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しまおか

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第四章~⑦

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 和香達とロビーで別れた後、彼女達や田北からは完全に連絡が途絶えた。竜崎については藤子の協力が得られないと諦めたのだろう。恐らく独自に捜査を進めているはずだ。
 そうしている内に一週間が経ち、依頼していた江口から報告があった。説明によると、現時点では雄太の家の裏の持ち主である北野について、所在も含め詳細な情報が全く得られなかったという。
 どうやらその人物も、公安によって手配された架空または別名義なのかもしれない。それなら一週間程度で調べ上げられなくても無理はなかった。
 けれど他の点では、明らかになった事実がいくつか見つかった。やはり沼橋が出した報告書のいくつかに、嘘の記述が混じっていたと判明したのだ。
 まず雄太は少なくとも渡部亮と名乗り出した五年前から、同性愛者だと思われる行動を取っていたらしい。この点は沼橋の報告書で触れられていなかった。そう考えるとやはり彼と和香は繋がっていて、意図的に隠されていたと考えられる。
 だがそれ以前には、その形跡が発見できなかったようだ。恐らく別名義を手に入れるまで、周囲に悟られないよう慎重に行動していたと想像できる。
 また竜崎が口にした、雄太同様名を偽っていた和香達の本名らしき井尻の名から、いくつかの事実も判明した。四十年前、井尻秀隆ひでたかという男が妻を殺害した事件があったらしい。男は殺人の罪で刑務所に入り、服役中に病死したという。
 その夫婦の間には、当時四歳と一歳の子供がいた。親戚等の引き取り手はなく、養護施設に預けられたようだ。その二人の名が井尻晶と井尻薫だと突き止めた。
 和香が養護施設に預けられていた点や、父親が母親を殺した事件についての報告は沼橋からも聞いていたが、本当だったらしい。ただ井尻という名や、兄がいた事実は隠されていた。ここからも前回の報告書が完全には信用できないと証明された。
 一部だけ真実を混ぜ、藤子の同情を引く効果を狙ったのだろう。事実報告を受けた後、彼女への疑いは完全に頭から消えていた。まんまと策に嵌まったのだ。さすが公安としか言いようがない。当然川村が会社を退職した後、長野の実家に戻っていたというのも嘘だ。
 二人の年齢は川村と和香とそれぞれ同じだった為、同一人物で間違いないという。だが施設はもう無くなっており、それ以上の詳細は余り掴めなかったらしい。
 それでも兄の晶は中学を卒業して直ぐに就職し、まだ施設にいた妹の学費を工面していたと判明している。そのおかげで薫は高校を卒業し、大学にまで進学したようだ。
 この点は以前奨学金を利用していたと聞かされていたが、実際は兄による経済的援助のおかげだったと分かった。晶はその間、雄太と同じようにシステム関係の会社を転々としていた。妹は大学卒業後に出版社に入社し、十二年目の三十四歳の時に退職して独立。フリーライターとして今に至る。
 ちなみに彼女の退職理由は、同性愛者だとの噂が職場で広がり居づらくなったからだという。誰かがそうした類の店に出入りしている所を見たのか、誹謗中傷が絶えなかったそうだ。
 和香が言っていた経歴に嘘は無く、雄太が二〇一〇年に彼女がいた出版社のシステム部門に転職していた点も事実だった。よってそこで二人が知り合ったと言うのは本当なのかもしれない。
 井尻薫が南和香と名乗り出したのはフリーになってからだった。彼女は雄太と違って、藤子と同じペンネームを使用していたようだ。つまり南和香という実際の名義は持っていなかったのである。
 しかし兄の晶は違った。雄太と同じく川村昌雄という別名義を使用していた。しかも雄太が勤めていた会社とは別の所で勤務し始めた時から名乗り出したと言う。それがどうやら雄太と同じく五年前と言う点が気になった。
 取り敢えず中間報告という形で受け取った藤子は、更にまだ明らかとなっていない部分の調査を継続するよう依頼した。
 しかしそこに邪魔が入ったのである。彼から報告を受けた二日後、江口の事務所で違法調査の疑いが浮上し、警察の家宅捜査を受けたと連絡があった。その為しばらく依頼された件については動けないと謝罪されたのだ。
 もし急ぐなら別の事務所を紹介すると言われたが、藤子は一旦保留することにした。今回の件は裏で田北が動き、妨害工作をしたのだろうと疑ったからだ。
 探偵業は警察庁の公安委員会への届け出が必要となる。つまり彼らと別組織でも同類の管轄下にあった。それならばどこに依頼し直しても圧力がかかり、同じ状況が繰り返されるだけだと推測できる。この件を受け、やはり和香と川村や田北は怪しく竜崎の言葉が正しかったのだと確信を強めた。
 そこでもう一度彼と話ができないかと考えた。真実を知り、それを藤子に話してくれる可能性があるのは一人しかいないからだ。けれど肝心の行方が全く分からない。
 藤子が無理やり連れだされた為、あのアパートには警察の捜査が入っている。誘拐または軟禁されたとの被害届は出していないけれど、公安があのアジト自体を封鎖し彼の行方を捜しているのは間違いなかった。
 この時点で藤子はこれ以上雄太の死の真相を探り、過去の調査は不可能だろうと諦めかけていた。公安が本格的に絡んでいるのなら、真相は闇に葬られたままになるだろう。また雄太が公安のエスだったなら、過去を暴く行為は彼の為にならないのではないかとも考え始めたのである。
 といってこのままでは遺産の放棄期限までに、雄太の意図も探れないままだ。どうやら負の遺産に関しての懸念は、ほぼ無いと考えていい。よって何もせず受け取ればいいとも思った。
 けれど問題はその後だ。兄夫婦に全く渡さずにいれば、必ず美奈代は報復に出るだろう。それを防ぐ方法は一つある。兄と遺産分割についての協議を行い、納得のいく取り分を決めることだ。そうすれば余計な揉め事を起こさずに済み、今後の兄夫婦達との関係だって何事も無かったかのように保てるだろう。
 しかし雄太の秘密が隠されているあの土地や建物を、彼らの手に渡る事態だけは避けたかった。
 ならばあの家は藤子が相続し、その代わり売却した場合の市場価値を計算した分の遺産を預貯金等で渡せばいいだろう。面倒な手続きをせずに現金を貰った方が美奈代も喜ぶに違いない。そう考えれば一石二鳥だ。
 ただそれで本当に良いのだろうか。和香が口にした言葉がまた頭を過《よぎ》る。今思うと竜崎に近づく為の方便だったのかもしれない。だが彼女は兄との関係を危惧するなら寄付をしたって良いと言っていた。そう告げていた彼女はどこまで本気だったのだろう。 
 竜崎が予想外の行動に出た為、雄太がどのような活動をしていたのかは不明なままだ。けれど香港の民主化運動に加担していた話は嘘に違いない。だったら彼女が口にした寄付を考えても良い団体は存在しないのだろうか。
 それとも彼女達の生い立ちを考えれば、何らかの事情で親と離れて養護施設へ預けられた子供達を支援するNPO等を指すのだろうか。
 少なくともあの二人と雄太が交流を持っていた点は確かな為、その線はあり得る。後は自身も同性愛者だったから、LGBTQ等を支援する団体の可能性もあった。それとも他に別の何かをしていたのだろうか。
 ここで改めて考えた。雄太が自筆証書遺言書保管制度を利用したのは約一年半前だ。それは当時藤子が無職だったからだと思っていたが、そうでは無いのかもしれない。
 作家としてデビューしたのはその一年後だ。芥山賞を受賞したと分かってからも、二カ月経っている。書き換えるつもりなら時間はそれなりにあったはずだ。
 それにもし境遇に同情していたとしても、藤子だって両親から遺産を受け取っていたのは彼も知っている。しかもそれまで勤めていた会社で彼より高収入を得ており、預貯金だって十分あったはずと理解していたに違いない。
 それなのにわざわざ藤子に全額を残すというのは、さすがにやり過ぎではないか。もし同情があったとしても両親がした通り、兄よりやや多めに残す方法だってあったはずだ。
 あの時でさえ、彼は多少なりとも兄弟間でぎくしゃくした経験を味わっている。それなのに揉めると予測した上で、あのような遺言を残すだろうか。美奈代が激怒するとも予想できたに違いない。しかもあの若さで何故遺言を残していたのかと訝しんだ。
 しかし公安のエスだった事実を考慮すると、もしもの事態が起こった場合に備え書いていたのだと思えば理解はできる。やはり和香が強く主張していたように、雄太は将来あのお金をどう使うか、目的を持っていたのだろう。だが何らかの理由があって、それを遺言に残せなかったとは考えられないか。
 だからもし自分の身に何かあった場合、藤子に託せばその意思を継いでくれると信じてくれたとも考えられる。また和香はそれが何かを知っているのだろう。その上で万が一藤子が悩んだり誤った方向へ進もうとしたりすれば、軌道修正させる役割を負っていた可能性はないだろうか。
 もしそうだとしたら、和香と繋がりを断ったのは間違っていたのかもしれない。そうなると彼女を問い詰め、雄太が描いていた遺産の使い道を確認しなければならないとさえ思い始めた。
 しかしそれは同時に、兄夫婦との確執を決定づける。さらに今後の作家人生をも狂わせかねない。そう思うと雄太は何故藤子をこのような境遇に追い込む選択をしたのか。
 どちらを選ぶにしても、苦しむことは間違いない。それでも止むを得ないと思っていたのだろうか。それとも彼は、必ず正解に辿り着くと信じていたのだろうか。それが藤子にとっても好ましい道だと考えていたのだろうか。
 藤子の悩みは尽きることが無かった。
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