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森樹の里:ビオタリア
66.プロローグ -ビオタリア-
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折角の満月は、たなびく薄雲の毛布をしっかりと被って寝てしまっているらしい。時折、思い出したかのようにほんのりだけ顔を覗かせては、また直ぐに引っ込める。
お陰さまで、視界はここへ訪れた時からずっと暗いまま。ポータルの青い光だけが周囲を薄ぼんやりと照らしている。
ただでさえ、それ以外の明かりなど一切ない森の中。聞こえてくるのも梟と虫の声くらいだ。
「ガイアと昼夜逆転してるとか聞いてねぇし。……いや、俺があんま資料見てなかったのもあるけど」
そもそも、資料が未だに紙ベースなのも悪い。最近新たに見つかった路の先では、情報を仮想空間に置く事で誰しもがアクセスできる"電子ネットワーク"なるものがある世界が見つかったとの話ではないか。
機械を用いて仮想空間にアクセスすることにより、探したいものを指定するだけでそこに記された情報が得られるのだとか。しかも、端末ひとつだけで。
ただ、魔術を全く介さない仕組みのために、なかなか理解に困難を極めているという。
「早くそこらへんの技術をモノにしてさぁ。こう……必要な情報だけパッと探せる形にならねぇモンかな」
ヴェルもディクシアから聞き齧っただけなので詳しくはないが、彼とアステルがいつにも増して熱く語っていたので話だけはよく覚えている。
そんなシステムが導入されれば、わざわざ本部まで行ってあの膨大な資料の山を探して回る必要なんてないのに。
技術を享受するだけの彼にとっては、内務員が解析に苦労していることなど素知らぬ話である。むしろ、そういう面倒な話を聞いていると外務員を選んでよかったとすら思えた。
「に、してもさぁ。先任者って何処にいんだよ」
到着して20分ほどポータル前で待っているが、誰かが来る気配もない。
先任者の用事の関係で、現地のポータル前で合流という事しかヴェルは聞いていなかった。
任務内容も、相手の名前も覚えていない。ただ、合流のための時間だけはピッタリと合うように路を通ってきたはずなのである。
早めに着くよりは家で好きに過ごしていたかったので、そこは間違いないはずだ。
「クロもディクもシリスと一緒なんだろ?で、俺だけ先任とマンツーマン……こんなんマジで不公平だよな」
この人選自体が、リンデンベルグでのグレゴリーに対する態度諸々の結果なのだが───。そんな事は棚に上げてぶちぶちと文句を零す。それがヴェル・シュヴァルツという男である。
やがて、待機時間が半時間を超えるあたりでとうとう彼は座り込んでいた倒木から立ち上がった。
「っあ~!暗い!何もねぇ!ほんとに来るのかよ先任!?」
盛大なぼやき。突然の大声にびっくりした梟が枝を叩く音を立てながら飛んでいく。虫たちは一斉に口をつぐみ、梟の羽音が遠くへ消え去った後には無音しか残らなかった。
唐突に訪れた静寂が虚しさを引き立てる。
ヴェルは煩さすぎるのが嫌いだ。けれど静かすぎるのも嫌いだ。いつもなら誰かしらが側にいて、適度な賑やかさが周りを取り囲んでいたから。
孤独を強く感じさせる1人きりの暗がりはひどく、寂しい。
「……嫌になるな、ったく。ちょっとくらい周り散策してみるか?」
自分に言い聞かせるように呟いて、ポータルに背を向ける。だが、次の瞬間だった。
無音だった夜の森が、ざわめいた。
虫たちが再び唄い始めたのではない。重く、確かな質量が草を押し潰しながら近付いてくるこの音は、紛れもなく足音だ。それも、どこか急いでいるような忙しない足音。
先任者だろうか?すでに遅れているので慌てて走ってきていてもおかしくない。
音はだんだんと近くなり、向かってくる方向までも正確に把握できるようになった。
「う───
わわわわああああああ!!??」
突如、草木を掻き分け眼前に現れた黒いシルエットにヴェルは思わず悲鳴を上げた。
友人たちが見ていたのならば、確実に情けないと揶揄っただろう。しかし今は、幸い誰1人として彼の傍にいない。
「な……なんだよお前、ヒトか……?」
幽鬼かと見紛う姿に、ヴェルの心臓はいまだに早鐘を打っている。しかし幽鬼であるはずがない。なぜなら彼らはもっと白く発光しているはずであるし、そもそも幽鬼など子ども騙しの作り話だ。この歳になってまで、怯えてるとあっては笑われてしまう。
気を取り直して、相手の風貌を再度確認した。
暗闇に滲むような朧げなシルエットは、相手が纏う衣類によるものだ。黒一色に纏め上げられた布が頭から脚までを覆い、肌すら見えない相手は性別どころか種族すら判然としなかった。
それだけでも怪しさを感じてやまないというのに、更にその姿を異様にしている原因は黒い仮面だった。
舞台役者が着けているような黒い面。のっぺりとしたフォルムに、目だけが悲嘆の表情にくり抜かれたそれが顔全体を覆っていた。
誰か居たことに驚いたのか、飛び出してきた相手も動きを止める。ヴェルの呟きに対する答えも返ってくることはなかった。
刹那の沈黙。
「お前、それ───」
それを破ったのは、相手の小脇に抱えられているものに気付いたヴェルだった。
「……守護者───若いな、ガキか」
問うよりも早く、相手が動く。
滑るようにヴェルに肉薄したかと思うと、次の瞬間には微光に照らされた白刃が彼の太腿に向かって振り抜かれた。
「っくそ、いきなり何だよ!?」
瞬きよりも早くヴェルの右手に集まった燐光が実体を伴う。蒼く輝く刀身は繰り出された白刃をすんでのところで弾き、甲高い音を木々の間に響かせた。
防がれたと認識するや、相手はそれ以上深追いすることもなく距離を取った。
衝撃でビリビリと僅かに痺れた手に力を込め直す。容赦がない斬撃だった。少なくとも、ヒトに刃を向けることを躊躇わない相手だ。呟いた声から察するに、男だということだけは分かる。
黒で覆われた男の手には小振りのダガーが逆手に握り込まれている。刃渡りは成人男性の掌よりもやや大きい程度だが、先程の勢いで切り付けられればどうなるかはヴェルにだって分かる。筋の損傷で満足にも動けなくなるだろう。
だが、解せない。
そんな小さな獲物でやり合おうとするのであれば、機動力を削ぐよりもまず的に当てることを優先するべきではないのか?
少なくとも、太腿よりは胴体を狙う方が確実で的も大きい。傷付けた際のダメージだって大きいだろう。
では何故わざわざ敢えて足を狙ったのか。
気になることはまだあるが、今は頭を動かすよりも前にやるべきことがあった。
男がダガーを持つ手と逆側の腕で、年端もいかない子どもを小脇に抱えていた。
明らかにグッタリと動かない様子の子どもは、粗雑に抱えられたままピクリともしない。少し長めの栗毛は顔をほとんど覆い、その表情すら窺うことはできなかった。
男との関係はわからないが、扱いの雑さからすると真っ当なものではないだろう。
忙しない足音は、何処かから逃げている最中だったのか。
どちらにせよ、ヴェルが次にやることは決まっていた。
「"先輩、こっちだ!!"」
男の後方へ向けて、思い切り声を張り上げた。
「な、なに、まさかもう……!?」
驚いた様子の男が慌てて振り返る。
しかし、そこには暗闇が広がるばかりで誰の姿もない。
当たり前だ。
これは、ブラフなのだから。
「ばぁーか」
察した時にはすでに遅い。
男が振り返るより早く、ヴェルはその頭部へ蹴りを喰らわせた。
衝撃に耐えきれず、後方へ吹き飛んだ男の手から、ダガーだけでなく子どもも投げ出される。
「あっぶね」
剣が蒼光になって霧散する。
言葉とは裏腹に、子供は空いたヴェルの両碗に危なげなく受け止められた。
眉根が寄せられた顔に血の気はなく、体は脱力し切っている。だが、微かに上下する肩が彼女がまだ生きている証拠だった。
そう、彼女。
受け止めてようやく分かったが、抱えられていたのは小柄な少女だった。さらに言えばその耳はヴェルと違い、大きくて先が尖っている。
「そういや、エルフが多いんだっけ?ここ」
細かいことは先任者に聞けば良いと思っていたので、資料なんて片手間にしか覗いていない。ただ、愚痴ついでに任務地を零した際にアステルがそんなことを言っていた気がした。
確か、彼の母親の故郷に近いんだったか。
脳内からうろ覚えの情報を引き摺り出し、適当に自己完結する。
この少女が何の種族であろうが関係ない。子どもが酷い目に遭っていいわけではないのだ。
「……ぁ、あ、う」
衝撃で意識を取り戻したのか、少女の目がうっすらと開く。長いまつげに縁取られた緑色の瞳がヴェルを映しているが、その焦点は完全には合っていない。
「いや……くろい、ヒト……こ、わい」
怯えた声音と、震え出す肩。幼い少女のそんな痛々しい様子にヴェルはきゅ、と眉根を寄せた。
「……大丈夫だ、俺がやっつけてやるから」
「だ、れ?」
未だ震える瞳では、ヴェルの輪郭など認識できてはいないだろう。それでも、ポータルの微光に照らされたヴェルの色が恐れる"それ"と違うことだけは理解できたようだ。
「……お月さまのいろ……」
安心したような呟きと共に、少女は再び目を閉じた。
「ぐ……!」
呻きながら男が立ち上がる。
しっかりと蹴りを叩き込んだはずなのに動けるのは、相手がヒトだからと無意識のうちに手加減でもしてしまったのだろう。
しかし、ダメージが軽かったわけではないらしい。その証拠に、男の体はふらついていて不安定だ。蹴られた衝撃かぶつけた衝撃か、顔を覆っていた仮面は半分ほどが砕け、顕になった目元が血走りながらヴェルを睨め上げていた。
「この、ガキが……ぁ!」
「そのガキのブラフに、キレーに引っかかってくれてありがとな?」
男の甘さを揶揄しながら笑ってみせるヴェルに、男の目がさらに吊り上がった。
覚束ない足取りながらも飛びかかる姿勢を見せた男に対してヴェルも身構える。
目的はわからないが、こんな子どもに無体を働くとあっては明らかに碌なものではない。少女と同じ年頃の弟妹を持つ彼としては、到底見過ごせるものではなかった。
「くそッ」
男が最後の足掻きとばかりに駆け出した。
真っ直ぐに向かってくる男に対し、ヴェルは自らの体で少女を隠すように庇う。奪わせるつもりなんて、毛頭ない。
「勘違いするな……!」
男の手が伸ばされる。
「そんなガキより、テメェの方が重要なんだよ!!」
後方に庇われた少女ではなく、ヴェルに向けて真っ直ぐと。
「───は、はぁ!?」
想定外の言葉と行動に、ヴェルの行動は一拍遅れた。
飛びかかられた勢いのまま、体は後方へと倒れて背を強かに打ち付ける。幸い、少女を下敷きにすることはなかった。
男はヴェルに馬乗りになり、彼の口に分厚い布を押し当てる。
粘膜にこびりつく甘い香りと、微かな刺激臭。その奥に混じった薬品臭さが一気に肺を満たす。
視界が急に輪郭を失った。
「う"……んぐ……」
「畜生、ガキ用の量だから効きが悪いのか」
耳に膜が張ったかのように、男の声も遠い。薬だと思われるにおいに、だんだんと頭が霞みがかっていく。
更に強く布が押しつけられ徐々に鈍くなる思考で、このままだと意識を手放すだろうということだけは理解ができた。
「くそ、早く落ちろ……っ!」
「ッう───」
ヴェルは上手く動かせなくなった手で、口を塞ぐ男の腕を握る。震える指が服に食い込むが、腕を引き剥がすほどの力はない。
目元しか見えないはずの男が、勝ち誇った顔を浮かべたのが分かった。
───だからヴェルは、その油断を存分に利用する。
瞼を下ろして全身の力を一気に抜くと、口元にかかる圧力が弛んだ。
「ようやく効いたか……。チビなら秒で落ちるんだがな」
押さえつけられていた布がずれ、わずかに開いた隙間から新鮮な空気が流れ込む。
完全ではないが脳内の霞が晴れる。
再び力を込めるには十分だった。
腹筋に思い切り力を込めて起き上がったヴェルの頭が、腕を押し退けて男の顔面に吸い込まれた。
「あがっ……」
苦悶の声を上げて男が倒れ込む。
ヴェルは力の入りにくい足を叱咤して立ち上がり、再度剣を具現化させた。
蒼光が刹那に鋒を煌めかせ、顔を抑える男に向けられる。
さっきよりさらに砕けた仮面はもはや顔を隠す役割を放棄してしまっていた。全身黒の装いでは夜に溶け込める反面、肌の色は明確な輪郭となって浮かび上がる。
顕になったのはなんの変哲もないような中年の男の顔だった。特筆するのであれば、その顔は鼻血をとめどなく垂れ流している事くらいだろうか。
「テメェ、また騙しやがったな……」
「2回も引っ掛かるなんて素直なんだな。オッサン、誘拐犯とか向いてないんじゃね?」
忌々しげに男が舌打ちした。
ヴェルの出方を窺いながら武器を取り出す様子はない。
持っている武器は先ほどのダガーと、薬品が染みていたと思わしき布だけか。そのどちらとも、今すでに男の手にはなかった。
「観念して喋ってみろよ、オッサン。さっき言ってた俺のが重要って、どういう───」
向けられた問いを聞くこともなく、男は再び駆け出した。
「あっ……てめっ……」
未だ薬の影響か足が重たい。
出遅れたヴェルの目の前で、男は彼や少女に目もくれずひた走った。目指しているのはこの騒動の中でも静かに鎮座している、ポータル。
「おい!ポータル使おうなんざ───!?」
ヴェルの静止も意に介さず、男は光の中へ飛び込んだ。
次の瞬間、ポータルの青い光が波打つように揺らぎ、男の姿はこの場から掻き消える。
「……はぁ……!?」
本日2度目の驚愕。
ポータルは白の世界間を繋ぐ不可視の路の入り口だ。そこを通るには純血守護者の血が必要である。
だからこそ守護者は"白の世界における守護者"なのだ。
例外はあるが、ヒトが単に通ろうとするだけでは、ポータルをすり抜けてしまうのが関の山である。
だというのに、いま男は間違いなくその路へと姿を消した。
「どういう事だよ……」
戻ってきた虫たちの声がやけに大きく鳴り始める中、呆然と呟くヴェルの言葉に返ってくる答えは一切なかった。
お陰さまで、視界はここへ訪れた時からずっと暗いまま。ポータルの青い光だけが周囲を薄ぼんやりと照らしている。
ただでさえ、それ以外の明かりなど一切ない森の中。聞こえてくるのも梟と虫の声くらいだ。
「ガイアと昼夜逆転してるとか聞いてねぇし。……いや、俺があんま資料見てなかったのもあるけど」
そもそも、資料が未だに紙ベースなのも悪い。最近新たに見つかった路の先では、情報を仮想空間に置く事で誰しもがアクセスできる"電子ネットワーク"なるものがある世界が見つかったとの話ではないか。
機械を用いて仮想空間にアクセスすることにより、探したいものを指定するだけでそこに記された情報が得られるのだとか。しかも、端末ひとつだけで。
ただ、魔術を全く介さない仕組みのために、なかなか理解に困難を極めているという。
「早くそこらへんの技術をモノにしてさぁ。こう……必要な情報だけパッと探せる形にならねぇモンかな」
ヴェルもディクシアから聞き齧っただけなので詳しくはないが、彼とアステルがいつにも増して熱く語っていたので話だけはよく覚えている。
そんなシステムが導入されれば、わざわざ本部まで行ってあの膨大な資料の山を探して回る必要なんてないのに。
技術を享受するだけの彼にとっては、内務員が解析に苦労していることなど素知らぬ話である。むしろ、そういう面倒な話を聞いていると外務員を選んでよかったとすら思えた。
「に、してもさぁ。先任者って何処にいんだよ」
到着して20分ほどポータル前で待っているが、誰かが来る気配もない。
先任者の用事の関係で、現地のポータル前で合流という事しかヴェルは聞いていなかった。
任務内容も、相手の名前も覚えていない。ただ、合流のための時間だけはピッタリと合うように路を通ってきたはずなのである。
早めに着くよりは家で好きに過ごしていたかったので、そこは間違いないはずだ。
「クロもディクもシリスと一緒なんだろ?で、俺だけ先任とマンツーマン……こんなんマジで不公平だよな」
この人選自体が、リンデンベルグでのグレゴリーに対する態度諸々の結果なのだが───。そんな事は棚に上げてぶちぶちと文句を零す。それがヴェル・シュヴァルツという男である。
やがて、待機時間が半時間を超えるあたりでとうとう彼は座り込んでいた倒木から立ち上がった。
「っあ~!暗い!何もねぇ!ほんとに来るのかよ先任!?」
盛大なぼやき。突然の大声にびっくりした梟が枝を叩く音を立てながら飛んでいく。虫たちは一斉に口をつぐみ、梟の羽音が遠くへ消え去った後には無音しか残らなかった。
唐突に訪れた静寂が虚しさを引き立てる。
ヴェルは煩さすぎるのが嫌いだ。けれど静かすぎるのも嫌いだ。いつもなら誰かしらが側にいて、適度な賑やかさが周りを取り囲んでいたから。
孤独を強く感じさせる1人きりの暗がりはひどく、寂しい。
「……嫌になるな、ったく。ちょっとくらい周り散策してみるか?」
自分に言い聞かせるように呟いて、ポータルに背を向ける。だが、次の瞬間だった。
無音だった夜の森が、ざわめいた。
虫たちが再び唄い始めたのではない。重く、確かな質量が草を押し潰しながら近付いてくるこの音は、紛れもなく足音だ。それも、どこか急いでいるような忙しない足音。
先任者だろうか?すでに遅れているので慌てて走ってきていてもおかしくない。
音はだんだんと近くなり、向かってくる方向までも正確に把握できるようになった。
「う───
わわわわああああああ!!??」
突如、草木を掻き分け眼前に現れた黒いシルエットにヴェルは思わず悲鳴を上げた。
友人たちが見ていたのならば、確実に情けないと揶揄っただろう。しかし今は、幸い誰1人として彼の傍にいない。
「な……なんだよお前、ヒトか……?」
幽鬼かと見紛う姿に、ヴェルの心臓はいまだに早鐘を打っている。しかし幽鬼であるはずがない。なぜなら彼らはもっと白く発光しているはずであるし、そもそも幽鬼など子ども騙しの作り話だ。この歳になってまで、怯えてるとあっては笑われてしまう。
気を取り直して、相手の風貌を再度確認した。
暗闇に滲むような朧げなシルエットは、相手が纏う衣類によるものだ。黒一色に纏め上げられた布が頭から脚までを覆い、肌すら見えない相手は性別どころか種族すら判然としなかった。
それだけでも怪しさを感じてやまないというのに、更にその姿を異様にしている原因は黒い仮面だった。
舞台役者が着けているような黒い面。のっぺりとしたフォルムに、目だけが悲嘆の表情にくり抜かれたそれが顔全体を覆っていた。
誰か居たことに驚いたのか、飛び出してきた相手も動きを止める。ヴェルの呟きに対する答えも返ってくることはなかった。
刹那の沈黙。
「お前、それ───」
それを破ったのは、相手の小脇に抱えられているものに気付いたヴェルだった。
「……守護者───若いな、ガキか」
問うよりも早く、相手が動く。
滑るようにヴェルに肉薄したかと思うと、次の瞬間には微光に照らされた白刃が彼の太腿に向かって振り抜かれた。
「っくそ、いきなり何だよ!?」
瞬きよりも早くヴェルの右手に集まった燐光が実体を伴う。蒼く輝く刀身は繰り出された白刃をすんでのところで弾き、甲高い音を木々の間に響かせた。
防がれたと認識するや、相手はそれ以上深追いすることもなく距離を取った。
衝撃でビリビリと僅かに痺れた手に力を込め直す。容赦がない斬撃だった。少なくとも、ヒトに刃を向けることを躊躇わない相手だ。呟いた声から察するに、男だということだけは分かる。
黒で覆われた男の手には小振りのダガーが逆手に握り込まれている。刃渡りは成人男性の掌よりもやや大きい程度だが、先程の勢いで切り付けられればどうなるかはヴェルにだって分かる。筋の損傷で満足にも動けなくなるだろう。
だが、解せない。
そんな小さな獲物でやり合おうとするのであれば、機動力を削ぐよりもまず的に当てることを優先するべきではないのか?
少なくとも、太腿よりは胴体を狙う方が確実で的も大きい。傷付けた際のダメージだって大きいだろう。
では何故わざわざ敢えて足を狙ったのか。
気になることはまだあるが、今は頭を動かすよりも前にやるべきことがあった。
男がダガーを持つ手と逆側の腕で、年端もいかない子どもを小脇に抱えていた。
明らかにグッタリと動かない様子の子どもは、粗雑に抱えられたままピクリともしない。少し長めの栗毛は顔をほとんど覆い、その表情すら窺うことはできなかった。
男との関係はわからないが、扱いの雑さからすると真っ当なものではないだろう。
忙しない足音は、何処かから逃げている最中だったのか。
どちらにせよ、ヴェルが次にやることは決まっていた。
「"先輩、こっちだ!!"」
男の後方へ向けて、思い切り声を張り上げた。
「な、なに、まさかもう……!?」
驚いた様子の男が慌てて振り返る。
しかし、そこには暗闇が広がるばかりで誰の姿もない。
当たり前だ。
これは、ブラフなのだから。
「ばぁーか」
察した時にはすでに遅い。
男が振り返るより早く、ヴェルはその頭部へ蹴りを喰らわせた。
衝撃に耐えきれず、後方へ吹き飛んだ男の手から、ダガーだけでなく子どもも投げ出される。
「あっぶね」
剣が蒼光になって霧散する。
言葉とは裏腹に、子供は空いたヴェルの両碗に危なげなく受け止められた。
眉根が寄せられた顔に血の気はなく、体は脱力し切っている。だが、微かに上下する肩が彼女がまだ生きている証拠だった。
そう、彼女。
受け止めてようやく分かったが、抱えられていたのは小柄な少女だった。さらに言えばその耳はヴェルと違い、大きくて先が尖っている。
「そういや、エルフが多いんだっけ?ここ」
細かいことは先任者に聞けば良いと思っていたので、資料なんて片手間にしか覗いていない。ただ、愚痴ついでに任務地を零した際にアステルがそんなことを言っていた気がした。
確か、彼の母親の故郷に近いんだったか。
脳内からうろ覚えの情報を引き摺り出し、適当に自己完結する。
この少女が何の種族であろうが関係ない。子どもが酷い目に遭っていいわけではないのだ。
「……ぁ、あ、う」
衝撃で意識を取り戻したのか、少女の目がうっすらと開く。長いまつげに縁取られた緑色の瞳がヴェルを映しているが、その焦点は完全には合っていない。
「いや……くろい、ヒト……こ、わい」
怯えた声音と、震え出す肩。幼い少女のそんな痛々しい様子にヴェルはきゅ、と眉根を寄せた。
「……大丈夫だ、俺がやっつけてやるから」
「だ、れ?」
未だ震える瞳では、ヴェルの輪郭など認識できてはいないだろう。それでも、ポータルの微光に照らされたヴェルの色が恐れる"それ"と違うことだけは理解できたようだ。
「……お月さまのいろ……」
安心したような呟きと共に、少女は再び目を閉じた。
「ぐ……!」
呻きながら男が立ち上がる。
しっかりと蹴りを叩き込んだはずなのに動けるのは、相手がヒトだからと無意識のうちに手加減でもしてしまったのだろう。
しかし、ダメージが軽かったわけではないらしい。その証拠に、男の体はふらついていて不安定だ。蹴られた衝撃かぶつけた衝撃か、顔を覆っていた仮面は半分ほどが砕け、顕になった目元が血走りながらヴェルを睨め上げていた。
「この、ガキが……ぁ!」
「そのガキのブラフに、キレーに引っかかってくれてありがとな?」
男の甘さを揶揄しながら笑ってみせるヴェルに、男の目がさらに吊り上がった。
覚束ない足取りながらも飛びかかる姿勢を見せた男に対してヴェルも身構える。
目的はわからないが、こんな子どもに無体を働くとあっては明らかに碌なものではない。少女と同じ年頃の弟妹を持つ彼としては、到底見過ごせるものではなかった。
「くそッ」
男が最後の足掻きとばかりに駆け出した。
真っ直ぐに向かってくる男に対し、ヴェルは自らの体で少女を隠すように庇う。奪わせるつもりなんて、毛頭ない。
「勘違いするな……!」
男の手が伸ばされる。
「そんなガキより、テメェの方が重要なんだよ!!」
後方に庇われた少女ではなく、ヴェルに向けて真っ直ぐと。
「───は、はぁ!?」
想定外の言葉と行動に、ヴェルの行動は一拍遅れた。
飛びかかられた勢いのまま、体は後方へと倒れて背を強かに打ち付ける。幸い、少女を下敷きにすることはなかった。
男はヴェルに馬乗りになり、彼の口に分厚い布を押し当てる。
粘膜にこびりつく甘い香りと、微かな刺激臭。その奥に混じった薬品臭さが一気に肺を満たす。
視界が急に輪郭を失った。
「う"……んぐ……」
「畜生、ガキ用の量だから効きが悪いのか」
耳に膜が張ったかのように、男の声も遠い。薬だと思われるにおいに、だんだんと頭が霞みがかっていく。
更に強く布が押しつけられ徐々に鈍くなる思考で、このままだと意識を手放すだろうということだけは理解ができた。
「くそ、早く落ちろ……っ!」
「ッう───」
ヴェルは上手く動かせなくなった手で、口を塞ぐ男の腕を握る。震える指が服に食い込むが、腕を引き剥がすほどの力はない。
目元しか見えないはずの男が、勝ち誇った顔を浮かべたのが分かった。
───だからヴェルは、その油断を存分に利用する。
瞼を下ろして全身の力を一気に抜くと、口元にかかる圧力が弛んだ。
「ようやく効いたか……。チビなら秒で落ちるんだがな」
押さえつけられていた布がずれ、わずかに開いた隙間から新鮮な空気が流れ込む。
完全ではないが脳内の霞が晴れる。
再び力を込めるには十分だった。
腹筋に思い切り力を込めて起き上がったヴェルの頭が、腕を押し退けて男の顔面に吸い込まれた。
「あがっ……」
苦悶の声を上げて男が倒れ込む。
ヴェルは力の入りにくい足を叱咤して立ち上がり、再度剣を具現化させた。
蒼光が刹那に鋒を煌めかせ、顔を抑える男に向けられる。
さっきよりさらに砕けた仮面はもはや顔を隠す役割を放棄してしまっていた。全身黒の装いでは夜に溶け込める反面、肌の色は明確な輪郭となって浮かび上がる。
顕になったのはなんの変哲もないような中年の男の顔だった。特筆するのであれば、その顔は鼻血をとめどなく垂れ流している事くらいだろうか。
「テメェ、また騙しやがったな……」
「2回も引っ掛かるなんて素直なんだな。オッサン、誘拐犯とか向いてないんじゃね?」
忌々しげに男が舌打ちした。
ヴェルの出方を窺いながら武器を取り出す様子はない。
持っている武器は先ほどのダガーと、薬品が染みていたと思わしき布だけか。そのどちらとも、今すでに男の手にはなかった。
「観念して喋ってみろよ、オッサン。さっき言ってた俺のが重要って、どういう───」
向けられた問いを聞くこともなく、男は再び駆け出した。
「あっ……てめっ……」
未だ薬の影響か足が重たい。
出遅れたヴェルの目の前で、男は彼や少女に目もくれずひた走った。目指しているのはこの騒動の中でも静かに鎮座している、ポータル。
「おい!ポータル使おうなんざ───!?」
ヴェルの静止も意に介さず、男は光の中へ飛び込んだ。
次の瞬間、ポータルの青い光が波打つように揺らぎ、男の姿はこの場から掻き消える。
「……はぁ……!?」
本日2度目の驚愕。
ポータルは白の世界間を繋ぐ不可視の路の入り口だ。そこを通るには純血守護者の血が必要である。
だからこそ守護者は"白の世界における守護者"なのだ。
例外はあるが、ヒトが単に通ろうとするだけでは、ポータルをすり抜けてしまうのが関の山である。
だというのに、いま男は間違いなくその路へと姿を消した。
「どういう事だよ……」
戻ってきた虫たちの声がやけに大きく鳴り始める中、呆然と呟くヴェルの言葉に返ってくる答えは一切なかった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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