偽りの街

しまおか

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第十一章 逮捕後

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 やがて駆け付けた警察により、和美と共に徹と春香や車の中で待っていた良子までもが、警察の事情聴取を受ける羽目になった。
 和美は徹が中川を殺したと、あくまで言い続けた。それに対し徹と春香は、彼女が犯人であると詳細に説明した。それでも徹の指紋がナイフやネクタイから採取され、さらに春香の部屋の合い鍵を作っていたと判明し、物的証拠と状況証拠は当初徹の不利に働いた。
 しかし二人の主張、特に春香の証言には信憑性しんぴょうせいがあると判断されたらしい。何故なら彼女は自殺を図る前に、自分の立てた計画が記された手紙を残していたからだ。
 彼女はタイムカプセル郵便を利用していた。それは十年後までの未来において、指定する日に指定する場所へ届けられるものだ。彼女はその手紙を、警察庁やマスコミ各社宛へ十年後に配達されるよう、手続きしていたのである。
 彼女の証言を元に警察は令状を取り、郵便局からその手紙を回収し中身を確認した。そこには山塚の街の異常さと共に、自らも受けていた性的虐待や、良子による嫌がらせ等の数々が羅列されていたらしい。
 もちろん良子が中川と共謀し一彦をさらって殺し、山に埋めた件なども書かれていた。当然その証拠となる動画や、音声データも添付されていたという。
 その上で彼女が最初に立てた復讐計画までもが、詳細に記されていたのである。内容は実の母である和美と、その愛人の中川を徹が殺したように見せかけ、自分も殺された振りをして自殺したという告発文だった。
 それを自分の死後、真実が明らかになるよう仕組んでいたのである。十年後に設定していたのは、それが最長期間だったからだ。計画通りに進んでいれば、その頃には裁判等も終わっているだろうと踏んでいたらしい。
 送付先を警察庁だけでなく、マスコミにも設定していたのは理由があった。徹が逮捕され実刑判決が出ていれば、警察と検察や裁判所が誤った判断をしたことになるからだ。
 そうなった後で真実を記したものを入手すれば、必ず飛びつくだろうと計算したらしい。真実を暴露し、事件の真相は全く別だったと世に知らしめられる。そうなれば犯罪者というだけで差別する、公的機関への復讐もできると考えていたようだ。
 その理由の一つに彼女は自分と同じく、父親から性的虐待を受けていた女性による裁判で、無罪判決が出た問題に怒りを覚えていたからだと供述していた。
 万が一、十年の間に徹の死刑が確定し執行されていたとしても、それはそれで止むを得ないと覚悟していたらしい。その方が、世間をより騒がせられるとも考えていたからだ。
 児童虐待や性的虐待の実態や貧困の連鎖によって、山塚という異常な集団が形成されてきた経緯や歴史を、より世間に拡散できると期待したのだろう。
 そこまでさせたのは、和美と同じく性的虐待を受けていると知りながら、黙認していた徹にも恨みを持っていたからだ。さらには子供達に対する虐待について、これまで有効な手を打ってこなかった国や社会に対する長年の恨みがあったとも、春香は告白していた。
 また徹の証言により、和美も春香の部屋の合い鍵を隣の県の業者に頼み、作成させていた事実が明らかになった。加えて隣人の証言もあり、警察による捜査方針は徐々に和美犯人説へと傾いたようだ。
 春香の住むアパートの壁は薄く、中川が最初に刺されて出した声や、首を絞められ苦しむ様子などが良く聞こえていたらしい。
 またその後春香が襲われそうになった時、徹が部屋へ飛び込んだ音なども伝わっていたようだ。和美にとって想定外の問題が重なったとはいえ、それ程隣人に詳しく聞かれるとは想像していなかったのだろう。
 彼女は最終的な計画を、春香の部屋で行うと決めていたようだ。しかし事前に部屋へ入らず、下調べを怠った点が敗因となった。普段から近づいた事の無い場所であり、春香のガードも堅かったからだろう。
 その上連続殺人の件で、徹の指示により和美の周辺には見張りが付いていた状況も、彼女は気付いていたようだ。よって余りうろうろすれば怪しまれると考え断念した為、計画が破綻した要因になったと思われる。
 中川の車に付けたGPSの発信記録や、車で追いかけ春香の部屋の外で震えながら待っていた良子の証言も、事件の裏付けとなったことを付け加えておかなければならない。
 ただ春香が全てを正直に話した為に、当初中川と和美を殺して自分も死ぬつもりだった点が問題視された。殺人未遂に当たる恐れがあると、警察に指摘されたのだ。
 しかし彼女がそこまで追い詰められた動機が明らかになったからか、情状酌量の余地があると判断されたのだろう。起訴されずに済んだ。
 街に嫌気が差し、成長した彼女は逃げるように黙って樋口家を出た。にも関わらず徹が、愛人の良子を使って居場所を突き止めたり、再三仲間に戻るよう画策していたりした為に怒りを覚えていたとも供述した。
 ただその主張には誤解がある。徹が良子や他の部下を使って春香の様子を探らせたのは、街に連れ戻そうとしていたのではなく見守る為だった。ましてや嫌がらせするよう、指示してはいない。
 そうした行為は良子の独断であり、一彦の件も徹は全く知らなかった。良子もその事実を認め素直に白状した為、彼女が行った数々の嫌がらせが明らかとなった。おかげで春香が自死する計画を立てなければならない程、追い詰められた背景が判明したのである。
 しかし事件は、それだけで終わらなかった。彼女は街の全容を暴露すると共に、自らもスリ師として犯罪に関わっていたと認めた為、窃盗の罪で逮捕されたのだ。
 徹はそうした経緯を聞いて腹を括った。街を作り上げてきた一族の末裔として、今回の不祥事の数々における責任は重い。崩壊の危機を生み出したのも樋口家なら、始末をつける役目もまた自分しかいないと悟ったのだ。
 そこで徹は何度目かに受けた任意の事情聴取の際、春香同様スリ師として過去に行ってきた自らの罪を全て告白した。もちろん自らが経営する、不動産管理兼運営会社で行ってきた不正についても自白したのである。
 その目的は、今回の事件を機に自分の手で街を解体させる為だった。徹が逮捕されれば忠雄しかいない樋口家は当然だが、運営会社も崩壊するだろう。今や寝たきりになった彼では、街を束ねる役目は果たせない。
 運営の要である会社が潰れれば、必然的に山塚の街は維持できなくなる。そうなれば住民達を守る砦も無くなり、一般社会に出て行かざるを得ない。徹はそうなるように仕向けたのだ。
 これには警察の上層部も小躍りしたらしい。長い間伝説と化していた山塚の街を潰せるのだ。その業績は、かなり大きな手柄となる。よって連続殺人事件の捜査本部の中に専門の班を設け、本格的な壊滅作戦が実行された。
 徹と春香と良子は自ら犯した窃盗等の罪等で起訴され、やがて裁判が始まった。そこで全て終わるはずだったが、そう簡単にはいかなかった。何故なら和美は中川を殺した件だけ認め、連続殺人については否認しただけでなく黙秘を始めたからだ。
 一人殺しただけでは、最高で無期懲役になるのが通例である。彼女の生い立ちや置かれた特殊環境が考慮されれば、十数年程度で出てこられる可能性もあった。
 だが四人殺したとなれば、まず死刑は免れない。よって罪の重さが大きく変わってくる。だからなのか、かたくなに後藤達幹部三人の殺害については、認めようとしなかったのだ。
 その為彼女に罪を認めさせたい検察側の要請もあり、和美の自白をじかに聞いた徹が証人として呼ばれたのである。
 春香の部屋の隣人は、連続殺人犯について二人が話していた時、大家を呼びに行こうと部屋を離れていたらしい。よって彼女の自白は聞いていなかったという。
 一度は断ろうと考えたが、街を解体すると一大決心したきっかけにもなった事件だ。また同じく話を聞いて供述までした春香は、証言台に立ちたくないと拒んだらしい。そこで別の思惑もあった為、最終的には引き受けたのである。
 ちなみに春香が応じなかったのは、裁判に出れば自らの性的虐待についても語らなければならなくなると恐れたからだという。そこで検察は諦め、徹に依頼してきたのだ。
 被告席に座る和美は、長期間の留置生活に疲れたのか暗い表情をしており、徹と目を合わそうとしなかった。これから彼女に不利となる証言をするからだろう。
 久しぶりに会う彼女を、複雑な心境で眺めるしかなかった。名前を呼ばれた徹が証言台に立つと、まず初めは街における虐待の事実について、検察官からの主尋問が始められた。
「証人が知る限り、所属していた集団において性的なものを含めた虐待はいつ頃から、またどの程度行われていましたか?」
 徹は質問に答えた。
「相当昔からあったと思います。少なくとも三十年以上前から、常態化していたと言えるでしょう。というのも私の妻である樋口和美は九歳の時、近所に住む飼い犬を次から次へと花火で襲い、さらには殺し続けるという事件を起こしました。それだけでは飽き足らず、とうとう街の飼犬にまで、手を出しました。犬とはいえ、仲間に手を出すのはご法度です。その為街の大人達に捕まり、当時まだ残っていた座敷牢に閉じ込められました。その時逃げ出さないよう見張っていた男達から、折檻という名のもとに、性的虐待を受けていたと聞いています。解放されるまで、毎晩のように繰り返されたそうです。他にも同時期に牢へ入れられた原田はらだ良子も、被害に遭っていました」
「あなたはその現場を見たのですか?」
「和美の時に一度だけ。丁度その時、私の父である忠雄が牢の見張り番でした。私は当時、彼女に対して大きな借りがあったのです。また座敷牢の存在自体を知りませんでした。その為彼女に対する罪悪感と好奇心も手伝い、こっそり覗こうとしたのです。すると父が牢の中に入り、裸になった和美を抱いている姿を見ました」
「牢に入れられた人は、皆そういう目に遭っていたのでしょうか」
「恐らくですが、かなりの確率で被害に遭っていたと耳にしました。私が成人した頃には座敷牢自体が廃止されていたので、それからは無かったはずです。けれどもそのような行為は、昔から続いていたようだと他の集団の頭領から聞いています」
「なる程。被告は三十年余り前に、次々と犬を殺すという恐ろしい事件を起こしていたのですね。それは、どのような手口だったか覚えていますか」
「はい。犬達は皆手持ち花火で顔を焼かれた後、首を紐で絞め殺されていました」
「それは全て同じ方法でしたか」
「はい。殺された犬は全部で五匹ですが、同じです。ただその前に、花火で顔を焼かれただけの犬も数匹いました」
「死因は、最後に首を絞めた事による窒息死ですか?」
「はい、そうです。それが彼女のやり方でした」
「順番は逆ですが、今回の連続で殺された三名と似た手口ですね」
「そうです。だから私やかつての事件を知っている人物達は、和美が怪しいと思っていたはずです。ただ警察の事情聴取でそれを口にしなかったのは、仲間を売る真似などあの時点だとできなかったからでしょう。それに彼女は街の創始者の一人である樋口家の人間ですから、そうした意識がより強く働いたと思われます」
「あなたも被告を疑っていましたか」
「はい。ですから春香の部屋へ飛び込み、彼女を殺そうとしていた和美を止めて話をした際、連続殺人の件を問い質しました」
「そこでは、どのような会話がされましたか」
 徹は記憶のある限り、正確かつ詳細に自分の言葉と彼女からの返答について述べた。それを聞いた検察官は、もう一度確認の為に質問を重ねた。
「三人を殺した動機についてあなたが推測した話を伝えると、被告はそれを認めた。間違いありませんね」
「間違いありません」
「実の娘である樋口春香を殺そうとしたのは、彼女が被告を殺し自ら死を選ぼうとしている計画を悟ったから。中川誠を除いた三名は、被告の誘いに乗ったから殺した。それは自業自得であり、邪魔な存在だから処分した。天に唾を吐けば、己の身に帰ってくる。そう言ったのですね」
「はい」
 徹の言葉を聞いた検察官は、裁判長や裁判官、裁判員達の顔を見渡しながら言った。
「ただいま証人が述べた証言は、その場にいた樋口春香による供述とも完全に一致しています。彼女は証人を罠に嵌めようとしていた人物です。また二人が口裏を合わせる時間はなかった状況を考慮すれば、証人が語った言葉の信憑性は高いと言っていいでしょう。また被告の動機も明らかになりました。その上最初に殺された被害者の妻は、被告に泣いている所を見られ、その後虐待における詳細を語ったと認めています。恐らくそれがきっかけとなり、証人が述べたように被告の抱える過去のトラウマを刺激した、と考えて間違いないでしょう。さらに被告が第二の被害者、第三の被害者も性的虐待を行っているという情報を、周囲の仲間から得ていたという複数の証言があります。以上の事から被告が後藤、千場、稲川の三名を殺したことは、疑いようのない事実と思われます」
 そう締めくくり、徹への質問を終えた。
 検察の主尋問の次は、和美についていた女性弁護士による反対尋問の番だ。連続殺人について否認し黙秘してはいるものの、弁護士は状況証拠や証言等から、三人の殺害について無罪を主張することは困難と考えているらしい。
 その為街という異常な状況を、より強調したかったと思われる。加えて彼女が虐待され続けて来た過去により、犯行時は心神喪失状態であった点、または情状酌量の余地があると裁判員達に訴えかける作戦にでた。
 弁護人による質問が始まった。
「これまで検察や証人の主張する、被告によって四人も殺害された根拠またはその背景に、特殊な環境が影響していた。そう考えてよろしいでしょうか」
「はい。全く関係が無かったとは言えません」
「あなた達が形成する集団が住んでいた街は、山塚と呼ばれているようですね。そこがどれほど世間の常識とかけ離れたものであったか、改めて」
 ここで検察官の鋭い声が法廷に響いた。
「意義があります! 被告や被害者が形成していたコミュニティーについては、これまでも十分に述べられてきました。今の質問は当該裁判の審議時間を不当に伸ばすものです」
 これに弁護人が反論した。
「いいえ。検察側が被告の犯行と断言する殺人事件は通常と違い、異常とも呼べる状況下で発生したものです。当該案件の全容を解明する上で、その背景をより明らかにすることは、避けて通れない必須の確認事項です」
 裁判長は首を振り、左右に座る陪席裁判官と裁判員達の表情を確認してから告げた。
「意義を却下します。質問を続けてください」
「それでは改めて、山塚と呼ばれる街の特殊性をご説明下さい」
 事前に打ち合わせしていた内容だったが、徹は言葉を詰まらせた。それでも自分が幼かった頃を思い出しながら、なんとか口を開いた。
 戦後間もない頃、あぶれた戦争孤児達を死なせない為に街が形成されたこと。生きる為に犯罪だと知りながらも止むを得ず、窃盗集団を作った経緯を徹は滔々と説明した。
 仕方がなかったことの背景に、当時の国が取った政策がどういうものだったかも訴えた。
「最初に街を作り始めたのは、私の祖父を中心とした若者達や子供達です。しかしその後も存続しえたのは、そこで生まれた子供達だけでなく、社会からはじき出された者達がいたからでしょう」
 一九五三年には、少年非行第一次ピークと呼ばれる現象が起こった。その間に大人達も色々動いたことは確かだが、決して収まってはいない。実際、もはや戦後ではないと言われた高度成長期を迎えた頃には、非行第二のピークと呼ばれた程少年達が荒れた。
 父の忠雄が十五歳だった頃、まさしくその時期に当たる。国が経済的成長政策を優先し、児童福祉を軽んじていた結果だ。一九六三年に、児童は危機的な段階にあると警鐘を鳴らした経済白書を出して置きながら、その後政府は児童白書を出していない実態からも明らかだろう。
 青少年白書、後のこども・若者白書が出されたのは二〇〇八年になってからであり、それまで放置していたと言ってもいい。経済成長の目標は人間の福祉の増進向上にあるというのに、現実は逆に作用して児童の福祉を阻害してきた。
 かつて国や県など自治体は、集団就職児童達を“金の卵”ともてはやし、マスコミも大きく報道している。例えば愛知県では一九六三年から六四年をピークに、高度成長期の一九五〇年からの二十年間で、五十万人余りの中学卒業就職児童を県外から呼び寄せた。
 その多くは石炭産業の地、九州からの集団就職児童だ。わずか十五歳で、家庭から切り離された生活を強いられた。しかしその結果、大人になった彼らの多くが結婚後破綻をきたしたと言われている。
 炭鉱や繊維産業などが衰退していき、経済環境が悪化したことも要因だったのだろう。その為家庭の崩壊が繰り広げられた。それが児童達の不登校や非行、欠養護などを引き起こした。
 日本の高度経済成長は、そういった若年労働者達に支えられながら、彼らの犠牲の上に築き上げられたといっても過言ではない。にも拘らず、貧困に喘ぐ者達への国からの支援は、不十分だったとしか思えなかった。
 徹のそうした主張が熱を帯びて話が長くなった為に、弁護人が言葉を遮った。
「そこまでにしましょう。質問の回答から少々外れているようです。ここで質問を変えましょう」
 裁判長や検察も同意見だったのか、深く頷いていた。徹は血が上り始めた頭を冷ます為、大きく深呼吸してから首を振った。その様子を見て、間を取った弁護人は尋問を再開した。
「先程の検察からの質問で、街では虐待が多かれ少なかれあった、と証人は述べられましたね。殺された集団の幹部達も性的虐待を行っていた。間違いありませんか」
「間違いないと思われます」
「検察もご存知だと思いますが、殺された三名から被害を受けていた少女達からの証言などで、その実態は既に明らかとなっています。ところで証人も、スリ集団を率いていた頭領の立場だったと伺いました。あなたはそうした行為をした経験がありますか」
「私はありません」
「どうしてしなかったのですか」
 ここで一瞬答えを躊躇したが、思い切って告白した。
「和美が三人の男達を殺した動機から考えると、虐待は連鎖する為それを断ち切ろうとしたと思われます。ですから私の証言には、信憑性がないかもしれません。ただ言えるのは、私自身も父の忠雄から性的虐待を受け苦しんでいたという事実です。だから他人に対して同じ真似はできなかった。そうとしか言いようがありません」
 これには傍聴席などから、驚きの声が上がった。やはり世間の感覚では性的虐待と言えば、男が女にするものという先入観が抜けないのだろう。男性も被害に合っている現実を、素直に受け入れられないのかもしれない。
 近親相姦でさえ、稀有けうな目で見られる。だが同性による性的虐待も少なからずある実態を知らない、または想像すら及ばない人が多いという現実を彼らの反応は示していた。
 事前にその事実を把握していた弁護人は、周囲のざわめきを無視するように次の質問へと移った。
「それはいつ頃の事ですか?」
「私が小学生の頃だったと記憶しています」
「あまり覚えていないのですか?」
「当時を思い出すと気分が悪くなるので、忘れるようにしてきたからでしょう。曖昧な部分があることは確かです。それでも覚えているのは、父の関心が和美に移った為に私への行為が止んだことです。おかげで助かったという気持ちと、彼女に対して申し訳ないという想いが入り混じっていました。それははっきりと思い出せます。彼女が座敷牢に入れられた時、そうした罪悪感があったから助けられないかと覗いたのも、そういう理由からでした」
「つまり何匹もの犬を虐待死または殺し続け、その罰として座敷牢に入れられた。その以前から和美被告は、あなたの父親から性的虐待を受けていたのですね」
「そうです。あの事件は和美が父から虐待を受けた結果、精神状態が不安定となって起こしたものと思います。実の母親が彼女を父親の元へ置き去りにしたにも拘らず、飼っていた子犬だけは連れて行った過去の辛い出来事も影響していたかもしれません。彼女が犬に噛まれた際、そうしたトラウマを刺激したのではないでしょうか」
「なるほど。それではそうした性的虐待を受けていなければ、被告が犬を虐殺することもなかった。そう証人は思われますか」
「あくまで仮定の話になりますが、そう思います。性的虐待、また実の両親からの暴力やネグレクトが、彼女の心を蝕んだことは間違いないでしょう」
「ならば座敷牢に入れられる事もなく、複数の男達つまり今回殺された被害者の父達に、性的虐待を受けることも無かった。そうですね」
「そうかもしれません」
 ここで検察が異議を申し立てた。
「弁護人の質問はあくまで仮定の話であり、推測の域を出ません」
 裁判長もこれを認め、質問を変えるよう促した。弁護人も分かった上での質問だったのだろう。素直に頷き、別の質問をしてきた。
「それでは、そのような酷い目に遭っていたと知りながらも、証人が被告と結婚したのは何故ですか」
「父が犯した罪に対する彼女への償いと、私の身代わりになってくれた感謝の気持ちがあったからでしょう。将来私は父の跡を継いで、集団の頭領になる予定でした。その為私の庇護ひごさえあれば、決して不幸な思いをしないで済むと信じていました。それまでは彼女の兄のように接していた私ですが、将来自分の嫁にして彼女を救おうと心に決めたのも、座敷牢の一件があったからです。それは現実となり、彼女が二十歳の時に結婚しました。その後街から離れた場所に家を建て、二人で暮らし始めたのです」
「その結果、被告を救うことは出来ましたか」
「いいえ。それは私の大きな勘違いでした」
「どういう意味ですか」
「父の忠雄は移り気な人でした。私に飽きれば和美へ、その後良子にも手を出していました。かと思えば集団に属する若手の女を、無理やり犯したりもしたと聞いています。それは人妻だろうが、恋人がいようが全く構わなかった。実際、そうした被害に合った女性から、直接苦情を聞かされたことがあります。それでも樋口家は集団の頭領であり、街の創始者の一人です。そうした一種の権力を使い、彼は好き勝手遊んでいました。私はそれを止められなかった」
「具体的に被害を受けたのは、どういった人がいますか」
「最も身近な被害者は和美です。彼女は私と結婚した後も、義父となった忠雄から再び暴行を受けるようになりました。その結果生まれたのが春香です。彼女は和美の娘で戸籍上は私の娘となっていますが、実の父は忠雄です。私と彼女は父子でもあり、異母兄弟でもあるのです」
 ここで再び傍聴席が湧いた。次々と出てくる異常な関係に、彼らは戸惑わずにはいられなかったのだろう。それでも弁護人は話を続けた。
「あなたはその事実を、いつ頃知りましたか」
「私達が結婚した翌年に、祖父が病気で亡くなりました。その時の通夜に、彼女が父に押し倒されている現場を見たのが最初です。彼女にも後で聞きました。大人になってから襲われたのは、その日が初めてだったようです」
「あなたは見ていた。それなのに止めなかったのですか」
 実を言うと今までの質問は、検察官には内緒で弁護人と事前に相談していたものである。それでも徹は言葉が詰まった。
 おぞましいあの時の事や、過去に受けた数々の場面がフラッシュバックし、体が震えだす。頭痛が酷くなり、心臓が痛いほど動悸が激しくなり始める。足にも力が入らなくなり、立っていることすらままならなくなった徹は、とうとうその場にひざまずき倒れてしまった。どうやらそのまま気を失ってしまったらしい。
「大丈夫ですか!」
 周囲が騒然とする中、これ以上裁判を続けることは困難だと判断した裁判長は、一時休廷を申し渡した。それを受けて徹は救護室へと運び込まれ、ベッドに横たわり診察を受けたのである。
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