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第十章~明日香
決意
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明日香は何年かぶりに、日名子と連絡を取ってみようかと考えた。あの事を知っている人間は彼女しかいない。そのため結婚式にも呼んでいないし、あれから連絡を取ることを控えてきた。
本坂の話を聞いたことで、自分が剛に話していない秘密を抱えているように、彼もまた何かを隠している気がしていた。それを聞きださなければ、モナコへ行くことは叶わず、それどころか二人の今後の夫婦生活に支障をきたす恐れがある。
だがそうする為には、自分も過去のトラウマを告白するだけの覚悟がなければいけない。彼の抱える問題がどの程度のものかは不明だが、彼は結婚するまでに聞けば何でも話してくれた。それなのにこれまで頑なに隠してきたことから想像すると相当なことなのだろう。
明日香の心の呪縛をほどき、とても信頼できる人だと思ったからこそ、彼の結婚の申し出を受け入れたのだ。その覚悟をさせてくれたように誠実な、裏表のない性格で隠し事などできない人だと思い込んでいた。しかしそうでは無かったことに軽くショックを受ける。
だがそれも落ち着いて考えてみれば当たり前だ。結婚するからと言って、それぞれ三十年以上生きてきたお互いの人生の全てを話すことなどできない。
それに話さなくていいこと、または話したくないことが多少なりともあって当然だ。何もかも言えばいいという訳では無い。知らなくてもいいことがあると思うし、知らない方が良いこともあるはずだ。あの過去の件だって、そういうものだと思っていた。
あれは未遂で終わったことだ。実際被害に合った訳では無かった。そう判っているはずなのに、心が追い付かない。ただあの時のことを思い出しただけで辛く、口にすることなどとてもできなかった。被害にあったことのない人には、とても理解しがたいことだろう。だが未遂だったにもかかわらず、十年近く経った今でも心の傷は完全には癒えていない。
そう考えると被害にあった人達が負った苦痛は、明日香といえども計り知れないものだろう。彼と出会ったおかげで今では、男性恐怖症は薄らいだが、不信症の気はまだ完全に払しょくできていないのだ。
しかしそれでもこれから長く過ごしていく大事なパートナーに対し、秘密を抱えたままだという事実は残る。生涯共に暮らしていく相手が、心に傷があってその原因となった理由を知らないまま過ごしていくことは、本当に正しいことなのだろうか。万が一、過去の出来事と同じ事が起こった場合、明日香は相当なパニック状態に陥り、精神的にも大きなダメージを受けるだろう。
そうなった場合、彼がそのことを知らなければ対処のしようもなく、余計な心配をかけてしまうに違いない。事前に判っていれば、彼の事だから冷静に対応して貰えるはずだ。それだけ信頼できる相手なら打ち明けてもいいのではないか、いや打ち明けるべきではないか、と徐々に思えてきた。彼ならしっかりと受け止めてくれるだろう。そう信じていた。
ならば、今まで言えなかった傷を自らさらけ出した上で、彼の抱えている秘密が何なのかを尋ねれば、彼は正直に話してくれるのではないかと考えたのだ。そこで一度、自分の心の整理を付けるためにも日名子に連絡してみようと思いついた。
あの件について彼女は欠かせない人物だ。あの事件以降は連絡を絶ってきたが、結婚して子供もいる彼女に、今だから尋ねたいこともある。彼の事だけではない。そういう諸々の事を解決しなければ、自分も前へ進めないと気付いたのだ。
仕事が終わったら夕方か夜にでも連絡してみよう。そう思っていた所に剛から今日も遅くなる、ゴメン! とメールが来た。そこでいいタイミングだと考え、仕事を終えると近くのカラオケボックスに一人で入り、彼女に連絡を入れることにしたのだ。
時間は七時を過ぎていて、相手は夕食の支度で忙しいか、それとも子供達の世話と家事で忙しい時間帯かもしれない。それでも相手は明日香からの電話なら、必ず出て話を聞く時間は取ってくれるはずだ。そしてその予想は当たった。自分のスマホから電話をかけてツーコールして出た相手は、まさしく彼女だった。
「はい、もしもし」
約十年ぶりに日名子の声を耳にする。電話口で明日香が名乗ると、彼女が息を飲んだ音まではっきりと聞こえてきた。明らかに動揺していた彼女は何とか答えた。
「あ、あの、ごめんなさい。今少し夕飯の片づけが残っているから、それが終わったらすぐ折り返し電話します。このナンバーディスプレイに出ている番号でいいのね」
「そう。いま会社近くのカラオケボックスに一人でいるから、待っているわ」
そう言って電話を切った。折り返しかかってくるにはもう少し時間がかかるかもしれない。突然の電話であり、向こうは専業主婦でまだ幼い子供を二人育てているらしいから、忙しいのだろう。
そうなる可能性も考えて、一人で食事もできるカラオケルームを選んでいた。ここなら色んな食事を頼むこともできて時間も潰しやすい。その上電話で話す内容を、他人に聞かれる心配もなかった。
早速内線電話でフロントにかけ,食事と飲み物の注文をする。昨日に引き続き、代わり映えのしない居酒屋のようなメニューだがしょうがない。結婚式はすでに終えたので、事前に試着していたドレスを着るための食事制限など必要ないことは幸いだった。
それでも外食ばかりしていたのでは健康に良いはずもなく、出費もかさむ。まだ経済的余裕があるとはいえ会社を辞めれば、剛が稼いで来てくれる給料で生活しなければならない。今までのように勝手気ままなことは続けられないし、控えたほうがいいだろう。
しばらくして注文していた食事が届いたので適当に機械を操作し、BGMがわりの曲を流しながら孤独な夕食を取ることにした。実家暮らしの時も仕事で遅くなった時は、母の作り置きしてくれた夕飯や、自分で買ってきた総菜などをダイニングで一人食べていたことがある。
だが同棲生活を始めてからは、余裕がある時や帰りが遅くならない時には必ず二人で食卓に坐り、自分が作った料理を食べるようになった。忙しい時や疲れている時は大変だが、そうでなければ夕飯作りも楽しくでき、そして彼と一緒に食事する時間がとても幸福で大切なものだということを知った。
その為以前は平気だった一人での食事が、思っていた以上に寂しく感じられた。そしてなにより美味しいと思わないし、楽しくない。食事を終えても歌う気など起こらなかったため、鞄から文庫本を出して読むことにした。カラオケは引き続きBGMとして使いながらしばらく読み耽っていると、ようやくスマホが鳴った。日名子だ。
先ほど連絡した時より時間を置いたからか、彼女は落ち着いた口調で話しだした。
「久し振りね。先ほどはごめんなさい。ちょっと手が離せなかったものだから。今も少し手が空いたからかけ直しているけど、あまり時間がないの。ご用件があるなら手短にお願いするわ」
明らかに強がっているのが判る。明日香からの電話など早く切りたいのだろうが、そうとは言えずなんとか体裁を保ちながら話しているようだった。
「突然ごめんね。ちょっと聞きたいことがあるの。私の忘れてしまいたい過去の事だけど」
それだけで電話口の向こうで緊張の走る気配を感じ取れた。
「む、昔の事? どうしたのよ、突然」
「ところで私が今年、結婚したことは知っている?」
「あ、ええ、話には聞いたわ。同じ会社の人だってね。ごめんなさい。そうね、まずはおめでとう、だったわ。遅れてごめんなさい」
「いいのよ。五十名程の小ぢんまりとした式にしたから、友人を呼ぶ枠も少なくてね。だから結婚式の案内状を送っていないからいいのよ。まあ招待するはずも無いけど。でも誰から聞いたの?」
「え、ええと誰だったかな。大学の同級生だったか、他の関係から耳にしたのかもしれない。だってあなたの家は名古屋でも有名だから、すぐに噂は流れてくるし。あ、そうそう、お相手の方ってバツイチなんですって?」
下手に出ながらもチクリと反撃してくる所をみると、まだあの頃と変わらない嫌な性格のままのようだ。ただ彼女と距離を置いたのはそれだけが原因では無い。
「そうなの。相手は二回目だし同じ会社の人だから、職場の人を中心に呼んで、あまり派手な式にしなかったの」
「そうだったの。それであなたの過去の件で私にお話っていうのは何かしら?」
「そう。あの事って父が口止めをしたから、一部の人しか知らないことよね?」
「そ、そうね」
誓約書まで書かされたことを思い出したのであろう。再び声が緊張していた。
「それでね。結婚相手にはまだあの事を伝えられていないの。でもこれからずっと暮らしていくわけだから、彼には告白した方が良いと思っているのだけど、あなたならどうする? 自分が逆の立場だったら、結婚相手にそのことを伝える? こんな話、知っている人じゃないと聞けないでしょ。だからあなたに電話したのよ」
しばらくの沈黙があった後、急に彼女の声のトーンが変わった。
「何? 結婚したのって確か四月頃だったかしら。もう三カ月も経った今頃になって、なぜそんなことを気にしだしたの?」
これには言葉を詰まらせた。どこまで話していいものか判断できなかったからだ。そこで少し曖昧な表現で理由を言った。
「相手の人も何か秘密と言うほどではないけど、悩みがあるらしいの。それを聞き出すのに、自分の事を話して相手にも話しやすくした方が良いのかも、と考えたのよ。それにやっぱりお互い隠し事は少ない方が良いでしょ」
すると彼女は冷たい声で言い放った。
「付き合っている間にでも話す機会はあったでしょうに、あの事をずっと隠して結婚したんでしょ。自分が過去のトラウマを話さず一緒になったのに、相手が何か秘密を持っているからって、それを聞きだそうなんて都合がよくないかしら。今更無理じゃないの」
「そうかな。それはタイミングの問題もあるじゃない。お互い関係が親密になったからこそ話せることってあるし、夫婦ってそうやって話し合いながら理解を深めていくものじゃないの?」
「何を言っているの。もうお互いいい年だって言うのに、あなたは相変わらずの世間知らずなお嬢様のようね。相手はバツイチの人でしょ。だったら過去に何があったっておかしくないじゃない。そんな人だと判ってあなたは一緒になったんじゃないの? だったら結婚した後に相手の秘密を聞き出すなんて身勝手すぎない?」
「でも結婚してから判ることってあるでしょ。全部が全部、お互いのことを結婚前に知っておくなんて不可能じゃない」
「だってあなた、まだ男の人が怖いのよね。そんな人が他人である男性と一生一つ屋根の下で暮らすなんてできるのかしら。おそらく無理よ。しばらくの間はなんとかできても、結婚生活を続けていくことがどれだけ大変なことか、あなたは全く判っていないわ。止めておきなさい」
「どういう意味?」
「互いに全てを理解しようとしたって無理だってこと。相手の秘密を知りたいからか何か知らないけど、今まで言わずにいたのなら隠し通した方が良いと思うわ。結婚なんてそんなものよ。あなたは育ちも良くて人から後ろ指を指されることなんて、あの件以外にはないでしょうけど、他の人は違うわ。後ろめたい秘密なんていくらだってあるのが普通よ。それが判らないようなら、幸せな生活を送ることなんてできないでしょうね。清濁併せ呑まなければ、生きてなんかいけないの。綺麗ごとばかり言って夫婦生活が過ごせると思ったら大間違いよ。ごめん、もう時間がないから切るね」
最後は捨て台詞を吐かれ、本当に電話を切られた。それから馬鹿なことをした、と激しい後悔に襲われる。無償に自分の愚かさに腹を立てた。自分は一体彼女から何を言って欲しかったのか。
どういう答えを求めて、あの悪夢と深く関係する彼女に連絡を取ったのだろう。彼女に一度連絡を取らなければ前に進めないと考えていたが、その結果がこれだ。結論が出たかと言えば、余計に悩ましくなっただけだった。彼女は言わない方が良いと言った。
しかし明日香の事を考えてのアドバイスとは到底思えない。だからこそ言うべきなのだろう。彼に打ち明け、そして自分のトラウマを含めてすべて受け止めてもらい、その上で彼の抱えている秘密の中身を知りたかった。そう、原点に帰ればいいのだ。彼なら明日香を守ってくれ、全面的に信頼できると思って結婚を了承したのだ。
彼に過去の話をしなかったのは、隠すつもりでは無かった。言う必要がなくなったと思っていたからだ。彼と一緒なら、今後男性不信症に悩むことは無いと信じたからだった。ならばやはり告白すべきだろう。その上で彼が何故モナコへの旅行を躊躇っているのか、正面から尋ねればいいのだと改めて心に決めたのだった。
本坂の話を聞いたことで、自分が剛に話していない秘密を抱えているように、彼もまた何かを隠している気がしていた。それを聞きださなければ、モナコへ行くことは叶わず、それどころか二人の今後の夫婦生活に支障をきたす恐れがある。
だがそうする為には、自分も過去のトラウマを告白するだけの覚悟がなければいけない。彼の抱える問題がどの程度のものかは不明だが、彼は結婚するまでに聞けば何でも話してくれた。それなのにこれまで頑なに隠してきたことから想像すると相当なことなのだろう。
明日香の心の呪縛をほどき、とても信頼できる人だと思ったからこそ、彼の結婚の申し出を受け入れたのだ。その覚悟をさせてくれたように誠実な、裏表のない性格で隠し事などできない人だと思い込んでいた。しかしそうでは無かったことに軽くショックを受ける。
だがそれも落ち着いて考えてみれば当たり前だ。結婚するからと言って、それぞれ三十年以上生きてきたお互いの人生の全てを話すことなどできない。
それに話さなくていいこと、または話したくないことが多少なりともあって当然だ。何もかも言えばいいという訳では無い。知らなくてもいいことがあると思うし、知らない方が良いこともあるはずだ。あの過去の件だって、そういうものだと思っていた。
あれは未遂で終わったことだ。実際被害に合った訳では無かった。そう判っているはずなのに、心が追い付かない。ただあの時のことを思い出しただけで辛く、口にすることなどとてもできなかった。被害にあったことのない人には、とても理解しがたいことだろう。だが未遂だったにもかかわらず、十年近く経った今でも心の傷は完全には癒えていない。
そう考えると被害にあった人達が負った苦痛は、明日香といえども計り知れないものだろう。彼と出会ったおかげで今では、男性恐怖症は薄らいだが、不信症の気はまだ完全に払しょくできていないのだ。
しかしそれでもこれから長く過ごしていく大事なパートナーに対し、秘密を抱えたままだという事実は残る。生涯共に暮らしていく相手が、心に傷があってその原因となった理由を知らないまま過ごしていくことは、本当に正しいことなのだろうか。万が一、過去の出来事と同じ事が起こった場合、明日香は相当なパニック状態に陥り、精神的にも大きなダメージを受けるだろう。
そうなった場合、彼がそのことを知らなければ対処のしようもなく、余計な心配をかけてしまうに違いない。事前に判っていれば、彼の事だから冷静に対応して貰えるはずだ。それだけ信頼できる相手なら打ち明けてもいいのではないか、いや打ち明けるべきではないか、と徐々に思えてきた。彼ならしっかりと受け止めてくれるだろう。そう信じていた。
ならば、今まで言えなかった傷を自らさらけ出した上で、彼の抱えている秘密が何なのかを尋ねれば、彼は正直に話してくれるのではないかと考えたのだ。そこで一度、自分の心の整理を付けるためにも日名子に連絡してみようと思いついた。
あの件について彼女は欠かせない人物だ。あの事件以降は連絡を絶ってきたが、結婚して子供もいる彼女に、今だから尋ねたいこともある。彼の事だけではない。そういう諸々の事を解決しなければ、自分も前へ進めないと気付いたのだ。
仕事が終わったら夕方か夜にでも連絡してみよう。そう思っていた所に剛から今日も遅くなる、ゴメン! とメールが来た。そこでいいタイミングだと考え、仕事を終えると近くのカラオケボックスに一人で入り、彼女に連絡を入れることにしたのだ。
時間は七時を過ぎていて、相手は夕食の支度で忙しいか、それとも子供達の世話と家事で忙しい時間帯かもしれない。それでも相手は明日香からの電話なら、必ず出て話を聞く時間は取ってくれるはずだ。そしてその予想は当たった。自分のスマホから電話をかけてツーコールして出た相手は、まさしく彼女だった。
「はい、もしもし」
約十年ぶりに日名子の声を耳にする。電話口で明日香が名乗ると、彼女が息を飲んだ音まではっきりと聞こえてきた。明らかに動揺していた彼女は何とか答えた。
「あ、あの、ごめんなさい。今少し夕飯の片づけが残っているから、それが終わったらすぐ折り返し電話します。このナンバーディスプレイに出ている番号でいいのね」
「そう。いま会社近くのカラオケボックスに一人でいるから、待っているわ」
そう言って電話を切った。折り返しかかってくるにはもう少し時間がかかるかもしれない。突然の電話であり、向こうは専業主婦でまだ幼い子供を二人育てているらしいから、忙しいのだろう。
そうなる可能性も考えて、一人で食事もできるカラオケルームを選んでいた。ここなら色んな食事を頼むこともできて時間も潰しやすい。その上電話で話す内容を、他人に聞かれる心配もなかった。
早速内線電話でフロントにかけ,食事と飲み物の注文をする。昨日に引き続き、代わり映えのしない居酒屋のようなメニューだがしょうがない。結婚式はすでに終えたので、事前に試着していたドレスを着るための食事制限など必要ないことは幸いだった。
それでも外食ばかりしていたのでは健康に良いはずもなく、出費もかさむ。まだ経済的余裕があるとはいえ会社を辞めれば、剛が稼いで来てくれる給料で生活しなければならない。今までのように勝手気ままなことは続けられないし、控えたほうがいいだろう。
しばらくして注文していた食事が届いたので適当に機械を操作し、BGMがわりの曲を流しながら孤独な夕食を取ることにした。実家暮らしの時も仕事で遅くなった時は、母の作り置きしてくれた夕飯や、自分で買ってきた総菜などをダイニングで一人食べていたことがある。
だが同棲生活を始めてからは、余裕がある時や帰りが遅くならない時には必ず二人で食卓に坐り、自分が作った料理を食べるようになった。忙しい時や疲れている時は大変だが、そうでなければ夕飯作りも楽しくでき、そして彼と一緒に食事する時間がとても幸福で大切なものだということを知った。
その為以前は平気だった一人での食事が、思っていた以上に寂しく感じられた。そしてなにより美味しいと思わないし、楽しくない。食事を終えても歌う気など起こらなかったため、鞄から文庫本を出して読むことにした。カラオケは引き続きBGMとして使いながらしばらく読み耽っていると、ようやくスマホが鳴った。日名子だ。
先ほど連絡した時より時間を置いたからか、彼女は落ち着いた口調で話しだした。
「久し振りね。先ほどはごめんなさい。ちょっと手が離せなかったものだから。今も少し手が空いたからかけ直しているけど、あまり時間がないの。ご用件があるなら手短にお願いするわ」
明らかに強がっているのが判る。明日香からの電話など早く切りたいのだろうが、そうとは言えずなんとか体裁を保ちながら話しているようだった。
「突然ごめんね。ちょっと聞きたいことがあるの。私の忘れてしまいたい過去の事だけど」
それだけで電話口の向こうで緊張の走る気配を感じ取れた。
「む、昔の事? どうしたのよ、突然」
「ところで私が今年、結婚したことは知っている?」
「あ、ええ、話には聞いたわ。同じ会社の人だってね。ごめんなさい。そうね、まずはおめでとう、だったわ。遅れてごめんなさい」
「いいのよ。五十名程の小ぢんまりとした式にしたから、友人を呼ぶ枠も少なくてね。だから結婚式の案内状を送っていないからいいのよ。まあ招待するはずも無いけど。でも誰から聞いたの?」
「え、ええと誰だったかな。大学の同級生だったか、他の関係から耳にしたのかもしれない。だってあなたの家は名古屋でも有名だから、すぐに噂は流れてくるし。あ、そうそう、お相手の方ってバツイチなんですって?」
下手に出ながらもチクリと反撃してくる所をみると、まだあの頃と変わらない嫌な性格のままのようだ。ただ彼女と距離を置いたのはそれだけが原因では無い。
「そうなの。相手は二回目だし同じ会社の人だから、職場の人を中心に呼んで、あまり派手な式にしなかったの」
「そうだったの。それであなたの過去の件で私にお話っていうのは何かしら?」
「そう。あの事って父が口止めをしたから、一部の人しか知らないことよね?」
「そ、そうね」
誓約書まで書かされたことを思い出したのであろう。再び声が緊張していた。
「それでね。結婚相手にはまだあの事を伝えられていないの。でもこれからずっと暮らしていくわけだから、彼には告白した方が良いと思っているのだけど、あなたならどうする? 自分が逆の立場だったら、結婚相手にそのことを伝える? こんな話、知っている人じゃないと聞けないでしょ。だからあなたに電話したのよ」
しばらくの沈黙があった後、急に彼女の声のトーンが変わった。
「何? 結婚したのって確か四月頃だったかしら。もう三カ月も経った今頃になって、なぜそんなことを気にしだしたの?」
これには言葉を詰まらせた。どこまで話していいものか判断できなかったからだ。そこで少し曖昧な表現で理由を言った。
「相手の人も何か秘密と言うほどではないけど、悩みがあるらしいの。それを聞き出すのに、自分の事を話して相手にも話しやすくした方が良いのかも、と考えたのよ。それにやっぱりお互い隠し事は少ない方が良いでしょ」
すると彼女は冷たい声で言い放った。
「付き合っている間にでも話す機会はあったでしょうに、あの事をずっと隠して結婚したんでしょ。自分が過去のトラウマを話さず一緒になったのに、相手が何か秘密を持っているからって、それを聞きだそうなんて都合がよくないかしら。今更無理じゃないの」
「そうかな。それはタイミングの問題もあるじゃない。お互い関係が親密になったからこそ話せることってあるし、夫婦ってそうやって話し合いながら理解を深めていくものじゃないの?」
「何を言っているの。もうお互いいい年だって言うのに、あなたは相変わらずの世間知らずなお嬢様のようね。相手はバツイチの人でしょ。だったら過去に何があったっておかしくないじゃない。そんな人だと判ってあなたは一緒になったんじゃないの? だったら結婚した後に相手の秘密を聞き出すなんて身勝手すぎない?」
「でも結婚してから判ることってあるでしょ。全部が全部、お互いのことを結婚前に知っておくなんて不可能じゃない」
「だってあなた、まだ男の人が怖いのよね。そんな人が他人である男性と一生一つ屋根の下で暮らすなんてできるのかしら。おそらく無理よ。しばらくの間はなんとかできても、結婚生活を続けていくことがどれだけ大変なことか、あなたは全く判っていないわ。止めておきなさい」
「どういう意味?」
「互いに全てを理解しようとしたって無理だってこと。相手の秘密を知りたいからか何か知らないけど、今まで言わずにいたのなら隠し通した方が良いと思うわ。結婚なんてそんなものよ。あなたは育ちも良くて人から後ろ指を指されることなんて、あの件以外にはないでしょうけど、他の人は違うわ。後ろめたい秘密なんていくらだってあるのが普通よ。それが判らないようなら、幸せな生活を送ることなんてできないでしょうね。清濁併せ呑まなければ、生きてなんかいけないの。綺麗ごとばかり言って夫婦生活が過ごせると思ったら大間違いよ。ごめん、もう時間がないから切るね」
最後は捨て台詞を吐かれ、本当に電話を切られた。それから馬鹿なことをした、と激しい後悔に襲われる。無償に自分の愚かさに腹を立てた。自分は一体彼女から何を言って欲しかったのか。
どういう答えを求めて、あの悪夢と深く関係する彼女に連絡を取ったのだろう。彼女に一度連絡を取らなければ前に進めないと考えていたが、その結果がこれだ。結論が出たかと言えば、余計に悩ましくなっただけだった。彼女は言わない方が良いと言った。
しかし明日香の事を考えてのアドバイスとは到底思えない。だからこそ言うべきなのだろう。彼に打ち明け、そして自分のトラウマを含めてすべて受け止めてもらい、その上で彼の抱えている秘密の中身を知りたかった。そう、原点に帰ればいいのだ。彼なら明日香を守ってくれ、全面的に信頼できると思って結婚を了承したのだ。
彼に過去の話をしなかったのは、隠すつもりでは無かった。言う必要がなくなったと思っていたからだ。彼と一緒なら、今後男性不信症に悩むことは無いと信じたからだった。ならばやはり告白すべきだろう。その上で彼が何故モナコへの旅行を躊躇っているのか、正面から尋ねればいいのだと改めて心に決めたのだった。
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