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第三章~剛
足掻く
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ただ旅行自体が延期されたことで、問題が先送りされ僅かな希望を持ち、これまで何度も軽くジャブを打ってきた。ヨーロッパでテロが起こったというニュースが流れる度に、今の時期にモナコへ行くのは危なくないか、国内はどうか、いや船はどうか、と何度となく繰り返したのだ。
しかし予想はしていたが、その度にけんもほろろに却下された。それはそうだろう。彼女のモナコへの、グレースへの想いの深さが並大抵のものではないことは今では十二分に理解している。
だからこそ、彼女が叶えたいという長年の夢を邪魔することなど本当はしたくない。素直に喜んでもらうよう努力すべきだと頭では判っていた。
けれど一方で再びあの悪夢のようなことが起こり、彼女に愛想を尽かされないだろうか、別れる事にはなりはしないだろうかという恐怖が、脳裏に何度も浮かんでくるのだ。
彼女には絶対嫌われたくない。彼女の望みは叶えてあげたい。その両方の想いの板挟みに合っていたが、とうとう結論を出さなければならない時が近づいてきた。
「今日は暑かったから汗掻いたでしょ。夕食の前にお風呂へ入る?」
すでに食事の準備を終えて待っていてくれた彼女に尋ねられ、慌てて答えた。
「い、いや、先にご飯を食べよう。明日香もまだ食べていないだろ? 結構待っていたんじゃないか?」
「ううん。さっき作り終えたばかりだから、大丈夫よ。帰ってくるってメールを貰っていたから、そのタイミングで作り終えられたし、ちょうど良かったぐらい」
「じゃあ、すぐに着替えてくるからちょっと待っていてくれるかな」
寝室にあるクローゼットへと向かい、ネクタイと上下のスーツを脱いでハンガーにかける。そして部屋着であるTシャツとジャージのパンツを衣類ボックスから取り出し、ワイシャツとアンダーシャツを脱いで着替えた。
その間にすっと後から部屋に入ってきた彼女が、スーツの上下の皺を奇麗にし、ネクタイを真っ直ぐに掛け直してくれている。お互い働いているため、基本的に自分のできることは自分でする、というのが二人で暮らし始めた際に交わしたルールだ。
それでも彼女は何も言わず、しかもおしつけがましくない程度に、さりげなく剛のフォローをしてくれていた。
スーツなども三回に一回はきちんとハンガーにかけていなかったりして、皺が寄ってしまうことがある。そうすると次に着る時、アイロンを掛けなければならないほどの跡が付いたりするのだ。
独身時代は少しくらいの皺など、着ている間に自分の丸い体や太い足により伸びて消えるからいいだろう、と思っていた。しかし余りにもひどい皺の時は、一人暮らし生活も長いため自分でアイロンがけをしていたのだ。
けれども結婚してからはそんな手間がかからないようにするため、彼女が目を配って気をつけてくれている。おかげで毎日少しずつの積み重ねにより、家事の負担が軽減した。
朝食は休日も含めて毎日彼女が用意してくれる。どうせ一人でいたとしても作るものだからと、彼女は言う。しかしよく聞いてみると、実家で暮らしていた時は彼女の母親がほとんど食事の用意をしていたらしい。
それなのに、時にはご飯に名古屋では定番の赤味噌を使った味噌汁を添えての和食、時にはパンにサラダ付きの洋食と、栄養バランスを考えての朝食を作ってくれた。しかも朝型で早めに会社へ出社して仕事をする習慣が付いていた剛に合わせる為に、彼女は実家にいた時よりも早く起きてくれるようになったのだ。
二人で一緒に食べた後、彼女は片付けをし、洗濯をしたり家の掃除をしたりする。その間に剛は出社する準備をし、ゴミがあれば前日の夜か朝までに彼女が用意してあるのでそれを持って先に出かけ、彼女は少し遅れて家の戸締まりをし、会社へと向かうのだ。
帰宅時間は月末を除くと彼女の方が早い。その為、時間の余裕がある時は彼女が夕飯を作って帰りを待っていてくれた。それでも彼女の部署が忙しく、時には剛よりも帰りが遅くなることがある。そんな時はお互いメールで連絡を取り合い、外でそれぞれが夕飯を食べてから帰宅することになっていた。今日は夜八時半には帰ると伝えたら、
「じゃあ、夕飯を作って待っていますので一緒に食べましょう」とメールの返信があった。
月初めの週末の夜だから、お互い課の同僚達と声をかけあって飲みに行くこともあるが、今日は支店長からされた異動の話をしなければならないため、その誘いを断っていた。
そのためどこにも寄らず早めに帰宅するつもりだったが、少々支払いのトラブルがあり、予定より遅くなってしまった。それでも月末月初は特に事務仕事が忙しい彼女も、平均の退社時間より遅くなったため、都合が良かったようだ。
着替え終わると、寝室を出て食卓に座るまでに洗面所へ寄って手を洗う。彼女も一緒に部屋を移動して台所に行き、手を軽く洗ってすでに用意してあった食事のお皿を食卓に運んでいた。その間、なんとなく二人の間には会話がなく、沈黙が続く。
食卓に着いてから異動の件を伝えようと、それまではつい緊張してか口を閉ざしていただけなのだが、彼女にも何か話したいことがあるのか、微妙な空気の流れを感じていた。
しかし気付かない振りをして席に着いた剛は手を合わし、いただきますと言って彼女の手料理に手を付ける。彼女もまた、いただきますと呟き、箸を伸ばして一口食べる。そこから少し雑談が始まった。
今夜は七夕だからそうめんにしたという。七月七日はそうめんの日でもあるらしく、平安時代の宮中行事でそうめんを奉納することもあったようだ。そういえば今夜は晴れていたため、夜空を見上げればいくつかの奇麗な星は見られたかもしれない。しかし心の余裕が無かったせいか見ていなかった。
今日は昼間から少し気温が高く暑い一日だったため、あっさり食べられるものをと考えた一方で、食事のボリュームと健康に気を使い、ナスやトマト、オクラにズッキーニ、玉ねぎやセロリなど夏野菜が一杯入ったラタトゥーユも併せて用意した、と説明してくれる。
彼女は料理教室に通っていた時期もあるそうで、実家ではあまり料理をしてこなかったが、別に苦手では無いそうだ。それにこれまで五か月余り過ごしてきたが、料理の味は剛の味覚に合っていた。
彼女も忙しいため手のかかる料理はほとんど作らなかったが、まずいと思ったことは一度もない。剛は品数も気にしないと言ったため食卓はシンプルだったが、味の優しいところが気に入っている。
交際期間中も二人はいろんなお店で外食をしてきたが、味や選ぶ料理の好みは驚くほど似ていた。そういう点で意見が食い違うことは無かったから、味覚の相性も良いのだろう。
お腹は空いていた。そうめんは好物だし彼女の作るラタトゥーユは、以前も作って貰ったがとても美味しかったことを覚えている。そのため大事な話をすることを忘れ、思わず黙々と食べていた剛に、突然彼女から話題を振られた。
「今日、帰り際に損害課の同期から偶然聞いたけど、支店長から課長と一緒に呼ばれたって? 何の話だったの?」
さりげなく尋ねられ、そこでようやく思い出したぐらいだ。
「ごめん。そうだった。この話はきちんとしなきゃいけなかった」
一旦箸を置いて彼女の目を見る。彼女は先ほどからじっとこちらを見つめていたようで、話を聞く体勢に入っていた。
「実は異動の内定が出た。今度の十月に異動するから準備をしておけという話だったよ」
「え? 異動?」
驚く彼女に対し、何故こんな時期に異例な内示をされたかの経緯を説明する。彼女も同じ会社に勤めて八年目だから、今までにも多くの総合職を見送っては受け入れるという経験をしてきた。だから今回の状況が特例だということはすぐに分かったようだ。
それでも真面目な顔をして、静かに話し終わるまで聞いていた。一通り伝えたところで、彼女に尋ねた。
「今の今、聞かされてもすぐには答えられないかもしれないけど、どうする? 一応俺の異動先でも働くことを前提に話を進めてもらうよう支店長には伝えたけど、それは途中でも変更できるから」
だが彼女は意外そうに首を軽くひねって答えた。
「いいよ、それで。前にも二人で話しあった通り、異動先が決まって職場環境が判ってから考えればいいし。条件が良くないか働けないようだったら、一旦会社を辞めて専業主婦になればいいだけだから」
あっさりとした返事に、そうだねと頷くしかなかったが、彼女はさらに続けて言った。
「それより、いよいよ名古屋を離れることになった訳ね。お父さん達にはその事をすぐに言わないと。覚悟はしていたと思うけど、予想より早かったからきっと驚くだろうね。まあしょうがないけど」
彼女は今までこの名古屋の地から出ることなく、ずっと暮らし続けてきた。大学も実家から通い三十年間住み続けたこの街を、とうとう離れることになるのだ。
本人は覚悟して転勤族の剛と結婚したが、彼女の両親はやはり寂しがるだろう。跡取りの長男がいるとはいえ娘は明日香ただ一人だ。
特に父親にとっては、娘が結婚して手を離れた時とまた別の思いを持つに違いない。剛の父もそうだった。明日香の家と兄妹構成が同じである真守家でも、妹が二十四歳の若さで結婚して家を離れた時は、父が一番肩を落としていたことを覚えている。
とは言っても妹の嫁ぎ先は実家から車で数分のところだ。それにも拘らず、である。やはり父親にとって娘というものは特別なのだろう。しかし剛達の場合、そんな近場に赴任することはまずあり得ない。もちろん場所はまだ決まっていないが、確実に今のような同じ市内では無くなる。これからはそう簡単に会うことも出来ないのだ。
今度の夏季休暇では彼女の実家にも宿泊する予定だが、その頃には行き先が決まっているだろうか。この話を聞いた義父はどんな反応を示すだろう。そんな思いを頭に浮かべていると、さらに彼女は話を重ねた。
「そうそう。それと新婚旅行よ。支店長が気を利かせてくれたのか、意地悪しているのかは知らないけど、確かに異動先で休みを取るよりは、今の部署にいる間に取った方が良いのは確かね。そうすると夏季休暇のことも考えれば、もう九月しかないわよ。もう下半期の締めだとか考えている余裕はないし、そんな必要なんかないわ。だって間違いなく九月末で、私は二課を去ることになるのだから」
どうやら彼女は怒っているようだ。異動がやむを得ないこととは言え、結果的にはそのせいで楽しみにしていた旅行の時期まで会社に決められたからだろう。
「六月の時は二課の迷惑になるからって遠慮したけど、今考えるとそんなことをしなければ良かったね。会社の為を思ってそうしたのに、なんとなく裏切られた感じがする。そうだ、九月と言えばシルバーウィークがあったわよね」
今年は十六,十七,十八日の土曜日から月曜日までの三連休と、二十三日の土曜日が祝日だから二十四日までの土日休みしかない。それほど長期の連休にはならない暦となっていたはずだ。
だが彼女はキッチンのカウンターに置いていたスマホを手に取りカレンダーを確認すると、すでに決めたと言う表情をしていた。
「最高五日間の連続休暇が取れる訳だから、十九日の火曜日から二十二日の金曜までの四日間とさらに二十五日の月曜日に休みを取って、十連休にしようよ。旅行の日程は当初の予定通り、六泊八日でいいけど、その後に引っ越し準備があるでしょ。旅行から帰ってきた後は時差もあるし、少し休んだ方が良いからね」
「い、いやいや、月曜日に二回も休みを取るのは、ちょっとうちの課の事を考えると、まずい気がするけど」
損害課は自動車事故の対応をしているが、土日は会社が休みの為、休み明けの月曜日は金曜の夜辺りから起こった事故も含めて、一斉に対応しなければならない案件が流れてくる。そのため週の中では最も忙しく、通常でも休みをとり難い。
また課長代理という立場から考えると、部下も含めて休んで欲しくない曜日だ。しかも長期の休暇明けとなると、その忙しさは倍増するから尚更だった。
世の中では土日明けの月曜日はブルーマンデーとも呼ばれるが、まさしく損害課においてはその言葉通りだ。通常の業務でも会社へ行きたくないと考える曜日なのに、その日が最も忙しいとなれば、気分がブルーにならない方がどうかしている。それでもそう言えないのが剛の立場だ。しかしそんなことは百も承知である彼女は言った。
「だからじゃないの。平日の五日間と前後の土日を合わせて九連休にして、六泊八日の旅行を楽しんだ後、最後の一日はゆっくり家で休む予定だったでしょ。それなのに会社に出たらめちゃくちゃ忙しい月曜日だったら大変だと思うの。だからあえて火曜日出社にしたら、少し余裕もできるでしょ」
「いやそれはそうだけど、前はそんな事、言ってなかったよね」
「それはそうよ。旅行に行くのは今の部署にいる前提で、帰って来てからもなるべく迷惑をかけないようにと考えていたからじゃない。だけど今回はそんな必要ないでしょ。だって旅行から戻って九月の最後の週を過ぎれば、剛はもう次の週の十月から別の部署に移る訳だし」
「そ、それはそうだけど。急にドライな考えをするね」
「でもそうじゃない? 今、剛が抱えている事故案件の引き継ぎも、長期休み前に終えてしまえばいいのよ。二十五日に出社しても二十九日の金曜日までの四日間しか基本的にはいないことになるよね。だったら後々の事を考えると、そうした方が良いと思うけど」
しかし予想はしていたが、その度にけんもほろろに却下された。それはそうだろう。彼女のモナコへの、グレースへの想いの深さが並大抵のものではないことは今では十二分に理解している。
だからこそ、彼女が叶えたいという長年の夢を邪魔することなど本当はしたくない。素直に喜んでもらうよう努力すべきだと頭では判っていた。
けれど一方で再びあの悪夢のようなことが起こり、彼女に愛想を尽かされないだろうか、別れる事にはなりはしないだろうかという恐怖が、脳裏に何度も浮かんでくるのだ。
彼女には絶対嫌われたくない。彼女の望みは叶えてあげたい。その両方の想いの板挟みに合っていたが、とうとう結論を出さなければならない時が近づいてきた。
「今日は暑かったから汗掻いたでしょ。夕食の前にお風呂へ入る?」
すでに食事の準備を終えて待っていてくれた彼女に尋ねられ、慌てて答えた。
「い、いや、先にご飯を食べよう。明日香もまだ食べていないだろ? 結構待っていたんじゃないか?」
「ううん。さっき作り終えたばかりだから、大丈夫よ。帰ってくるってメールを貰っていたから、そのタイミングで作り終えられたし、ちょうど良かったぐらい」
「じゃあ、すぐに着替えてくるからちょっと待っていてくれるかな」
寝室にあるクローゼットへと向かい、ネクタイと上下のスーツを脱いでハンガーにかける。そして部屋着であるTシャツとジャージのパンツを衣類ボックスから取り出し、ワイシャツとアンダーシャツを脱いで着替えた。
その間にすっと後から部屋に入ってきた彼女が、スーツの上下の皺を奇麗にし、ネクタイを真っ直ぐに掛け直してくれている。お互い働いているため、基本的に自分のできることは自分でする、というのが二人で暮らし始めた際に交わしたルールだ。
それでも彼女は何も言わず、しかもおしつけがましくない程度に、さりげなく剛のフォローをしてくれていた。
スーツなども三回に一回はきちんとハンガーにかけていなかったりして、皺が寄ってしまうことがある。そうすると次に着る時、アイロンを掛けなければならないほどの跡が付いたりするのだ。
独身時代は少しくらいの皺など、着ている間に自分の丸い体や太い足により伸びて消えるからいいだろう、と思っていた。しかし余りにもひどい皺の時は、一人暮らし生活も長いため自分でアイロンがけをしていたのだ。
けれども結婚してからはそんな手間がかからないようにするため、彼女が目を配って気をつけてくれている。おかげで毎日少しずつの積み重ねにより、家事の負担が軽減した。
朝食は休日も含めて毎日彼女が用意してくれる。どうせ一人でいたとしても作るものだからと、彼女は言う。しかしよく聞いてみると、実家で暮らしていた時は彼女の母親がほとんど食事の用意をしていたらしい。
それなのに、時にはご飯に名古屋では定番の赤味噌を使った味噌汁を添えての和食、時にはパンにサラダ付きの洋食と、栄養バランスを考えての朝食を作ってくれた。しかも朝型で早めに会社へ出社して仕事をする習慣が付いていた剛に合わせる為に、彼女は実家にいた時よりも早く起きてくれるようになったのだ。
二人で一緒に食べた後、彼女は片付けをし、洗濯をしたり家の掃除をしたりする。その間に剛は出社する準備をし、ゴミがあれば前日の夜か朝までに彼女が用意してあるのでそれを持って先に出かけ、彼女は少し遅れて家の戸締まりをし、会社へと向かうのだ。
帰宅時間は月末を除くと彼女の方が早い。その為、時間の余裕がある時は彼女が夕飯を作って帰りを待っていてくれた。それでも彼女の部署が忙しく、時には剛よりも帰りが遅くなることがある。そんな時はお互いメールで連絡を取り合い、外でそれぞれが夕飯を食べてから帰宅することになっていた。今日は夜八時半には帰ると伝えたら、
「じゃあ、夕飯を作って待っていますので一緒に食べましょう」とメールの返信があった。
月初めの週末の夜だから、お互い課の同僚達と声をかけあって飲みに行くこともあるが、今日は支店長からされた異動の話をしなければならないため、その誘いを断っていた。
そのためどこにも寄らず早めに帰宅するつもりだったが、少々支払いのトラブルがあり、予定より遅くなってしまった。それでも月末月初は特に事務仕事が忙しい彼女も、平均の退社時間より遅くなったため、都合が良かったようだ。
着替え終わると、寝室を出て食卓に座るまでに洗面所へ寄って手を洗う。彼女も一緒に部屋を移動して台所に行き、手を軽く洗ってすでに用意してあった食事のお皿を食卓に運んでいた。その間、なんとなく二人の間には会話がなく、沈黙が続く。
食卓に着いてから異動の件を伝えようと、それまではつい緊張してか口を閉ざしていただけなのだが、彼女にも何か話したいことがあるのか、微妙な空気の流れを感じていた。
しかし気付かない振りをして席に着いた剛は手を合わし、いただきますと言って彼女の手料理に手を付ける。彼女もまた、いただきますと呟き、箸を伸ばして一口食べる。そこから少し雑談が始まった。
今夜は七夕だからそうめんにしたという。七月七日はそうめんの日でもあるらしく、平安時代の宮中行事でそうめんを奉納することもあったようだ。そういえば今夜は晴れていたため、夜空を見上げればいくつかの奇麗な星は見られたかもしれない。しかし心の余裕が無かったせいか見ていなかった。
今日は昼間から少し気温が高く暑い一日だったため、あっさり食べられるものをと考えた一方で、食事のボリュームと健康に気を使い、ナスやトマト、オクラにズッキーニ、玉ねぎやセロリなど夏野菜が一杯入ったラタトゥーユも併せて用意した、と説明してくれる。
彼女は料理教室に通っていた時期もあるそうで、実家ではあまり料理をしてこなかったが、別に苦手では無いそうだ。それにこれまで五か月余り過ごしてきたが、料理の味は剛の味覚に合っていた。
彼女も忙しいため手のかかる料理はほとんど作らなかったが、まずいと思ったことは一度もない。剛は品数も気にしないと言ったため食卓はシンプルだったが、味の優しいところが気に入っている。
交際期間中も二人はいろんなお店で外食をしてきたが、味や選ぶ料理の好みは驚くほど似ていた。そういう点で意見が食い違うことは無かったから、味覚の相性も良いのだろう。
お腹は空いていた。そうめんは好物だし彼女の作るラタトゥーユは、以前も作って貰ったがとても美味しかったことを覚えている。そのため大事な話をすることを忘れ、思わず黙々と食べていた剛に、突然彼女から話題を振られた。
「今日、帰り際に損害課の同期から偶然聞いたけど、支店長から課長と一緒に呼ばれたって? 何の話だったの?」
さりげなく尋ねられ、そこでようやく思い出したぐらいだ。
「ごめん。そうだった。この話はきちんとしなきゃいけなかった」
一旦箸を置いて彼女の目を見る。彼女は先ほどからじっとこちらを見つめていたようで、話を聞く体勢に入っていた。
「実は異動の内定が出た。今度の十月に異動するから準備をしておけという話だったよ」
「え? 異動?」
驚く彼女に対し、何故こんな時期に異例な内示をされたかの経緯を説明する。彼女も同じ会社に勤めて八年目だから、今までにも多くの総合職を見送っては受け入れるという経験をしてきた。だから今回の状況が特例だということはすぐに分かったようだ。
それでも真面目な顔をして、静かに話し終わるまで聞いていた。一通り伝えたところで、彼女に尋ねた。
「今の今、聞かされてもすぐには答えられないかもしれないけど、どうする? 一応俺の異動先でも働くことを前提に話を進めてもらうよう支店長には伝えたけど、それは途中でも変更できるから」
だが彼女は意外そうに首を軽くひねって答えた。
「いいよ、それで。前にも二人で話しあった通り、異動先が決まって職場環境が判ってから考えればいいし。条件が良くないか働けないようだったら、一旦会社を辞めて専業主婦になればいいだけだから」
あっさりとした返事に、そうだねと頷くしかなかったが、彼女はさらに続けて言った。
「それより、いよいよ名古屋を離れることになった訳ね。お父さん達にはその事をすぐに言わないと。覚悟はしていたと思うけど、予想より早かったからきっと驚くだろうね。まあしょうがないけど」
彼女は今までこの名古屋の地から出ることなく、ずっと暮らし続けてきた。大学も実家から通い三十年間住み続けたこの街を、とうとう離れることになるのだ。
本人は覚悟して転勤族の剛と結婚したが、彼女の両親はやはり寂しがるだろう。跡取りの長男がいるとはいえ娘は明日香ただ一人だ。
特に父親にとっては、娘が結婚して手を離れた時とまた別の思いを持つに違いない。剛の父もそうだった。明日香の家と兄妹構成が同じである真守家でも、妹が二十四歳の若さで結婚して家を離れた時は、父が一番肩を落としていたことを覚えている。
とは言っても妹の嫁ぎ先は実家から車で数分のところだ。それにも拘らず、である。やはり父親にとって娘というものは特別なのだろう。しかし剛達の場合、そんな近場に赴任することはまずあり得ない。もちろん場所はまだ決まっていないが、確実に今のような同じ市内では無くなる。これからはそう簡単に会うことも出来ないのだ。
今度の夏季休暇では彼女の実家にも宿泊する予定だが、その頃には行き先が決まっているだろうか。この話を聞いた義父はどんな反応を示すだろう。そんな思いを頭に浮かべていると、さらに彼女は話を重ねた。
「そうそう。それと新婚旅行よ。支店長が気を利かせてくれたのか、意地悪しているのかは知らないけど、確かに異動先で休みを取るよりは、今の部署にいる間に取った方が良いのは確かね。そうすると夏季休暇のことも考えれば、もう九月しかないわよ。もう下半期の締めだとか考えている余裕はないし、そんな必要なんかないわ。だって間違いなく九月末で、私は二課を去ることになるのだから」
どうやら彼女は怒っているようだ。異動がやむを得ないこととは言え、結果的にはそのせいで楽しみにしていた旅行の時期まで会社に決められたからだろう。
「六月の時は二課の迷惑になるからって遠慮したけど、今考えるとそんなことをしなければ良かったね。会社の為を思ってそうしたのに、なんとなく裏切られた感じがする。そうだ、九月と言えばシルバーウィークがあったわよね」
今年は十六,十七,十八日の土曜日から月曜日までの三連休と、二十三日の土曜日が祝日だから二十四日までの土日休みしかない。それほど長期の連休にはならない暦となっていたはずだ。
だが彼女はキッチンのカウンターに置いていたスマホを手に取りカレンダーを確認すると、すでに決めたと言う表情をしていた。
「最高五日間の連続休暇が取れる訳だから、十九日の火曜日から二十二日の金曜までの四日間とさらに二十五日の月曜日に休みを取って、十連休にしようよ。旅行の日程は当初の予定通り、六泊八日でいいけど、その後に引っ越し準備があるでしょ。旅行から帰ってきた後は時差もあるし、少し休んだ方が良いからね」
「い、いやいや、月曜日に二回も休みを取るのは、ちょっとうちの課の事を考えると、まずい気がするけど」
損害課は自動車事故の対応をしているが、土日は会社が休みの為、休み明けの月曜日は金曜の夜辺りから起こった事故も含めて、一斉に対応しなければならない案件が流れてくる。そのため週の中では最も忙しく、通常でも休みをとり難い。
また課長代理という立場から考えると、部下も含めて休んで欲しくない曜日だ。しかも長期の休暇明けとなると、その忙しさは倍増するから尚更だった。
世の中では土日明けの月曜日はブルーマンデーとも呼ばれるが、まさしく損害課においてはその言葉通りだ。通常の業務でも会社へ行きたくないと考える曜日なのに、その日が最も忙しいとなれば、気分がブルーにならない方がどうかしている。それでもそう言えないのが剛の立場だ。しかしそんなことは百も承知である彼女は言った。
「だからじゃないの。平日の五日間と前後の土日を合わせて九連休にして、六泊八日の旅行を楽しんだ後、最後の一日はゆっくり家で休む予定だったでしょ。それなのに会社に出たらめちゃくちゃ忙しい月曜日だったら大変だと思うの。だからあえて火曜日出社にしたら、少し余裕もできるでしょ」
「いやそれはそうだけど、前はそんな事、言ってなかったよね」
「それはそうよ。旅行に行くのは今の部署にいる前提で、帰って来てからもなるべく迷惑をかけないようにと考えていたからじゃない。だけど今回はそんな必要ないでしょ。だって旅行から戻って九月の最後の週を過ぎれば、剛はもう次の週の十月から別の部署に移る訳だし」
「そ、それはそうだけど。急にドライな考えをするね」
「でもそうじゃない? 今、剛が抱えている事故案件の引き継ぎも、長期休み前に終えてしまえばいいのよ。二十五日に出社しても二十九日の金曜日までの四日間しか基本的にはいないことになるよね。だったら後々の事を考えると、そうした方が良いと思うけど」
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