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壱 赤い別離

《三》抜け落ちた記憶【前】

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赤い闇。
うごめく人影。
臭気がただよう、邸。

ふわり、ひらり、と。
宙を舞う蝶のように、浮遊する意識。

眼下でなされる凶行になすすべもなく、小百合の魂は、兄が父母たちを殺す様をただ傍観していた。

繰り返される惨劇を───。


       *


目を開けると、黒い影が自分をのぞきこんでいた。

ぼやけた視界のなか、息づかいによって、それが獣なのだと気づかされる。

頭の大きさと形、光る瞳からは、小百合にネコ科の肉食獣を連想させた。

「な……ん、だ……?」

仰向けに寝転がっている自分を、獲物だとでも思っているのだろうか。
鼻づらが、しきりに顔や首筋に寄せられて、くすぐったい。

ああ、と、小百合は気づく。

自分の身を被う血生臭さに、この黒い獣は食欲をそそられているのかもしれない。

「ころ、せ……」

それならば、と、小百合は思う。

兄の凶行を止められず、いとうように突き離すことしかできなかった。そんな自分に、生きる資格などない。

「私を……喰らうがいい……」

ささやく言葉を獣が理解するはずもない。興味を失ったかのように、黒い獣が小百合の側から去っていった。

「は……」

力ない笑いが、口から漏れる。

月明かりが斜めに差し込んできて、小百合の頬を照らしていた。泣きたくなるほどの、優しい光だった。

何もかもから逃れるように目を閉じかけた、瞬間。

小百合のあごから首にかけての辺りに、何かが落ちてきた。軽い、布地のような肌触り。
次いで、熱い衝撃が、首筋に走る───!

「……っ……」
『これで望み通り、人間ひととしてのおぬしは死んだ。
───いまこの瞬間ときから、黒い“神獣”の“花嫁”としての生が、始まる』

それが良いことかどうかは、わしには分からぬ───。

独りごとのようなその声は、痛みと衝撃により意識が遠のいた小百合の脳内で、さびしげに響いたのだった……。


       *


「あっ……お気づきになられましたか?」

鈴を転がすような、可愛らしい声。
あどけない顔立ちの少女が、こちらをのぞきこんでいた。

自分の額から離れていく手を、ぐいとつかみ寄せる。

「ここは……?」

しわがれた声が己のものだと気づくのに遅れるほど、思考速度が落ちている。

少女がおびえた表情を見せるよりも前に、自らの指先のほうが力尽きた。

「っ……こ、コク様と、姫様の、お、お屋敷に、ございますっ……」
「……コク様?」
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