カジノ

しまおか

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第九章

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「今日は相当勝たれていますね。勝負の女神が微笑んでいるようですが、お体の調子はいかがです? あまり無理をして興奮されると血圧が上がってしまいます。少しお休みになられてはいかがですか」
 胸元に立川という名札を付けている従業員に声をかけられた香流かなれ久子ひさこは、首を横に振った。
 この男は介護士の資格を持っているらしく、ここにいる高齢者達をサポートする為にいるようだが、所詮はカジノ側の人間だ。体調に気遣う振りをして、勝ち続けている久子を休ませ流れを変えさせようとしているに違いない。
 賭け事には一定の流れがある。負けている時は少し間を空けるか、掛け金を下げるなどして、潮目が変わるのを待つ方が利口だ。
 しかしカジノ側は冷静になられると困る為、様々な工夫をしていた。熱くなり時間も忘れるよう、VIPルームでは時計を設置しなかったり、フリードリンクの為積極的にお酒を薦めたりもする。
 だが一度勝ち波に乗れば、ツキを逃さないよう一気に勝負することも重要だ。カジノに長く通っていると、そうした光景が良く見られる。中には何も考えずに賭けている者もいるが、さすがに人生経験の豊富な高齢者達が揃ったこのVIPルームにいる大半の利用者は、冷静に場の空気を読んでいた。
 勝ち馬に乗るとは良く言ったもので、ルーレットなどでも勢いに乗っている人と同じ場所に賭ける光景はよく見られる。しかしいつまでも勝ち続けることはない。その為流れが変わり別の人が勝ち始めると、そちらへ乗り換えるのだ。そうした方法だと読み間違いさえしなければ、トータルで負け越す可能性が低くなる。
 そんな賭け方をして遊んでいる人も少なくない。だが久子は違った。流れは自分で掴むものだ。そして一度モノにすれば離さない。そうやって八十七歳まで生きて来た。
「大丈夫だよ。私の事はいいから、他の人の面倒を看てやりなさい」
突き放した久子の言葉に不承不承頷いた彼は、少し離れた場所へと移ったが、まだこちらを見ている。その様子から、先程の声かけは本当に久子の体を心配してくれていたのかもしれないと感じた。
 その為申し訳ないと思った久子だが、ここへは真剣勝負をするために来ているのだ。しかも月に十日しか来られない。その中で勝ちの流れが来ている。それも滅多にない大きな波になりそうだ。これを逃す手は無い。そこで余計な考えを振り切り、再びテーブルへと意識を戻した。
 といってどうしてもお金が必要で、大儲けがしたいと必死になっている訳でもない。それどころか、久子が持っている財産はこのカジノで使い果たしてしまおうとさえ思っていた。
 久子の夫は大手企業の元社長だったため、資産は十分に持っている。二つ年上だった彼は七十歳で社長職を退き、その後顧問として在席していたが、七十八歳の時に亡くなった。おかげで彼が一代で稼いだ、決して少なくない財産の半分を久子が相続し、残りの半分は二人の息子達で分け合ったのだ。
 今年六十歳になる長男は、夫がいた会社の関連会社に今も勤めており、そこで副社長にまでなった。二つ年下の嫁との間に男女二人の孫まで授かってくれた。今は久子の家でその内の一人、二十八歳になる出戻りの孫娘と長男夫婦の四人が同居している。
 五十八歳になる次男は二度離婚を経験し、今は独身で海外暮らしだ。子供は最初に結婚した外国人女性との間に一人いて、もう三十歳になるという。その子も今は、別の国で暮らしているらしい。
 同居し始めた頃はそうでもなかったけれど、今では嫁と出戻りの孫の事が嫌いだった。そうした感情が相手にも伝わるのか、彼女達も久子の事をいつも邪険に扱った。その為一度心臓を悪くして入院した久子は、近所に住む友人達からの誘いもあり、デイサービスを利用して出来るだけ家にいる時間を少なくて済むようにしていたのである。
 いっそ入居型の老人ホームに入り、一人静かに暮らしたいとも考えたが、それは長男が猛烈に反対したので諦めざるを得なかった。嫁や孫娘は別居したいと思っていたはずである。
 だがそうしなかったのは、今住んでいる久子名義の家が処分されることを恐れていたかららしい。どうやら夫が建ててくれた今の豪邸に住むことを、彼女達はステータスに感じているようだ。よって久子が亡くなれば、家が自分達の持ち物になると目論んでいるとしか思えなかった。
 相続人は二人の息子になるけれど、海外にいる次男が日本にある家に固執するとは考えにくい。よってそれ以外の資産を分け与えれば納得すると考えているのかもしれない。だから手放さず、このまま久子が亡くなるまで我慢して待つことを選んだのだろう。
 久子が家を売却して老人ホームに入れば、長男家族は別の住居を探さなければならない。それでも夫の遺産の四分の一とこれまで稼いできた財産があれば、それなりの家が買えるはずだ。
 しかし所詮関連会社の副社長であり、今ある屋敷と比べればどうしても見劣りする家にしか住めないだろう。この家は建物もそうだが、土地も十分に広く場所も良い。ならばいずれ手に入るのだから、余計な出費は必要ないと思っても不思議ではなかった。
 次男は次男で久子の事は長男夫婦に任せっきりだ。ただし自分勝手にやっているが、遺産を狙っていることは間違いない。夫が亡くなった際にも、息子達の間では一悶着あった。
 よって久子の死後、屋敷を手に入れたい長男夫婦と、土地と家を譲る代わりに、それらの価値の半分に相当する資産を要求する次男との間で、再び揉めるに違いない。
 久子が持つ預貯金等の管理は、自分でしている。万が一の場合は、代理となる弁護士も指定済みだ。その為長男夫婦が勝手に久子の金を使うことはできない。
 正直言うと息子達には悪いが、夫が残してくれた遺産をそのまま彼らに渡したいとは思わなかった。彼らはそれぞれ、それなりに稼いでいる。贅沢を言わなければ、まあまあの暮らしはできるはずだ。
 久子は夫が亡くなってから、質素に暮らしてきた。彼が生きていた頃は一緒に海外旅行へ出かけたり、高価なバッグなども買ったり、豪勢な食事も堪能してきた。しかしそれは、必ずしも贅沢をしたかったわけではない。夫が久子を喜ばせようとしてくれていただけだ。その気持ちだけで十分だったけれど、愛する夫と優雅に過ごす一時が格別だったことは否めない。
 ただ高齢で持病を持つ身となってからは、高価な物や上等な食事などに全く興味が無くなった。ましてや夫がいない海外旅行など、したくもない。これまでに一生分の贅沢を味わった分、今さら物など欲しくなかった。食べ物も口に合えば何でも良かったし、少量で十分なのだ。
 その一方でお金を使わないと喜ぶのは、長男夫婦と次男やその子供達だと考えただけで嫌気が差した。その為思い切って内緒でどこかに寄付してしまおうとさえ思っていたのである。
 そんな事をデイサービスの担当介護士に愚痴っていた所、
「それならカジノに行って、一度散財してみてはいかがですか」
と誘われたのだ。
 Y地にIR施設が建設され、日本にもカジノが出来た事は知っていた。夫とモナコに行った際、ルーレットやスロットで遊んだことがある。しかしラスベガスやシンガポールでは出入りしたいと思ったことなどない。夫は若い時、パチンコや競馬など多少一通りの賭け事をしたことはあるらしいが、決して嵌ることなどなかった。 
 モナコでも最初にいくら使うと上限を決め、嗜む程度で済ませた。あの時は手にしたチップなど、もっと早く無くなると思っていたけれど、ビギナーズラックも手伝ってか、久子はルーレットで大勝ちしたのだ。その為スロットマシーンで散財しようと試みたが時間内には使いきれず、最後に清算した際五十万程度の儲けがあったことを覚えている。
 そうした経験があったことから、好奇心も手伝って久子は誘いに乗った。そこでVIP待遇を受け、予想以上に嵌ってしまったのだ。といって負けても良いからと無茶な賭け方をすることは、性格上できなかった。どうせやるのならば勝ちたい。その方が脳も活性するし、日頃溜まったストレスも発散できるからだ。
 そうして久子が通い始めた頃は、やはりビギナーズラックもあって儲かった。それでも当たり前だが続ければ続ける程負けることが多くなり、今では最初に預けた保証金の三百万円は軽く上回る損失がでていたはずだ。それでも久子が持つ資産からすれば、ほんの僅かである。
 それに思っていたよりも、デイサービスの施設で提供されていた入浴や食事以上に、カジノで受けるサービスの質が良かった。そうした居心地の良さも手伝い、久子は通い詰めるようになったのである。さらにそこで知り合う高齢者の中には、同じようにお金は持っていても孤独を抱える人達が多かった。
 だからといって、境遇の似た同士で傷を舐め合うことは久子の性に合わない。その為周囲の人達とは一定の距離を保ち、一人で黙々とゲームを楽しんでいた。
 久子は再びルーレットに目を向ける。そろそろディーラーは客の勝ち分が多くなった為、総取りを狙ってくるだろう。つまり客が余り賭けない0か00の目だ。
 ちなみにルーレットには他に、00が無いヨーロッパスタイルもあるが、このカジノではアメリカンスタイルを使用している。確かモナコのカジノも同じだった。
 二つのスタイルの異なる点は、カジノ側の収益になる控除率の差だ。ヨーロッパスタイルが二.七%に対し、近年主流となっているアメリカンスタイルは五.二六%である。控除率とは、賭け事を主催する胴元の取り分を指す言葉だ。要はカジノ側の儲けが多いか少ないかを意味する。
 といっても日本にある他のギャンブルに比べれば、カジノは各段にフェアだ。なぜなら宝くじだと、五十二~六%程差し引いた残りから、払い戻しなどに充てられる。サッカーくじで五十五%、競馬、競輪、競艇やオートレースで二十~三十%、パチンコだと十五%がお金を払った時点で、自動的に胴元が抜いているのだ。
 しかしカジノではゲームによって差があるものの、高くても五%程度、低い者では一%程度である。それだけギャンブルをする者にとって、公平なゲームと言えるだろう。その中でもルーレットはカジノの女王と呼ばれる程、王道のギャンブルだ。その為久子も今ではルーレットしかしない。
 それに一昔前とは違い、近年は相当腕が立つディーラーでも、そう簡単に狙った所へ入れられるようにはできていないと聞く。もしそれができれば、客とディーラーとの間で取引するようなイカサマが横行する危険性も高まるからだという。マッカ―という見物人に紛れて不正を監視する従業員が配置される場合も有るそうだ。
 ただし確実ではなくとも近い場所を狙うことはできる。その為ディーラーが意図する場所の周辺の数字に賭ければ、当たる可能性は高い。
 そう考えた久子は玉が投げ入れられた後、一枚十万円のチップを二枚ずつ八か所に賭けた。二、十四、三十五、二十八、九、二十六が0の近くで、一、十三、三十六、二十七、十、二十五が00の周りにある数字だ。テーブル上で隣り合っていない九、十、二十七、二十八はそれぞれに一枚、その他の数字は二点買いにした。
 一点買いが当たれば三十六倍で、外れた分を差し引いても五百八十万円の勝ちになる。二点買いの数字に来れば十八倍だから、二百二十万の儲けだ。
 ディーラーの顔色が気のせいか青く見えた。もしかすると久子の狙いが当たったのかもしれない。カラカラと勢いよく回っていた玉の速度が落ち、跳ねだした。回転がまだ速いため、どの辺りに落ちるのかはまだ把握できない。
 しかし段々とホイール盤に記された数字が見え始める。玉の跳ね方からすれば、どうやら00の数字近辺に入りそうだ。十か二十七なら約六百万、一、一三、二五、三六なら約二百万の勝ちだ。
 そろそろ区切られたポケットに入る。息を飲んでその様子を見つめた。周囲にいた客が騒ぎ出す。久子の読みに乗じて00に賭けている人もいたからだろう。
 00は駄目だ。その近くに落ちなければならない。十と二十七は隣りあっている。そのどちらかに入れ! 祈る久子の横にいた男性高齢者が大声を張り出した。
「00だ! 00!」
 その声につられて他の人も叫び出す。
「一だ、一来い!」
「十三か二十六でもいいぞ!」
 久子を真似て二点買い、または四点買いをした客らしい。勝ち馬に乗りたいが、一点買いをするまでの勇気はなく、複数の数字を抑えたかったのだろう。四点買いなら九倍だ。決して悪い賭け方ではない。
 コン、コンと弾かれた白い玉がスポッと枠に入った。00の枠に弾かれ、すぐ隣の二十七を飛ばして納まったのは十の枠だ。素早くディーラーがコールする。
「黒の十」
 その瞬間、外れた客達の大きな溜息と同時に、久子だけが賭けている十に入ったことでどよめきが起こった。入った! 十だ! 五百八十万の儲けである。ツキがある今日の勝ちは、これで九百万を越えたはずだ。外した客が隣にいることもあり、久子は静かにテーブルの下でこぶしを握って嬉しさを噛み締める。
 しかしその瞬間、胸に痛みを感じた。さらに息が苦しくなる。いけない、発作だと思った時にはもう手遅れだった。
 持病である心臓病の悪化を避けるため、出来る限り感情を出さないよう心掛け、興奮することは控えてきた。それでも久しぶりに勝ちが続き、知らぬ間にテンションと共に、血圧も上昇していたのだろう。
 そこにきてルーレットが回っている間の緊張感と、大きな喜びを得た瞬間の行動が、止めを刺したらしい。使い古された心臓が再び悲鳴を上げたのだ。
 体中の力が抜け、テーブルに顔を伏せた。
「大丈夫ですか!」
 遠くで先程気にかけてくれた男性らしき声が聞こえたように思えた。しかし確認することもできず、久子はそのまま意識を失ったのだった。
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