アマノジャク

藍川涼子

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第一部

10 点火(貴志視点)

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「…あれ?…あれ?」
 ベッドの脇の小さなテーブルの上で、飛鳥さんは手をさまよわせている。

 ―――残念だけど、君の探し物はそんなところにはないよ。

「…あれー?」
 弱気な声があまりに可愛くて、俺は寝たフリをしたままでいることができなくなった。
「どうしたの?」
 腹ばいになっておたおたと手を動かしている彼女の体の下に、手を滑り込ませる。男物のパジャマの生地の感触。
「あ、課長、おはようございます。」

 …がっくり。

 愛しの彼女と向かえる日曜の朝というこの上なく幸せな状況を、彼女の口癖がぶちこわす。
「なあ…。頼むから、課長っていうのやめてくれないかな。」
「ああ、すみません。でもね、そんなことより…。」
 そんなこと、ときた。俺にとってはかなり重要な事項なんですけどねえ、飛鳥さん。
「メガネがないんです。昨日確かにここに置いたのに。」
 そう言ってこちらを見上げてくる彼女の顔は、なんともあどけない。化粧をして仕事モードで背筋をピシッと伸ばしている彼女からは程遠い。

 あー可愛い…。

「そりゃ困ったねえ。」
 俺の口調は、口先ばかりに聞こえただろう。彼女の曲線を描いた背中に、力が入る。
「課長、離してください。メガネ、探さなくちゃ。」
 こちらの動きなどお構いなしといった風情で、彼女はベッドからおりる。パジャマの上着だけを身につけた彼女の体のラインが目に入り、俺は目を細めた。
 よく見えないからなのか、彼女は四つんばいであちこちに動き回り、きょろきょろと辺りを見回す。しばらくそうしていたかと思うと、急にこちらに這って戻ってきた。

 …猫みたいだな。

「課長が、犯人なんですか。」
「え?」
「私のメガネ、隠したでしょう!」

 気づくのが遅いよ、飛鳥さん。寝起きで頭の回転が円滑ではないにせよ。

「今、この部屋に課長なんて人はいないよ。」
「何言ってるんですか。」
「確かに俺はA化粧品会社営業一課課長の肩書きは有しているけれど、今日は出勤日じゃない。」
「屁理屈言って…。」
 大層不満げな表情のまま、飛鳥さんはぺたんとその場に座り込んだ。両方のふくらはぎでお尻を包むように座る、女性が得意なあの座り方だ。
 彼女は本当に体が柔らかい。おかげで色々助かっている。
「どこにあるか教えてあげようか。」
「やっぱり課長が犯人なんじゃないですか。」
 まだ課長って言うか。
「条件があるんだけどね。」
「なんですか。」
「キスしてくれる?」
 点火。
 彼女の顔が真っ赤になる。
「なんでそんなに赤くなるのかな。昨日散々リクエストしてきたのは君のほうだろう?」
「やめてくださいよ、もう!」
「俺はたっぷり応えたんだから、君だってこの要求を呑むべきじゃないの。」
 俺の言葉に、両肩をがっくりと落として、恨みがましい視線を寄越す。もしも嫌なのなら、粘ってメガネを探し続けるなり、すればいいのだ。そんなこと、俺もわざわざ言わないけれど。
「ほら。…いい子だから。」
 右手の親指で、すっぴんの彼女の頬を撫でる。透き通るような彼女の肌。少し乾いた唇が、大層控えめに触れてくる。
「…よくできました。」
「……どこですか、メガネ。」
「条件は一つきりだなんて言ってないよ。」
 俺の言葉にとうとう彼女は立ち上がり、先程よりももっと顔を赤くする。
「もう、課長の意地悪!」
「貴志、だってば。」
「貴志の意地悪!」
 怒りがもはや恥ずかしさを通り越したらしい。あっさりと名前を口にしてくれた。
「ごーめん。」
 細い腰をつかまえて、抱き寄せる。パジャマがだぶだぶとしていて、彼女の感触がいつもより遠い。
「もう1個だけ。」
「…もう1個だけですよ。」
「んーとね。………。」
 ぼそぼそと呟くと、彼女の両手の爪が俺の二の腕に食い込んだ。
「馬鹿なこと言わないでください!こんな明るい時間から…!」
「そう?じゃあ、暗ければ喜んで躊躇なくしてくれるっていうこと?」
「そういう意味じゃなくって…!」
 彼女は俺の両肩を必死に揺さぶる。でもそれは長くは続かず、額を胸元に押し付けてきた。
「…なんだかどんどん意地悪になってるみたい…。」
 そうだね。そうかもしれない。
「それは飛鳥さんのことをどんどん好きになってる証拠です。」
 さすがに温度は伝わってこないけれど、おそらく彼女の顔は真っ赤になっていることだろう。
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