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壱 赤い別離
《一》狂気──ずっと一緒にいよう
しおりを挟む「小百合さん」
張りのなくなった中年女性の声が、呼び止めてきた。
編み上げの長靴を履き終えた少女は、くるりとそちらに向き直る。
「はい」
「今宵は白河様がお越しになられます。ご学友との語らいは、ほどほどになされませ?」
「……承知いたしております、母上」
「『お母様』」
「……お母様」
呼び方を訂正され、内心では嫌気がさしつつも、小百合は表面にはださずに言い直した。
(武家風だろうと公家風だろうと、大差ないだろう)
そもそも、金子に目が眩み、娘を差し出す親が礼節を説こうなど片腹痛い。
「行って参ります」
袴のすそと背の中程まである黒髪をひるがえし、唯一の憩いの場である学舎へと小百合は向かった。
──それが母親と交わす、最後の会話となるとは知らずに。
工藤家は遡れば平安時代末期から続く家柄だと、自慢気に話していた祖父は一昨年、亡くなった。
その頃から抱える小作人の数は減り、邸の使用人も徐々に減り───いまは、七十近い乳母が残るのみだ。
(……もう来ているのか)
敷地内の片隅に、米国製の自動車が止まっていた。
乳母いわく、小百合の未来の旦那様となる白河光安の所有車だ。
「面倒だな」
つぶやきながら、祖父母が愛する欧州建築を模したという、レンガ造りの洋館へと歩を進める。
いつも小百合の帰宅を察し、玄関先で待ち構えているはずの乳母がいない。
不審に思いながらも、小百合は真鍮のドアノブを引き、扉を開けた。
───瞬間。
鼻をついたのは、通常なら嗅ぐことのない臭いだった。
むせかえるような、悪臭。
これは───人体から放出される、体液……主に、血の臭い。
鼻腔が、たちこめる血生臭さに麻痺しつつあり、小百合の思考を停止させる。
ふらり、と、それでも邸内に足を踏み入れるのは、現状把握のためか、習慣のなせるわざか。
廊下を進み行けば、開け放たれた広間の入り口に立つ人物が、目に映った。
「兄上───」
背格好から推測し、安堵の息をつきかけたのどが、締まる。
「お帰り、小百合」
微笑みを浮かべる、海軍士官の白い軍服をまとった、二十歳過ぎの青年。
温厚な人柄で誰にでも好かれていた、いつでも笑顔が似合う兄。
けれども、いまは。
一歩、小百合は後ずさった。
「あに、うえ……? それ、は……───」
皮肉にも、下がったことにより、広間の様子がよく見えるようになってしまう。
地獄絵図、などという陳腐な言い回しが当てはまってしまう光景が、そこにはあった。
父、母、祖母、乳母。
そして、人の形を成さないあれは、この凶行を為した者にとっての『招かれざる客』。
───全員、ぴくりとも動かない。
「小百合。邪魔者はすべて殲滅したよ」
明るい口調と笑みに不釣り合いな、鮮血したたる手斧。刃先にこびりつく、毛髪と肉片。
「これで、僕たちのあいだに障害はなくなった───おいで、小百合」
差し出される、血まみれの手。
幼い頃、あの手に頭をなでられるのが、好きだった。
「……兄上……!」
困惑と、憧憬と。
入り交じる兄への感情に、小百合は力なく首を左右に振る。
何が、彼を、この狂気に走らせたのか。
「どうして逃げるんだい?」
理解できないといわんばかりに、本当に不思議そうに見返してくる、薄茶色の瞳。
───その優秀さのあまり、分家筋から養子として引き取られた、血のつながらない兄。
「もう何も心配しなくていいんだ。ずっと一緒にいよう、小百合」
朱に染まった顔と手が、近づいてくる。
おぞましいと、その時ようやく思考と感情が一致して。
小百合は思いきり、兄を突き飛ばした。
───直後。
白い軍服に、新たな深紅の染みが、広がった。
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