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第七章~②
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事が動いたのは年末間際だった。久我埼の方から社宅の管理会社と話をしに行くから同行するように、との誘いを三箇が受け応じたらしい。どうやら彼が七月にクレームを出していた件のようだ。
その件は、浦里も全く知らされていなかったという。しかし総務課の一部の事務職達が聞きつけ、噂は流れた。それを耳にした七恵が小声で話しているのを、英美はたまたま聞いてしまったのだ。
「これは何かあるわよ。今度は上司じゃなく、昔の事を嗅ぎまわっていた気に入らない人を殺すつもりかもよ」
内容が刺激的だった為、さすがにいつもの騒ぎ方では無かった。だからか大きく広まりはせず、おそらく総務課長もそこまで考えていなかったから、仕事を任せたのだろう。
だが英美達は話を聞いた途端、これは危険だと感じた。その為浦里と共に久我埼と二人きりになるのは止めた方がいいと、三箇に忠告した。業務時間中に話せなかったので、時間外に呼び出して説得を試みたのだ。しかし彼は首を横に振った。
「以前俺が住んでいるマンションの騒音が酷く、住民のマナーも管理会社の対応も悪いと総務課に文句を言ったことがあるだろ。騒音などは大袈裟でなく本当の事だ。それについてようやく動きだしただけさ。心配しなくていい」
それでも浦里が疑問を投げかけた。
「でもどうしてその件を、久我埼さんが対応することになったんだ。確かあの時は後で総務課にいる別の総合職が出てきて、話は治まったはずだろ」
「そのはずだったよ。だけどその彼は、例の玉突き異動で一宮支社に異動しただろ。だからあの件も含めて社宅関係の仕事は、久我埼が担当することになったらしい」
「それが今になって、動き出したのはどうしてだ」
「俺が聞きたいよ。前の担当者が管理会社に注意してくれたおかげで、一時は静かになった。しかし最近になって新しく入った住民がいて、またうるさくなり始めていたのは間違いない。それにマナー違反が完全に無くなったわけじゃないから、総務課が動いて改善してくれるのなら助かる」
「三箇さんから、またクレームをいれた訳じゃないんだな」
「ああ。でも新しく担当になった彼がその後問題は無いか、確認でもしてくれたんだろう。そこで他の住民からも、管理会社に問い合わせがあったんじゃないかな」
今度は英美が質問した。
「総務課から、わざわざそんなことをするものなの?」
浦里が代わりに答えた。
「普通はしないよ。だからおかしいって言っているんだ。妙だろ。それほど仕事熱心だとは言えない久我埼さんの方から、そんなことを言い出すなんて。しかも相手は三箇さんだ。普通なら面倒事は避けたいと思うはずじゃないか。これは一部で囁かれているように、罠なんじゃないか」
しかし三箇は笑って答えた。
「総務課として、やるべき仕事をしただけじゃないか。それに困っていることは確かだ。こっちから余計な事をするな、とは言えないだろ。大丈夫だって。そんなに心配しなくても、一応用心するから」
「だったら、これだけは約束してくれ。十五年前の事がある。車の運転は彼にさせろ。三箇さんは運転席に座らない方が良い。それとシートベルトは必ず締めてくれ」
「彼の説明によると管理会社へ寄って担当者を拾ってから、俺のマンションに来る予定らしい。だから総務課の車で彼が運転すると言っていたから大丈夫だよ。心配してくれて有難う。気を付けるよ」
結局彼は英美達の制止を振り切り、久我埼の誘いに乗ったのだ。しかし悪い予感は的中した。その日は休日出勤した久我埼が車を出して運転したという。
三箇の住むマンションへ迎えに来て助手席に乗せ、そこから管理会社へと向かったらしい。事前打ち合わせを行い、先方の担当者が運転する車と一緒に、再び三箇のマンションへと移動したそうだ。
到着した後、管理会社の担当者によって騒音や住民のマナーの酷さがどの程度なのかを確認したという。そこで三箇の言う通り、問題点があると判断されたらしい。管理会社の担当者は日を改めて、一部の住民に注意喚起することを約束したそうだ。
問題なのはその帰りだった。普通なら三箇はそのまま自宅に残っても良かったはずだ。しかし三箇が社有車を運転し、会社まで戻ろうとしたという。突然体調が悪いと久我埼は言い出し、社有車を戻さなければいけないから運転して欲しいと三箇に頼んだからだ。
まるで十五年前の事故の時と同じだった。そこでおかしいと気付くはずだが、三箇は了承して車に乗り込み、彼を助手席へ乗せて車を走らせたという。
トラブルが起こったのは、名古屋高速に乗ってしばらく経った後だった。スピードを出し過ぎてハンドル操作を誤ったのか、二人が乗った車は壁に激突して事故を起こしたのだ。当然警察車両の他に救急車も来て、二人は病院へと搬送されたらしい。
しかし幸いなことに、二人とも軽傷で済んだ。なぜなら三箇が咄嗟の反応で、ブレーキハンドルを引いて減速したという。その為それ程の大事故にはならなかったのだ。
事故の原因は、突然ブレーキが効かなくなったからだった。どうしてそのようなことが起こったのか。その理由はすぐに明らかとなった。
というのも三箇は社有車に乗り込む際、仕掛けを施していたからだ。気分が悪いと言って助手席でうずくまる久我埼を労りながら、その隙にこっそりと簡易で取り付けられるドライブレコーダーを後部座席の上にある手すりに設置し、車内の様子を隠し撮りしていたという。
そこに映っていたのは、車内に散乱していたペットボトルの内の一つが、助手席に座っていた久我埼の操作で、ブレーキの下に入り込むよう事前に細工されていた様子だった。
高速道路の直線でスピードを出したタイミングを見計らい、うずくまっていた彼は座席の下にあるブレーキペダルに引っ掻けられた、透明な釣り糸を引っ張ったのだ。
足元に敷かれている車のフロアマットの下を通し、糸の先は後部座席に散らばっていたペットボトルと繋がっていた。それがペダルの下に挟みこまれ、ブレーキを踏みこめないようにしていた。
つまりは久我埼が意図的に起こそうとした事故だったことを、映像が捉えていたのだ。彼の仕掛けによりブレーキが効かなくなった車は減速することが出来ずに、高速道路の壁へとぶつかった。
しかし三箇の機転を効かした咄嗟の行動により、スピードが落ちて軽い自損事故で済んだのだ。その結果三箇の証言を聞き映像を見た警察は、十五年前に起こった京都での事故でも同じ手を使ったのではないかと、久我埼を尋問したらしい。
そこで彼は素直に自供したという。恐らく今回の計画を実行しようと決めた時から、こうなることを覚悟していたと思われる。
彼が自白した内容によれば、最初に配属された京都東支社の一人目の上司は良かったそうだ。しかしその次の支社長が門脇に代わってからは、地獄のような日々が続いたという。お前のような奴は辞めてしまえ、と毎日のように罵倒されていたらしい。
その影響からノイローゼにもなりかけて、ストレスからくる体調不良も起こした。実際に会社を辞めることも考えたという。しかし一方では理不尽な上司に怒りを感じ、また母親の介護にお金がかかる現実の事を考えると、それはできなかった。
そこで自分が仕事中に死ねば、労災や会社入社時に半強制的な形で加入させられた生命保険の死亡保険金が手に入る。それらのお金さえあれば、母親の生活が困ることはないだろうと考えたそうだ。
と同時に、憎い上司も巻き添えにしてやろうとあの事故を起こしたらしい。その結果、自分は奇跡的に助かったのだという。その為大怪我を負いながらも這いずり、仕掛けられた糸を回収して上着の中に隠したようだ。
警察も最初から仕掛けられた事故などとは疑っていなかったこともあり、彼は病院へ搬送された後、無事誰に見つかることなく糸の処分ができたという。その時の成功体験を生かし、自分の過去を調べている邪魔な三箇を、同じ手で殺そうと考えたと告白したらしい。
名古屋に配属されて間もない頃から、何か起こる度に死に神と陰口を叩かれた為、会社生活に嫌気が差したそうだ。さらに社有車の件で課長から注意された時は、過去の悪夢がよみがえって再び体調を崩したため、限界を感じていたという。
その上十年前に美島支社長が亡くなった際に事情聴取をした当時の刑事が、同じ会社に転職してまで自分が殺人犯だという証拠を集めていると聞き、我慢できなくなったらしい。まさしく三箇が目論んでいた作戦に嵌ったと言える。
だがここからは想定外だった。彼が殺人を意図的に起こしたことは、あくまでその二回だけだと主張したのだ。周囲で噂されている美島支社長の病死や、大宮での時任課長の事故はあくまで偶然であり、自分の仕業ではないと強く否定したらしい。
確かに美島や時任にも、門脇の時と同じようにパワハラを受けていたことは認めた。死んでくれないかと、心の中で何度も思ったことは間違いないと証言しているという。
けれど美島が突然病にかかり亡くなったと聞いた時には、本当に驚いたらしい。しかもただの病死ではないかもしれないと一時警察が動き、自分が疑われ出したので恐ろしくなったそうだ。
美島の死をきっかけに、門脇の件まで調べられたらどうしよう。そう毎日怯えていたせいで、警察が病死だと結論付けた後も安心できなかったと証言した。いつ京都での事故が意図的なものだったとばれ、自分は逮捕されるかもしれないと恐怖を感じていたそうだ。
眠れない夜が続き、食欲も減退した。仕事も手につかない状態が続き、やがて体の調子を壊して会社に出られなくなったという。そして病院へ行ったところ、精神内科を受診するよう薦められたらしい。そこでうつ病と診断され、休職をすることになったというのだ。
その時初めて、会社の福利厚生制度の手厚さに気づいたらしい。当時入社九年目だった久我埼は、病気や怪我で長期に会社を休んだとしても、それまで使っていない有給を全て消化させた上で一年半までは、ほぼ全額に近い給与が振り込まれるとの説明を受けた。
美島の後に来た支社長が持ってきた休職制度の説明書には、入社十年以上であれば三年半まで給与が支払われると書かれていて、二十年以上ならその期間は五年になることを知った。
しかしその期間が過ぎても復職できないようなら、退職せざるをえないとも書かれていた。そこで少なくとも経済的不安が取り除かれた久我埼は、休職期間一杯を使って体調を戻すことに専念したそうだ。そして無事復職を果たしたという。
だがそこに待ち受けていたのは、過去に上司を二人も死なせている疫病神というあだ名だった。その言葉が再び彼を苦しめたらしい。体調も再び悪化し始めたそうだ。
それでも同じ病気や怪我だと二年の期間を経ていなければ、給与が支払われる長期休職はできないとの規定があった。その為どうしても体が動かない時には、一年間に与えられた有給の範囲内で会社を休み、それ以外は無理を押して出社し続けたらしい。これも母親の介護にかかる経済的な理由があったから耐えられたという。
そうしてこんな会社にはいたくないと思う気持ちを押し殺しながら、なんとかごまかしてこれまで勤務してきたそうだ。しかし上司は選べない。会社もそんなに甘くなかった。
休職明けの復職後は優しかった同僚や上司も、時が経てば変わる。しかも次の職場はこれまでずっと営業だったのに、事故処理を行うSC課だった。
新人の時に多少研修で経験していたものの、勝手が全く異なる仕事に戸惑ったらしい。さらにはこれまでの経験や知識が通用しない世界だ。新たに覚えることが沢山ある。
その上周囲にいた人達が入れ替わった途端、仕事に慣れない久我埼に対し、同僚や上司は冷たかった。また大宮SC課に配属されて最初の上司だった時任は、明らかに久我埼を辞めさせようと仕向け始めたそうだ。
それでも最低、復職してから二年は我慢しなければならない。そんな時だった。時任のことも美島のように死んでくれないかと思っていた矢先に、彼はゲリラ豪雨で増水した用水路に誤って落ちた。結果二度と会社に戻ることはなく、代わりの課長がすぐに配属されたのだ。
その時も当然のように社内では久我埼を疑うような噂が流れ、あだ名は死に神へと変わった。憎い上司がいなくなってくれたことにホッとする一方で、再び彼は怖くなったという。さらにはそのタイミングで母が痴呆症に罹った心労も重なり、二度目の長期休職を余儀なくされたのだ。
しかし今度は入社十三年目で復職から二年以上経っていたことから、最大三年半の休職が許された。しかも同期達より昇進も遅れ昇給も劣っていたにも拘らず、年収は九百万円近かった。
その為手取りでいえば六百万円以上手にすることが出来たらしい。会社生活で辛い目に遭うことが多かった代わりに、大きな会社に入ったことで福利厚生がしっかりしていたことは幸いだったと言える。
おかげで今度は三年半かけてゆっくり体調を整え、かつ支給される給与で母親の施設における介護費用等を支払うことが出来たそうだ。
ようやく体調が落ち着き、復職して今度は内勤でストレスの少ない部署への異動を希望していた。すると八カ月後に総務課への配属が決まったのだ。
しかし問題は勤務地だった。かつての所属とは少し離れていたけれども、一宮支社長が亡くなった中部圏内の、同じ愛知県内にある名古屋ビルだ。
しかも一宮支社で一緒だった、当時のことを知る七恵が同じフロアにおり、久我埼の事を死に神呼ばわりしたことから周囲が騒がしくなった。
さらには当時刑事として事情を聞かれたあの三箇が、何故か一つ下のフロアに賠償主事として勤務していると知り驚いたという。その上彼は社宅でトラブルがあったなどと、いちゃもんをつけ始めた。
挙句の果てには、美島を殺したのはお前ではないのかと詰め寄られ、狼狽したのだ。それだけではない。最近になり、他の同僚の力を借りて過去の事件を調べ始めているらしいことを耳にした。
余りにも執拗な彼に対し、久我埼の心は再び不安定になった。加えて社有車の中が汚れていることを木戸課長に注意されたことで、うつ病の症状が再燃し始めたのだ。
このままではいずれ、門脇を殺したことがばれてしまう。しかも次に休職するには、あと半年以上の期間が必要だ。それまで自分の精神は持たない。
そう考えた時、どうせ疑われているのならば三箇の口を封じようと思ったらしい。美島や時任は偶然だったが、門脇の時のようにすれば事故死として処理される可能性は高いはずだ。同じ手を使えば疑われるかもしれない。
しかし他に思いつかず、過去に成功した経験を信じるしか方法は無かったそうだ。それにもし失敗して自分が死ぬことになっても、それはそれでいいと覚悟していたという。
その為久我埼は以前三箇がクレームを入れていた管理会社へ問い合わせをし、まだ問題は完全に解決されていないことを知った。そこで彼を誘いだす作戦を考え、事故を起こすことを目論んだらしい。
彼は自死しても良いと思う程、精神的に追い込まれていたのだ。会社生活だけでなく、自分の事さえ分からなくなった母の世話をし続けることにも疲れてしまったのだろう。
それでも美島や時任はあくまで病気と事故であり、自分は関わっていないとの主張は変わらなかった。警察としても明らかな証拠がなく、すでに処理した案件だ。十五年前の自動車事故の件さえも、過去の判断を覆して殺人だったと立証できる物証は何も残っていない。彼の自白だけが頼りだ。
これでもし本人が起訴後に自白した内容を覆して殺人を否定すれば、罪に問えるかどうかも怪しいとの声さえ上がったという。それでも警察は、三箇に対する殺人未遂と傷害罪で久我埼を逮捕した。その後十五年前の事故については改めて捜査してから、再逮捕する方針らしい。
では本当に他の二件は、病死と事故だったのか。三件目は三箇も調べていく内にそうかもしれないと思ったようだが、二件目は絶対違うと彼は信じていた。
だったら誰が犯人なのか、という問題が浮上する。軽傷とはいえ念の為に検査入院をし、その間に警察からの取り調べも受けていた三箇がようやく会社へと出社してきたのは、年が明けてからだった。
病院への見舞いは制限されていたので、直属の上司である牛久課長と次席の井野口だけ面会することが出来たらしい。その後年末年始休暇もあった為、英美達が彼とゆっくり話が出来たのは一月第二週の金曜日の夜だった。
その件は、浦里も全く知らされていなかったという。しかし総務課の一部の事務職達が聞きつけ、噂は流れた。それを耳にした七恵が小声で話しているのを、英美はたまたま聞いてしまったのだ。
「これは何かあるわよ。今度は上司じゃなく、昔の事を嗅ぎまわっていた気に入らない人を殺すつもりかもよ」
内容が刺激的だった為、さすがにいつもの騒ぎ方では無かった。だからか大きく広まりはせず、おそらく総務課長もそこまで考えていなかったから、仕事を任せたのだろう。
だが英美達は話を聞いた途端、これは危険だと感じた。その為浦里と共に久我埼と二人きりになるのは止めた方がいいと、三箇に忠告した。業務時間中に話せなかったので、時間外に呼び出して説得を試みたのだ。しかし彼は首を横に振った。
「以前俺が住んでいるマンションの騒音が酷く、住民のマナーも管理会社の対応も悪いと総務課に文句を言ったことがあるだろ。騒音などは大袈裟でなく本当の事だ。それについてようやく動きだしただけさ。心配しなくていい」
それでも浦里が疑問を投げかけた。
「でもどうしてその件を、久我埼さんが対応することになったんだ。確かあの時は後で総務課にいる別の総合職が出てきて、話は治まったはずだろ」
「そのはずだったよ。だけどその彼は、例の玉突き異動で一宮支社に異動しただろ。だからあの件も含めて社宅関係の仕事は、久我埼が担当することになったらしい」
「それが今になって、動き出したのはどうしてだ」
「俺が聞きたいよ。前の担当者が管理会社に注意してくれたおかげで、一時は静かになった。しかし最近になって新しく入った住民がいて、またうるさくなり始めていたのは間違いない。それにマナー違反が完全に無くなったわけじゃないから、総務課が動いて改善してくれるのなら助かる」
「三箇さんから、またクレームをいれた訳じゃないんだな」
「ああ。でも新しく担当になった彼がその後問題は無いか、確認でもしてくれたんだろう。そこで他の住民からも、管理会社に問い合わせがあったんじゃないかな」
今度は英美が質問した。
「総務課から、わざわざそんなことをするものなの?」
浦里が代わりに答えた。
「普通はしないよ。だからおかしいって言っているんだ。妙だろ。それほど仕事熱心だとは言えない久我埼さんの方から、そんなことを言い出すなんて。しかも相手は三箇さんだ。普通なら面倒事は避けたいと思うはずじゃないか。これは一部で囁かれているように、罠なんじゃないか」
しかし三箇は笑って答えた。
「総務課として、やるべき仕事をしただけじゃないか。それに困っていることは確かだ。こっちから余計な事をするな、とは言えないだろ。大丈夫だって。そんなに心配しなくても、一応用心するから」
「だったら、これだけは約束してくれ。十五年前の事がある。車の運転は彼にさせろ。三箇さんは運転席に座らない方が良い。それとシートベルトは必ず締めてくれ」
「彼の説明によると管理会社へ寄って担当者を拾ってから、俺のマンションに来る予定らしい。だから総務課の車で彼が運転すると言っていたから大丈夫だよ。心配してくれて有難う。気を付けるよ」
結局彼は英美達の制止を振り切り、久我埼の誘いに乗ったのだ。しかし悪い予感は的中した。その日は休日出勤した久我埼が車を出して運転したという。
三箇の住むマンションへ迎えに来て助手席に乗せ、そこから管理会社へと向かったらしい。事前打ち合わせを行い、先方の担当者が運転する車と一緒に、再び三箇のマンションへと移動したそうだ。
到着した後、管理会社の担当者によって騒音や住民のマナーの酷さがどの程度なのかを確認したという。そこで三箇の言う通り、問題点があると判断されたらしい。管理会社の担当者は日を改めて、一部の住民に注意喚起することを約束したそうだ。
問題なのはその帰りだった。普通なら三箇はそのまま自宅に残っても良かったはずだ。しかし三箇が社有車を運転し、会社まで戻ろうとしたという。突然体調が悪いと久我埼は言い出し、社有車を戻さなければいけないから運転して欲しいと三箇に頼んだからだ。
まるで十五年前の事故の時と同じだった。そこでおかしいと気付くはずだが、三箇は了承して車に乗り込み、彼を助手席へ乗せて車を走らせたという。
トラブルが起こったのは、名古屋高速に乗ってしばらく経った後だった。スピードを出し過ぎてハンドル操作を誤ったのか、二人が乗った車は壁に激突して事故を起こしたのだ。当然警察車両の他に救急車も来て、二人は病院へと搬送されたらしい。
しかし幸いなことに、二人とも軽傷で済んだ。なぜなら三箇が咄嗟の反応で、ブレーキハンドルを引いて減速したという。その為それ程の大事故にはならなかったのだ。
事故の原因は、突然ブレーキが効かなくなったからだった。どうしてそのようなことが起こったのか。その理由はすぐに明らかとなった。
というのも三箇は社有車に乗り込む際、仕掛けを施していたからだ。気分が悪いと言って助手席でうずくまる久我埼を労りながら、その隙にこっそりと簡易で取り付けられるドライブレコーダーを後部座席の上にある手すりに設置し、車内の様子を隠し撮りしていたという。
そこに映っていたのは、車内に散乱していたペットボトルの内の一つが、助手席に座っていた久我埼の操作で、ブレーキの下に入り込むよう事前に細工されていた様子だった。
高速道路の直線でスピードを出したタイミングを見計らい、うずくまっていた彼は座席の下にあるブレーキペダルに引っ掻けられた、透明な釣り糸を引っ張ったのだ。
足元に敷かれている車のフロアマットの下を通し、糸の先は後部座席に散らばっていたペットボトルと繋がっていた。それがペダルの下に挟みこまれ、ブレーキを踏みこめないようにしていた。
つまりは久我埼が意図的に起こそうとした事故だったことを、映像が捉えていたのだ。彼の仕掛けによりブレーキが効かなくなった車は減速することが出来ずに、高速道路の壁へとぶつかった。
しかし三箇の機転を効かした咄嗟の行動により、スピードが落ちて軽い自損事故で済んだのだ。その結果三箇の証言を聞き映像を見た警察は、十五年前に起こった京都での事故でも同じ手を使ったのではないかと、久我埼を尋問したらしい。
そこで彼は素直に自供したという。恐らく今回の計画を実行しようと決めた時から、こうなることを覚悟していたと思われる。
彼が自白した内容によれば、最初に配属された京都東支社の一人目の上司は良かったそうだ。しかしその次の支社長が門脇に代わってからは、地獄のような日々が続いたという。お前のような奴は辞めてしまえ、と毎日のように罵倒されていたらしい。
その影響からノイローゼにもなりかけて、ストレスからくる体調不良も起こした。実際に会社を辞めることも考えたという。しかし一方では理不尽な上司に怒りを感じ、また母親の介護にお金がかかる現実の事を考えると、それはできなかった。
そこで自分が仕事中に死ねば、労災や会社入社時に半強制的な形で加入させられた生命保険の死亡保険金が手に入る。それらのお金さえあれば、母親の生活が困ることはないだろうと考えたそうだ。
と同時に、憎い上司も巻き添えにしてやろうとあの事故を起こしたらしい。その結果、自分は奇跡的に助かったのだという。その為大怪我を負いながらも這いずり、仕掛けられた糸を回収して上着の中に隠したようだ。
警察も最初から仕掛けられた事故などとは疑っていなかったこともあり、彼は病院へ搬送された後、無事誰に見つかることなく糸の処分ができたという。その時の成功体験を生かし、自分の過去を調べている邪魔な三箇を、同じ手で殺そうと考えたと告白したらしい。
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だがここからは想定外だった。彼が殺人を意図的に起こしたことは、あくまでその二回だけだと主張したのだ。周囲で噂されている美島支社長の病死や、大宮での時任課長の事故はあくまで偶然であり、自分の仕業ではないと強く否定したらしい。
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けれど美島が突然病にかかり亡くなったと聞いた時には、本当に驚いたらしい。しかもただの病死ではないかもしれないと一時警察が動き、自分が疑われ出したので恐ろしくなったそうだ。
美島の死をきっかけに、門脇の件まで調べられたらどうしよう。そう毎日怯えていたせいで、警察が病死だと結論付けた後も安心できなかったと証言した。いつ京都での事故が意図的なものだったとばれ、自分は逮捕されるかもしれないと恐怖を感じていたそうだ。
眠れない夜が続き、食欲も減退した。仕事も手につかない状態が続き、やがて体の調子を壊して会社に出られなくなったという。そして病院へ行ったところ、精神内科を受診するよう薦められたらしい。そこでうつ病と診断され、休職をすることになったというのだ。
その時初めて、会社の福利厚生制度の手厚さに気づいたらしい。当時入社九年目だった久我埼は、病気や怪我で長期に会社を休んだとしても、それまで使っていない有給を全て消化させた上で一年半までは、ほぼ全額に近い給与が振り込まれるとの説明を受けた。
美島の後に来た支社長が持ってきた休職制度の説明書には、入社十年以上であれば三年半まで給与が支払われると書かれていて、二十年以上ならその期間は五年になることを知った。
しかしその期間が過ぎても復職できないようなら、退職せざるをえないとも書かれていた。そこで少なくとも経済的不安が取り除かれた久我埼は、休職期間一杯を使って体調を戻すことに専念したそうだ。そして無事復職を果たしたという。
だがそこに待ち受けていたのは、過去に上司を二人も死なせている疫病神というあだ名だった。その言葉が再び彼を苦しめたらしい。体調も再び悪化し始めたそうだ。
それでも同じ病気や怪我だと二年の期間を経ていなければ、給与が支払われる長期休職はできないとの規定があった。その為どうしても体が動かない時には、一年間に与えられた有給の範囲内で会社を休み、それ以外は無理を押して出社し続けたらしい。これも母親の介護にかかる経済的な理由があったから耐えられたという。
そうしてこんな会社にはいたくないと思う気持ちを押し殺しながら、なんとかごまかしてこれまで勤務してきたそうだ。しかし上司は選べない。会社もそんなに甘くなかった。
休職明けの復職後は優しかった同僚や上司も、時が経てば変わる。しかも次の職場はこれまでずっと営業だったのに、事故処理を行うSC課だった。
新人の時に多少研修で経験していたものの、勝手が全く異なる仕事に戸惑ったらしい。さらにはこれまでの経験や知識が通用しない世界だ。新たに覚えることが沢山ある。
その上周囲にいた人達が入れ替わった途端、仕事に慣れない久我埼に対し、同僚や上司は冷たかった。また大宮SC課に配属されて最初の上司だった時任は、明らかに久我埼を辞めさせようと仕向け始めたそうだ。
それでも最低、復職してから二年は我慢しなければならない。そんな時だった。時任のことも美島のように死んでくれないかと思っていた矢先に、彼はゲリラ豪雨で増水した用水路に誤って落ちた。結果二度と会社に戻ることはなく、代わりの課長がすぐに配属されたのだ。
その時も当然のように社内では久我埼を疑うような噂が流れ、あだ名は死に神へと変わった。憎い上司がいなくなってくれたことにホッとする一方で、再び彼は怖くなったという。さらにはそのタイミングで母が痴呆症に罹った心労も重なり、二度目の長期休職を余儀なくされたのだ。
しかし今度は入社十三年目で復職から二年以上経っていたことから、最大三年半の休職が許された。しかも同期達より昇進も遅れ昇給も劣っていたにも拘らず、年収は九百万円近かった。
その為手取りでいえば六百万円以上手にすることが出来たらしい。会社生活で辛い目に遭うことが多かった代わりに、大きな会社に入ったことで福利厚生がしっかりしていたことは幸いだったと言える。
おかげで今度は三年半かけてゆっくり体調を整え、かつ支給される給与で母親の施設における介護費用等を支払うことが出来たそうだ。
ようやく体調が落ち着き、復職して今度は内勤でストレスの少ない部署への異動を希望していた。すると八カ月後に総務課への配属が決まったのだ。
しかし問題は勤務地だった。かつての所属とは少し離れていたけれども、一宮支社長が亡くなった中部圏内の、同じ愛知県内にある名古屋ビルだ。
しかも一宮支社で一緒だった、当時のことを知る七恵が同じフロアにおり、久我埼の事を死に神呼ばわりしたことから周囲が騒がしくなった。
さらには当時刑事として事情を聞かれたあの三箇が、何故か一つ下のフロアに賠償主事として勤務していると知り驚いたという。その上彼は社宅でトラブルがあったなどと、いちゃもんをつけ始めた。
挙句の果てには、美島を殺したのはお前ではないのかと詰め寄られ、狼狽したのだ。それだけではない。最近になり、他の同僚の力を借りて過去の事件を調べ始めているらしいことを耳にした。
余りにも執拗な彼に対し、久我埼の心は再び不安定になった。加えて社有車の中が汚れていることを木戸課長に注意されたことで、うつ病の症状が再燃し始めたのだ。
このままではいずれ、門脇を殺したことがばれてしまう。しかも次に休職するには、あと半年以上の期間が必要だ。それまで自分の精神は持たない。
そう考えた時、どうせ疑われているのならば三箇の口を封じようと思ったらしい。美島や時任は偶然だったが、門脇の時のようにすれば事故死として処理される可能性は高いはずだ。同じ手を使えば疑われるかもしれない。
しかし他に思いつかず、過去に成功した経験を信じるしか方法は無かったそうだ。それにもし失敗して自分が死ぬことになっても、それはそれでいいと覚悟していたという。
その為久我埼は以前三箇がクレームを入れていた管理会社へ問い合わせをし、まだ問題は完全に解決されていないことを知った。そこで彼を誘いだす作戦を考え、事故を起こすことを目論んだらしい。
彼は自死しても良いと思う程、精神的に追い込まれていたのだ。会社生活だけでなく、自分の事さえ分からなくなった母の世話をし続けることにも疲れてしまったのだろう。
それでも美島や時任はあくまで病気と事故であり、自分は関わっていないとの主張は変わらなかった。警察としても明らかな証拠がなく、すでに処理した案件だ。十五年前の自動車事故の件さえも、過去の判断を覆して殺人だったと立証できる物証は何も残っていない。彼の自白だけが頼りだ。
これでもし本人が起訴後に自白した内容を覆して殺人を否定すれば、罪に問えるかどうかも怪しいとの声さえ上がったという。それでも警察は、三箇に対する殺人未遂と傷害罪で久我埼を逮捕した。その後十五年前の事故については改めて捜査してから、再逮捕する方針らしい。
では本当に他の二件は、病死と事故だったのか。三件目は三箇も調べていく内にそうかもしれないと思ったようだが、二件目は絶対違うと彼は信じていた。
だったら誰が犯人なのか、という問題が浮上する。軽傷とはいえ念の為に検査入院をし、その間に警察からの取り調べも受けていた三箇がようやく会社へと出社してきたのは、年が明けてからだった。
病院への見舞いは制限されていたので、直属の上司である牛久課長と次席の井野口だけ面会することが出来たらしい。その後年末年始休暇もあった為、英美達が彼とゆっくり話が出来たのは一月第二週の金曜日の夜だった。
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洋館には、著名な実業家や学者たち12名が宿泊しており、彼らは謎めいた「月影会」というグループに所属していた。彼らの間で次々と起こる密室殺人。不可解な現象と怪奇的な出来事が重なり、洋館は恐怖の渦に包まれていく。
虚像のゆりかご
新菜いに
ミステリー
フリーターの青年・八尾《やお》が気が付いた時、足元には死体が転がっていた。
見知らぬ場所、誰かも分からない死体――混乱しながらもどういう経緯でこうなったのか記憶を呼び起こそうとするが、気絶させられていたのか全く何も思い出せない。
しかも自分の手には大量の血を拭き取ったような跡があり、はたから見たら八尾自身が人を殺したのかと思われる状況。
誰かが自分を殺人犯に仕立て上げようとしている――そう気付いた時、怪しげな女が姿を現した。
意味の分からないことばかり自分に言ってくる女。
徐々に明らかになる死体の素性。
案の定八尾の元にやってきた警察。
無実の罪を着せられないためには、自分で真犯人を見つけるしかない。
八尾は行動を起こすことを決意するが、また新たな死体が見つかり……
※動物が殺される描写があります。苦手な方はご注意ください。
※登場する施設の中には架空のものもあります。
※この作品はカクヨムでも掲載しています。
©2022 新菜いに
声の響く洋館
葉羽
ミステリー
神藤葉羽と望月彩由美は、友人の失踪をきっかけに不気味な洋館を訪れる。そこで彼らは、過去の住人たちの声を聞き、その悲劇に導かれる。失踪した友人たちの影を追い、葉羽と彩由美は声の正体を探りながら、過去の未練に囚われた人々の思いを解放するための儀式を行うことを決意する。
彼らは古びた日記を手掛かりに、恐れや不安を乗り越えながら、解放の儀式を成功させる。過去の住人たちが解放される中で、葉羽と彩由美は自らの成長を実感し、新たな未来へと歩み出す。物語は、過去の悲劇を乗り越え、希望に満ちた未来を切り開く二人の姿を描く。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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