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第三章 瑞凪少女誘拐事件

35.シンデレラ

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 始発電車に乗客は少なかった。
 ふだんから、日曜早朝の上り線を利用するのは、活動的で血気盛んな学生くらいなのだろう。あきらとネモが乗り込んだ車両には先客はひとりもいなかった。

 横並びでふたり、座席にすわる。手短に話そうと思って〈テラリウム〉に投稿された動画を見ながら、意見交換に興じていると、ネモがいきなりジャケットを脱ぎ捨てた。
 さらにはトランクケースを足元に広げてみせた。

「……そうか。すでに君の友達が別働隊として動いているのか。僕らは遊撃手として臨機応変にいくのが得策だろうね」

 口調は真剣そのもの。
 指先はネクタイをほどくのに手間どっている。

「そう。レシートから真木が伊奈羽に通っていたのはたしか。……え。シャツも脱ぐの」
「襟もと窮屈だろ。例の彼女の行先らしい〈リトルパルフェダイニング〉ってのは?」
「ネットで調べたらいま人気の漫画……〈クロガネ〉とタイアップしてる。コラボカフェ限定メニューとグッズ提供中。……窓のブラインド、おろすね」

 ドレスアップルームくらい選んでほしい。

 まじまじと見るのも気が引けて、ブラインドの幾何学模様のなかにある四角を数える。
 二十個数えてから振りむくと、ネモはタートルネックのセーターを着用していた。毛羽たちひとつ見あたらない墨色だ。

「我ながら完璧」

 自認するどおり、風采は悪くはない。個性的だけど端正な顔立ちをしている。
 ただしどうにも自信過剰で尊大。

 衣装替えをおえたネモは、一度は閉めたブラインドを開けようと、腕を伸ばしてきた。窓の外には水面に曇り空が映り込んだ棚田が広がっていた。

「無駄骨で終わらないといいけどな。〈クロガネ〉ファンの十代女子って圧倒的マジョリティだろう?」
「わかってる。友達の多い真木のことだから、単に誘われて行っただけかも」
「だが無関係とも断言できない」
「……うん。真木……お母さんと上手くいってないはずだから。なにか伊奈羽に通う理由があったのかも」
「被害者は家庭に居場所のない孤独な少女。少年法絡みのルポルタージュでは頻出語だな――心の闇ってやつ」
「ジェスター様はそこに、つけこんでる?」
「騙して連れ去るなら、経験値がとぼしい子供のほうがずっとたやすい。彼女の身の安全が気がかりだが〈テラリウム〉に更新はきてないね」

 それからしばらく、夏織から送られてきたレシート画像を共有したり、〈テラリウム〉に有力な情報が落ちていないか探しあぐねたりしながら過ごした。
 せめて、真木のアカウントが特定できればよかったが、あきらも含め美術部の部員たちは誰ひとり把握していなかった。夏織に至っては今回の騒動が起きてはじめてSNSに新規登録したばかりだ。

 ほどなくして、終点のアナウンスが鳴った。

 伊奈羽駅。瑞凪からは遠く離れた都会の町。
 駅前には百貨店が立ち並ぶ目貫通りが待っている。学校に会社にイベントホール、あちこちの扉と野外広告が未知へと誘うようだ。

 雑踏を切りぬけて颯爽と歩くネモの背を追いかけて、城砦じょうさいのような駅舎を駆ける。歩きながら通話しているビジネスマンに、真正面からぶつかりそうになったら、となりから腕を引かれた。ネモはちらりとも視線をくれない。

 ……これでは引率されているようだ。

「そうだ。アキラ。興味本位だけどさ」
「なに」
「スリーサイズは?」
「……は?」

 なにもかもが説明不足だ。
 唖然としているあいだに、エレベーターに乗せられていた。十三階のボタンを押すのを視認してから、頭のすみに疑念がよぎる。

 おかしい。伊奈羽駅から〈リトルパルフェダイニング〉に向かうなら、地下鉄に乗る必要があったはずだ。
 なぜ上階に向かっているのだろう。それとも、登ったさきに地下鉄に乗るための近道があるのだろうか。都会の駅舎は構造が複雑だ。何度訪れても、巨大な立体パズルみたい。いや、それより、顔をあわせて数時間の女子高生にデリカシーが欠如した質問を繰りだしてくるなんてまともな大人なら絶対やらないことのはずで――。

 煩雑に散らばる思考をまとめられずにいるうちに。
 たどり着いたのは、洋装店だった。

 硝子の扉を抜けた先、コバルトブルーのワンピースに身を包んだ女性店員がマネキンに礼服を着せている。彼女はネモを視界にとらえるなり、息を飲んだ。
 本名不詳の奇人は挨拶もほどほどに、片手をあげただけで黙殺する。

「どうどう、ようこそいらっしゃいましたは不要だよ。今日はお忍びだから」

 常連客らしい。きっと顔見知りなのだろう。スタッフはこくりと神妙に頷く。

「これからお召し替えを?」
「いや、こっちを仕上げて欲しくてね」

 とん、と背中を叩かれる。足元がよろけた拍子に転びそうになるがぐっとこらえる。
 あきらが顔をあげたとき、女性店員は戦を控えた軍師の顔になっていた。

「これはこれは……腕の振るい甲斐がありそうです」

 悪寒がとまらない。なのに朗らかな笑顔で「お客さま、試着室はこちらでございます」と案内されてしまうと一切合切を断れない。せめてネモへと抗議する。

「待って。何するの。何されるの」
「いやあ、ほら。こういうのは慣れだから。ここのスタッフは優秀だしされるがままにされておきなって」
「そういう問題じゃない」
「大丈夫。支払いは僕が持つから。あ、クイックペイは使えるかな」
「決済機器は最新式を導入済みでございます」
「そういう問題でもない!」

 いつの間にやら出現した二人目のスタッフに両腕をホールドされていた。この体勢――つかまった宇宙人? さらに魔性の指先がするりと伸びてきて、魔女が飼い猫にでもするように喉もとをくすぐられる。

「こわがるなよ、灰かぶり。己の美醜を正面から知ることも、気高くあるため纏うことも、すべて僕らの特権なんだ。鏡像から目を背けることこそ罪悪さ」

 そして三十分後――。
 あきらは鏡の前で盛大にため息をついていた。

「口車に乗せられただけな気がする……」

 試着室に押しこまれて、着せ替え人形さながら着脱され、蝶よ花よともてあそばれた。

 スタッフたちが満足するまでコーディネートをいじくりまわされたあと、最後に姿見がぐるんと一回転して、嗅いだことのない匂いで充満した化粧室に通されたのだ。ブランドロゴが踊る化粧ボックスから、次々と未知の物品が登場したあたりで失神しかけた。

「君は疑いぶかいなぁ。みんな心から、綺麗だって、可愛いって、素敵だって言ってくれてるもんだぜ」
「……あなたの感想は」
「馬子にも衣装って言っておくよ」

 そのくらい率直なほうが安心する。

 姿見に映る自分を何度みつめても、あまりしっくりこなかった。
 袖口にさりげなく星座の刺繍がほどこされた瀟洒しょうしゃなレトロブラウスも、菖蒲色のヘップバーンスカートも、可憐ながら少女趣味がすぎる。
 こういうフェミニンな服装は光梨の趣味だ。もっとも彼女の場合、たいていは衣装が負ける。

「お気に召さなかった? まあ人工的に研ぎ澄ますことだけが美ともかぎらないが、いまは都会の流儀に染まっておいてくれ。君のためでもある」

 仕上げにとでも言うように、ネモからは伊達眼鏡を渡された。
 いちおう、変装のつもりで連れてきたらしい。

「こっちでなにかあったとき、身元を特定させないため?」
「話が早くて助かるよ。有り体に言うと、僕と並ぶ人間はそれだけで目立つからさ」
「……せめて事前に説明してから行動して」
「きょうはいつもよりよく吠えるねぇ。視覚情報と音声情報もあるからか。けどこのくらい、お母さんにいやってほど連れ込まれてるだろ」
「…………家に母親いないから」

 沈黙が降りてくる。

 一から十を、百から千を、チャットウィンドウの文脈から多くを察してしまうひとだ。いまも、あきらが期せずこぼした述懐から、心根までも読み解いてしまえるのだろう。

 自分が不甲斐なかった。このひとがあのネモだからって。
 どうしようもないことを明かして、黙殺してしまった。

 だというのに。背後に立つその人は、控えめに息を落とす。

「…………無神経なことをした。……すまない」
「気にしてない」
「僕が気にするんだ。……あとでスタバで詫びさせて。期間限定フラペで買収する」

 意外と律儀だ。失言を詫びる気持ちは本心なのだろう。

 でも、謝るほどのことでもない。いちども来たことがない場所を、きのうまで画面の向こうにいた人と歩くのは、不思議な心地がする。天上にほど近い階層へきたからか、まるで空中散歩のような浮遊感。学校の先生にも部活の顧問にも決して言わない生意気を、曝してみようと思うのはなぜだろう。

「この季節なら、ほうじ茶ラテが妥当かな」
サタンリーたしかに。――いい提案だ。カスタムメニューはまかせたまえよ、少女探偵さん」

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