て笑う。一種のルーティンが出来上がっていた。
ある時、坂東がにやりと笑ったのを見て、私と朔は「えーあいつ笑ってんだけど」「きもーい」とけたけた笑って、また同じように線を入れたのだった。
餞別とは遠く離れる人に贈られる。坂東は、ガラスを渾身の力で叩き割った。
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