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第六章~明日香
怒り
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月曜日の朝、いつもより早く出社した明日香は、すでに席についていた課長へすぐに声をかけた。
「おはようございます。お忙しいところすみません。少しお話したいことがあるのですが、お時間をいただけますか」
課長はすぐに用件を理解したのか頷いて立ち上がり、奥の会議室に入るよう促した。後に続いて部屋に入りドアを閉めた途端、向こうから話を切り出してきた。明日香の顔が強張っていたからだろう。
「九月末で真守君が異動する件だね。私も金曜の夜、支店長に呼ばれて知ったけど驚いたよ。慌てて課に戻ったら早乙女さんはすでに退社した後だったので、話ができなかったんだ。説明が遅くなってすまん」
「そうだったんですか。でもおかしくありませんか。彼の異動が私の異動と繋がることは、支店長だって判っているはずじゃないですか。どうして私への報告が彼の後になるのか、せめて同時に呼ばれなかったのか、納得できません」
「いや、君がそう思うのも無理はない。私も呼び出された時、先に真守君には話したと聞いてそれはまずいのではないですか、とは言ったんだよ」
慌てるように取り繕っていたが、それが事実かどうかは判らない。自分の顔が憮然とした表情になっていることは気付いていたが、敢えて直す気など無かったので、少し厳しい口調で尋ねた。
「支店長はその時、どう言われたのですか」
「私に指摘されて、そうだったな、二人同時に話せば良かったとは言っていたよ。しかし正直言って早乙女さんが怒るだろうなんて考えている様子では無かった。支店長はよく判っていなかったのだろう。すまん、私から謝る。申し訳ない」
課長は明日香が言わんとしている意味を良く理解しているようだ。それならばこれ以上彼を責める訳にはいかない。そうするとターゲットは支店長になる。
「そうですか。では先日、支店長と真守さんとの間では、異動先でも私が働けるかどうか調べるよう人事に伝える、との話をされたようですが、その必要はなくなった、と支店長にお伝え下さい」
「お、おい、どれはどういう意味だ?」
「私は九月末で退職します。ですから彼の異動先がどこになろうと、働く気はありません。専業主婦になります」
「完全に会社を辞めるつもりなのか? もう働く気はないのか?」
この件は今日の朝、彼からも損害課の課長を通じて上に挙げてもらう段取りをしている。ただ彼の出社時間が先であるため、早すぎると明日香が切り出すより前に、二課長や支店長へ話が伝わってしまうかもしれなかった。
そうなればこちらの言いたいことが言えなくなる可能性がある。そう考え、彼には明日香が出社する時間に合わせて報告してもらうよう打ち合わせていた。今頃、損害課では同じ話をしているはずだ。
「はい。この週末実家に帰り、彼の異動の事も含めて両親と話をしてきました。その中で異動先の勤務状態がどうであるか判らないこともありますし、私も生まれて初めてこの名古屋から出ることになるので、仕事を続けること自体どうなのかという話になりました」
早乙女家のことを匂わせたからだろう。課長の顔がさらに曇った。
「それで辞めた方が良いと、早乙女社長が言われたのか?」
「父が言ったというより、私がそうすると言ったら強く賛成してくれました。これは真守さんとも話し合った結果です」
「そ、そうか、それは残念だ。二課としても支店にとってもそうだが、会社にとっても早乙女さんを失うことは大きな戦力ダウンになる。特にうちの課では、代わりの人材が来たとしても今までのようには上手くいかないだろう。事務リーダーの状態を理解し、早乙女さんがかなり無理してフォローしてくれているのは私も十分判っているから。だが次に来た人が同じように動いてくれるとは限らないからね」
課長の言う通りだ。リーダーながら育児の事があり、なかなか役割を果たせない彼女に代わって、これまでは明日香がその仕事を補ってきた。だが他の事務員が後任として配属された時、同じように動けと言われたなら、反発される可能性は決して低く無い。
それはそうだろう。リーダーで自分より高い給料を貰いながらも少ない仕事量で済んでいるのだ。しかも後輩で役職も下である事務員が、足りない分の仕事を代わりにやらなければならない。ただでさえ多忙である仕事量を抱えた上で、素直にやりますという社員がそうそういるとは思えない。
明日香だって心の中では疑問を持っていた。それでも自分がしなければ課の雰囲気が悪くなり、仕事がやりにくくなる。それが結局自分に返ってくると思うから頑張ってきただけだ。その分も含めて今まで高い人事評価を頂いている。
加えて課長を含め周りの総合職や事務職がその大変さを理解してくれた上で協力もしてくれていた。だから今のところは、いい雰囲気で仕事が回っているのだ。
だが後任の人が同じく納得してやってくれるとは限らない。そこが異動の難しいところだ。しかし冷たいようだが明日香にはもう関係ない。後は会社が考えることであり、辞める人間ができることと言えば、引継ぎをできるだけスムーズに行うだけだ。
「それと支店長の言われた通り、九月末までに新婚旅行のための休暇を取ろうと二人で話し合い、日程を決めました。九月十六日の土曜から二十五日の月曜日までにします」
「九月半ば以降か。シルバーウィークの頃だな」
「はい。それと休み明けの九月二十六日の火曜日から九月末までの四日間は、私がまだ消化していない有給休暇を使わせていただきたいと思います」
「え? 月末一杯まで休みを取るということか」
「はい。そのため実質私の勤務は、九月十五日の金曜日までと考えて頂ければ、と。その承認をよろしくお願いします。あとこれは私から口を挟むことではないかもしれませんが、後任は早めに来てもらった方が良いと思います。差し出がましい提案かもしれませんが、できれば引き継ぎもありますので、八月か遅くとも九月一日付け異動が良いのではないでしょうか」
「先に後任を配属させるということか。そうだな。九月末の上半期の締めもあるし、そのスケジュールだとそうした方がよさそうだ」
上半期の月末を休むということが、営業の事務においてどれだけ大変なことかは、十分理解はしている。だが名古屋にいる最後の最後にこのような扱いを受け、そして会社を辞める決断をさせた会社に、これ以上奉仕する気は無かった。
四日間の有給休暇を取ったとしても、まだ未消化分がある。有給休暇の買い取り制度もないため、休まなければそのままだ。残りを全て消化するため、九月上旬までの出社とすることは正当な請求である。上司や会社も承認せざるを得ないだろう。それをしないだけでもマシだ。明日香の怒りをその程度で治めるのだから、そう思ってもらわないと困る。
「それでは人事の事もありますので、早速報告の方をお願いします。私も退職手続きを早急にとりますので。あ、それとすでに承認して頂いている夏季休暇の変更はありませんので、よろしくお願いします。そろそろ九時になりますから、私は席に戻ります」
そう言って頭を下げ、課長にはそれ以上有無を言わさず会議室を出た。席に着いた時には後から慌てて出てきた課長が、急いで内線をかけ出した。おそらく支店長に報告しているのだろう。
そしてしばらく小声で会話を交わした上で課長代理に席を外す旨を伝え、急いで部屋を出て行った。支店長室に向かったと思われる。そんな姿を横目で見ながら、通常業務の準備をし始めた。そんな時だ。隣の席にいた本坂が声をかけてきた。
「早乙女さんと会議室から出た後、課長が慌てて電話してどこかへいっちゃいましたが何かありましたか?」
彼、本坂忍は名古屋の営業二課が初めての配属先である総合職で、入社四年目の二十六歳だ。明日香が二課に来て一年後に彼が赴任した時から彼の事務的な指導と教育は明日香がやってきた。
今もその流れからか席も隣同士で、彼は明日香の言うことなら何でも聞く、というほど従順な総合職だ。とても自分に懐いている。というより、おそらく敬意による感情かまたはちょっとした恋愛感情を持っているのだろうと気付いていた。
だが彼にはまた別な秘密がある。そのため彼とはあくまで仲の良い、年下の後輩として接してきた。といって今の段階で課長との話を漏らす訳にはいかない。剛の異動やそれに伴う明日香の退職の件は、しばらく内輪だけに留めておく必要があった。
「うん、ちょっとね」
誤魔化された彼は不満そうな顔をしていたが、それを無視して自分の仕事に取り掛かる。九時を過ぎたため、本坂もしょうがなく自分の仕事を始めていた。しばらくしてチラチラと課長の席を見たが、まだ戻ってきていないようだ。
それから三十分ほど経ってからようやく内線がかかってきた。取ると支店長室にいる矢口からで、至急来て欲しいとの電話だ。どうやら剛も同時に呼ばれているらしい。支店長もようやく自分の犯した間違いに気付いたのだろう。
「判りました。すぐ伺います」
電話を切り、隣の本坂と事務リーダーには支店長席へ呼ばれたため席を外すことを伝えて、部屋を出た。十階まで階段を駆け上がると、支店長室の前でエレベーターに乗って来ていた剛とばったり会ったので、入る前に小声で話しかけた。
「剛も呼ばれているって聞いたけど、ぴったりだったね」
「ああ。俺も明日香が一緒だと言われたよ」「うん。どうせ今日報告した件でしょ。今さら何を言うつもりだか」
「まあまあ。二人に話があるって言うから、聞くしかないだろう」
そう言って部屋のドアをノックし、彼の後に続いて部屋に入った。
「おお、二人一緒に来たのか」
部屋の中には支店長の北川と損害課の尾上、そして矢口がいた。促されるまま二人並んでソファに坐ると、正面に支店長、右横に課長達が腰を掛ける。まず北川が話しだした。
「驚いたよ。早乙女さん、仕事は辞めるつもりだと聞いたが」
「はい。私は今回生まれて初めて名古屋を出ることになります。ですから知らない土地でいきなり働くよりも、これを機に家にいて真守さんを支えられれば、と思います」
「そうか。それなら真守君の異動先での働き先について、人事で調べる必要はない、ということでいいのかな」
「はい。ですから私は九月末で退職ということでお願いします。日程についても課長には報告いたしましたが、それでよろしくお願いいたします」
「その事だが、なんとか月末までいてもらえることはできないかな」
思わず、は? という言葉が口から出そうになるところを何とか堪えた。どう答えようかと考えていると、横から剛が答えてくれた。
「申し訳ございません。これはこの土日に彼女の御両親とも話し合って決めたことですので。勝手を言いますが彼女の勤務は九月十五日を最後にしていただけますか。その後支店長が言われた通り異動する前に旅行休みを取ります。帰国後に彼女が忙しくなる私に代わって引っ越し準備をする予定なので、よろしくお願いいたします」
会社を辞めることは両親も承知だが、月末に休みを取るかどうかなどの細かい話はしていない。だが早乙女家の名を出すことで、彼は言外の圧力をかけたのだろう。
これにはさすがの北川も口を噤むしかなかった。
「それならしょうがないですね。できれば月末までいてくれると助かるのですが、やはり支店長、申し訳ないのですが彼女の後任を早めに配属していただけませんか。彼女は優秀でしたからそれなりの人材を、八月中か遅くとも九月一日付でお願いしたいのですが」
矢口がそう話を続けた。おそらく彼は明日香の主張を聞いてきちんと報告したにも関わらず、北川がごねたのか直接話して翻意させようと呼んだのだろう。
だが彼は朝の会話の中で折れる訳がないと思っていたらしい。剛の話を受け素早く話題に入り込み、だから言ったでしょという態度で再度重ねて後任の件も含め、支店長に打診しているのだ。
ここで不気味なのが、先ほどから渋い表情をしている損害課の尾上だった。剛の今の直属は人損課の坂東だ。損害課全体を統括しているのは尾上だからこの場にいるのだろうが、彼は坂東と違い、剛の事をあまり評価していないらしい。
しかも先週末に彼が支店長室へ呼ばれた際にいたのは坂東だったと聞いていたが、今いるのは尾上だ。これにはおそらく何か意味があるのだろうと考えた。
するとその尾上が苦虫を噛み潰したような表情で口を開いた。
「早乙女さんのご両親もそうお考えのようなら、これ以上スケジュールの変更を依頼するのは難しいかもしれませんね。損害課としても人損課の課長代理が、シルバーウィークの連休明けに加えて次の週の土日明けの月曜日まで休まれると、他の職員の手前示しが付かないので、できれば変えて欲しいと思っていたのですが」
「おはようございます。お忙しいところすみません。少しお話したいことがあるのですが、お時間をいただけますか」
課長はすぐに用件を理解したのか頷いて立ち上がり、奥の会議室に入るよう促した。後に続いて部屋に入りドアを閉めた途端、向こうから話を切り出してきた。明日香の顔が強張っていたからだろう。
「九月末で真守君が異動する件だね。私も金曜の夜、支店長に呼ばれて知ったけど驚いたよ。慌てて課に戻ったら早乙女さんはすでに退社した後だったので、話ができなかったんだ。説明が遅くなってすまん」
「そうだったんですか。でもおかしくありませんか。彼の異動が私の異動と繋がることは、支店長だって判っているはずじゃないですか。どうして私への報告が彼の後になるのか、せめて同時に呼ばれなかったのか、納得できません」
「いや、君がそう思うのも無理はない。私も呼び出された時、先に真守君には話したと聞いてそれはまずいのではないですか、とは言ったんだよ」
慌てるように取り繕っていたが、それが事実かどうかは判らない。自分の顔が憮然とした表情になっていることは気付いていたが、敢えて直す気など無かったので、少し厳しい口調で尋ねた。
「支店長はその時、どう言われたのですか」
「私に指摘されて、そうだったな、二人同時に話せば良かったとは言っていたよ。しかし正直言って早乙女さんが怒るだろうなんて考えている様子では無かった。支店長はよく判っていなかったのだろう。すまん、私から謝る。申し訳ない」
課長は明日香が言わんとしている意味を良く理解しているようだ。それならばこれ以上彼を責める訳にはいかない。そうするとターゲットは支店長になる。
「そうですか。では先日、支店長と真守さんとの間では、異動先でも私が働けるかどうか調べるよう人事に伝える、との話をされたようですが、その必要はなくなった、と支店長にお伝え下さい」
「お、おい、どれはどういう意味だ?」
「私は九月末で退職します。ですから彼の異動先がどこになろうと、働く気はありません。専業主婦になります」
「完全に会社を辞めるつもりなのか? もう働く気はないのか?」
この件は今日の朝、彼からも損害課の課長を通じて上に挙げてもらう段取りをしている。ただ彼の出社時間が先であるため、早すぎると明日香が切り出すより前に、二課長や支店長へ話が伝わってしまうかもしれなかった。
そうなればこちらの言いたいことが言えなくなる可能性がある。そう考え、彼には明日香が出社する時間に合わせて報告してもらうよう打ち合わせていた。今頃、損害課では同じ話をしているはずだ。
「はい。この週末実家に帰り、彼の異動の事も含めて両親と話をしてきました。その中で異動先の勤務状態がどうであるか判らないこともありますし、私も生まれて初めてこの名古屋から出ることになるので、仕事を続けること自体どうなのかという話になりました」
早乙女家のことを匂わせたからだろう。課長の顔がさらに曇った。
「それで辞めた方が良いと、早乙女社長が言われたのか?」
「父が言ったというより、私がそうすると言ったら強く賛成してくれました。これは真守さんとも話し合った結果です」
「そ、そうか、それは残念だ。二課としても支店にとってもそうだが、会社にとっても早乙女さんを失うことは大きな戦力ダウンになる。特にうちの課では、代わりの人材が来たとしても今までのようには上手くいかないだろう。事務リーダーの状態を理解し、早乙女さんがかなり無理してフォローしてくれているのは私も十分判っているから。だが次に来た人が同じように動いてくれるとは限らないからね」
課長の言う通りだ。リーダーながら育児の事があり、なかなか役割を果たせない彼女に代わって、これまでは明日香がその仕事を補ってきた。だが他の事務員が後任として配属された時、同じように動けと言われたなら、反発される可能性は決して低く無い。
それはそうだろう。リーダーで自分より高い給料を貰いながらも少ない仕事量で済んでいるのだ。しかも後輩で役職も下である事務員が、足りない分の仕事を代わりにやらなければならない。ただでさえ多忙である仕事量を抱えた上で、素直にやりますという社員がそうそういるとは思えない。
明日香だって心の中では疑問を持っていた。それでも自分がしなければ課の雰囲気が悪くなり、仕事がやりにくくなる。それが結局自分に返ってくると思うから頑張ってきただけだ。その分も含めて今まで高い人事評価を頂いている。
加えて課長を含め周りの総合職や事務職がその大変さを理解してくれた上で協力もしてくれていた。だから今のところは、いい雰囲気で仕事が回っているのだ。
だが後任の人が同じく納得してやってくれるとは限らない。そこが異動の難しいところだ。しかし冷たいようだが明日香にはもう関係ない。後は会社が考えることであり、辞める人間ができることと言えば、引継ぎをできるだけスムーズに行うだけだ。
「それと支店長の言われた通り、九月末までに新婚旅行のための休暇を取ろうと二人で話し合い、日程を決めました。九月十六日の土曜から二十五日の月曜日までにします」
「九月半ば以降か。シルバーウィークの頃だな」
「はい。それと休み明けの九月二十六日の火曜日から九月末までの四日間は、私がまだ消化していない有給休暇を使わせていただきたいと思います」
「え? 月末一杯まで休みを取るということか」
「はい。そのため実質私の勤務は、九月十五日の金曜日までと考えて頂ければ、と。その承認をよろしくお願いします。あとこれは私から口を挟むことではないかもしれませんが、後任は早めに来てもらった方が良いと思います。差し出がましい提案かもしれませんが、できれば引き継ぎもありますので、八月か遅くとも九月一日付け異動が良いのではないでしょうか」
「先に後任を配属させるということか。そうだな。九月末の上半期の締めもあるし、そのスケジュールだとそうした方がよさそうだ」
上半期の月末を休むということが、営業の事務においてどれだけ大変なことかは、十分理解はしている。だが名古屋にいる最後の最後にこのような扱いを受け、そして会社を辞める決断をさせた会社に、これ以上奉仕する気は無かった。
四日間の有給休暇を取ったとしても、まだ未消化分がある。有給休暇の買い取り制度もないため、休まなければそのままだ。残りを全て消化するため、九月上旬までの出社とすることは正当な請求である。上司や会社も承認せざるを得ないだろう。それをしないだけでもマシだ。明日香の怒りをその程度で治めるのだから、そう思ってもらわないと困る。
「それでは人事の事もありますので、早速報告の方をお願いします。私も退職手続きを早急にとりますので。あ、それとすでに承認して頂いている夏季休暇の変更はありませんので、よろしくお願いします。そろそろ九時になりますから、私は席に戻ります」
そう言って頭を下げ、課長にはそれ以上有無を言わさず会議室を出た。席に着いた時には後から慌てて出てきた課長が、急いで内線をかけ出した。おそらく支店長に報告しているのだろう。
そしてしばらく小声で会話を交わした上で課長代理に席を外す旨を伝え、急いで部屋を出て行った。支店長室に向かったと思われる。そんな姿を横目で見ながら、通常業務の準備をし始めた。そんな時だ。隣の席にいた本坂が声をかけてきた。
「早乙女さんと会議室から出た後、課長が慌てて電話してどこかへいっちゃいましたが何かありましたか?」
彼、本坂忍は名古屋の営業二課が初めての配属先である総合職で、入社四年目の二十六歳だ。明日香が二課に来て一年後に彼が赴任した時から彼の事務的な指導と教育は明日香がやってきた。
今もその流れからか席も隣同士で、彼は明日香の言うことなら何でも聞く、というほど従順な総合職だ。とても自分に懐いている。というより、おそらく敬意による感情かまたはちょっとした恋愛感情を持っているのだろうと気付いていた。
だが彼にはまた別な秘密がある。そのため彼とはあくまで仲の良い、年下の後輩として接してきた。といって今の段階で課長との話を漏らす訳にはいかない。剛の異動やそれに伴う明日香の退職の件は、しばらく内輪だけに留めておく必要があった。
「うん、ちょっとね」
誤魔化された彼は不満そうな顔をしていたが、それを無視して自分の仕事に取り掛かる。九時を過ぎたため、本坂もしょうがなく自分の仕事を始めていた。しばらくしてチラチラと課長の席を見たが、まだ戻ってきていないようだ。
それから三十分ほど経ってからようやく内線がかかってきた。取ると支店長室にいる矢口からで、至急来て欲しいとの電話だ。どうやら剛も同時に呼ばれているらしい。支店長もようやく自分の犯した間違いに気付いたのだろう。
「判りました。すぐ伺います」
電話を切り、隣の本坂と事務リーダーには支店長席へ呼ばれたため席を外すことを伝えて、部屋を出た。十階まで階段を駆け上がると、支店長室の前でエレベーターに乗って来ていた剛とばったり会ったので、入る前に小声で話しかけた。
「剛も呼ばれているって聞いたけど、ぴったりだったね」
「ああ。俺も明日香が一緒だと言われたよ」「うん。どうせ今日報告した件でしょ。今さら何を言うつもりだか」
「まあまあ。二人に話があるって言うから、聞くしかないだろう」
そう言って部屋のドアをノックし、彼の後に続いて部屋に入った。
「おお、二人一緒に来たのか」
部屋の中には支店長の北川と損害課の尾上、そして矢口がいた。促されるまま二人並んでソファに坐ると、正面に支店長、右横に課長達が腰を掛ける。まず北川が話しだした。
「驚いたよ。早乙女さん、仕事は辞めるつもりだと聞いたが」
「はい。私は今回生まれて初めて名古屋を出ることになります。ですから知らない土地でいきなり働くよりも、これを機に家にいて真守さんを支えられれば、と思います」
「そうか。それなら真守君の異動先での働き先について、人事で調べる必要はない、ということでいいのかな」
「はい。ですから私は九月末で退職ということでお願いします。日程についても課長には報告いたしましたが、それでよろしくお願いいたします」
「その事だが、なんとか月末までいてもらえることはできないかな」
思わず、は? という言葉が口から出そうになるところを何とか堪えた。どう答えようかと考えていると、横から剛が答えてくれた。
「申し訳ございません。これはこの土日に彼女の御両親とも話し合って決めたことですので。勝手を言いますが彼女の勤務は九月十五日を最後にしていただけますか。その後支店長が言われた通り異動する前に旅行休みを取ります。帰国後に彼女が忙しくなる私に代わって引っ越し準備をする予定なので、よろしくお願いいたします」
会社を辞めることは両親も承知だが、月末に休みを取るかどうかなどの細かい話はしていない。だが早乙女家の名を出すことで、彼は言外の圧力をかけたのだろう。
これにはさすがの北川も口を噤むしかなかった。
「それならしょうがないですね。できれば月末までいてくれると助かるのですが、やはり支店長、申し訳ないのですが彼女の後任を早めに配属していただけませんか。彼女は優秀でしたからそれなりの人材を、八月中か遅くとも九月一日付でお願いしたいのですが」
矢口がそう話を続けた。おそらく彼は明日香の主張を聞いてきちんと報告したにも関わらず、北川がごねたのか直接話して翻意させようと呼んだのだろう。
だが彼は朝の会話の中で折れる訳がないと思っていたらしい。剛の話を受け素早く話題に入り込み、だから言ったでしょという態度で再度重ねて後任の件も含め、支店長に打診しているのだ。
ここで不気味なのが、先ほどから渋い表情をしている損害課の尾上だった。剛の今の直属は人損課の坂東だ。損害課全体を統括しているのは尾上だからこの場にいるのだろうが、彼は坂東と違い、剛の事をあまり評価していないらしい。
しかも先週末に彼が支店長室へ呼ばれた際にいたのは坂東だったと聞いていたが、今いるのは尾上だ。これにはおそらく何か意味があるのだろうと考えた。
するとその尾上が苦虫を噛み潰したような表情で口を開いた。
「早乙女さんのご両親もそうお考えのようなら、これ以上スケジュールの変更を依頼するのは難しいかもしれませんね。損害課としても人損課の課長代理が、シルバーウィークの連休明けに加えて次の週の土日明けの月曜日まで休まれると、他の職員の手前示しが付かないので、できれば変えて欲しいと思っていたのですが」
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