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ゆびきりげんまん

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――もう、サッカーは出来ないね。

 病院で医師に告げられた言葉が重くのしかかる。大事なところで、周りに迷惑を掛けたことに自己嫌悪。毎日毎日、ボールを追いかけて走り続けた10年はなんだったのだろうか。

――治療してリハビリすれば、歩いたり、ほんの少し走ったりは出来るよ。でも、スポーツとか激しい運動は無理だ。……わかるね?

 分かりたくない。どんな思いで、スポーツ推薦で今の高校に入ったのか、親も、主治医も、知らないんだ。やっと、夢が叶いそうなところまで来たって言うのに。

――運命は、残酷だ。

:花御新汰(はなみあらた)、15歳。日焼け後と坊主頭がトレードマークのサッカー少年だ。5歳の時、幼稚園で行われたサッカー教室でプロ選手とボール遊びをしたのがきっかけで、サッカーに興味を持った。その年のクリスマスプレゼントにサッカーボールをねだり、サッカー漫画に出てくる主人公のように寝食も肌身離さずボールと一緒に過ごした。地域のサッカーチームで練習しながら、強豪の高校へ進学することを目指して練習に励み、やっとこの春に入学したばかりだった。
 最初の1年生同士の練習試合の日、控えでベンチにいた新汰は、監督の指示で途中からピッチに出た。ポジションはミッドフィルダー。攻守のバランサーは、新汰に合っていた。交代したタイミングで自分のチームが攻め込むところだったので、ゴールの少し後ろまで走った。ボールが高く円を描いて飛んでくる。相手校のディフェンスが駆けてきた。ヘディングをしようと飛んだ新汰と同時に、ディフェンスも飛んだ。ボールは新汰の頭に当たって相手キーパーの両手の間を通り、ネットを揺らした。

(やった……――っ!)

 ゴールを決めて、地面に両足が着いた瞬間だった。ほぼ同時に飛んだ相手校のディフェンスの足が、新汰のふくらはぎにぶつかった。バランスを崩して倒れ込んだ新汰の膝裏に、追い打ちをかけるようにしてシューズのスパイクが刺さった。声も出せないほどの激しい痛みを感じ、新汰はその場から動けなくなった。「新汰!」と呼ぶ監督の声と、誰かが担架を求める声を遠くに聞きながら、新汰は意識を失った。


「……あら、起きた?」
「ん……母さん……?」
「ずいぶんうなされていたわよ。もうすぐ家に着くから、もう寝ないでちょうだいね」
 目が覚めると、母親の運転する車の中だった。入院生活が終わり、退院して帰宅途中だと思い出した。怪我をした時のことを夢に見ていたらしい。とても鮮明で、ついさっきの出来事のように感じた。
「とりあえず普通に過ごせるまでになって良かったじゃない」
「……サッカー出来ないのは、普通じゃないよ」
 新汰の言葉に、母親は口を:噤(つぐ)んだ。確かに、車椅子も杖も無しで歩けるようになったのは嬉しかった。でも、治ればまたサッカーが出来ると信じてリハビリに励み、歩けるようになった頃に主治医から聞かされた言葉は、新汰の心を深く:抉(えぐ)った。
――これからどうすればいいんだろう……。
「ほら、着いたわよ」
 門の前で車が停止し、母親が先に降りた。新汰も後に続き、トランクからカバンを下ろす。
「あら、:縁(えにし)くん」
「こんにちは、お出かけでしたか?」
 隣の家から出てきたのは、:雪代縁(ゆきしろえにし)と言う大学生の男だった。耳にかかるかどうかの長さのボブカットを白く染め、中性的に見せている。母親はこの、上辺だけに笑顔の仮面を貼り付けたような彼を気に入っているらしい。縁の母親と二人合わせて、仲良くしておこうという魂胆が丸見えで、新汰には不快だった。新汰自身は特に縁に対して、何か特別な感情があるわけではないのだが。
「あぁ、新汰くん、退院したんですね。おめでとうございます」
「ありがとうございますー。ほら新汰、ご挨拶は?」
「……こんにちは」
「もうこの子は……ごめんなさいね、縁くん」
「いえ、気にしてませんよ。大変だったのは新汰くんですから」
 縁は首を振り、ポストを覗いて郵便物を取り出した。母親が残りの荷物を家の中に運ぶのを見遣り、縁は新汰に向き直って問うた。
「で、いつになったらウチ来るの?」
「行かないよ」
「どうして?」
「必要ないから」
「僕には必要なんだけどな、キミが」
「またそういうこと言う」
 新汰が苦虫を噛み潰したような顔で言えば、縁は楽しそうにクスクスと笑う。新汰はカバンを抱え直すと、玄関へ上がる。
「僕はいつでも待ってるから」
 ドアが閉まる瞬間、そんな声が聞こえた気がした。

 縁と新汰の出会いは、新汰が5歳だった。ちょうど新汰が幼稚園でサッカーボールに触れた頃、建売住宅が並ぶこの地域に引っ越してきた雪代一家が挨拶に来たのが、初めて顔を合わせた日。小学校高学年だった縁はずっと笑顔で、挨拶する両親に寄り添っていた。ただ、新汰には、その笑顔が縁の心からの笑顔には見えなかった。だから縁の両親と新汰の両親がどこかへ行ってしまい二人きりになった時、新汰は思わず聞いてしまった。
「それ、本当に笑ってる?」
「……え?」
「目が笑ってないように見えたから」
「……良く気づいたね」
 縁は苦笑いをして、おかっぱにしている黒髪を撫ぜた。
「僕が悪い子だと、両親は相手の教育が悪いからだってお互いのせいにして喧嘩するんだ。僕が良い子にしていれば、家の中は平和だから」
 5歳児に話すには、だいぶ重たい話だった。新汰には知らない言葉も時々出てきたけど、縁が我慢していることは理解出来た。
「おれの前では、ムリして笑わなくていいよ」
「……新汰、くん?」
「ずっと周りに合わせてたら、疲れて死んじゃうよ? かろーし、って言うんだろ」
「ふふっ、死んじゃう、って、あははっ、過労死……あははっ」
 腰に手を当てて胸を張る新汰に、縁は吹き出した。涙が滲むほど笑うのは久しぶりで、息苦しさから解放された気がした。
「じゃあこれからは、生きづらくなったら新汰くんを呼ぼうかな」
「なんでだよ」
「無理しなくていいんでしょ? 保健室みたいでいいなーって思ったから」
「ホケンシツ?」
「……小学校に行ったら分かるよ」
「変なの」
 新汰には縁一人で解決したように思えたが、縁にとって新汰は本当に命の恩人かもしれなかった。縁は右手の小指を差し出して、心からの笑顔を浮かべた。
「困ったら助けて、僕も助けるから……これからずっと」


「お邪魔します」
「はいどーぞー」
 退院から数日後、新汰の両親が不在の日、縁は新汰の家に上がった。新汰の母親から留守番を頼まれた際に縁と話をつけ、新汰をよろしく、と出かけてしまった。
「縁くんなら安心だから、だって。新汰のご両親、俺を勘違いしすぎだろ」
 新汰が二人きりの時は無理しなくていい、と言ってから、縁は別人格かと思うほど素を出すようになった。一人称は僕から俺になり、少し荒れた言葉遣いになった。それはそれでやりすぎだと新汰は言ったが、これが素だから、と一蹴されてしまった。
「はいお茶とお菓子。母さんの作り置きのご飯あるから、お昼はそれ」
「メニューは?」
「秘密」
 リビングのローテーブルに二人並んで座り、ゲーム機の電源を入れる。開発会社のロゴがテレビ画面に映る。怪我をしてから、新汰の暇つぶしは専らゲームになった。格闘技、パズル、RPG、色々と手を出すが、サッカーゲームだけはやらなかった。
「ウイ〇レやらねぇの?」
「しないってば」
 縁が何度聴いても、新汰の答えはノーだった。10年間、いつ見かけてもボールを触っていた新汰が、怪我をしてから一度もボールを手にしているところを見ていない。ゲームの中でさえ。
「なぁ、新汰」
「なんだよ」
「俺のこと、もういらねぇの?」
「なんで? 急にどうしたんだよ、縁らしくない」
「俺らしくないって、なに? これが俺だって言ってんじゃん」
「でもっ――っ!」
 ダン、とローテーブルを叩く音がリビングに響いた。
「困ったら助けて、俺も助けるから」
「え?」
「俺と、指切りしたの覚えてない?」
「……覚えてる、けど」
 日焼けした小さな新汰の指と絡めた日、縁はこの手を守りたいと思った。新汰も、そう思ってくれていると思っていた。だから、指切りまでしたのだから。
「大きくなったな、この指」
「10年、だから」
「そう、10年」
「あの指切り、まだ有効?」
「……縁?」
「俺は、まだ有効」

これからも、ずっと。


End
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