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しまおか

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第一章~③

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「ところで三日前の八時前後ですが、あなたはどちらにいらっしゃいましたか」
 一瞬にして脳に刺激が走った。これまで様々な小説を数千冊読み、ドラマや映画等も相当数観てきた藤子に対し、まさかこの定型文言が現実世界で投げかけられるとは予期していなかったからだ。そう言えば彼らの所属は捜査一課だと言っていたと思い出す。
 反射的に強い口調で言葉が出た。
「それはアリバイ確認ですよね。どういう意味ですか」
 しかし刑事は慣れた調子で、これまたお決まりの台詞を口にした。
「他意はありません。関係者の皆様にお聞きしております」
 美奈代も意味を理解したらしく、食ってかかった。
「私達が雄太さんを突き落として、殺したとでも言うんですか。私達は遺族ですよ」
 だが刑事はここぞとばかりに反論した。
「弟さんの死は不幸な事ですが、人一人を殺しかねなかった犯罪者かもしれないのです。もし自ら落ちた、または過失により落下したのではなく、誰かに突き落とされたとしたら被害者になるでしょう。それでも名前を偽り、二重生活していたという事実が残っています。これは文書偽造の罪に問われる案件です。つまりあなた達は今現在、犯罪者遺族でもある点を忘れないで頂きたい」
 彼女はショックを受けたのだろう。真っ赤な顔をしたまま黙って下を向いた。プライドの高い人だから、身内に犯罪者が出たと分かり恥じたのだろう。または怒りで言葉を失ったのかもしれない。
 刑事はさらに続けた。
「それに彼の戸籍を取り寄せ確認したところ、ご両親は既に他界していて妻も子もいない。そうですね。今のところ借金を抱えてトラブルになった形跡、または内縁の妻や子供がいる証拠も見つかっていません。そうなると、預貯金だけでなく彼の名義になっている土地や建物を相続するのは、あなたの旦那さんと藤子さんのお二人です。建物は古いですが、葛飾区にある土地は結構な価格になるでしょう」
 そこで言葉を切ったが、あんに相続財産を狙った殺人の可能性を疑っていると伝えたかったのかもしれない。藤子は馬鹿馬鹿しいと腹が立った。無職だった半年前でさえ、経済的に困る状況まで落ちぶれてはいなかったからだ。
 預貯金を取り崩す暮らしをしていたのは間違いない。しかし両親の遺産と自らが二十一年余り心身共に削って蓄えた資産を併せれば、贅沢をせず無理しない程度の暮らしなら二十年は生きていけるだけのライフプランを設計、維持してきたのだ。
 六十五歳になれば、公的年金や在職時に支払っていた厚生年金が支給される。よって余程の浪費や想定外の事態が起こらない限り、例え作家になれなくても人に迷惑をかけない範囲で生活できる予定だった。
 それがここ半年で急激に環境が変わり、経済的に相当な余裕もでき社会的地位さえ向上した。そんな状態で遺産目当てに弟を殺す動機などある訳が無い。
 しかし怒りで頭に血が上り、怒鳴りたくなる気持ちを懸命に抑えていた藤子の隣では、全く異なる感情を持った美奈代が口を開いた。
「その時間、私は娘の代わりに孫を幼稚園に送り届けていた頃です。先生達と立ち話をしていましたし、他の園児の保護者達ともしばらく会話を交わしました。あの辺りは防犯カメラがあるので、確認して頂ければしっかり映っているはずです。事故現場からそれなりに距離がありますから、アリバイは証明できるでしょう。もちろん夫は海外赴任中ですし、同居している娘や共働きをしている息子夫婦も、その時間なら会社に向かっている最中だったと思います。調べて頂ければ分かるはずです」
 家族は皆、雄太の死に関わっていないと強く主張し出した彼女に奇妙な感じを抱いたが、次の言葉でその理由が頷けた。
「ところで雄太さんはどれだけ預貯金を持っていたのですか。土地の資産価値も、今だといくら位になるか警察は調べたのですよね。だから私達を疑ったのでしょう。教えてください。彼はどれだけの資産を持っていたのですか」
 どうやら彼女は、いずれ入って来るだろう遺産に興味が移ったようだ。その為相続そうぞく欠格けっかく事由じゆうに当たらないと、力説したかったらしい。
 前のめりで迫る彼女に押されたのか、刑事は説明し始めた。
「いずれお分かりになるでしょうからお伝えしますが、こちらで把握しているのは最低でも二億円以上あると言う点だけです。正確な数字をお知りになりたければ、弁護士等に調査を依頼した方が良いでしょう」
 これにはさすがの美奈代も目を丸くしていた。想像以上の額に驚いたのだろう。だが藤子は堅実だった彼なら、それ位は持っていてもおかしく無いと思っていたので平然としていた。
 二人の対照的な表情を見て、彼は説明を続けた。
「土地だけでもあの辺りは購入された頃より高騰していますから、一億近くするでしょう。加えて預貯金が一億円以上ありました。ただしこれが、何らかの犯罪で得た収入であれば問題になります」
「そうなんですか」
 急に不安げな顔をした美奈代の問いに、刑事は淡々と答えた。
「まだ今の時点でそう言った事実を裏付ける証拠はありません。それでも偽名を使っていたのですから、何か後ろめたい行為をしていた可能性はありますからね」
 だが藤子は冷静だった。あの雄太が不法にお金を得る真似などするはずない。保曽井家の血筋から考えても、それはあり得ないと信じていたからだ。確かに他人名義を取得していたのは犯罪だろう。それでも何かしら止むを得ない事情を抱えていたに違いない。
 それに土地や建物の購入代金は、父の遺産で払ったと考えれば納得できる。しかもその後、彼は母親が病死した際さらに多くの遺産を受け取っていた。
 その上独身であり、高校を卒業してから三十年近くも働いて来たのだ。最初の頃は実家住まいだったから出費も抑えられていただろうし、転職を重ねてそれなりの給与も得ていたと思われる。
 購入した家と別でマンションを借りていた為、二重生活による出費はそれなりにあったかもしれない。だが贅沢していなければ、一億以上の預貯金を蓄えていても不思議ではなかった。
 保険会社に勤務していた藤子はファイナンシャルプランナー、通称FPの資格を持っている。よってライフプランニング等の知識がある為、そう予測を立てることは比較的容易だった。
 他にも保険とリスクは当然ながら、相続や事業継承、不動産または金融資産の運用、リタイアメントプランの設計も得意としている。だから退職後、自分はどう暮らせばいいのか、経済面においてだけは十分理解していたつもりだ。
 しかし人としてどう生きれば良いのかをずっと悩み続けていた。そうしたストレスが影響し、心と体が病んでしまったのだろう。その苦しみから解放される為に会社を辞め、抱いていたコンプレックスを解消した上で、リハビリとして始めた読書にのめり込んだ。そこから物語をつむぎだし、自分は生き甲斐を探していたのだと後になって気付いた。
 しかも大嫌いだったかつての本名とは別に、小説なら好きな筆名を名乗れる。新たな名を手に入れ、その世界でなら本当の自分を取り戻せる気がしていた面も否めない。その結果、単なる小説家ではなく芥山賞作家として、今こうして生きているのだ。
 しかしそれが本当に望んでいたものかは自分でも分からない。ただ気付いてみればそうなっていた、というのが正直なところだ。また雄太が別名を名乗っていたと聞き、何となく理解できる点もあった。もしかすると、彼も忌まわしい保曽井家の呪縛じゅばくから逃れる為に、藤子と似た想いを持っていたのかもしれない。
 恐らくぼんやりしていたのだろう。目を覚まさせるかのように、刑事は藤子に向かって同じ質問を繰り返した。
「あなたはどうですか。三日前の八時前後はどうされていましたか」
「わ、私はテレビ局にいました。生放送の番組に出演する予定で七時半からずっと楽屋にいましたから、調べて頂ければ分かると思います」
 慌てて答えた所で、嫌な事を思い起こした。あの時、突然入って来た速報についてコメントさせられたが、あれは雄太だったのだ。予定に無かった為、そんな事情も知らないで台本に書かれていない何かを口にしたはずだ。その咄嗟の対応を褒められた覚えがあるから、表面上は落ち着いているように見せられたと思う。
 しかし内心は、心臓が飛びださんばかりに激しく動揺していた。病気が悪化したのではと思うほど動悸も酷く、頭痛さえした位だ。あの時何と言ったのか記憶が定かでない。ただ自分の作品になぞらえて答えた為、後で編集部の面々は良い宣伝になったと騒いでいたはずだ。
 それからも刑事によるいくつかの質問に答えた藤子は、美奈代と警察署の前で別れ自宅へと戻った。その後事態は新たな局面を迎えたのである。
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