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弐 死の遣い手
《二》黒い痕と少年【後】
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ぼそっと付け足した言葉は、我ながら必要以上の強調句だ。
(嫁だと言っておきながら、私の扱いはまるで『客人』ではないか)
金子と引き換えの嫁には違いないが、契りを交わしたと言いながら、自分たちは未だに『初夜』を迎えてはいない。
(私が年上で気後れしているのか?)
ならば嫁に迎える前に、縁談を断って欲しかった。
同じ女学校に通う友人たちは次々に嫁ぎ先が決まり、百合子も多少のあせりはあったが、結婚とは所詮、家同士の利害関係で成立するもの。
自分の意思などお構い無しに───。
『……百合が嫌なら、それは断るべきだ』
ふいに、誰かの声が百合子のなかでよみがえった。
若い、男の声だ。しかし、その人物の顔も名前も思いだせない。
(いったい誰なんだ───っ……)
自らの記憶を深く探ろうとしたとたん、ズキンと脳内に痛みが走る。
「……百合? 気分でも優れぬのか?」
心配そうにこちらをのぞきこむコクの黒い瞳に、百合子はハッと我に返った。
「いや、なんでもない。それより早く脱げ」
「うわっ……ままま待つのじゃ、百合っ……!」
近づいた少年の着物の合わせをぐいとはだけさせると、悲鳴のような声があがる。
百合子は思わず、ムッと顔をしかめた。
(おおげさな男だな。私を痴女扱いするとはどういう───)
思考が、止まる。
目の前の少年の露わになった素肌に、理解が追いつかなくなってしまった。
二の腕同様、引き締まった肉体美を見せる裸体は、しかしまた、彼の年齢に不つり合いな傷痕が無数にあったのだ。
───まるで、数多の戦場から生還し続けた、兵士のような。
(なぜ、こんなにも傷が……)
歳からして、徴兵されるはずがない。
では彼は、いつどこで、こんな傷を負うような経験をしたのだろう。
「……待てと、言うたのに。百合は利かん気なおなごじゃのう。
不快な思いをさせて、すまなかった。
湯は、頭からかぶる。今日はそれで、赦せ」
先ほどの悲鳴から一転し、静かな声音で告げた少年の手が、百合子を脱衣場から閉め出した。
やんわりとした、明らかな拒絶と共に。
弱い陽の光が、差し込んでいた。
秋の夜長というが、朝はやってくるのだ。
(一睡も、できなかった)
床に就いただけで、百合子は一晩中、寝返りをうっていた。
(私は……なぜ、『ここ』にいる?)
傾きかけた生家を助けるため、人身御供のように地方の旧家に嫁がされたのだと信じていた───夕べまでは。
(いや、そう思いこもうとしていただけだろう)
楽なほうに流され、真実と向き合わずにいたのだ。
本当は心のどこかで気づいていた、コクが自分の『婚約者』ではないと。
(顔も姿も思いだせないだけで、別人なのは感覚的なもので解っていた)
微笑みを浮かべ、「百合」と気安く呼びかけてきた少年。
かつて自分の『婚約者』であった者が、あんな風に自分に対し、親しみを感じさせることなど【なかった】。
……その事実だけは、不思議と百合子の記憶に刻まれていた。
(この『痕』も、いくら思い返しても、いつ付いたものなのかが分からない)
鏡に顔を寄せ、百合子は自らの首筋にある『黒い痕』を指先でなぞった。
まるで、獣が縄張りを主張する時に残す爪痕のような、三本の黒い筋。
こんな『あざ』が昔からあれば、あの体裁を気にする母が自分に何も言わないはずがない。
(私の身に、何かが起こったのだ)
───そして。
(あの『コク』という少年は、何者だ……)
百合子は自らの首を締めるように片手を押し当て、目を閉じた。
───はっきりさせなければ、ならなかった。
(嫁だと言っておきながら、私の扱いはまるで『客人』ではないか)
金子と引き換えの嫁には違いないが、契りを交わしたと言いながら、自分たちは未だに『初夜』を迎えてはいない。
(私が年上で気後れしているのか?)
ならば嫁に迎える前に、縁談を断って欲しかった。
同じ女学校に通う友人たちは次々に嫁ぎ先が決まり、百合子も多少のあせりはあったが、結婚とは所詮、家同士の利害関係で成立するもの。
自分の意思などお構い無しに───。
『……百合が嫌なら、それは断るべきだ』
ふいに、誰かの声が百合子のなかでよみがえった。
若い、男の声だ。しかし、その人物の顔も名前も思いだせない。
(いったい誰なんだ───っ……)
自らの記憶を深く探ろうとしたとたん、ズキンと脳内に痛みが走る。
「……百合? 気分でも優れぬのか?」
心配そうにこちらをのぞきこむコクの黒い瞳に、百合子はハッと我に返った。
「いや、なんでもない。それより早く脱げ」
「うわっ……ままま待つのじゃ、百合っ……!」
近づいた少年の着物の合わせをぐいとはだけさせると、悲鳴のような声があがる。
百合子は思わず、ムッと顔をしかめた。
(おおげさな男だな。私を痴女扱いするとはどういう───)
思考が、止まる。
目の前の少年の露わになった素肌に、理解が追いつかなくなってしまった。
二の腕同様、引き締まった肉体美を見せる裸体は、しかしまた、彼の年齢に不つり合いな傷痕が無数にあったのだ。
───まるで、数多の戦場から生還し続けた、兵士のような。
(なぜ、こんなにも傷が……)
歳からして、徴兵されるはずがない。
では彼は、いつどこで、こんな傷を負うような経験をしたのだろう。
「……待てと、言うたのに。百合は利かん気なおなごじゃのう。
不快な思いをさせて、すまなかった。
湯は、頭からかぶる。今日はそれで、赦せ」
先ほどの悲鳴から一転し、静かな声音で告げた少年の手が、百合子を脱衣場から閉め出した。
やんわりとした、明らかな拒絶と共に。
弱い陽の光が、差し込んでいた。
秋の夜長というが、朝はやってくるのだ。
(一睡も、できなかった)
床に就いただけで、百合子は一晩中、寝返りをうっていた。
(私は……なぜ、『ここ』にいる?)
傾きかけた生家を助けるため、人身御供のように地方の旧家に嫁がされたのだと信じていた───夕べまでは。
(いや、そう思いこもうとしていただけだろう)
楽なほうに流され、真実と向き合わずにいたのだ。
本当は心のどこかで気づいていた、コクが自分の『婚約者』ではないと。
(顔も姿も思いだせないだけで、別人なのは感覚的なもので解っていた)
微笑みを浮かべ、「百合」と気安く呼びかけてきた少年。
かつて自分の『婚約者』であった者が、あんな風に自分に対し、親しみを感じさせることなど【なかった】。
……その事実だけは、不思議と百合子の記憶に刻まれていた。
(この『痕』も、いくら思い返しても、いつ付いたものなのかが分からない)
鏡に顔を寄せ、百合子は自らの首筋にある『黒い痕』を指先でなぞった。
まるで、獣が縄張りを主張する時に残す爪痕のような、三本の黒い筋。
こんな『あざ』が昔からあれば、あの体裁を気にする母が自分に何も言わないはずがない。
(私の身に、何かが起こったのだ)
───そして。
(あの『コク』という少年は、何者だ……)
百合子は自らの首を締めるように片手を押し当て、目を閉じた。
───はっきりさせなければ、ならなかった。
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