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佐々達による捜査
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佐々はまず的場に、被害者の妻である弥生から了承を得た上で、自宅の家宅捜索を行わせた。
当然刑事部長や一課長から了承して貰い、表向きは県警との共同捜査の一環として鑑識にも出動を依頼した。その為的場だけでなく、所属する五係を捜査に加えられたのだ。
伊豆にある被害者の所持品は県警が管理している。その中に取材ノートや録音機器はあったが、そこから何故井ノ島に取材を申し込んだのかは分からなかった。
ノートパソコンもあったけれどパスワードがかかっており、その番号は須依も知らない為、中身を見ることは叶わなかった。CS本部に持ち込み分析すれば、時間はかかっても確認できただろう。
しかし被害者の持ち物をそこまでしなければならない理由が、現在の所無いと県警は判断していた為にそのまま放置されていた。
佐々も被害者が意識不明の状態とはいえ、記者の命とも言える情報を勝手に覗き見るのは捜査として行き過ぎだと考えた。
もし彼が亡くなれば、遺族の了解を得て分析をかけることもできるだろう。だが今の段階では難しい。それでも須依までが知らないという井ノ島への取材目的は調べておきたかった。
家宅捜索までしたのは、伊豆の病院に駆けつけていた弥生から話を聞いた際、疑問を持ったからだ。
それは会社から一カ月間の傷病休暇を与えられていたにも関わらず、彼は怪我をして十日ほど経過した頃から、会社には内緒で外出し取材をしていた形跡があると知った為である。
「私は止めたんです。でも彼は聞きませんでした。骨折やひびなんて時間が経てば治る。コルセットで固定はしているし、無理をしなければ悪化なんてしない。ずっと家で寝てばかりいたら余計に体調が悪くなるって。だから私も無茶はせず怪我を長引かせないという条件で、目を瞑ることにしました。彼は毎日朝早く出かけていましたが、その日の晩には戻ってきました。それに体調も悪くなく痛みも引いているというので、適度に歩きまわっていた方が調子はいいのだろうと軽く考えていたんです。それが間違いでした」
涙ぐむ彼女を慰める的場が嵌めたスコープの映像を見ながら、佐々は内心猛烈に腹を立てていた。というのも、その間は組対課と二課の監視下にあったはずだ。
報告も毎日それぞれの課長から受けている。毎日家で寝ており、安静に過ごしていると聞いていた。しかしそれが出鱈目だと分かったからだ。
その為二課と組対課に直接乗り込み、どうなっているのかと問い詰めた。そこで改めて状況を確認すると、最初の一週間は間違いなくしっかり監視をしていたと彼らは弁明した。
けれども全く動きが無い為、直接の監視は早朝が組対課で夜間は二課と分担してそれぞれ二時間ずつだけになったようだ。
後は神葉やセレナ自体の動きにより注意を払っていたという。その判断は現場の人間が勝手にしたのではなく、それぞれの課長が相談の上で許可したと聞かされたのである。
しかし問題だったのは、組対課が朝の監視をしていなかったことだ。恐らく被害者はそうした動きに気付いたのだろう。そこで朝早く出かけ、二課による夜の監視が始まるまでに取材を終え帰宅していたと思われる。
監視報告の虚偽については、年上だが階級は警視正で下に当たる組対課長が平身低頭していた。けれど彼としても、部下の反発を押さえられなかった為に止むを得なかったのだと理解できた。
一度被害にあったとはいえ、組対課の刑事達が一記者でしかない人物の警護に当たるなど、現実問題としては耐えがたかったに違いない。上の命令とはいえ、全く別の部署からの公私混同にも思える理不尽な指示に反発を覚えていたようだ。
佐々としても正式な命令ではなく、あくまで組織犯罪対策部長を通じた、組対課への協力依頼に過ぎなかった。よって嘘の報告の件を除けば、強く抗議する権限はなかったともいえる。
それに監視体制を解くまでの間、二人に実害がなかったのも事実だ。他の記者と共に行動していた須依はともかく、隠れて取材し動き回っていたと思われる烏森さえ襲われていない。
結果論とは言え、組対課の判断が間違っていたとは言い難かった。その為虚偽報告の件だけ叱咤し、それ以上責任の追及はせず席に戻った。後に組対部長からは、佐々に謝罪の電話があった。
とはいっても相手は警視監で階級が上だ。警視正の組対課長とは立場が異なる。よって形式的なものにすぎず、佐々は恐縮した素振りだけみせ受話器を置いた。
気を取り直し、当初の予定通り被害者の自宅から押収した資料などを基に、傷病休暇中における彼の動向を探り始めた。伊豆に持参していたノート型とは別のパソコンもあったが、さすがにその中身までは確認できなかった。
それでもスケジュール帳や走り書きなどの痕跡、また静岡県警から彼の所持品にあった交通系ICカードの利用履歴を調べた結果を取り寄せ、足取りを追ったのである。
そこで明らかになったのは、被害者が頻繁に白通本社の最寄り駅で乗り降りしていることだった。自家用車を使い渋滞に嵌まれば、時間通り戻って来られない。その為公共交通機関を使ったのだろう。
他には逮捕された寺畑が住んでいたマンションの最寄駅、さらには経理部で容疑者の一人に挙げられた渡辺の部屋の周辺に加え、井ノ島の家がある場所へも通っていたようだ。
後は一度だけ、義肢装具士を訪ねていた。義肢装具士とは法律に基づく国家資格者で、リハビリテーションチームを構成する医療従事者の一員である。ただし他のスタッフとは異なり、一般には制作会社に勤務する社員がほとんどだという。
烏森は義足だけでなく、陸上のパラアスリートとしても活動していた為、自分に適した装着物をそうした人に維持、管理を任せていたようだ。恐らく襲われた時か何かで不具合があり、調整し直す為に訪れていたのかもしれない。
主な行動経路を分析した所、烏森は井ノ島と係わり合いがある経理部の三人を洗っていた可能性が見えてきた。その為彼が所属する東朝新聞の編集長を的場達に訪ねさせ、取材していた件について心当たりがあるかを質問させた。
しかしそれほど期待した答えは返ってこなかった。
「分かりませんね。刑事さん達もご存知のように、元々彼は傷病休暇中でしたから。調べていたとすれば、例の情報漏洩事件の可能性が一番高いでしょう。ただ話によれば、あの須依も知らされていなかったようですね。だったら違うかもしれません。例の件は二人でやっていましたし、寺畑の情報に辿り着いたのも須依のおかげです。そんな彼女に黙って取材していたというのなら、別件の可能性が高いでしょう。あの井ノ島って奴は、須依の大学時代の同級生でしたよね。だったらプライベートな件かもしれませんよ」
この程度なら佐々達でも推測できる。それでも彼は二人の上司に当たる人間だ。念の為に何か気付いた点があれば、隠すことなく早急に連絡をくれるよう伝えておいた。
「もちろんです。うちの大事な社員が殺されかけたのですから、犯人逮捕に繋がるようなら、もちろん協力は惜しみません」
彼は素直にそう言った。だがマスコミの言葉は信用できない。もし取材内容が特ダネで、秘匿しなければならない情報提供者によるものなら、例え警察が相手だとしても彼らは隠すに違いないからだ。
烏森が秘密裏に行っていた取材内容を掴む為、的場と大山には次のターゲットとして渡辺を選ばせた。直接尋ね、被害者と接触があったかを確かめる為である。
すると言った。
「東朝新聞の烏森という記者ですね。伊豆で襲われたとニュースで見ました。確かに会いましたよ。三週間くらい前だったかな」
「何を聞かれましたか」
以前面識がある大山の質問に、彼はすんなりと答えた。
「主には経理部における人間関係ですね。特に社内からの不正アクセスで疑われた私や井ノ島さん、元部長の中条さんと寺畑さんについて詳しく知りたかったようです」
彼に聴取を任せた方が良いと判断したのか、的場は聞き役に回ったようだ。
「何と答えたのですか」
「色々ですね」
そこから時間をかけて詳細に聞き取りをしたところ、大まかな形が見えてきた。その情報を元に、今度は部長から課長に降格させられ、後に部署も移動した中条と面会させた。
彼は以前被害者と須依から取材を受けたが、その後一度だけしか会っていないという。どうやら烏森は中条への取材をそれほど必要ないと判断していたらしい。それでもかつての部下だった渡辺からのネタの裏取りをする為、話を聞いたと思われる。
するといくつかの点で彼が知らない点はあったものの、認識の一致が多数確認できたようだ。よって渡辺が被害者に告げた内容は、ほぼ真実に近いと判断できる。
そこから寺畑がかつて住んでいたマンション周辺で被害者の写真を見せ聞き込みをし、足取りを追わせた。そこで彼は複数の人に取材していると分かり、何を調べているのかもかなり輪郭が明確になった。
ちなみに寺畑は逮捕され拘留中の為、彼女の親の手続きでマンションの部屋は既に解約されている。
大山達は以前須依達が寺畑を取材した際に仕入れたという、彼女が使用していたと思われるSNSのアカウントを発見した経緯を把握していた。これは本人による要請がなければ脱退手続きは無理だ。
別に使用料が発生する訳でもない為、恐らくそこまでは親に依頼していなかったらしく、まだそのまま残っていた。そこからも、これまでは全く気付かなかった手掛かりを佐々達は得たのである。
新たに入手した情報と、被害者のICカードから読み取れたいくつかの使用履歴を使って二人は捜査を進めた。そうしてかなりの証拠を掴んでから、最後に井ノ島の家を訪ねた。
この頃には静岡県警による現場待機が解け、彼も含めた宿泊者全員が帰宅の途についていた。その為事件から三日経ち、会社から早めに帰宅した夜を狙って的場はインターホンを鳴らしたのだ。
もちろん事件後から、会社を退社し帰宅するまでの行動は他の捜査員に見張らせていた。その為夜遅くにならないタイミングを待ち、訪問させたのである。
応答したのは妻の詩織だった。
「はい」
明らかに不審がっている声だ。佐々自身、彼女とは須依を通じて学生時代だけでなく社会人になってからも何度か会い、会話を交わしている。
だが今はあくまで彼女には見えない場所にいた為、的場が前に出た上でスマホの画面を見せながら告げさせた。
「夜遅くに申し訳ございません。警視庁の的場と申します。井ノ島詩織さんですね。少々お待ちください」
そこから佐々が話し始めた
「同じく警視庁の佐々晃です。覚えていませんか。同じ大学で須依さんとも親しくさせていただいた、あの佐々です」
「え? 佐々さん? ご無沙汰しています。そうでした。警察庁にお勤めでしたよね。あれ、でも今警視庁と言われませんでしたか」
知っている人物だと分かったからだろう。声のトーンが先程とは異なり明るくなった。
「よかった。覚えてくれていたのですね。実は今、警視庁に出向中でして。例の情報漏洩事件の捜査を担当しているのです。何度も恐縮なのですが、その件を含めお話を伺いたいと思い、部下を通じこうして参りました。ご主人はご在宅ですよね」
「はい。少々お待ちください」
本人に確認しているのだろう。彼は嫌がるだろうが、事件と関わり合いのないと思われる彼女なら、画面越しとはいえ同窓生との再会を拒まないと踏んでいた。
もし井ノ島が拒否すれば、何故警察に協力しないのかと訝しむに違いない。
またこれまでの捜査や須依からの話を聞く限り、以前より衰えたとはいえ八乙女財閥の娘である詩織に、彼は頭が上がらないと聞いている。変に疑われ機嫌を損ねれば、これまで以上に家庭内での立場を失うだろう。
佐々の読みは当たった。不機嫌ながらも彼の声が聞こえた。
「お待たせしました。今鍵を開けます」
門扉のロックが解除され、敷地内に入った的場達は玄関先まで進む。すると開いたドアから井ノ島が顔を出した。
まだ帰って間もなかったからだろう。服装はスーツのままで疲れた表情を浮かべていた。先日会った際のセミフォーマルを意識した明るい私服を着ていた時と比べれば、かなり老けて見える。
彼には大山が話しかけた。
「お休みのところすみません。少しお話を伺ってもいいですか。あれから色々分かったことがあり、確認したい点がありますので」
後ろに立っていた的場が目に入ったからだろう。彼はサンダルを履いて三和土に立ったまま、小声で尋ねてきた。
「それは伊豆の件ですか。それとも情報漏洩の件ですか」
「両方です。こんなところで立ち話は何ですから、中に入れて頂けると助かります。参事官も久しぶりに詩織さんともお話をしたいといわれていますので」
そう言いながらスマホの画面を彼に向けた為、佐々は改めて名乗り頭を下げた。
「須依や詩織に、そんな知り合いがいたのか。つまり俺とも同じ大学ってことだよね。前に事情聴取された時は、そんな人がいるなんて言っていなかっただろう。どうして今頃出て来るんだ」
引き続き囁くように話す彼の態度から、妻には聞かれたくないのだろうと分かった。だが敢えて、佐々はやや大きめの声で答えた。
「黙っていたつもりはありません。ただあなたとはお話しした事がありませんでしたし、わざわざお伝えするのもどうかと思い、タイミングを逃しただけです。他意はありません。それより中へは入れて頂けないのでしょうか」
「ちょっと、声が大きいよ」
彼は慌てていたが、詩織には聞こえていたようだ。引き吊った笑顔を見せながら彼女が出て来て頭を下げた。
「どうぞお上がり下さい。すみません、こんな所でお待たせして。あなた。私がお相手している間に着替えてきたら」
完全に主従関係は逆転しているらしい。彼は素直に奥へと引っ込み、的場達は応接間へと案内された。そこで二、三言葉を交わし、彼女は飲み物を用意すると言って台所へと引っ込んだ。
さすがは良家のお嬢様だ。薄化粧とはいえ、平日の夜だというのに他人と会っても恥ずかしくない身だしなみをしていた。そんな彼女を見て大山がマイクに呟いた。
「須依さんや参事官と同い年でしたよね。それにしては若く見えませんか」
「何だ。俺達が老けているとでもいうのか」
そう答えると、彼は慌てて否定した。
「いえ、そんなつもりはありません。参事官も十分若く見えますし、須依さんだってお綺麗ですよ。ただあの方が、年齢の割には童顔だと思っただけです」
彼の言う通り、須依はどちらかといえば美人タイプだ。それと対照的に詩織は可愛いタイプと言って良い。
佐々も老け顔ではないが、彼女達と比較すれば年相応だろう。また井ノ島は美容に気を付けているのか若く見える。それでも先程の顔はかつてほどの面影は薄まり、年齢を隠せていないと感じた。
しばらくするとお盆を持った彼女が現れた。
「頂き物なのでお口に合うか分かりませんが、こちらもどうぞ」
高そうなカップに入れた紅茶と一緒に、洒落た焼き菓子を出された。大山達が恐縮し頭を下げる。
「有難うございます。お気遣いなく」
佐々も画面を通じ軽く会釈すると、彼女は椅子に腰かけて話しかけてきた。
「本当にお久しぶりです。それにしてもあの佐々さんが、今回の事件を担当しているなんて奇遇ですね。今はどちらの部署にいらっしゃるのですか」
「どうぞ」
事前に用意していた佐々の名刺を、的場が胸ポケットから出し渡した。大山達も同じく渡すと、三枚を見比べて彼女は目を丸くした。
「サイバーセキュリティ対策本部参事官。しかも警視長ってすごい上の階級じゃないですか。こちらの大山さんは警視庁捜査二課、的場さんが捜査一課の方なんですね。違う部署の人が一緒に捜査するって珍しいんじゃないですか」
「はい。警部補の上が警部、警視、警視正、警視長なので、参事官は私より四階級も上です。こういう方と一緒にネット回線を通じてとはいえ、現場を歩き捜査するケースはまずありません」
大山からそう告げると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「稀なんですね、そんな方達が、何故家に来られたのですか」
これには佐々が答えた。
「事件については、ご主人からどう聞いていらっしゃいますか」
「白通のシステムに外部から不正アクセスした犯人が、機密情報の一部を漏洩した件ですよね。新聞やニュースでも見ました。それと同時に、彼のいる経理部のパソコンからもアクセスした形跡があって、彼らが疑われたと聞いています。結局は彼の部下の女性が犯人で、逮捕されましたよね。しかも中条部長からパワハラなどを受けていた腹いせだったと聞いて驚きましたよ。部長には主人もお世話になっていましたし、私も何度かお会いしましたから。そんな事をするような人には見えませんでしたけど。情報漏洩の件は暴力団関係者が逮捕されたそうですね」
マスコミへは寺畑と神葉の関係を明らかにしておらず、世間にも公表されていない。よって彼女もその通りに答えていた。
「良くご存知のようですね。ただ他にもありますが、そちらは聞いていませんか」
すると明らかに不機嫌な表情をして答えた。
「主人に取材を申し込んだ記者が、伊豆で誰かに襲われたと聞いています。でも主人にはアリバイがあったはずですよね。それが何か」
「そのアリバイを証明したのがどなたか、ご存知ですか」
言葉に詰まりながらも言った。
「須依、ですよね。佐々さんはそれで捜査に参加しているのですか」
「もちろんそれだけではありません。被害者は彼女と一緒に情報漏洩事件を取材していました。私はサイバー対策本部の参事官として不正アクセスした犯人を追い、ここにいる大山は官民の汚職等を捜査する部署の刑事として参加しています。また的場は伊豆で襲われた記者の殺人未遂事件を、静岡県警と合同で捜査しています。その為に一連の事件に関わるものを三人で調べているのですよ」
まるきりの嘘ではない。ただそれ以上詳しく説明する必要はないのでそう告げると、彼女は疑わしい目をしながらも理解したらしい。軽く頷いた。
そこで質問をしてみた。
「伊豆で襲われたのは、烏森という記者です。こちらにも来ていますよね」
「はい。最初は須依と一緒でした」
そう話した所で、部屋着に着替えた井ノ島が現れ話を遮った。
「ちょっと待ってくれ。妻は関係ない。事件についての捜査なら俺だけでいいだろう。詩織は席を外してくれ」
彼は彼女を無理やり立たせ、部屋から追い出すように扉まで連れて行った。不満げだったが諦めたのだろう。抵抗はせずそのまま外に出た。戻ってこないかを確認してから、彼は席に座り口を開いた。
「何か余計な事を聞いていないでしょうね」
ここからは大山が前に出て話し始めた。佐々の出番は部屋の中に入るまでだ。最初から事情聴取は彼らに任せるつもりだった。
「余計なとは何でしょう。聞かれたらまずいことがあるのですか」
「い、いやそういう訳じゃありませんが、」
慌てる彼に、大山は畳みかけた。
「被害者が何度もここへ来ていた件を隠そうとしても無駄ですよ。あなたは伊豆で私達に言いましたよね。突然電話をかけてきて、何度も何度もしつこく取材を申し込んできたから須依さんを同席させたと。その理由として以前は須依さんと一緒にいきなり会社を訪ねてきたが、今回は一人だと聞き不安だったからだと。彼女が同席していたら、暴走を止めてくれると期待していた。そう供述しましたよね。でも実際は違った。彼はそれ以前にもあなたと接触し、ここにも来ていた。詩織さんに聞かれてはまずいと思ったあなたは、止む無く場所を変え伊豆でなら会うと約束された。違いますか」
言葉に詰まり沈黙が続く。その反応は、こちらの指摘が正しいと教えているようなものだった。
しかしこのまま許す訳にはいかない。さらに彼を追求させた。
「被害者は伊豆へ向かう前、主にあなたの近辺を探っていたようです。経理部の渡辺さんと接触しただけでなく、逮捕された寺畑が住む周辺なども取材に訪れていました。それが何を意味するか、もうお分かりですよね。今更惚けても無駄ですよ」
額に汗を滲ませ、視線を下に向けたまま何も答えなかった。黙秘権を使うつもりかもしれない。そうはさせまいと大山が告げた。
「何も話して頂けないようなら、署までご同行頂けますか。もちろん奥様にもです。別々にお話しさせて頂き、どこまで彼女が事情を知っているか、確認しますよ」
がばっと顔を上げた彼は、必死の形相をして言った。
「待ってくれ。それだけは勘弁してくれ。確かに烏森さんは俺の近辺取材をしていた。それを妻に知られたくないから、ここから離れた伊豆で話を聞くと言ったんだ。でも彼をあんな目に合わせたのは俺じゃない。あの時は須依と一緒に居たと言っただろう。あいつもそう証言したはずだ。信じてくれ。佐々さんと言ったね。あなたが須依や詩織と面識があったのなら、俺との関係も知っているんだろう。それだったらかつて酷い事をした俺なんか、あいつが庇うはずなんてないと分かるはずだ」
足取りを追った捜査通り、被害者は井ノ島の個人的な動きについて調べていた件はこれではっきりした。だから須依に黙って動いていたのだろう。最後まで取材内容を隠していたのは、それが理由だったのだ。
しかし井ノ島が須依を同席させることを取材の条件にした為、止む無く二人で伊豆へ向かったと思われる。そこでどうやって須依に知られず、取材をしようとしたのかは分からない。
ただ方法はある。目の見えない彼女がいても、例えば筆談などで質問をし、それに答えて貰えれば取材自体は可能だ。パソコンで質問内容を打ち、その答えを打ち返させてもいいだろう。
しかし問題は、彼が言った後半部分だった。自らの後ろめたい部分を知られたくないと考え、被害者を襲う動機は十分あるのにアリバイだけが証明されている。しかもそう証言したのは須依なのだ。
この男は結婚を考えていたにも拘わらず、目が見えなくなる病気に罹った彼女を捨てた。しかもその親友だった詩織と結婚したのだ。あの時この世に絶望し傷ついている姿を、佐々は近くで見ていた。
後にどんな思いをしていたかも、本人の口から笑い話の一つのように聞かされてきた。そこまで立ち直れたのは、烏森を中心とした彼女を支える新たな仲間達がいたからだ。
そうした経緯を知る者からすれば、この男と須依が共犯だなんて想像できない。ましてや彼女が、あの烏森の頭を自らの意思で砕くような真似をするとは思えなかった。
それでも事件現場やあらゆる物的証拠を重ねれば、須依達二人が最重要参考人から外せないのは、佐々にとって揺るぎない事実だ。
被害者が何を追っていて、何故井ノ島に近づき須依を遠ざけようとしていたかの謎は解けた。しかし被害者が倒れた時、一体何があったのかを解明しなければ、事件は解決できない。
目の前で必死の形相を崩さない彼に、これ以上真実を語らせるのは困難だろう。殺人未遂事件の容疑がかかっているのだ。しかも被害者の容態が悪化し亡くなれば、殺人事件になる。未遂と殺人では刑の重さは各段に違う。よってそう簡単に認めるはずがなかった。
ここで確かめられる件がこれ以上なければ次に移るしかない。よって井ノ島との睨み合いを止め、佐々は辞去するよう彼らに告げた。
意外だったのだろう。彼はしばらく呆然としていたがようやく立ち上がり、二人を追い出すように玄関まで送り出した。
*
刑事達が出て行った後、別室から出てきた詩織は般若のような顔で竜人を睨んだ。
「やっぱり須依と何かあったんじゃないの。そうじゃなければ、佐々さんまでが首を突っ込んで来ないでしょう。烏森とかいう記者が襲われた時、彼女と二人きりだったのはどうしてなの」
「だから何度も言ったじゃないか。あの記者が何度もしつこく取材を申し込んで来るから、それを止めるよう彼女に説得してくれないかとお願いしていただけだ。襲われた記者は、彼女にも内緒にしていたというのも本当だよ」
「こんな時間にわざわざ自宅まで押しかけてきたのはどうしてなの。会社の件についてなら、勤務先へ訪ねれば済むでしょ。プライベートな件が絡んでいるからじゃないの」
ドキリとしたが竜人は惚けた。
「し、知らないよ。たまたま近くに寄ったからじゃないのか。その証拠に、それほど長くいなかっただろう」
まだ納得できないのか膨れた表情をしてはいたものの、それ以上問い詰めても無駄だと思ったのか、吐き捨てるように言った。
「とにかく私や八乙女家にこれ以上迷惑をかけるようなことがあれば、即離婚ですからね。前回の時、あなたの尻拭いの為にどれだけのお金を払ったと思っているの。今度こそはその分も含めて、慰謝料をたんまり支払って貰います。もちろん今の会社に居られるなんて思わないでね」
自分の寝室に戻ったらしい彼女の後姿を眺めながら、竜人は決意を新たにした。一年以上我慢してきた苦労を、突然現れたあんな奴に壊されてなるものか。
もし彼女から見捨てられれば身の破滅だ。あの時金を払ったのも、意に沿わない関係を続けてきたことも、全ては最悪の事態を避ける為なのだから。
幸い身辺を探っていた烏森は、不測の事態により意識不明の重体で口が利けない。そのまま死んでくれればいいが、もし意識を取り戻せば最悪の事態になる。
また今のところは互いに嘘のアリバイ供述を主張しているけれど、須依が自責の念に駆られて自白する恐れもあった。事件現場で起こったやり取りも、公になってしまう可能性がある。
そうなればまた同じく、竜人は窮地に立たされるだろう。それだけは絶対に避けたかった。その為にはやはり、あの二人の口を確実に封じなければならない。
一度は覚悟したことだ。警察にばれれば死刑になるかもしれないが、ならない可能性もある。けれど詩織に全てを知られれば、竜人は間違いなく路頭に迷う。それは死ねと言われたのも同然だ。
それならば、少しでも救われる確率が高い手段を選ぶしかない。その為にはどうすればいいか。問題は警察のマークが未だに厳しい点だ。
しかしやがては手薄になる時期が来るだろう。そこを潜り抜ければ何とかなる。いや何とかしなければならないのだ。もう後戻りは出来ない。
頭の中で以前から計画していた件を、竜人は再度考え直していた。
*
外へ出た後、的場が悔しそうに言った。
「あの程度で良かったのですか」
井ノ島は知らないだろうが、彼も須依との関係を知る一人だ。最後の過去における仕打ちを盾に、開き直ったかのような台詞を聞いてよく怒鳴らなかったものである。佐々自身が思わず叫びそうになったほどだった。
それでも彼に伝えた。
「追い込むチャンスはまだある。焦るな」
彼は頷き、息を整えている間に大山が呟いた。
「次はどうしますか」
「やはり寺畑だろう。これは現在続いている捜査にも関わってくる」
「そうですね。これまでにはなかった新たな切り口が見つかりましたし、そこから崩せるかもしれません」
寺畑は社内からの不正アクセスの罪で逮捕、起訴されていたが、佐々達の捜査により別の事実が見えてきた。これは烏森の件を追う内に見つけた副産物である。
だがこれはとてつもなく重要な情報だった。大山から二課の連中に伝えていた為、その裏取り捜査は既に始まっている。恐らく近い内に明らかな証拠が出てくるだろう。
さらにいまだ黙秘を続けている、セイナの藤原やその他構成員達との関係が確かめられれば、彼らを有罪にする証拠も固められる。新たな罪名が浮上し、再逮捕だってできるかもしれない。
刑罰が重くなり、藤原や神葉幹部の出所可能な時期が遅くなれば、組織自体の存続も危ぶまれる。そうすれば口を噤んでいる下っ端も自らの保身に走り、やがて供述し始める可能性は高い。
彼らが白通から得た機密情報の中身はまだ解明されていないが、それも時間の問題だ。
一部漏洩した際に文字化けしていた部分や、公表されていないデータが残されている。それらの分析が終われば政治家達との癒着も証明でき、悪党どもの息の根を止められるだろう。
大元の漏洩事件における、完全解決に向けた道筋はこれで見えてきた。烏森が一人で行っていた取材の謎も解けた。そこから露呈された事実は、須依と井ノ島との繋がりに大きく関与している。
よって導き出される答えは今の所一つしかない。けれどそれを立証するには、まだ足りないピースがある。動機についても推論に過ぎず、やや曖昧だ。井ノ島が難しいのなら、彼女を追い込んで供述を得たい所だが、その為にはもう少し物証が欲しい。
そう思っていたところに、鑑識から新たな報告が上がって来た。それは被害者が倒れていた部屋の内線電話の受話器、及び番号ボタンに、何かで突かれた傷の正体が分かったという。
付着していた微物を分析した結果、ゴム素材と判明。しかも主に視覚障害者が使用する白杖の先端、石突と呼ばれる部分で使われるものだと突き止めたのだ。
白杖の石突は基本的にナイロン素材が使われ、丈夫で滑りやすいことが最大の条件とされており、それぞれ特徴があるという。
初めから白杖に付属しているペンシルチップという先端が細いものは路面との引っ掛かりが多く、小さな段差や境界線の検知に優れているらしい。ただそのひっかかりが、歩く際のストレスにもなりやすいようだ。
他に取り換え可能なマシュマロチップ、ローラーチップ、パームチップなどの種類があり、どれも丸みがある為路面の凹凸への引っ掛かりが無いに等しいという。その分ストレスが無いので、ペンシルチップと比べれば快適に歩けるそうだ。
これらの中から鑑識は、パームチップで使われるゴム素材だと突き止めた。さらには同じ微物が、被害者の頭を砕いた花瓶の欠片からも微量ながら検出されたという。
よって当時宿泊していた人達の所持品でゴムが使われているものの分析はもちろん、須依に白杖の提出を求めたと報告を受けている。その検査結果は一両日中に出るようだが、恐らく彼女の物で間違いないだろう。
そうした物証から、少なくとも被害者が血を流して倒れた際、フロントに電話をかけたのが須依である確率は高くなった。
普通の視覚障害者なら困難だろうが、空間認識能力の高い彼女ならそれぐらいの芸当はできるはずだ。佐々や的場達は直ぐにそう思った。また凶器を使ったのも彼女だと考えられる。
もちろん別の人物が、彼女を罪に着せようと白杖を使った可能性はあった。だがその場合、まず彼女から杖を奪わなければならない。しかも花瓶はともかく、健常者がわざわざ白杖の先端で小さな電話のプッシュボタンを押すなど、現実的には困難だろう。
その場所にいた形跡を残すならば、別の方法もある。なのに何故フロントに連絡し、人が駆け付けるよう仕向けたのかと考えれば、辻褄が合わない。最初から殺すつもりなら、そのまま放って置けばいいのだから。
けれど彼女が犯人なら、襲った際の感触で被害者はかなりの重傷を負ったと気付き、怖くなってフロントに助けを呼んだ可能性はある。そうなると、本気で殺そうとまでは考えていなかったのかもしれない。
しかし佐々の読みが正しければ、カッとなって咄嗟に取った行動にしては矛盾が生じる。またその場に井ノ島がいたのか、それともいなかったのか。さらに何故二人はアリバイを証明し合い、庇うような真似をしているのかという謎はまだ解けていない。
こうなれば、ここまでの捜査結果を本人に直接ぶつけ、自白を促す方が解決は早いと思われた。同じ情報を共有し、佐々の推測を聞いた的場や大山もそれがいいだろうと同意している。
それでも佐々は躊躇した。一方であの強情な須依が、そう簡単に口を割ると思えなかったからだ。それならもっと早い段階で真実を告げていたに違いない。
勘が鋭い彼女なら、警察に白杖の先端部分の提出を促された時点で、フロントに電話をかけた件を指摘されると気付いたはずだ。
にもかかわらずまだ自首していないところを見ると、何か固い信念を持った行動ではないかと思われた。そんな彼女が築いた砦を崩すには、もっと決定的な一撃が必要ではないだろうか。
その為、これまでの捜査で分かった点とそこから推理した流れを頭の中で整理し直した。
まず被害者は、傷病休暇中に祖対課のマークが緩くなったと気付き、それを利用して井ノ島や寺畑の周辺を取材し始めている。そこである事実を突き止め、それを確認または認めさせる為、井ノ島に取材と称して面会を申し出た。
秘密を知られた井ノ島は、東京から離れた伊豆でなら会うと持ちかける。さらには須依の同席を条件にした。それを被害者が嫌ったのも、目的を考えれば当然だ。
けれど彼女がいても問い詰める方法を思いついたか、知られても良いと覚悟を決めた為に条件を飲み、二人で伊豆に向かったと思われる。
被害者が所持していたパソコンの中身を調べれば、恐らく確証が得られるだろう。ただ残念ながら、現時点ではそれができない。しかし被害者が死亡、または意識を取り戻せば可能となる。よってこの点はそう遠くない内に結論が出るだろう。
問題は、何故井ノ島が須依を同席させたかという点だ。本当に被害者の暴走を止める為だったのか。それとも別の意図があったのか。また何故伊豆だったのか。
そこで佐々はある可能性に気付いた。やはり二人は被害者の部屋にいたのだ。そこで事件が起こり、彼らは須依の部屋に隠れた後、従業員達が被害者を発見し騒ぎ出した。それを見て、二人は互いのアリバイを証言し合う約束をしたのだろう。
けれどここで決定的な謎にぶつかる。彼女がどうしてそんな取り引きに応じたのか。被害者をあのような目に遭わせた原因が自分にあると罪の意識を持ったなら、素直に告白すればいいだけだ。
しかもフロントに電話をしたくらいなら、二人が犯した過ちを何故隠そうとするのか。素直に名乗り出れば、罪が軽減されると彼女が理解できないとは思えなかった。
罪の意識が強すぎて、意図的に重い罰を受けようとしているのだろうか。責任感の強い彼女なら、それ位はしかねない。
ただそうだとすれば、井ノ島がそれを手伝う理由はない。犯人が捕まらなければ、アリバイがあるといっても動機のある彼は、やがて疑いの目を向けられると恐れただろう。ならば彼女を警察に突き出せば済むはずだ。
そうしない、またはできない理由があるのではないか。そこまで考えが至った時点で、ふと思い当たった。彼が最も恐れているのは、被害者が辿り着いた事実を明らかにされることだ。
それはもう佐々達に知られたが、逮捕して公表する情報ではない。よって警察から洩れる心配はなかった。ならば彼は今、何を最も危惧しているかを考えた場合、一つだけあると気付いたのだ。
東京に戻った後も、須依を含めた二人は二課の刑事達により監視されている。よって下手な動きはできないだろう。けれどそれで良いのかと考え直す。
もし被害者が亡くなれば、秘密は闇に葬られる確率が高い。しかし意識が戻れば、それは叶わなくなる。そうした事態を避けたい人物は、佐々の推理が正しければ一人だけしかいない。
そこでいちかばちか、罠を仕掛けようと企んだ。それはその人物の監視を、表面上だけ解く事である。そうすれば、まだ伊豆の病院の集中治療室で眠っている被害者の命を狙うかもしれない。そう考えたのだ。
もちろん県警にも協力を得る必要があった。彼らは被害者を襲ったのは神葉の息がかかった人物だと、未だに疑っている。よって再度襲撃を受けないよう、二十四時間病室の前に立ち警戒をしていた。
彼らがいると佐々の計画は成功しない。よって話を通した上で立ち番に隙を作らせ、その情報を自然な形で相手に伝えれば、何らかの動きを見せると期待したのだ。
佐々がこれらの計画を的場や大山に伝えた所、彼らは揃って眉間に皺を寄せた。真っ先に異議を唱えたのは大山だった。
「参事官。お言葉ですが、余りにも危険です。それに必ず動くとも限りませんよね」
「だが相手の立場になってみろ。死んでくれればいいが、もし息を吹き返せば身の破滅だ。一度は覚悟していたのだから、チャンスがあれば再度試みようとしてもおかしくない」
「それは参事官の推理が当たっていた場合ですよね。もし違っていたらどうなりますか」
「もし外れていれば、何も起こらないだけで失うものはない。いや事件から四日経過し、まだ何とか持ち堪えている今だけしかできない計画だ。それに山場と言われている一週間まで時間がない」
「そうかもしれませんが、県警にどう説明するおつもりですか」
「詳細は話さなくていい。単に罠を仕掛けるとだけ言っておこう。本当に警戒を解く訳ではないからな。神葉が関係する別のフロント企業を通じ、情報を流すとでも説明すれば納得するはずだ」
彼らとは階級の差が違い過ぎるからだろう。結果的に逆らえないと判断したらしい。よって二人は指示通り根回しを行い、作戦に取り掛かったのだ。
それを受けて佐々は事前に連絡をした上で、昼間に須依の元を訪ねた。彼女は伊豆から戻った後、心労を理由に東朝から請け負った仕事を全て断り、自宅に籠っているとの報告は受けていた。
東朝としても烏森があのような事件に巻き込まれたのだ。それに関わる取材をしていた彼女が気落ちするのは当然だと思ったらしい。
無理しないでゆっくり休み、元気になったらまた声をかけてくれと伝えたという。
彼女が親と同居しているオートロック式のマンションのインターホンを押すと、応答した為名乗った。この時間は両親が出かけていると聞いていたからだ。
「佐々だ。電話で言った通り、俺一人だけどいいか」
やや間を空けた後、返答があった。
「うん。今開ける」
ロックが解除され、扉が開いた為に中へと入る。場所は知っていたが、訪れたのは初めてだ。当然部屋に上がったこともない。
やや緊張しながらもエレベーターに乗って、彼女の部屋がある階で降り扉の前についた。そこでもう一度インターホンを押す。そこで再び名乗ると彼女は言った。
「ちょっと待ってね」
しばらくして開錠した音がし、ゆっくりとドアが開いた。顔色が悪く、化粧っけも全くない彼女が顔を覗かせた。その姿を見て驚きながらも、扉を手で押さえつつ言った。
「悪いな。体調はどうだ。ずっと休んでいるんだろう」
「どうせ監視している人から聞いているでしょ。いいから入って。スリッパを出しておいたから、それを履いてね。リビングで話しましょう。あと鍵も閉めておいてね」
「分かった」
後ろ手でドアを閉めてから、言われた通りにする。靴を脱ぎ、彼女が入って行った部屋へと移動した。
キッチンやダイニングと繋がったリビングに通され、ソファに座るよう促される。彼女もその正面に腰かけた。
まずは佐々から話しかけた。
「須依の聴覚や気配を読む鋭さは知っているが、それでも監視を気付かれるとは刑事としてまだまだ未熟だな。俺から言っておこう。だがそれも今日辺りに解かれるだろうけどな」
「それはどうして。井ノ島君にも付いているみたいだけど、そっちはどうなるの」
「なんだよ。あっちも気付かれているのか。だらしないな。それにしてもあいつと連絡を取っているのか。珍しい事もあるもんだな」
「私はそうでもないけど、彼はすごく過敏になっているからじゃないかな。だから監視にも気が付いたんだと思う」
「どうしてそれ程過敏になるんだ。ああ、すまん。そういう話をしに来るんじゃないと言ったよな。ただ俺は須依を心配してきたんだ。もちろん烏森さんを襲撃した犯人を、まだ捕まえられていない件の責任は感じている。だがそっちの捜査権限はないからどうしようもない。同じ警察として頭を下げるだけだ」
「佐々君にそんなことをして貰っても、烏森さんが助かる訳ではないでしょう。だったら無駄よ」
「彼の容態について、何か聞いているのか」
「昨日も電話で奥さんに聞いた。まだ予断を許さない状況が続いているけど、少し持ち直す可能性がでてきたって。それで伊豆に見舞いへ行こうとしたけれど、私が行ったって何も出来ないからやめた。彼にも失礼だし、これまでも何度か思い直してきたようにね」
彼女は大きく溜息をつき俯いた。佐々は頷き告げた。
「そうか。ちなみに彼の警護も解くらしい。県警から報告があった。俺としては早すぎると思ったが、これも向こうの管轄だ。口出しは出来ないからな」
急に顔を上げた彼女は、険しい表情をして尋ねてきた。
「どうして。彼は襲われたのよ。警備は必要でしょう」
「俺に言われてもな。県警の判断だ。それを受けて、こっちの監視も解く判断をしたのだろう。警視庁としても、必要以上の人員は避けないと考えているようだ。情報漏洩の件だって、裏取りの為に皆かなり走り回っている。事件は他にもあるからな。CS本部でさえ、その他のハッキングやネットを使った詐欺等の対応で忙しい。しかし神葉やセンナの周辺は引き続き監視を続けている。だから安心しろとまでは言えないが、以前ほど危険は少ないと思う。ただ油断はしない方がいい」
「そうなんだ」
再び顔を伏せた彼女に問いかけた。
「時々、買い物で外出する以外は出ていないらしいな。仕事も全部断ったと聞いている。烏森さんがああなった事態に責任を感じているようだけど、須依が落ち込まなくて良いだろう。話によれば、井ノ島に取材していた件も隠されていたんだろ。しかも伊豆に同行するよう条件を付けたのは、井ノ島だって言うじゃないか。それが無ければ須依は蚊帳の外で、今回の事件に関わっていなかったはずだろう。それに今回はたまたま近くにいただけじゃないか。少し心身を休ませるのはいいが、部屋でずっと一人籠りっきりなっていると、余計な事ばかり考えるから余り良くない。的場も心配していたぞ」
「そんな事を言いにわざわざ来たの」
「そうさ。それに元はといえば、俺が情報漏洩事件の捜査線上に井ノ島の名前が挙がっていると、お前に匂わせたのがそもそもの始まりだ。そんな真似をしなければ、烏森さんが巻き込まれることも無かった。俺だって責任を感じているんだよ」
「それは違うわよ。あなたが色々裏で動いてくれていたからじゃない。だから神奈川で襲われた時はあの程度で済んだの。調子に乗って警戒を怠り取材を進めたのは私なのよ」
「分かった。分かったよ。責任感の強いお前ならそう考え、一人で抱え込むだろうと思っていたがその通りだったな。俺や他人がいくら言ったって聞かないのも理解している。だけど時に割り切りは必要だ。ある程度のところで自分を許してやってもいいんじゃないか。烏森さんだって、自分の事でお前が苦しむ姿は見たくないと思うぞ」
彼女は何か言いかけたが、唇を噛んで黙った。これ以上長くいても追いつめてしまうだけだ。それに女性一人しかいない部屋に二人きりでいるのも、周辺住民に余計な誤解を招く恐れだってある。
そう思い、佐々は席を立った。
「帰るの」
「ああ。顔を見て、伝えたいことは言ったから用は済んだ。とにかく休め。もし何か相談があればいつでも連絡してくれ。俺に話しにくいと思うなら的場でもいい。烏森がいなくても、他に頼っていい奴らはいる。それだけは覚えておいてくれ」
そう言い残し、佐々は玄関に向かって歩き出した。後からついてくる彼女に背を向けたまま靴を履き、ドアを開け外へ出た。その際、ちらりと彼女の様子を伺ったが、やはり顔色は悪いままだ。
内側から鍵をかける音を確認してから廊下を歩き、再びエレベーターに乗って下に降りる。マンションを出てしばらく歩き、距離を取ったところで連絡を入れた。
「今、須依に伝えた。今日中に監視網を遠ざけろ。県警には俺から伝えておく。だが気を抜くな。動き出したら県警との連携は密にしろ。そこを怠ると大事になるぞ」
「了解しました」
電話を切った後、事前に打ち合わせしておいた県警に伝え、作戦の実行に取り掛かった。これで相手がこちらの思惑通りに動けば、伊豆の事件は解決に向かうはずだ。
しかし最も懸念するのは、それまで被害者の容態が急変しないかどうかだった。彼が死亡してしまえば、計画は変更せざるを得ない。その後は全く別の様相を見せるだろう。
後者の場合は、佐々にとっても最悪の事態だ。絶対に避けたいが、こればかりは医者の腕と被害者の生命力を信じるしかない。自分達に出来るのは、ただ祈るばかりだった。
当然刑事部長や一課長から了承して貰い、表向きは県警との共同捜査の一環として鑑識にも出動を依頼した。その為的場だけでなく、所属する五係を捜査に加えられたのだ。
伊豆にある被害者の所持品は県警が管理している。その中に取材ノートや録音機器はあったが、そこから何故井ノ島に取材を申し込んだのかは分からなかった。
ノートパソコンもあったけれどパスワードがかかっており、その番号は須依も知らない為、中身を見ることは叶わなかった。CS本部に持ち込み分析すれば、時間はかかっても確認できただろう。
しかし被害者の持ち物をそこまでしなければならない理由が、現在の所無いと県警は判断していた為にそのまま放置されていた。
佐々も被害者が意識不明の状態とはいえ、記者の命とも言える情報を勝手に覗き見るのは捜査として行き過ぎだと考えた。
もし彼が亡くなれば、遺族の了解を得て分析をかけることもできるだろう。だが今の段階では難しい。それでも須依までが知らないという井ノ島への取材目的は調べておきたかった。
家宅捜索までしたのは、伊豆の病院に駆けつけていた弥生から話を聞いた際、疑問を持ったからだ。
それは会社から一カ月間の傷病休暇を与えられていたにも関わらず、彼は怪我をして十日ほど経過した頃から、会社には内緒で外出し取材をしていた形跡があると知った為である。
「私は止めたんです。でも彼は聞きませんでした。骨折やひびなんて時間が経てば治る。コルセットで固定はしているし、無理をしなければ悪化なんてしない。ずっと家で寝てばかりいたら余計に体調が悪くなるって。だから私も無茶はせず怪我を長引かせないという条件で、目を瞑ることにしました。彼は毎日朝早く出かけていましたが、その日の晩には戻ってきました。それに体調も悪くなく痛みも引いているというので、適度に歩きまわっていた方が調子はいいのだろうと軽く考えていたんです。それが間違いでした」
涙ぐむ彼女を慰める的場が嵌めたスコープの映像を見ながら、佐々は内心猛烈に腹を立てていた。というのも、その間は組対課と二課の監視下にあったはずだ。
報告も毎日それぞれの課長から受けている。毎日家で寝ており、安静に過ごしていると聞いていた。しかしそれが出鱈目だと分かったからだ。
その為二課と組対課に直接乗り込み、どうなっているのかと問い詰めた。そこで改めて状況を確認すると、最初の一週間は間違いなくしっかり監視をしていたと彼らは弁明した。
けれども全く動きが無い為、直接の監視は早朝が組対課で夜間は二課と分担してそれぞれ二時間ずつだけになったようだ。
後は神葉やセレナ自体の動きにより注意を払っていたという。その判断は現場の人間が勝手にしたのではなく、それぞれの課長が相談の上で許可したと聞かされたのである。
しかし問題だったのは、組対課が朝の監視をしていなかったことだ。恐らく被害者はそうした動きに気付いたのだろう。そこで朝早く出かけ、二課による夜の監視が始まるまでに取材を終え帰宅していたと思われる。
監視報告の虚偽については、年上だが階級は警視正で下に当たる組対課長が平身低頭していた。けれど彼としても、部下の反発を押さえられなかった為に止むを得なかったのだと理解できた。
一度被害にあったとはいえ、組対課の刑事達が一記者でしかない人物の警護に当たるなど、現実問題としては耐えがたかったに違いない。上の命令とはいえ、全く別の部署からの公私混同にも思える理不尽な指示に反発を覚えていたようだ。
佐々としても正式な命令ではなく、あくまで組織犯罪対策部長を通じた、組対課への協力依頼に過ぎなかった。よって嘘の報告の件を除けば、強く抗議する権限はなかったともいえる。
それに監視体制を解くまでの間、二人に実害がなかったのも事実だ。他の記者と共に行動していた須依はともかく、隠れて取材し動き回っていたと思われる烏森さえ襲われていない。
結果論とは言え、組対課の判断が間違っていたとは言い難かった。その為虚偽報告の件だけ叱咤し、それ以上責任の追及はせず席に戻った。後に組対部長からは、佐々に謝罪の電話があった。
とはいっても相手は警視監で階級が上だ。警視正の組対課長とは立場が異なる。よって形式的なものにすぎず、佐々は恐縮した素振りだけみせ受話器を置いた。
気を取り直し、当初の予定通り被害者の自宅から押収した資料などを基に、傷病休暇中における彼の動向を探り始めた。伊豆に持参していたノート型とは別のパソコンもあったが、さすがにその中身までは確認できなかった。
それでもスケジュール帳や走り書きなどの痕跡、また静岡県警から彼の所持品にあった交通系ICカードの利用履歴を調べた結果を取り寄せ、足取りを追ったのである。
そこで明らかになったのは、被害者が頻繁に白通本社の最寄り駅で乗り降りしていることだった。自家用車を使い渋滞に嵌まれば、時間通り戻って来られない。その為公共交通機関を使ったのだろう。
他には逮捕された寺畑が住んでいたマンションの最寄駅、さらには経理部で容疑者の一人に挙げられた渡辺の部屋の周辺に加え、井ノ島の家がある場所へも通っていたようだ。
後は一度だけ、義肢装具士を訪ねていた。義肢装具士とは法律に基づく国家資格者で、リハビリテーションチームを構成する医療従事者の一員である。ただし他のスタッフとは異なり、一般には制作会社に勤務する社員がほとんどだという。
烏森は義足だけでなく、陸上のパラアスリートとしても活動していた為、自分に適した装着物をそうした人に維持、管理を任せていたようだ。恐らく襲われた時か何かで不具合があり、調整し直す為に訪れていたのかもしれない。
主な行動経路を分析した所、烏森は井ノ島と係わり合いがある経理部の三人を洗っていた可能性が見えてきた。その為彼が所属する東朝新聞の編集長を的場達に訪ねさせ、取材していた件について心当たりがあるかを質問させた。
しかしそれほど期待した答えは返ってこなかった。
「分かりませんね。刑事さん達もご存知のように、元々彼は傷病休暇中でしたから。調べていたとすれば、例の情報漏洩事件の可能性が一番高いでしょう。ただ話によれば、あの須依も知らされていなかったようですね。だったら違うかもしれません。例の件は二人でやっていましたし、寺畑の情報に辿り着いたのも須依のおかげです。そんな彼女に黙って取材していたというのなら、別件の可能性が高いでしょう。あの井ノ島って奴は、須依の大学時代の同級生でしたよね。だったらプライベートな件かもしれませんよ」
この程度なら佐々達でも推測できる。それでも彼は二人の上司に当たる人間だ。念の為に何か気付いた点があれば、隠すことなく早急に連絡をくれるよう伝えておいた。
「もちろんです。うちの大事な社員が殺されかけたのですから、犯人逮捕に繋がるようなら、もちろん協力は惜しみません」
彼は素直にそう言った。だがマスコミの言葉は信用できない。もし取材内容が特ダネで、秘匿しなければならない情報提供者によるものなら、例え警察が相手だとしても彼らは隠すに違いないからだ。
烏森が秘密裏に行っていた取材内容を掴む為、的場と大山には次のターゲットとして渡辺を選ばせた。直接尋ね、被害者と接触があったかを確かめる為である。
すると言った。
「東朝新聞の烏森という記者ですね。伊豆で襲われたとニュースで見ました。確かに会いましたよ。三週間くらい前だったかな」
「何を聞かれましたか」
以前面識がある大山の質問に、彼はすんなりと答えた。
「主には経理部における人間関係ですね。特に社内からの不正アクセスで疑われた私や井ノ島さん、元部長の中条さんと寺畑さんについて詳しく知りたかったようです」
彼に聴取を任せた方が良いと判断したのか、的場は聞き役に回ったようだ。
「何と答えたのですか」
「色々ですね」
そこから時間をかけて詳細に聞き取りをしたところ、大まかな形が見えてきた。その情報を元に、今度は部長から課長に降格させられ、後に部署も移動した中条と面会させた。
彼は以前被害者と須依から取材を受けたが、その後一度だけしか会っていないという。どうやら烏森は中条への取材をそれほど必要ないと判断していたらしい。それでもかつての部下だった渡辺からのネタの裏取りをする為、話を聞いたと思われる。
するといくつかの点で彼が知らない点はあったものの、認識の一致が多数確認できたようだ。よって渡辺が被害者に告げた内容は、ほぼ真実に近いと判断できる。
そこから寺畑がかつて住んでいたマンション周辺で被害者の写真を見せ聞き込みをし、足取りを追わせた。そこで彼は複数の人に取材していると分かり、何を調べているのかもかなり輪郭が明確になった。
ちなみに寺畑は逮捕され拘留中の為、彼女の親の手続きでマンションの部屋は既に解約されている。
大山達は以前須依達が寺畑を取材した際に仕入れたという、彼女が使用していたと思われるSNSのアカウントを発見した経緯を把握していた。これは本人による要請がなければ脱退手続きは無理だ。
別に使用料が発生する訳でもない為、恐らくそこまでは親に依頼していなかったらしく、まだそのまま残っていた。そこからも、これまでは全く気付かなかった手掛かりを佐々達は得たのである。
新たに入手した情報と、被害者のICカードから読み取れたいくつかの使用履歴を使って二人は捜査を進めた。そうしてかなりの証拠を掴んでから、最後に井ノ島の家を訪ねた。
この頃には静岡県警による現場待機が解け、彼も含めた宿泊者全員が帰宅の途についていた。その為事件から三日経ち、会社から早めに帰宅した夜を狙って的場はインターホンを鳴らしたのだ。
もちろん事件後から、会社を退社し帰宅するまでの行動は他の捜査員に見張らせていた。その為夜遅くにならないタイミングを待ち、訪問させたのである。
応答したのは妻の詩織だった。
「はい」
明らかに不審がっている声だ。佐々自身、彼女とは須依を通じて学生時代だけでなく社会人になってからも何度か会い、会話を交わしている。
だが今はあくまで彼女には見えない場所にいた為、的場が前に出た上でスマホの画面を見せながら告げさせた。
「夜遅くに申し訳ございません。警視庁の的場と申します。井ノ島詩織さんですね。少々お待ちください」
そこから佐々が話し始めた
「同じく警視庁の佐々晃です。覚えていませんか。同じ大学で須依さんとも親しくさせていただいた、あの佐々です」
「え? 佐々さん? ご無沙汰しています。そうでした。警察庁にお勤めでしたよね。あれ、でも今警視庁と言われませんでしたか」
知っている人物だと分かったからだろう。声のトーンが先程とは異なり明るくなった。
「よかった。覚えてくれていたのですね。実は今、警視庁に出向中でして。例の情報漏洩事件の捜査を担当しているのです。何度も恐縮なのですが、その件を含めお話を伺いたいと思い、部下を通じこうして参りました。ご主人はご在宅ですよね」
「はい。少々お待ちください」
本人に確認しているのだろう。彼は嫌がるだろうが、事件と関わり合いのないと思われる彼女なら、画面越しとはいえ同窓生との再会を拒まないと踏んでいた。
もし井ノ島が拒否すれば、何故警察に協力しないのかと訝しむに違いない。
またこれまでの捜査や須依からの話を聞く限り、以前より衰えたとはいえ八乙女財閥の娘である詩織に、彼は頭が上がらないと聞いている。変に疑われ機嫌を損ねれば、これまで以上に家庭内での立場を失うだろう。
佐々の読みは当たった。不機嫌ながらも彼の声が聞こえた。
「お待たせしました。今鍵を開けます」
門扉のロックが解除され、敷地内に入った的場達は玄関先まで進む。すると開いたドアから井ノ島が顔を出した。
まだ帰って間もなかったからだろう。服装はスーツのままで疲れた表情を浮かべていた。先日会った際のセミフォーマルを意識した明るい私服を着ていた時と比べれば、かなり老けて見える。
彼には大山が話しかけた。
「お休みのところすみません。少しお話を伺ってもいいですか。あれから色々分かったことがあり、確認したい点がありますので」
後ろに立っていた的場が目に入ったからだろう。彼はサンダルを履いて三和土に立ったまま、小声で尋ねてきた。
「それは伊豆の件ですか。それとも情報漏洩の件ですか」
「両方です。こんなところで立ち話は何ですから、中に入れて頂けると助かります。参事官も久しぶりに詩織さんともお話をしたいといわれていますので」
そう言いながらスマホの画面を彼に向けた為、佐々は改めて名乗り頭を下げた。
「須依や詩織に、そんな知り合いがいたのか。つまり俺とも同じ大学ってことだよね。前に事情聴取された時は、そんな人がいるなんて言っていなかっただろう。どうして今頃出て来るんだ」
引き続き囁くように話す彼の態度から、妻には聞かれたくないのだろうと分かった。だが敢えて、佐々はやや大きめの声で答えた。
「黙っていたつもりはありません。ただあなたとはお話しした事がありませんでしたし、わざわざお伝えするのもどうかと思い、タイミングを逃しただけです。他意はありません。それより中へは入れて頂けないのでしょうか」
「ちょっと、声が大きいよ」
彼は慌てていたが、詩織には聞こえていたようだ。引き吊った笑顔を見せながら彼女が出て来て頭を下げた。
「どうぞお上がり下さい。すみません、こんな所でお待たせして。あなた。私がお相手している間に着替えてきたら」
完全に主従関係は逆転しているらしい。彼は素直に奥へと引っ込み、的場達は応接間へと案内された。そこで二、三言葉を交わし、彼女は飲み物を用意すると言って台所へと引っ込んだ。
さすがは良家のお嬢様だ。薄化粧とはいえ、平日の夜だというのに他人と会っても恥ずかしくない身だしなみをしていた。そんな彼女を見て大山がマイクに呟いた。
「須依さんや参事官と同い年でしたよね。それにしては若く見えませんか」
「何だ。俺達が老けているとでもいうのか」
そう答えると、彼は慌てて否定した。
「いえ、そんなつもりはありません。参事官も十分若く見えますし、須依さんだってお綺麗ですよ。ただあの方が、年齢の割には童顔だと思っただけです」
彼の言う通り、須依はどちらかといえば美人タイプだ。それと対照的に詩織は可愛いタイプと言って良い。
佐々も老け顔ではないが、彼女達と比較すれば年相応だろう。また井ノ島は美容に気を付けているのか若く見える。それでも先程の顔はかつてほどの面影は薄まり、年齢を隠せていないと感じた。
しばらくするとお盆を持った彼女が現れた。
「頂き物なのでお口に合うか分かりませんが、こちらもどうぞ」
高そうなカップに入れた紅茶と一緒に、洒落た焼き菓子を出された。大山達が恐縮し頭を下げる。
「有難うございます。お気遣いなく」
佐々も画面を通じ軽く会釈すると、彼女は椅子に腰かけて話しかけてきた。
「本当にお久しぶりです。それにしてもあの佐々さんが、今回の事件を担当しているなんて奇遇ですね。今はどちらの部署にいらっしゃるのですか」
「どうぞ」
事前に用意していた佐々の名刺を、的場が胸ポケットから出し渡した。大山達も同じく渡すと、三枚を見比べて彼女は目を丸くした。
「サイバーセキュリティ対策本部参事官。しかも警視長ってすごい上の階級じゃないですか。こちらの大山さんは警視庁捜査二課、的場さんが捜査一課の方なんですね。違う部署の人が一緒に捜査するって珍しいんじゃないですか」
「はい。警部補の上が警部、警視、警視正、警視長なので、参事官は私より四階級も上です。こういう方と一緒にネット回線を通じてとはいえ、現場を歩き捜査するケースはまずありません」
大山からそう告げると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「稀なんですね、そんな方達が、何故家に来られたのですか」
これには佐々が答えた。
「事件については、ご主人からどう聞いていらっしゃいますか」
「白通のシステムに外部から不正アクセスした犯人が、機密情報の一部を漏洩した件ですよね。新聞やニュースでも見ました。それと同時に、彼のいる経理部のパソコンからもアクセスした形跡があって、彼らが疑われたと聞いています。結局は彼の部下の女性が犯人で、逮捕されましたよね。しかも中条部長からパワハラなどを受けていた腹いせだったと聞いて驚きましたよ。部長には主人もお世話になっていましたし、私も何度かお会いしましたから。そんな事をするような人には見えませんでしたけど。情報漏洩の件は暴力団関係者が逮捕されたそうですね」
マスコミへは寺畑と神葉の関係を明らかにしておらず、世間にも公表されていない。よって彼女もその通りに答えていた。
「良くご存知のようですね。ただ他にもありますが、そちらは聞いていませんか」
すると明らかに不機嫌な表情をして答えた。
「主人に取材を申し込んだ記者が、伊豆で誰かに襲われたと聞いています。でも主人にはアリバイがあったはずですよね。それが何か」
「そのアリバイを証明したのがどなたか、ご存知ですか」
言葉に詰まりながらも言った。
「須依、ですよね。佐々さんはそれで捜査に参加しているのですか」
「もちろんそれだけではありません。被害者は彼女と一緒に情報漏洩事件を取材していました。私はサイバー対策本部の参事官として不正アクセスした犯人を追い、ここにいる大山は官民の汚職等を捜査する部署の刑事として参加しています。また的場は伊豆で襲われた記者の殺人未遂事件を、静岡県警と合同で捜査しています。その為に一連の事件に関わるものを三人で調べているのですよ」
まるきりの嘘ではない。ただそれ以上詳しく説明する必要はないのでそう告げると、彼女は疑わしい目をしながらも理解したらしい。軽く頷いた。
そこで質問をしてみた。
「伊豆で襲われたのは、烏森という記者です。こちらにも来ていますよね」
「はい。最初は須依と一緒でした」
そう話した所で、部屋着に着替えた井ノ島が現れ話を遮った。
「ちょっと待ってくれ。妻は関係ない。事件についての捜査なら俺だけでいいだろう。詩織は席を外してくれ」
彼は彼女を無理やり立たせ、部屋から追い出すように扉まで連れて行った。不満げだったが諦めたのだろう。抵抗はせずそのまま外に出た。戻ってこないかを確認してから、彼は席に座り口を開いた。
「何か余計な事を聞いていないでしょうね」
ここからは大山が前に出て話し始めた。佐々の出番は部屋の中に入るまでだ。最初から事情聴取は彼らに任せるつもりだった。
「余計なとは何でしょう。聞かれたらまずいことがあるのですか」
「い、いやそういう訳じゃありませんが、」
慌てる彼に、大山は畳みかけた。
「被害者が何度もここへ来ていた件を隠そうとしても無駄ですよ。あなたは伊豆で私達に言いましたよね。突然電話をかけてきて、何度も何度もしつこく取材を申し込んできたから須依さんを同席させたと。その理由として以前は須依さんと一緒にいきなり会社を訪ねてきたが、今回は一人だと聞き不安だったからだと。彼女が同席していたら、暴走を止めてくれると期待していた。そう供述しましたよね。でも実際は違った。彼はそれ以前にもあなたと接触し、ここにも来ていた。詩織さんに聞かれてはまずいと思ったあなたは、止む無く場所を変え伊豆でなら会うと約束された。違いますか」
言葉に詰まり沈黙が続く。その反応は、こちらの指摘が正しいと教えているようなものだった。
しかしこのまま許す訳にはいかない。さらに彼を追求させた。
「被害者は伊豆へ向かう前、主にあなたの近辺を探っていたようです。経理部の渡辺さんと接触しただけでなく、逮捕された寺畑が住む周辺なども取材に訪れていました。それが何を意味するか、もうお分かりですよね。今更惚けても無駄ですよ」
額に汗を滲ませ、視線を下に向けたまま何も答えなかった。黙秘権を使うつもりかもしれない。そうはさせまいと大山が告げた。
「何も話して頂けないようなら、署までご同行頂けますか。もちろん奥様にもです。別々にお話しさせて頂き、どこまで彼女が事情を知っているか、確認しますよ」
がばっと顔を上げた彼は、必死の形相をして言った。
「待ってくれ。それだけは勘弁してくれ。確かに烏森さんは俺の近辺取材をしていた。それを妻に知られたくないから、ここから離れた伊豆で話を聞くと言ったんだ。でも彼をあんな目に合わせたのは俺じゃない。あの時は須依と一緒に居たと言っただろう。あいつもそう証言したはずだ。信じてくれ。佐々さんと言ったね。あなたが須依や詩織と面識があったのなら、俺との関係も知っているんだろう。それだったらかつて酷い事をした俺なんか、あいつが庇うはずなんてないと分かるはずだ」
足取りを追った捜査通り、被害者は井ノ島の個人的な動きについて調べていた件はこれではっきりした。だから須依に黙って動いていたのだろう。最後まで取材内容を隠していたのは、それが理由だったのだ。
しかし井ノ島が須依を同席させることを取材の条件にした為、止む無く二人で伊豆へ向かったと思われる。そこでどうやって須依に知られず、取材をしようとしたのかは分からない。
ただ方法はある。目の見えない彼女がいても、例えば筆談などで質問をし、それに答えて貰えれば取材自体は可能だ。パソコンで質問内容を打ち、その答えを打ち返させてもいいだろう。
しかし問題は、彼が言った後半部分だった。自らの後ろめたい部分を知られたくないと考え、被害者を襲う動機は十分あるのにアリバイだけが証明されている。しかもそう証言したのは須依なのだ。
この男は結婚を考えていたにも拘わらず、目が見えなくなる病気に罹った彼女を捨てた。しかもその親友だった詩織と結婚したのだ。あの時この世に絶望し傷ついている姿を、佐々は近くで見ていた。
後にどんな思いをしていたかも、本人の口から笑い話の一つのように聞かされてきた。そこまで立ち直れたのは、烏森を中心とした彼女を支える新たな仲間達がいたからだ。
そうした経緯を知る者からすれば、この男と須依が共犯だなんて想像できない。ましてや彼女が、あの烏森の頭を自らの意思で砕くような真似をするとは思えなかった。
それでも事件現場やあらゆる物的証拠を重ねれば、須依達二人が最重要参考人から外せないのは、佐々にとって揺るぎない事実だ。
被害者が何を追っていて、何故井ノ島に近づき須依を遠ざけようとしていたかの謎は解けた。しかし被害者が倒れた時、一体何があったのかを解明しなければ、事件は解決できない。
目の前で必死の形相を崩さない彼に、これ以上真実を語らせるのは困難だろう。殺人未遂事件の容疑がかかっているのだ。しかも被害者の容態が悪化し亡くなれば、殺人事件になる。未遂と殺人では刑の重さは各段に違う。よってそう簡単に認めるはずがなかった。
ここで確かめられる件がこれ以上なければ次に移るしかない。よって井ノ島との睨み合いを止め、佐々は辞去するよう彼らに告げた。
意外だったのだろう。彼はしばらく呆然としていたがようやく立ち上がり、二人を追い出すように玄関まで送り出した。
*
刑事達が出て行った後、別室から出てきた詩織は般若のような顔で竜人を睨んだ。
「やっぱり須依と何かあったんじゃないの。そうじゃなければ、佐々さんまでが首を突っ込んで来ないでしょう。烏森とかいう記者が襲われた時、彼女と二人きりだったのはどうしてなの」
「だから何度も言ったじゃないか。あの記者が何度もしつこく取材を申し込んで来るから、それを止めるよう彼女に説得してくれないかとお願いしていただけだ。襲われた記者は、彼女にも内緒にしていたというのも本当だよ」
「こんな時間にわざわざ自宅まで押しかけてきたのはどうしてなの。会社の件についてなら、勤務先へ訪ねれば済むでしょ。プライベートな件が絡んでいるからじゃないの」
ドキリとしたが竜人は惚けた。
「し、知らないよ。たまたま近くに寄ったからじゃないのか。その証拠に、それほど長くいなかっただろう」
まだ納得できないのか膨れた表情をしてはいたものの、それ以上問い詰めても無駄だと思ったのか、吐き捨てるように言った。
「とにかく私や八乙女家にこれ以上迷惑をかけるようなことがあれば、即離婚ですからね。前回の時、あなたの尻拭いの為にどれだけのお金を払ったと思っているの。今度こそはその分も含めて、慰謝料をたんまり支払って貰います。もちろん今の会社に居られるなんて思わないでね」
自分の寝室に戻ったらしい彼女の後姿を眺めながら、竜人は決意を新たにした。一年以上我慢してきた苦労を、突然現れたあんな奴に壊されてなるものか。
もし彼女から見捨てられれば身の破滅だ。あの時金を払ったのも、意に沿わない関係を続けてきたことも、全ては最悪の事態を避ける為なのだから。
幸い身辺を探っていた烏森は、不測の事態により意識不明の重体で口が利けない。そのまま死んでくれればいいが、もし意識を取り戻せば最悪の事態になる。
また今のところは互いに嘘のアリバイ供述を主張しているけれど、須依が自責の念に駆られて自白する恐れもあった。事件現場で起こったやり取りも、公になってしまう可能性がある。
そうなればまた同じく、竜人は窮地に立たされるだろう。それだけは絶対に避けたかった。その為にはやはり、あの二人の口を確実に封じなければならない。
一度は覚悟したことだ。警察にばれれば死刑になるかもしれないが、ならない可能性もある。けれど詩織に全てを知られれば、竜人は間違いなく路頭に迷う。それは死ねと言われたのも同然だ。
それならば、少しでも救われる確率が高い手段を選ぶしかない。その為にはどうすればいいか。問題は警察のマークが未だに厳しい点だ。
しかしやがては手薄になる時期が来るだろう。そこを潜り抜ければ何とかなる。いや何とかしなければならないのだ。もう後戻りは出来ない。
頭の中で以前から計画していた件を、竜人は再度考え直していた。
*
外へ出た後、的場が悔しそうに言った。
「あの程度で良かったのですか」
井ノ島は知らないだろうが、彼も須依との関係を知る一人だ。最後の過去における仕打ちを盾に、開き直ったかのような台詞を聞いてよく怒鳴らなかったものである。佐々自身が思わず叫びそうになったほどだった。
それでも彼に伝えた。
「追い込むチャンスはまだある。焦るな」
彼は頷き、息を整えている間に大山が呟いた。
「次はどうしますか」
「やはり寺畑だろう。これは現在続いている捜査にも関わってくる」
「そうですね。これまでにはなかった新たな切り口が見つかりましたし、そこから崩せるかもしれません」
寺畑は社内からの不正アクセスの罪で逮捕、起訴されていたが、佐々達の捜査により別の事実が見えてきた。これは烏森の件を追う内に見つけた副産物である。
だがこれはとてつもなく重要な情報だった。大山から二課の連中に伝えていた為、その裏取り捜査は既に始まっている。恐らく近い内に明らかな証拠が出てくるだろう。
さらにいまだ黙秘を続けている、セイナの藤原やその他構成員達との関係が確かめられれば、彼らを有罪にする証拠も固められる。新たな罪名が浮上し、再逮捕だってできるかもしれない。
刑罰が重くなり、藤原や神葉幹部の出所可能な時期が遅くなれば、組織自体の存続も危ぶまれる。そうすれば口を噤んでいる下っ端も自らの保身に走り、やがて供述し始める可能性は高い。
彼らが白通から得た機密情報の中身はまだ解明されていないが、それも時間の問題だ。
一部漏洩した際に文字化けしていた部分や、公表されていないデータが残されている。それらの分析が終われば政治家達との癒着も証明でき、悪党どもの息の根を止められるだろう。
大元の漏洩事件における、完全解決に向けた道筋はこれで見えてきた。烏森が一人で行っていた取材の謎も解けた。そこから露呈された事実は、須依と井ノ島との繋がりに大きく関与している。
よって導き出される答えは今の所一つしかない。けれどそれを立証するには、まだ足りないピースがある。動機についても推論に過ぎず、やや曖昧だ。井ノ島が難しいのなら、彼女を追い込んで供述を得たい所だが、その為にはもう少し物証が欲しい。
そう思っていたところに、鑑識から新たな報告が上がって来た。それは被害者が倒れていた部屋の内線電話の受話器、及び番号ボタンに、何かで突かれた傷の正体が分かったという。
付着していた微物を分析した結果、ゴム素材と判明。しかも主に視覚障害者が使用する白杖の先端、石突と呼ばれる部分で使われるものだと突き止めたのだ。
白杖の石突は基本的にナイロン素材が使われ、丈夫で滑りやすいことが最大の条件とされており、それぞれ特徴があるという。
初めから白杖に付属しているペンシルチップという先端が細いものは路面との引っ掛かりが多く、小さな段差や境界線の検知に優れているらしい。ただそのひっかかりが、歩く際のストレスにもなりやすいようだ。
他に取り換え可能なマシュマロチップ、ローラーチップ、パームチップなどの種類があり、どれも丸みがある為路面の凹凸への引っ掛かりが無いに等しいという。その分ストレスが無いので、ペンシルチップと比べれば快適に歩けるそうだ。
これらの中から鑑識は、パームチップで使われるゴム素材だと突き止めた。さらには同じ微物が、被害者の頭を砕いた花瓶の欠片からも微量ながら検出されたという。
よって当時宿泊していた人達の所持品でゴムが使われているものの分析はもちろん、須依に白杖の提出を求めたと報告を受けている。その検査結果は一両日中に出るようだが、恐らく彼女の物で間違いないだろう。
そうした物証から、少なくとも被害者が血を流して倒れた際、フロントに電話をかけたのが須依である確率は高くなった。
普通の視覚障害者なら困難だろうが、空間認識能力の高い彼女ならそれぐらいの芸当はできるはずだ。佐々や的場達は直ぐにそう思った。また凶器を使ったのも彼女だと考えられる。
もちろん別の人物が、彼女を罪に着せようと白杖を使った可能性はあった。だがその場合、まず彼女から杖を奪わなければならない。しかも花瓶はともかく、健常者がわざわざ白杖の先端で小さな電話のプッシュボタンを押すなど、現実的には困難だろう。
その場所にいた形跡を残すならば、別の方法もある。なのに何故フロントに連絡し、人が駆け付けるよう仕向けたのかと考えれば、辻褄が合わない。最初から殺すつもりなら、そのまま放って置けばいいのだから。
けれど彼女が犯人なら、襲った際の感触で被害者はかなりの重傷を負ったと気付き、怖くなってフロントに助けを呼んだ可能性はある。そうなると、本気で殺そうとまでは考えていなかったのかもしれない。
しかし佐々の読みが正しければ、カッとなって咄嗟に取った行動にしては矛盾が生じる。またその場に井ノ島がいたのか、それともいなかったのか。さらに何故二人はアリバイを証明し合い、庇うような真似をしているのかという謎はまだ解けていない。
こうなれば、ここまでの捜査結果を本人に直接ぶつけ、自白を促す方が解決は早いと思われた。同じ情報を共有し、佐々の推測を聞いた的場や大山もそれがいいだろうと同意している。
それでも佐々は躊躇した。一方であの強情な須依が、そう簡単に口を割ると思えなかったからだ。それならもっと早い段階で真実を告げていたに違いない。
勘が鋭い彼女なら、警察に白杖の先端部分の提出を促された時点で、フロントに電話をかけた件を指摘されると気付いたはずだ。
にもかかわらずまだ自首していないところを見ると、何か固い信念を持った行動ではないかと思われた。そんな彼女が築いた砦を崩すには、もっと決定的な一撃が必要ではないだろうか。
その為、これまでの捜査で分かった点とそこから推理した流れを頭の中で整理し直した。
まず被害者は、傷病休暇中に祖対課のマークが緩くなったと気付き、それを利用して井ノ島や寺畑の周辺を取材し始めている。そこである事実を突き止め、それを確認または認めさせる為、井ノ島に取材と称して面会を申し出た。
秘密を知られた井ノ島は、東京から離れた伊豆でなら会うと持ちかける。さらには須依の同席を条件にした。それを被害者が嫌ったのも、目的を考えれば当然だ。
けれど彼女がいても問い詰める方法を思いついたか、知られても良いと覚悟を決めた為に条件を飲み、二人で伊豆に向かったと思われる。
被害者が所持していたパソコンの中身を調べれば、恐らく確証が得られるだろう。ただ残念ながら、現時点ではそれができない。しかし被害者が死亡、または意識を取り戻せば可能となる。よってこの点はそう遠くない内に結論が出るだろう。
問題は、何故井ノ島が須依を同席させたかという点だ。本当に被害者の暴走を止める為だったのか。それとも別の意図があったのか。また何故伊豆だったのか。
そこで佐々はある可能性に気付いた。やはり二人は被害者の部屋にいたのだ。そこで事件が起こり、彼らは須依の部屋に隠れた後、従業員達が被害者を発見し騒ぎ出した。それを見て、二人は互いのアリバイを証言し合う約束をしたのだろう。
けれどここで決定的な謎にぶつかる。彼女がどうしてそんな取り引きに応じたのか。被害者をあのような目に遭わせた原因が自分にあると罪の意識を持ったなら、素直に告白すればいいだけだ。
しかもフロントに電話をしたくらいなら、二人が犯した過ちを何故隠そうとするのか。素直に名乗り出れば、罪が軽減されると彼女が理解できないとは思えなかった。
罪の意識が強すぎて、意図的に重い罰を受けようとしているのだろうか。責任感の強い彼女なら、それ位はしかねない。
ただそうだとすれば、井ノ島がそれを手伝う理由はない。犯人が捕まらなければ、アリバイがあるといっても動機のある彼は、やがて疑いの目を向けられると恐れただろう。ならば彼女を警察に突き出せば済むはずだ。
そうしない、またはできない理由があるのではないか。そこまで考えが至った時点で、ふと思い当たった。彼が最も恐れているのは、被害者が辿り着いた事実を明らかにされることだ。
それはもう佐々達に知られたが、逮捕して公表する情報ではない。よって警察から洩れる心配はなかった。ならば彼は今、何を最も危惧しているかを考えた場合、一つだけあると気付いたのだ。
東京に戻った後も、須依を含めた二人は二課の刑事達により監視されている。よって下手な動きはできないだろう。けれどそれで良いのかと考え直す。
もし被害者が亡くなれば、秘密は闇に葬られる確率が高い。しかし意識が戻れば、それは叶わなくなる。そうした事態を避けたい人物は、佐々の推理が正しければ一人だけしかいない。
そこでいちかばちか、罠を仕掛けようと企んだ。それはその人物の監視を、表面上だけ解く事である。そうすれば、まだ伊豆の病院の集中治療室で眠っている被害者の命を狙うかもしれない。そう考えたのだ。
もちろん県警にも協力を得る必要があった。彼らは被害者を襲ったのは神葉の息がかかった人物だと、未だに疑っている。よって再度襲撃を受けないよう、二十四時間病室の前に立ち警戒をしていた。
彼らがいると佐々の計画は成功しない。よって話を通した上で立ち番に隙を作らせ、その情報を自然な形で相手に伝えれば、何らかの動きを見せると期待したのだ。
佐々がこれらの計画を的場や大山に伝えた所、彼らは揃って眉間に皺を寄せた。真っ先に異議を唱えたのは大山だった。
「参事官。お言葉ですが、余りにも危険です。それに必ず動くとも限りませんよね」
「だが相手の立場になってみろ。死んでくれればいいが、もし息を吹き返せば身の破滅だ。一度は覚悟していたのだから、チャンスがあれば再度試みようとしてもおかしくない」
「それは参事官の推理が当たっていた場合ですよね。もし違っていたらどうなりますか」
「もし外れていれば、何も起こらないだけで失うものはない。いや事件から四日経過し、まだ何とか持ち堪えている今だけしかできない計画だ。それに山場と言われている一週間まで時間がない」
「そうかもしれませんが、県警にどう説明するおつもりですか」
「詳細は話さなくていい。単に罠を仕掛けるとだけ言っておこう。本当に警戒を解く訳ではないからな。神葉が関係する別のフロント企業を通じ、情報を流すとでも説明すれば納得するはずだ」
彼らとは階級の差が違い過ぎるからだろう。結果的に逆らえないと判断したらしい。よって二人は指示通り根回しを行い、作戦に取り掛かったのだ。
それを受けて佐々は事前に連絡をした上で、昼間に須依の元を訪ねた。彼女は伊豆から戻った後、心労を理由に東朝から請け負った仕事を全て断り、自宅に籠っているとの報告は受けていた。
東朝としても烏森があのような事件に巻き込まれたのだ。それに関わる取材をしていた彼女が気落ちするのは当然だと思ったらしい。
無理しないでゆっくり休み、元気になったらまた声をかけてくれと伝えたという。
彼女が親と同居しているオートロック式のマンションのインターホンを押すと、応答した為名乗った。この時間は両親が出かけていると聞いていたからだ。
「佐々だ。電話で言った通り、俺一人だけどいいか」
やや間を空けた後、返答があった。
「うん。今開ける」
ロックが解除され、扉が開いた為に中へと入る。場所は知っていたが、訪れたのは初めてだ。当然部屋に上がったこともない。
やや緊張しながらもエレベーターに乗って、彼女の部屋がある階で降り扉の前についた。そこでもう一度インターホンを押す。そこで再び名乗ると彼女は言った。
「ちょっと待ってね」
しばらくして開錠した音がし、ゆっくりとドアが開いた。顔色が悪く、化粧っけも全くない彼女が顔を覗かせた。その姿を見て驚きながらも、扉を手で押さえつつ言った。
「悪いな。体調はどうだ。ずっと休んでいるんだろう」
「どうせ監視している人から聞いているでしょ。いいから入って。スリッパを出しておいたから、それを履いてね。リビングで話しましょう。あと鍵も閉めておいてね」
「分かった」
後ろ手でドアを閉めてから、言われた通りにする。靴を脱ぎ、彼女が入って行った部屋へと移動した。
キッチンやダイニングと繋がったリビングに通され、ソファに座るよう促される。彼女もその正面に腰かけた。
まずは佐々から話しかけた。
「須依の聴覚や気配を読む鋭さは知っているが、それでも監視を気付かれるとは刑事としてまだまだ未熟だな。俺から言っておこう。だがそれも今日辺りに解かれるだろうけどな」
「それはどうして。井ノ島君にも付いているみたいだけど、そっちはどうなるの」
「なんだよ。あっちも気付かれているのか。だらしないな。それにしてもあいつと連絡を取っているのか。珍しい事もあるもんだな」
「私はそうでもないけど、彼はすごく過敏になっているからじゃないかな。だから監視にも気が付いたんだと思う」
「どうしてそれ程過敏になるんだ。ああ、すまん。そういう話をしに来るんじゃないと言ったよな。ただ俺は須依を心配してきたんだ。もちろん烏森さんを襲撃した犯人を、まだ捕まえられていない件の責任は感じている。だがそっちの捜査権限はないからどうしようもない。同じ警察として頭を下げるだけだ」
「佐々君にそんなことをして貰っても、烏森さんが助かる訳ではないでしょう。だったら無駄よ」
「彼の容態について、何か聞いているのか」
「昨日も電話で奥さんに聞いた。まだ予断を許さない状況が続いているけど、少し持ち直す可能性がでてきたって。それで伊豆に見舞いへ行こうとしたけれど、私が行ったって何も出来ないからやめた。彼にも失礼だし、これまでも何度か思い直してきたようにね」
彼女は大きく溜息をつき俯いた。佐々は頷き告げた。
「そうか。ちなみに彼の警護も解くらしい。県警から報告があった。俺としては早すぎると思ったが、これも向こうの管轄だ。口出しは出来ないからな」
急に顔を上げた彼女は、険しい表情をして尋ねてきた。
「どうして。彼は襲われたのよ。警備は必要でしょう」
「俺に言われてもな。県警の判断だ。それを受けて、こっちの監視も解く判断をしたのだろう。警視庁としても、必要以上の人員は避けないと考えているようだ。情報漏洩の件だって、裏取りの為に皆かなり走り回っている。事件は他にもあるからな。CS本部でさえ、その他のハッキングやネットを使った詐欺等の対応で忙しい。しかし神葉やセンナの周辺は引き続き監視を続けている。だから安心しろとまでは言えないが、以前ほど危険は少ないと思う。ただ油断はしない方がいい」
「そうなんだ」
再び顔を伏せた彼女に問いかけた。
「時々、買い物で外出する以外は出ていないらしいな。仕事も全部断ったと聞いている。烏森さんがああなった事態に責任を感じているようだけど、須依が落ち込まなくて良いだろう。話によれば、井ノ島に取材していた件も隠されていたんだろ。しかも伊豆に同行するよう条件を付けたのは、井ノ島だって言うじゃないか。それが無ければ須依は蚊帳の外で、今回の事件に関わっていなかったはずだろう。それに今回はたまたま近くにいただけじゃないか。少し心身を休ませるのはいいが、部屋でずっと一人籠りっきりなっていると、余計な事ばかり考えるから余り良くない。的場も心配していたぞ」
「そんな事を言いにわざわざ来たの」
「そうさ。それに元はといえば、俺が情報漏洩事件の捜査線上に井ノ島の名前が挙がっていると、お前に匂わせたのがそもそもの始まりだ。そんな真似をしなければ、烏森さんが巻き込まれることも無かった。俺だって責任を感じているんだよ」
「それは違うわよ。あなたが色々裏で動いてくれていたからじゃない。だから神奈川で襲われた時はあの程度で済んだの。調子に乗って警戒を怠り取材を進めたのは私なのよ」
「分かった。分かったよ。責任感の強いお前ならそう考え、一人で抱え込むだろうと思っていたがその通りだったな。俺や他人がいくら言ったって聞かないのも理解している。だけど時に割り切りは必要だ。ある程度のところで自分を許してやってもいいんじゃないか。烏森さんだって、自分の事でお前が苦しむ姿は見たくないと思うぞ」
彼女は何か言いかけたが、唇を噛んで黙った。これ以上長くいても追いつめてしまうだけだ。それに女性一人しかいない部屋に二人きりでいるのも、周辺住民に余計な誤解を招く恐れだってある。
そう思い、佐々は席を立った。
「帰るの」
「ああ。顔を見て、伝えたいことは言ったから用は済んだ。とにかく休め。もし何か相談があればいつでも連絡してくれ。俺に話しにくいと思うなら的場でもいい。烏森がいなくても、他に頼っていい奴らはいる。それだけは覚えておいてくれ」
そう言い残し、佐々は玄関に向かって歩き出した。後からついてくる彼女に背を向けたまま靴を履き、ドアを開け外へ出た。その際、ちらりと彼女の様子を伺ったが、やはり顔色は悪いままだ。
内側から鍵をかける音を確認してから廊下を歩き、再びエレベーターに乗って下に降りる。マンションを出てしばらく歩き、距離を取ったところで連絡を入れた。
「今、須依に伝えた。今日中に監視網を遠ざけろ。県警には俺から伝えておく。だが気を抜くな。動き出したら県警との連携は密にしろ。そこを怠ると大事になるぞ」
「了解しました」
電話を切った後、事前に打ち合わせしておいた県警に伝え、作戦の実行に取り掛かった。これで相手がこちらの思惑通りに動けば、伊豆の事件は解決に向かうはずだ。
しかし最も懸念するのは、それまで被害者の容態が急変しないかどうかだった。彼が死亡してしまえば、計画は変更せざるを得ない。その後は全く別の様相を見せるだろう。
後者の場合は、佐々にとっても最悪の事態だ。絶対に避けたいが、こればかりは医者の腕と被害者の生命力を信じるしかない。自分達に出来るのは、ただ祈るばかりだった。
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