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 事態が動いたのは、ターゲットの監視を遠ざけてから三日後の土曜だった。予想通り、相手は伊豆の病院に向かっていた。よってそうした場合、起こり得る状況に対処するよう佐々は指示を出した。
 その内の一人が事前に被害者の妻や県警に連絡を入れ、容態がどうかなどを尋ねたという。もちろん監視はいないか、さりげなく確認するという念の入れ方だった。
 妻には県警からにせの報告をしていた為、警察による監視が解かれたと本気で信じていたはずだ。よって演技や嘘をつく必要もなく、相手にそう伝えたに違いない。県警からも、連絡を受けた人物が上手く答えたとの報告があった。
 捜査二課は引き続き距離を置いて監視を続けつつ、追跡班には大山と的場も加わった。よって佐々はこれまで同様、執務室に座ったまま遠隔操作により、現場の状況をリアルタイムで把握していた。
「T達は新幹線を降りてから在来線に乗り換え、最寄り駅で降りました。これからタクシーに乗り込みます。間違いなく病院へ向かうつもりでしょう」
 ターゲットに符丁ふちょうを付け、捜査員同士で連絡を取り合っている様子を聞きながら、佐々は手に汗を握っていた。監視の目を緩めれば、恐らく相手は被害者の命を狙うに違いない。そう予想してはいたが、そこまでの足取りをどうするか気になっていた。
 もし被害者が異常な状態で亡くなれば、今回の事件の関係者達は間違いなく疑われ、アリバイを確認されるはずだ。また伊豆に移動する姿を捉えられれば、言い訳も難しくなる。
 よってどのような手を使って病院まで来るかと考えていたが、意外にも何ら特別な画策をせず移動していた。
そこから単なる見舞いと称して病室を尋ね、その際にたまたま急変したように見せかける方法を選んだのではないかと考えられる。
 確かに今の時代、車や電車でもあらゆるところに監視カメラが設置されている為、完全に足取りを消すのはむずかしい。ならば下手に小細工するよりも、堂々と訪問するしかないと判断したのだろう。
 後はその場にいても、患者の死とは関係ないように見せかけられるかどうかだ。よって直接首を絞めたり刺したりはまず出来ない。あくまで容態が急変し、命を落とす方法しか選択肢はなかった。
 といっても集中治療室では生命を維持する為、厳格な二十四時間の監視体制を取っている。様々な機器が患者の体に取り付けられているので、素人が下手に触れば警告音が鳴るだろう。よってそう簡単には細工できないはずだ。
 しかし相手はその点を詳しく調べた上で、実行に移そうとしていると思われた。事前にそう推測される物を購入している姿が、監視により把握されていた。
 その道具を使用している現場を押さえれば、殺人未遂の現行犯で逮捕すればいい。そこから取り調べを行えば、伊豆での事件の全容が明らかになるはずだ。
 もちろん被害者にもしもの事がないよう、注意を払う必要がある。万が一にも相手の思惑通り急変すれば命を失いかねない。それを防ぐ為の準備は、現在急ピッチで行われていた。
 執務室という、現場から離れた場所でしかいられない自分の無力さを実感する。しかしここだからできる役割を果たさなければならない、との使命感がそれを打ち消していた。
「T達が病院に到着しました」
 現場からの報告を受け、病室担当に確認する。
「準備は整ったか」
「間に合いました」
「了解。Tは今どこだ」
「現在病室に向かっています」
「よし。気付かれないよう、各自所定の位置で監視を続けろ」
「了解しました」
 病院各所に配置した刑事達が、それぞれそう応えた。後は相手が実行するまで待てばいい。被害者の妻には、この時間帯だけ席を外すよう捜査員の誘導で別室へと移動させた。
 全ての会話や様子は、病院内の各所に設置した隠しカメラやマイク、捜査員が持つ無線を通じ確認していた。執務室に運び込んだ複数のモニター画面を見ながら、いつでも指示が出せるよう準備を整えていたのである。
 被害者の病室に近づいた二人は、周辺に警察がいないと確認した後、容態の回復度合などを看護師から聞き出していた。
 二、三言葉を交わさせた後は気取けどられないよう、一人また一人と自然な形で全ての病院関係者をその場から離れさせる。事前の打ち合わせ通り、病室の外には二人だけが残る状況を作らせた。 
 すると辺りを何度も見まわした一人が懐に手を入れ、こっそりと黒い物体を取り出した。そしてもう一人に話しかけながら、病室のドアを開けようとする。それを引き留められていた。
 だが上手く言いくるめ、二人共が静かに病室へ一歩踏み出した途端、病室内の機器が警告音を発した。
 けたたましく鳴り響いたからだろう。驚きの余り唖然と立ちすくむ一人をもう一方が腕を引き、急いで飛び出し階段を駆け降りた。
 それから音を聞きつけた看護師達が、少し遅れて病室へと駆け寄り、処置を施していた。
 一方、逃走する二人を他のカメラで捉えたところ、一人は引き攣った表情を見せていたが、もう一人は僅かに笑みを浮かべていた瞬間を佐々は見逃さなかった。
 やりやがった。だがまだだ。病室では慌ただしく医師達が動き回っている。被害者を取り囲む機器を確認しつつ、 容態を安定させようと、必死になっている姿を見せていた。
 それに対し佐々がマイクで指示を出すと、彼らは落ち着きを取り戻していた。
 もう一度別のカメラに目を向けると、逃げた二人は病院の外に出て、人気のない敷地へと移動していた。
 この病院が設置した防犯カメラの死角になっている範囲だ。それを事前に確認していたから、そちらへ向かったのだろう。但し佐々の指示で後付けした隠しカメラは分からないよう設置している。
 その画面を見ながら、彼らをマークし追っている捜査員達に指示を出す。それに従って彼らは動き出していた。
 誰もいない場所に到着した二人は、病院から出ようとしている。だが一人が怪しげな行動を見せ始めた。
 これはまずい。犯行現場を押さえる為には、気付かれないよう一定の距離を保つ必要がある。しかし犯行が一瞬で終われば助ける術はない。この状況から推測できるのは背後から襲う方法だ。間に合わなければ殺されてしまう恐れがある。
「参事官、どうされますか」
 現場でもその危険性を察知したのだろう。指示を仰いできた。それぞれの声から焦る様子が分かる。佐々も手に汗を掻いていた。
 だが逮捕は現行犯でなければならない。タイミングを誤れば計画は台無しだ。といって目の前で行われようとしている犯罪を、みすみす許す訳にもいかない。
 佐々は決断した。
「全員そのまま待機。間違いなく犯行に及ぶだろうと確認できるまで駆け付けるな。こちらの気配を絶対に悟られるんじゃないぞ。相手は相当警戒している。もう気付かれているかもしれない」
「しかし、このままでは、」
「俺を信じろ。責任は全て持つ」
 そう言った瞬間、一人がもう一人の背後に回って何かで口を塞ぎ、声を出さないようにした上で懐から刃物を取り出した。
 間に合わない、と一瞬焦った。だが幸い激しく抵抗され、すんなりとは刺されずに済んだ。恐らく襲われた方が、そうなるかもしれないと予測していたに違いない。
 しかし力は相手の方が強かったからだろう。もう一度体が引き寄せられた。
「いまだ!確保しろ!」佐々がそう叫ぶや否かのタイミングで現地にいた捜査員が一斉に走り出し、二人に駆け寄った。
「井ノ島竜人! 何をしている! 殺人未遂の現行犯で逮捕する」
 彼は完全に油断していたようだ。動きを止めて固まった。そこで捜査員は殺されかけていた須依から引き剥がし、彼を取り押さえた。
「待ってくれ、誤解だ」
「観念しろ。だったら何故刃物を持っている。しかも手袋まで嵌めやがって。お前が彼女の口を塞ぎ刺し殺そうとしていた状況は、カメラで撮影していた。言い逃れは出来ないぞ」
 口を塞がれていたタオルを外した須依が叫んだ。
「そうよ。私達の会話もずっと録音していたからね。あなた、私の腕を掴んだ時に言ったでしょ。死ねって」
 さすがに声が震えていた。彼がそのような行動を取るかもしれないと覚悟の上で、彼女はこの場所まで来たのだろう。感付いているからこそ、簡単には刺し殺されないと信じてギリギリまで待機するよう、佐々は指示を出していたのだ。
 それでもかつて結婚を約束した相手から、今まさに殺されかけたのだ。その心中を考えると、胸が痛まずにはいられなかった。
 しばらく抵抗していた井ノ島だったが、手錠をかけられ身動きが出来なくなると、ようやく諦めたらしい。大勢の捜査員にねじ伏せられた彼は、吊り上げられるようにして立たされた。
 その中には的場がいた為、佐々は彼に指示を出した。
「所持品を調べろ」
 彼は井ノ島のスーツを叩き、上着の内ポケットからスマホと小さな箱型の機器を取り出した。
「これは何だ」
 感情を押し殺しながらも、これまでとは違った口調に変えた的場が問うと、項垂れていた井ノ島は目を泳がせながら答えた。
「ス、スマホの充電器です」
「それにしては、あまり見た事がないタイプだな」
「そ、それはあなたが知らないだけだろう」
「そうか。私には別のものに見えるが。少し待っていろ」
 佐々は指示を出した。
「例の物で確認しろ」
「了解しました」
 的場が突然そう口にした為、驚いたのだろう。
「了解ってなんだよ」
 井ノ島の言葉を無視し、的場が別の機器を使って彼の持ち物のスイッチを入れた。
「お、おい、何をする」
 しかし的場が持つ機器の針が大きく振れたところを見て、彼は息を飲んだ。それが周波数を感知するものだと気付いたのだろう。
「先程お前は、これをスマホの充電器と言った。しかし今確認したところ、この機械は電波を発生する装置のようだ。これを集中治療室など生命維持装置のある場所で作動させれば、誤作動を起こす可能性がある。実際に先程、病室の機器の警告音が鳴った。それを聞き、須依さんの腕を引き逃げただろう。つまり烏森さんをも殺そうとしていた。違うか」
「い、いやそうじゃない。意識が戻らないと言われていた彼が、少し動いたように見えたから病室に入った途端、突然音が鳴って驚いたんだ。それで俺達が何かしたと疑われたら困ると思って逃げたんだよ」
 言い逃れしようとした井ノ島だが、的場はそれを許さなかった。胸倉むなぐらを掴み、これまで溜めに溜めていた怒りをここで爆発させた。
「だったらこんなものを、何故病院に持ち込んだ! 須依さんを刺し殺そうとしていたのは、俺達がずっと見ていたから言い逃れは出来ないぞ。彼女だけでなく、烏森さんに対する殺人未遂の容疑で逮捕する!このまま無事に娑婆しゃばへ出られると思うなよ!」
 そう言い放ち、突き飛ばすようにして離した。そして呆然とする彼の両脇を抱えていた捜査員達に伝えた。
「こいつをさっさと連れていけ。こってり絞ってやれ」
 頷いた彼らは引きずるように連れて行った。駐車場に停め待たせていた覆面パトカーに乗せる為だ。この後は静岡県警の元で、同行していた的場が所属する捜査一課第五強行犯係の面々によって取調べが行われるだろう。
 本音では須依を苦しめた彼を、自分の手で締め上げたかったに違いない。しかし班長の彼や大山には別の任務があった。それは須依の取り調べだ。今回の一連の事件における最大の難関であり、気の抜けない仕事が待っている。
 その為まだショックから覚めない彼女に、的場が声をかけた。
「申し訳ありませんが、須依さんも署までご同行頂けますか。但し取調べは警視庁で行いたいと思います。ですから我々の車に乗って頂き、東京までご足労願います」
 手を引いて先導しようとしたが、彼女は腕を払って立ち止まり尋ねてきた。
「井ノ島君が、生命維持装置を誤作動させる機械を持っていたというのは本当なの。烏森さんの病室へ行った時、大きな音が鳴っていたけど、彼は大丈夫なんでしょうね」
「安心して下さい。生命維持装置に異常はありません。無事です」
「本当なの」
「はい。井ノ島が狂わせた機器は別の装置です」
「どういう意味よ」
 首を傾げる彼女に的場が説明した。
「烏森さんの体に取りつけられた生命維持装置などの機器は、電波の影響を受けないようベッドの下に隠し、特別な素材でできた布で覆っています。井ノ島には分からなかったでしょうが、目に見える場所にあった機器は全てダミーで、彼の持っていた装置から電波が発生した場合、警告音が鳴るよう事前に仕掛けていたのです」
「そんなことまでしていたの」
「はい。機械が誤作動を起こし烏森さんの容体が急変し、死亡が確認されたよう見せかける段取りまで用意していました。しかしそうする前に二人は病室を離れたので、それは無駄になりましたが」
 実際、医者や看護師に扮した俳優達を待機させていた。それ位しなければ、一緒にいる敏感な須依をも騙せないと思ったからだ。けれど井ノ島は外へと逃げた為、そのプランは発動されずに終わった。
 烏森の死亡を確認してから動くと思っていたが、誤作動を起こした時点で間違いなく死亡すると思ったのだろう。看護師による説明で、急に容態が悪化し始めたと伝えさせていた事が影響したようだ。
 よって井ノ島はその場を離れ、逃げる途中で須依を刺し殺そうとした。警察の目を盗み病院へと忍び込んだ神葉の手先が、須依と烏森の二人の命を狙ったと思わせたかったのだろう。
 この病院でなら二人一緒に殺せると踏んだらしい。そして井ノ島は恐らく自分で刺すなどし、同じ被害者の振りをするつもりだったと思われる。
 しかしそれは想定内だった。監視を解けば、井ノ島は必ず二人の命を狙うと睨んでいたのだ。
「これは佐々君の指示ね」
 先程より落ちつきを取り戻した彼女はにやりと笑った。その表情を画面で見て、佐々は安心した。そこで的場に指示を出すと、彼は頷きながら言った。
「参事官はこの現場の様子を、今現在もずっとサイバービルの執務室から見守っております。ただこの後、須依さんに確認したい点が沢山ありますので、この続きは警視庁でお願い致します」
 彼女は頷き、今度は彼が差し出した右腕に手を絡ませて歩き始めた。その状況を見届けていた佐々は大きく息を吐いた。これで少なくとも井ノ島を、須依に対する殺人未遂の容疑で起訴できる。
 またダミーとして設置していた機器と彼から取り上げた装置を分析し、被害者を殺そうと試みた可能性も否定できない点を証拠として出せば、送検できる可能性が高まるだろう。
 病室の外でいた姿もカメラで捉え録画されている。もちろんこれから須依を取り調べ、烏森が襲われた時の状況が明らかになれば事態は大きく動くはずだ。
 罠に嵌めた点はややお咎めがあるかもしれないけれど、問題はそれ以前にある。解決すべきなのは、被害者が襲われた事件の全容解明にあった。今回はあくまで、そこに至るまでの一過程に過ぎない。だが大きな一歩になるだろう。
 本来なら烏森の事件は静岡県警の管轄だ。よって今回襲われた場所も伊豆の為、取り調べは先方で行うのが筋である。それでも警視庁に呼んだのは、彼らだけだと解決できない。そう考えたからだ。
 これまで掴んだ事実を元にした推論をぶつけるだけでは、やや決定打に欠ける。聡明でしたたかな彼女を落とすのは困難だろう。よって最終決着は佐々自らの手で付けるしかない。そう判断し、サイバー対策本部長に連絡を入れた。
 本部長は聞き終わった後、厳しい声で問い質すように言った。
「そこに私情は無いんだな」
「全くありません。彼女から真実を聞き出せるのは、私が最も適任だと判断しました。一回だけの取調が終われば、その後どういう結果になろうと、私は当該事件から一切手を引きます」
「二言は無いな」
「ありません」
「分かった。刑事部長には許可が得られるよう、私から先に連絡をして置く。その後で今言った通り、自分の口で説明して了承を得ろ。但しこちらも説得はするが、彼が駄目だといったら諦めるように」
「了解しました」
 一旦電話を切った後、本部長から折り返し連絡があった為、刑事部長に電話をした。そこでも私情が入っていないかの確認と、一回限りで手を引く約束をしたところ、許可が下りたのだ。
 胸を撫で下ろしたが、安心するのはまだ早い。事件発生時の状況についてまだ疑問点が残っている。烏森の意識が戻らなければ、それを含めた全ての謎は解明されないままになる恐れがあった。
 そんな時、佐々の元に新たな連絡が入った。それはこれまで想定していなかった人物からの貴重な情報提供だった。運はまだ残っている。そうとしか思えないタイミングだ。
 佐々は体がうち震えるのを堪えながら、東京にいる大山の部下達に指示を出した。
「至急話を聞きに行き、こちらに全てのデータを届けてくれ」
 これで重要なピースが一つ埋まった。それでもまだ足りない。今回の情報のように、何か見落としていることはないか。ひたすら考えてみたが、咄嗟には思い浮かばなかった。
 その為取り敢えず的場に連絡を入れた。
「はい、的場です。参事官、どうされましたか」
「今井ノ島が伊豆で取り調べを受けている内容は、部下から報告を受けているか」
「もちろんです。参事官の指示通り、県警の許可を得て取り調べ室に同席させています。今のところ須依さんを殺害しようとしたことは認めているようですが、その動機や烏森さんの件については黙秘または否認しているようです」
「大山も一緒だな」
「はい。彼の運転で東京へ戻っている途中です。もちろん須依さんも後部座席に乗っています。もうそろそろ着く予定です」
 同じ警部補でも彼の方が年下だからだろう。
「そうか。気を付けて戻ってくれ。取調室は一課の部屋を既に押さえてある。君と大山にも同席して貰うが、取り調べは私が直接行う。既に刑事部長から許可を貰った」
「参事官自ら、ですか」
「私でないとあいつは語らないだろう。いや俺でも全落ちさせるのは難しいかもしれない」
 彼は一呼吸おいてから呟くように言った。
「そう、かもしれませんね」
「だが井ノ島の件とは別で、思ってもいなかった相手から新たな情報が手に入る予定だ。それと合わせれば、何とかなるかもしれない」
「先程こちらにも連絡が来ました。二課が動いてくれているようですね。中身は恐らく、私達がこれまで調べてきた内容と一致するはずです。その裏付けが取れたことになるでしょう」
「それ以上の情報があればいいんだが。しばらくしたらデータが届くだろう。戻ったら君達にも見て貰うつもりだ。取調べにどう使うか打ち合わせしたい。だが安全運転で来てくれ。急がなくていいぞ」
「了解しました。大山さんにもそう伝えます」
 電話を切り、大きく息を吐いた。さあこれからの聴取に備え、万全の準備をしなければならない。佐々は天井を見上げ呟いた。今日で事件発生から一週間が経つ。山場と言われていた期間だ。
「頼む、烏森。無事でいてくれ。そうでないと、あいつは殺人犯になってしまう。俺に手錠をかけさせないでくれ」
 そう祈りながら、それでも目の前に山と積まれた押印しなければならない書類を取り出し処理し始めた。これから忙しくなる為、今の内に済ませておかなければならないからだ。
 正直いえば、仕事ができるような精神状態ではない。それでも通常業務に支障をきたさないというのが、本部長や刑事部長から念を押された最低限の条件だ。その為己の心を押し殺し、情報が届くまでの時間を無駄にしないよう、書類に目を通した。
 それから十数分が経過した頃、机上の電話が鳴った。受話器を上げると、相手は待ちに待っていた捜査員からの連絡だった。
「今、データをそちらに送付しました。こちらの聴取はもう少しかかると思いますが、終わり次第もう一度報告をさせて頂きます」
 佐々はパソコンのメール画面で届いている事を確認し、添付されていたファイルを開き黙読しながら告げた。
「今確認できた。ご苦労だった。そっちで中身は見たのか」
「ざっと目を通しました。参事官がお知りになりたかったのは、これだったのですね」
「そうだ。今の段階で他に何か有益な話は聞けたか」
「いえ。とにかくこのデータがいきなり届き、驚いたという点だけです。本人には全く知らされていなかったようなので、慌ててこちらに連絡をしたと言う点以外、取り立ててまだ何も。メールの件名が、彼以外にも送られているらしい文言だったというのはご報告した通りです」
「そうか。念の為にもう一度、何と表記されていたか教えてくれ」
 佐々はそれを聞いて確信した。恐らくメールはCCでなくBCCを使用していると思われる。けれど件名に他の人間にも同じデータが共有されているとだけ匂わせる必要があったのだろう。
 ちなみにCCとはカーボン・コピーの略で複写を表し、メールを送付する際に宛先以外の関係者にも情報を共有しておきたい場合に使うものである。
 例えば上司に対し、自分の仕事の進捗状況等を報告する時に他の同僚にも同じ内容を伝えておきたい場合、同僚のメールアドレスを追加する形で活用するのだ。この際、上司は同僚に送られていることや、メールアドレスも分かるようになっている。
 対してBCCはブラインド・カーボンコピーの略で、指定されたメールアドレスは他の受信者から見られない。
 例えば上司に報告する際、同僚とも共有したいがその点をそれぞれに伏せておきたい場合はこれを使用する。または複数の取引先に同じ内容のメールを一斉に送る際、メールアドレスといった個人情報を漏らしたくないケースに適する使い方だ。
 ただ今回のデータ送信に関しては、BCCの利点を活用しつつCCのメリットも利用している。何故そのようにしたのかは、データの中身を見た際に理解できた。
 もっと精査する時間を取る為に告げた。
「分かった。聴取が終わったら連絡をくれ。その後は引き上げてくれていい」
「了解しました」
 受話器を置き、再びパソコン画面を凝視する。これまでの捜査でも明らかになりつつあったが、ここに記載されている内容はかなり詳細かつ決定的な証拠だった。
 今頃これと同じものが、もう一人の元へ届いているに違いない。けれど送られた時間やタイミングを考えれば、まだ目は通していないだろう。
 どちらにしても、これがあれば事件は解決に向かうはずだ。けれど条件がまだある。それは被害者の命が維持されていることだ。
 再び祈りながら、佐々は的場達の到着を待った。データの中で確認すべき最も大切な部分は全て頭の中に入れた。後は彼らと相談しながら、どう活用すべきかを打合せしなければならない。
 後はこれから行われる事情聴取で、新たな事実が確認できるかどうかだ。それまでまだもう少し時間がある。そこでもう一度、これまでの捜査を振り返ってみた。
 その時、先端の石突の分析をする為に須依の白杖を預かった際、鑑識が発見した報告について思い出す。また被害者の傷病休暇中における足取りの中のある行動が頭に浮かんだ。
 今日突然舞い込んだ情報のように、先入観が阻害要因となってはいないか。無理だとか関係ないと思い込んでいたものが、そうとは限らなかったのだ。よって確認すべき点は、全て押さえておくべきだろう。
 今からでもまだ遅くない。佐々は懸念を払しょくする為、今度は東京と伊豆にいる的場の部下達にそれぞれ連絡をして指示を出した。  
 これで思いつく手は打ったはずだ。後は結果を待つばかりである。そこで頭を切り替え、目の前にある未決書類に再び手を伸ばし通常業務に戻った。
 重要でない書類などない。そう言い聞かせながら文字を追い押印する。その作業を淡々とこなしながら、佐々の心はいていた。
 それが落ち着いたのは、伊豆から戻った彼らが部屋を訪ねてきてからだ。須依を一旦取調室に連れて行ったが、長時間の移動だった為に今は女性警官の監視の元、体を休ませているという。
 佐々は机から移動してソファに腰かけ、彼らと改めて情報のすり合わせを行う。そうして方向性は固まった。ここまで彼女を連れてきたけれど、今日はもう時間が遅い。
 現時点だと彼女は井ノ島に襲われた被害者であり、任意の取調となる。よって核心に触れる聴取をするには長く拘束できないと考え、聴取は明日にすると決めたのだ。
 もちろん監視を続けるが、彼女に逃亡される可能性は低い点と、部屋に帰宅させれば例のデータに目を通す可能性が高い。それから取り調べをした方が、より効果的だという狙いも含まれていた。
 念の為、病院に待機する県警の刑事と連絡を取り、被害者の容態に変化はないか確認した。危険な状態は変わらないが、幸いにもまだなんとか命はとりとめられているという。
 急変した場合は直ぐに連絡を入れてくれるよう、改めて依頼をしてから解散した。もう外が暗くなり始めていたからだ。
 その為須依を家まで送り届けるよう彼らに指示し、明日の朝再び彼女の部屋を訪問し迎えに行くと伝え、彼らにもそのまま帰宅するよう伝えた。
 というのも明日に備え、少しでも体を休ませる必要があったからだ。特に彼らは緊張を強いられる尾行をしつつ、東京と伊豆を往復している。
 二人共体力に自信はあるだろうが、気力を充実させる為にも一定の休息は不可欠だ。しかも全てに決着を付けられるかどうかは、明日の聴取にかかっている。
 佐々はそのまま明日に備え事務仕事を続けつつ、最後に出した指示の結果連絡を待っていた。するとまたもや期待以上の報告を受け取ったのだ。
 その為データの送信を依頼し、届いてから急いで内容の確認を行った。よって気付けば日をまたぐ時間になっていた。そこで滅多にないことだが、今日は帰宅せずこの部屋で休もうと決めた。
 佐々は皺にならないようスーツを脱ぎ、電気を消してソファに横たわり、常に準備をしている毛布をかけ目を瞑った。
 脳がまだ興奮していたのか、しばらくはなかなか寝付かれなかった。それでも疲れていたのだろう。知らぬ間に眠っていたらしく、いつの間にか外は明るくなっていた。
 気温はまだ低めながら、日射しは既に初夏を思わせる強さだ。時間を確認すると、まだ準備するには早い時間だったが、二度寝する気にならず体を起こす。そうしてトイレに向かい、洗面台で顔を洗って歯磨きをし、髭を剃った。
 いつでも外出できるよう身なりを整え、席について昨日の続きで書類に押印し始めた。九時を過ぎれば事務官を通じ、また新たな書類がドッと持ち込まれるはずだ。しかしその頃は席を外している。
 よって今日中に済ませられるものは全て処理しようとした。残り僅かの書類を何とか片付けたところで、的場達との待ち合わせの時間がやってきた。
 必要書類を入れたカバンを手にし、執務室を出てエレベーターで降りる。地下駐車場に向かうと、既に二人は待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
 的場と大山が同時に頭を下げた。
「おはよう。早速行こうか」
 そう声をかけると彼らは頷き、大山が運転席へと回る。的場は後部座席のドアを開け、佐々に座るよう促してくれた。
「ありがとう」
 礼を言うと彼は再び頭を下げてドアを閉め、助手席に座った。それぞれがシートベルトを締めたところで車が発進する。目的地に向かう途中の車内では、しばらく沈黙が続いた。
 二人は緊張しているのかもしれない。特に的場は須依を良く知る人物の一人だから余計だろう。
 そこで彼らに告げなければならない件があったと思い出す。重い空気を払拭する意味も込め、前に座る二人に話しかけた。
「昨日は須依を送った後、そのまま家に帰ったか。良く寝られたか」
 互いに視線を交わした後、大山が先に口を開いた。
「はい。参事官はどうでしたか」
「帰るのが面倒だったから、久しぶりに部屋で寝たよ。それでも十分睡眠はとれた」
「え、ソファで寝られたのですか。もしかしてあの後まだ調べ物でもされていたんですか」
 驚いたのか振り向いてこちらを向いた。運転している大山も気になったのだろう。バックミラーに映った視線と目が合った。その様子に苦笑しながら答えた。
「直ぐに寝たよ。いざという時に備え、毛布などの宿泊セットが用意されているからな。そう心配しなくていい。俺だってお前達と同じく、捜査本部が忙しい時は柔道場や会議室などで雑魚寝ざこねしていたんだ。あの時と比べれば、個室のソファなんて贅沢過ぎる」
「それでも参事官の官舎は、直ぐ近くでしょう」
「どうせ寝に帰るだけならどちらでも同じだ。下手に家族を起こしても迷惑だしな。大山はまだ独身だからいいけど、的場はどうだ。子供の寝顔を見たか。まだ小さかっただろう」
「すみません。ここ最近遅かったので、久しぶりに話をしました。四歳と二歳になります。参事官のお子さんはおいくつでしたか」
「もう十四歳で中二だ。俺もそうだったが、親なんて面倒な年頃だからいない方が気楽だろう。それは家内だって変わらないよ。亭主元気で留守がいい、っていうのはいつの時代も同じだ」
「そんなものですかね」
「大山も結婚すれば分かる。もちろん独身のままでもいいし、子供がいなくたってそれはそれでありだ」
 そんな雑談をして彼らの気分を和らげてから、昨夜得た追加情報について話している内に須依のマンション近くまで来た。その為大山が彼女を見張っている刑事に連絡を入れ、間違いなく部屋にいるかを確認した。
 どこにも出かけていないとの返答を得て、やや離れた場所にある駐車場へ停めて車を降りた。そこから歩いて向かい、マンションの入り口に立つ。
 事前の打ち合わせ通り、佐々が彼女の部屋のインターホンを押した。時間は朝の八時ぴったりだ。訪問としてはぎりぎりのタイミングである。
 少し間があった後、応答があった。
「はい」
「須依さんのお宅でしょうか」
 念の為にそう伝えると、戸惑いの声が帰って来た。
「はい、そうですが。もしかして佐々君なの」
 両親ではなく、彼女が出たようだ。向こうからのモニターでは、こちらの顔がしっかり映っているのだろうが、彼女には見えない。ただ声だけですぐ認識できたらしい。
「ああ、そうだ。朝早くから済まないが、昨日的場達から聞いている通り、今日は事情聴取をさせて貰う予定だったな。その前に部屋の中に入れて貰えないか。話があるんだ」
 息を飲んだのだろう。息遣いからそれが分かった。
「もしかして、あなたも事情聴取に同席するというの」
「察しが良いな。そのつもりだ」
「もちろん任意だよね、それに昨日の件で私は被害者なのよ」
「そうだ。けれど事件についてだけでなく、大学の同窓生の一人としても会いに来た。それと昨日、お前にメールが届いているはずだ。もし中身を確認していれば、意味が分かるだろう。見ていないのなら、内容を読んでから俺達に同行して欲しい」
「どうしてそれを。まさか私のパソコンにハッキングした何て言わないよね」
 声の調子で、彼女は確認済みだと分かる。それなら話は早い。
「そんな違法捜査をする訳が無いだろう。お前は知らないかもしれないが、あのメールはもう一人にも届いている、そこから俺達は情報を得た。もちろん中身も確認済みだから、今更隠しても無駄だ」
 彼女も件名から薄々気付いていたはずだ。勘の良さから誰に送られたかも大体見当が付いていたに違いない。ただそこから既に、警察へ情報が渡っているとまでは思わなかったのだろう。
「そう。気付いたのが夜遅くだったから、確認の電話は今日入れようと思っていたの。あなたの方が一足早かったようね」
「そういうことだ。とにかく中に入れてくれ。外出の準備は済ませているだろうが、部屋の中で少し話をさせて欲しい。これは警察からの要請というより俺からの頼みだ」
 彼女が今更逃亡するとは思えない。それでも何が起こるか分からない為万が一に備え、無事警視庁まで連れて行きたかった。
「分かった。昨日朝から聴取をすると言われていたから、化粧は済ませてある。今開けるから入って」
 入り口のロックが解除され、ドアが開いた。大山が先に入りその後に続く。後ろから的場がついて来た。そこからエレベーターに乗り、彼女がいる階のボタンを押す。
 到着して部屋の前に立ち、もう一度インターホンを押した。今度は直ぐに出た。佐々だと告げたところ、彼女が短く答えた。
「今開ける」
 少しの間のあとで鍵を解除した音がした。ゆっくりと扉が開いた為、大山がドアノブを持って支える。彼女の姿が隙間から見えたが、言った通り既に外出着を見に纏っていた。
 化粧も整えていたが、顔色は余り良くない。これからどうなるか、ある程度予想できるからだろう。
「上がっていいか」
「いいえ。もう出られるからこのまま行きましょう。話があるなら車の中で聞くわ」
 彼女はそう言いながら靴を履き、手には白杖とバックを持った。どうしても部屋に入れたくない事情でもあるのだろうかと訝しむ。 
 本来は取調室で聴取する前に、彼女がリラックスできる空間で自白を促そうと目論んでいた。
 しかし今となっては中に入る必要まで無いと判断した上で尋ねた。
「もう一人の所に電話をし、場合によっては会いに行くつもりだったのか」
「そう。会社は基本的に九時からだけど、向こうは遅いからね。それでも八時半を過ぎれば連絡が付くかと思ったけれど、的場さん達が来ると聞いていたから諦めた。もしかして昨日聴取せずに一度家に帰らせたのは、あのメールを見させる為だったの」
「ああ、そうだ」
「あなた以外はずっと黙っているようだけど、気配からすると的場さんや大山さんが一緒なのね。両親がいるとはいえ女性一人を尋ねる為に、朝早くから男三人が押し掛けるというのもどうなのかしら」
 さすがは須依だ。何もかもお見通しらしい。部屋に入れなかったのは同居する高齢の両親が、複数の人と接する感染リスクを考慮しただけと分かった。
 またこれまで何度も会っているし、取調もずっとこの二人が担当しているからそう推測しただけではないだろう。実際その人物が持つ匂いや漂わせる空気を感じ取ったと思われる。
 誤魔化す必要もない為頷いて答えた。
「ああ、そうだ。本来はこの二人に任せるべき案件だが、今回に限り上の許可を得た。お前には悪いが同席させて貰う」
「そんな事をいって、どうせ佐々君が主導権を握るんでしょ」
 徐々に彼女の声が、いつもの調子に戻ってきた。時間が経った分、覚悟を決められたようだ。それでいい。余計な駆け引きはしたくなかった。
 昨日の精神的なショックが残っていれば、少し和らげてからでないと聴取に支障をきたすのではと危惧していた。けれど様子を見る限り、その必要はないらしい。
 それなら相手は須依だ。捜査で得た情報をぶつけ、論理的に話を進めれば自ずと答えは出る。
 素直に部屋から出てきた彼女を的場が誘導し、その前を大山が歩き最後尾に佐々が付いた。そうしてエレベーターに乗り駐車場まで歩き、車の後部座席に彼女を載せ隣に座り警視庁へと向かった。
 車中では雑談をしつつ、念の為に昨日の件を引きずっていないかを探ってみたが、彼女は鼻で笑った。
「あの人に裏切られたのは、今回に限った事じゃないからね」
 だがその声は、やや強がっているように感じ取れた。それでもこれから彼女と真剣に対峙しなければならない。本部長達から念を押されたように、決して私情を挟んではいけないのだ。
 予定通り一課の取調室に四人が入った。奥に須依、手前は佐々が座り、机の横に的場が立った。大山は調書の作成に使う事務机に腰を下ろした。
 これまでは的場が装着したカメラを通じての聞き取りだったが、いざ面と向かって相手にするとなれば緊張感が異なる。それに現場で聴取自体の経験は、それ程こなしてきていない。その点が叩き上げとキャリアの差だろう。
 それでも相手は相当の曲者だ。現に的場や大山も彼女の手にかかり、散々振り回されてきた。けれどそれも佐々相手には無理だと分からせなければならない。
 といって掴んだ証拠以外、特別な策があるわけでもなかった。あるのは学生時代から知る、また今回の事件の裏事情に多少なりとも関わってきた佐々だという点だけだ。
 そこで早速、マンションの部屋の前で話した件から始めた。
「朝早くから申し訳ないが勘弁してくれ。それにしても俺達が訪ねた際、身支度を整えてくれていたのは助かったよ」
「別にあなたじゃなく、的場さん達を待っていたんだけどね」
「分かっている。ただもしメールを事前に見ていたら、編集長に連絡をして会うつもりだったんだろ。特に俺達へ情報を流さないよう、口止めする予定だったんじゃないか」
「失敗したわ。早くメールに気付いていれば、警察には黙ってくれていたかもしれないのに。井ノ島君に誘われて病院へ行ったのが間違いだった」
「それは無理だろう。的場達だって編集長を何度も訪ね、傷病休暇中に探っていたネタを本当に知らないか問い詰めていたからな」
「それにしても、記者が探ったネタをマスコミがそう簡単に警察へ渡したら駄目でしょう」
「馬鹿を言うな。普通ならそうだろうが、今回は状況が違う。あの人は死にかけ、今も意識不明なんだ」
 それまで余裕の表情を保っていた彼女だが、さすがに顔色を変えた。構わず続けた。
「被害者や須依は、これまでも危ないネタを取材してきた。しかも今回は一度命を狙われている。だから万が一の場合に備え、一定期間を過ぎて連絡が取れない状況に陥った場合、それまでに得た情報をファイルしたメールが特定の人物に送られるよう、仕掛けをしていたんだろう。それが今回発動したんだ。そんな情報を、編集長が黙っていられると思うか」
 佐々達が昨日手に入れたデータというのは、被害者が意識不明に陥りその一定期間を過ぎた為に編集長へと送られたものだった。と同時にそれは彼女にも送られていたのである。
 情報の送付先は、最も信頼できる人物でなければならない。またそれが一人の場合だと、例えばその人物も一緒に監禁などされていれば、大切な情報を伝えられないまま失われてしまう恐れがあった。
 よって宛先を二つにしたのだと思われる。またもう一人の情報共有者が誰か、他人には分からないようBCCにしたのだろう。だが彼女はそれが編集長だと気付いた、または知っていたに違いない。
 件名に書かれていたのは以下の文だ。
 “I will entrust you guys with the information in case of danger to me”
 日本語に訳すと、“私の身に危険が及んだ場合、情報をあなた達に託します”となる。
  “you”の後にわざわざ”guys”を付けた点から、送付先が自分一人で無く他にもいると、彼女は把握したはずだ。 被害者が信頼できる相手で情報を活用でき、かつ保全も可能な相手を考えたのだろう。  
 まずは身内である被害者の妻が思い浮かぶ。ただ命の危険に巻き込む恐れがある仕事上の機密情報を、大切な家族に残すかどうかは疑問が残る。その点活用や保全の観点からいえば、編集長だと分かるはずだ。
 そこで思い付き尋ねてみた。
「もしかして万が一の場合はこうなると、事前に聞いていたのか」
 彼女は頷いたが、付け加えた。
「送付先は私と編集長だと分かっていたけれど、どれ位経てば送付されるかは知らされていなかった。だから気付くのが遅れたの」
「ということは、須依も同じく身に危険が及んだ場合、誰かに情報が渡るようセットしているのか」
 やや躊躇いながら答えた。
「そうよ。でも誰に送付するようにしているかは秘密。今回の取り調べには関係ないでしょう」
 確かにその通りだった為、話を先に進めた。
「だったら被害者が傷病休暇中、須依にさえ黙って取材していたのが何だったかはもう知っているよな」
「はい」
「しかし須依は、その前から薄々気付いていたんじゃないのか。例えばいきなり井ノ島と会う場に同席するよう伊豆に呼び出された時、鋭い君なら何か裏があると考えたはずだ」
 彼女は黙っていたが、その様子が肯定を表していた。その為さらに続けた。
「被害者が井ノ島を探っていた理由は、彼の浮気に気付いたからだった。しかしその真実を明らかにすれば、井ノ島は破滅する。それを須依に知らせたくなかった彼は極秘で取材し、とうとう決定的な証拠を掴んだ。それを直接突きつける為、井ノ島に面会を要求した。けれど井ノ島もそれに気づいたのだろう。そこで会う場所を伊豆に指定し、また須依を同席させる条件を付けた。そうだな」
「そうみたいね」
 データの中身から読み取れたのは、まず機密情報を社内からアクセスした件で寺畑が怪しいと睨み、調べている最中に須依が彼女のSNSを発見したのが発端となっていた点だ。その内容を見て、被害者だけが井ノ島との関係に気付いたのである。
 何故ならSNS内の横書き文章の一部に、縦書きで読んでみたら関係を匂わす表現が記載されていると分かったからだ。
 これは盲目で読み取りソフトを使用している須依だと、まず認識できないだろう。また掲載していた写真にも見られた。男性とみられる時計を嵌めた左手が写っており、それは井ノ島のものだと発見したらしい。
 それを幸いとして、被害者は須依を傷つけないよう内々に調べていたと思われる。傷病休暇というまたとないチャンスが訪れ、その上警察の監視が緩くなった点を利用したのだろう。
 須依もそうした経緯はデータを読み、既に把握しているはずだ。そこで質問した。
「伊豆まで移動する際、本当に被害者から何も聞かなかったのか」
「問い詰めたけれど、向こうに着けばいずれ分かるとしか言わず、答えてくれなかった」
「その時、須依はどう思ったんだ」
 彼女は再び沈黙した。どうやら素直に白状するつもりはないらしい。こちらがデータ内容を把握した上で、今回の事件とどう関係すると考えているかを見極めるつもりなのだろう。
 それならこちらにも考えがある。佐々は深く息を吸い、腹に力を溜めて言った。
「答えないのならこちらから言おう。被害者が須依にも関わる案件で、井ノ島に面会を求めたと考えたはずだ。そこから何らかの弱みを握ったのだと気付いた。須依が井ノ島に苦しめられた件を知っている被害者なら、それなりの罰を与えたい。そう思った可能性がある。ただ出来るなら須依には知らせず、話を進めたかったのだろう。しかし井ノ島が君に同席する条件を付けた為、止むを得ず相手が指定した伊豆へと二人で向かった。恐らく事実を知られてもいいと覚悟したはずだ。それを須依は感じ取った。違うか」
 彼女は無表情になり、動きを完全に止めていた。否定しない様子から、肯定しているのだと解釈し続けた。
「須依は苦しんでいたんじゃないのか。そこまでしてくれようとした被害者の気持ちに感謝しつつ、井ノ島を追い込んでいいものかと悩んだはずだ。しかしその一方で危惧も覚えた。詳細は理解しないまでも、わざわざ伊豆に足を運んでまで会う必要があるネタとなれば、相当大きな証拠を掴んだに違いない。それを察知したからこそ井ノ島は東京を離れ、わざわざ遠く離れた自分の縄張りに誘った。それは一体何を意味するかを考えた時、下手をすれば口封じも辞さないと腹を括ったのではないか。そうなると須依の為に行動してくれた被害者が危ない。だからいざとなれば、彼と自分の身を守ろうと決心した。そうだろう」
 変わらず何も答えない彼女だったが、顔色は青かった。やはりここまでの推理は間違っていないと確信する。そこで立ったまま彼女の様子を見守っていた的場に指示を出した。
「例の物を持ってきてくれ」
「分かりました」
 彼は部屋を出て行き、しばらく経って戻ってきた。手には大きな花瓶を持っている。それを机の上に置き、須依の方へと移動させた。
「的場が持ってきた物が何か分かるか。触って確認してくれ」
 ようやく動き出した彼女は、おずおずと手を伸ばした。もしかすると置いた際に響いた音で、それが何かおおよそ理解したのかもしれない。それでも念の為にと思ったのか、手で感触を確かめていた。
 だが直ぐに分かったらしく、慌てて伸ばした腕を引っ込めた。まるで恐ろしいものに触れたかのようだ。
「何か分かったか」
 彼女は頷き、小声で答えた。
「花瓶、でしょ」
「ああ。だがただの花瓶じゃない。被害者の頭を叩き割った凶器と、全く同じタイプとサイズの花瓶だ。伊豆の温泉宿から借りてきた。須依の部屋にも置いてあっただろう」
 デザインはそれぞれ違うが、全ての部屋に設置されているものだ。
「そんなものを持ってきて、一体どうするつもりなの」
 その質問には答えず、彼女に指示した。
「申し訳ないが、靴を脱いでくれないか」
「な、何を言うの」
「まあいいから。もちろん変な真似をする訳ではない。右足の靴を脱いで、足首を曲げずにピンと伸ばしてくれないか」
 意味を理解したのだろう。青かった顔色が白くなった。それでもじっと待った。すると彼女は観念したかのように自分で靴を脱ぎ始め、言われた通り足を突き出した。
「的場、やってくれ」
「はい。では須依さん、失礼します。冷たいかも知れませんが、少しだけ我慢して下さい」
 指示された彼はそう告げて、机上の花瓶を持ち上げ彼女の右足がある位置で屈む。そこから花瓶の口を彼女の足に差し込んだ。するとすっぽり嵌まったのである。
 彼が一瞬手を離した為、彼女の足は花瓶の重みで床に着きそうになった。その手前で彼は止めた。そこで佐々は須依に声をかけた。
「申し訳ないが、足の力だけで花瓶を持ち上げてくれないか」
 彼女は大きく息を吸った。じんわりと額に汗を掻いているのが分かる。それでも彼女は黙ったまま、座った状態で花瓶を足で上げた。  
 落ちて割れないよう的場が手で受け止める準備をしていたが、全く必要なかった。
「ありがとう。もういいぞ」
 佐々がそう告げると的場は足から花瓶を抜き、再び机上に置いた。そのタイミングで彼女に告げた。
「重いのに片足の力だけでよく持ち上げたな。年を取ったとはいえ、さすが元女子サッカー日本代表ユースだ。日頃から五人制サッカーでも鍛えているだけある。それに丁度フィットしていたからだろう。これが男の足なら小柄で細くなければ無理だ。そんな人間は今回の事件関係者の中だと限られる。そこで宿泊施設にいた人達全員、今のように足を通して貰った。これが何を意味するか分かるよな」
 彼女はぎゅっと目を瞑り、眉間に皺を寄せた。構わず続けた。
「足首まで入ったのは、六十代と七十代の女性、三十代の女性と子供達だけだった。ちなみに四十代の女性の足は太くて途中で引っかかったし、十代の子供二人には大きすぎたらしい。男性は全員狭すぎて通らなかった。けれど問題はそこからだ。足が通せた人達に花瓶を足で持ち上げさせたが、誰もまともに出来なかった。高齢の女性はさすがに最初から無理だと分かった。だが三十代と若い女性でも重すぎた。つまり片足だけで花瓶を持ち上げられるのは、須依だけなんだよ」
「それが事件とどう関係するというの」
 ようやく口を開いた彼女の声は震えていた。その為はっきりと伝えたのだ。
「被害者の頭は、手で持った花瓶で殴られたんじゃない。足を通して蹴られたんだよ。だから通常の女性では出せない強い衝撃が生み出せた。つまり烏森の頭を花瓶で叩き割った犯人は右利きの男性ではなく、須依、お前しかいないんだ」
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