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第三章 天使とディーバの取引明細

44.僕の願いは……

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「椎堂さん!」
 夜、九遠堂。玄関口の扉に錠はおろされていなかった。

 勇み足で駆け込み大声をあげると、帳場の奥の障子戸が開く。椎堂さんは疲労がにじむ顔をして座敷からぬらりと這い出てきた。

「休暇に入ってからは益々威勢がいいな。夜勤にいそしむ心算か?」
「夜分遅くに突然すみません。連絡がつかなかったので直接推参しました」

 夜遊びはしない主義だが、緊急事態となれば自宅を抜け出るくらいはたやすい。太洲商店街まではなけなしの五百円玉貯金をはたいてタクシーを捕まえた。自転車を使うかも視野に入れたが、万が一道中を見咎められて補導されてしまっては困る。

「それで。俺のもとまで訪れたからには所用があってのことだろう。それもどうやら喫緊のようだ」

 目的は見透かされているようだ。ならば話は早いほうがいい。
 僕は椎堂さんを見据える。

「……今日はお客として来ました。まさか、話も聞かずに跳ね除けたりはしませんよね」
「俺を拝み倒すほどの大層な願いはないと豪語しておいて、現金な奴だ」
「お代なら考えてきましたよ。げんなまではありませんが」

「雇用関係の引き延ばしだろう? そうまでして叶えたいほどの祈ぎ事なのか、今一度顧みるがいい」

 椎堂さんは落ち着き払ったまま僕を諭す。
 淡々とした言葉に同情の色が添えられることはないが、冷静沈着そのものの対応に、憔悴しきっていた心がゆるやかに着地していく。

 息をととのえながら、僕はあらためて回顧する。

 庇護すべき子の身を案じた青年と、九遠堂を頼りに前進を誓った女性。喫茶店で、大学の敷地で、昼下がりの公園で、垣間見た彼らの想い。愁いを帯びた横顔と、ようやく見せてくれた笑顔と。

 僕が壊してしまったものの重さに思いを馳せて瞑目する。

 ……やはり、変わらない。

 顔を上げて目蓋を開ける。椎堂さんと正面から向き合う。

 僕の願いは、壱伊くんのもとに家庭教師の梁間さんを連れ戻すことだ。

「他人のために権利を消費するのは馬鹿げてますか。梁間さんを裏切ったのは僕です。あの人は、僕に時間を作ってくれた。関わった人たちが悲しむことがないように、婉曲な手段で遠ざけようとした。それなら壱伊くんから彼を奪ったのは僕なんだ」

「奴が時期を悟って消えたのだろう」

「梁間さんのこと、ご存知ですね? 手がかりがあるならはじめから教えてください!」
「九遠堂において客人に力を貸し与えるのは一度きり。すでに何度もそう伝えたはずだ」

 埒が明かない。
 九遠堂の店主に吠えたところで、この人が動じることは起こり得ない。それでも怜悧な目元に浮かぶのは、わずかながらの憂いだろうか。

 椎堂さんは僕を見てはいなかった。

 突如、背後で物音がしたのだ。思わず振り返ると、

「へえ……ずいぶん甘やかしたものだね」
 戸口に痩躯を立てかけた青年が、僕らの様子をうかがっている。

 目を疑う。彼こそ、僕が探し求めた相手だった。

「梁間さん! どうして九遠堂に?」
 投げかけた質問に応じたのは、椎堂さんだ。

「俺がなぜ店を開けていたと思っている。今夜あたり、盗人が押し入るだろうと予期してのこと」
「読まれていたか。さすがだね」

 盗人? 梁間さんが?
 急変した事態に圧倒されたまま動転していると、青年は店内に踏み入った。

 薄暗い屋内には障子戸の向こうから漏れ落ちる照明がほのかにさしこむばかりで、夜の髄液が染み込んだような闇ばかりが広がっている。

 今宵、九遠堂で二人の男が対面した。

「悪いがカナタが預けた装飾具は回収させてもらうよ、九遠堂の主人。あなたに預けたのでは、巡り巡って誰に悪用されることか」
「断る。リャナンシーの呪具は滅多に入手できる品ではないからな」
「気をつけたほうがいい、侮辱ととるよ。芸術を解さない相手に僕は容赦はしない」

 両者、互いに睨めつけ合ったまま、対となる彫刻のように微動だにしない。
 割り込むのは気が引けたが……。聞き捨てならなかった。

「待ってください。リャナンシー? それってどういう……?」

 問いを受けて、椎堂さんがわずらわしげにこちらを見遣る。

「〈怪奇なるもの〉の中には人の才能を見出し、庇護のもとで育み生かすことを好む者もいる。リャナンシーはそうした気質の妖精だ。かの者に愛されたものは、類い稀な芸術の才を開花させるそうだ。あの歌手もおまえの寵愛を受けるに値する相手だったのだろう」

 わかっていた。青年は〈怪奇なるもの〉だ。そして、その正体は。

「梁間さんが、カナタさんと壱伊くんに着いていたリャナンシー……」

 壱伊くんの音楽方面への目覚ましい発達は、リャナンシーが傍で支えたからこそ育まれたとみてもいいのだろうか。

 人と怪奇なるものの交流が、彼らにとってプラスに働くこともある。

「ただし、代償として生き物の精気を奪うとされ、寵愛を受けた対象は例外なく早死にする。習熟に必要とされる時を圧縮し、早熟な人生を歩ませるのだろう」

「……そうだ、長く関われば関わるほど彼らの人生に悪影響を及ぼしかねない。イチイはもう、心配ない。栗林カナタを失ってしまえば心を閉ざしてしまうだろうと見越して、しばらくは隣で支えるつもりだったが……彼女がいるならば大丈夫だろう」

 引き際だったのだ、と梁間さんは告げる。

「人は人と、手をとり合い生きるものだから。もとより僕の居場所ではない。情をうつしたところで、どうせ僕らの理は溶け合うことがないんだ」

 そうとわかって、彼は人を愛した。
 壱伊くんを。カナタさんを。彼らの奏でる音楽を。はたして、それは悲劇だろうか。

 ……僕は考え込む。
 九遠堂にはさまざまな客人が訪れる。

 事情を抱え、秘密を抱き、それでも何かを願う人々がいる。

 僕は非力だけれども、彼らの音を聞き届けることはできた。知ることはできたのだ。

 この世界では、日々を営む生き物たちの奏でる音が幾重にもつらなり、混成と遁走を繰り返しながら響かせあう。典麗で醜悪だ。高尚でありながら低俗だ。どこもかしこも不協和音に満ちている。

 人類なるものと怪奇なるものが織り成す交響曲は、奇々怪々でおぞましい。世界は今日も平和なふりをして廻っている。

 でも、きっと、それでもいいのだ。
 九遠堂に身を置いたからこそ、聞くことができた音楽がある。

 おずおずと椎堂さんの表情をうかがうと、思いがけず目が合った。ため息を落として両眉を下げ、伏せられた目蓋は沈黙を貫く。

 好きにしろ、と言いたいらしい。
 僕は半歩、梁間さんの側へと歩み寄る。

「梁間さん。いつか別れる運命なのだとしても、少なくとも今ではないはずです」

 意を決して見上げると、青年は渋顔をつくった。

「愚かだね。本気でそう考えているのかい?」
「悲しませたくはない、と言いましたよね? カナタさんがいて、進学先が決まったところで、きっと壱伊くんの寂しさは埋まるものじゃありません。あなたが異形の徒だったところで、秘密を抱えてふたりと馴れ合うと決めたのなら、最後まで貫きましょうよ」

 誰ひとり悲しまない結末は用意されていないのかもしれない。いつかくる別れから目をそらして、いまを踊る僕らは滑稽なのだろう。

 それでも、救われるものが、守れるものがあるのなら。
 もうすこしだけ。猶予がほしい。

 僕らは頼りない人間だから、誰かに一緒にいてほしいのだ。

「……マレビトと共にある君が言うか」
 ややあって、梁間さんがつぶやく。彼は戸口へときびすを返して、去り際に椎堂さんへと鋭い言葉を投げかけた。
「九遠堂の主人、あれはもうしばらく預けておく。下手に売り払うなよ。そこの少年があなたの傍らから消えたとき、僕も同じように身を引こう。イチイの友である立場から」

「承知した」

 こうして九遠堂の主人と怪奇なる男の対面は幕を閉じた。
 僕は立ち合い人としてふたりを見守り……最後には賭けの対象にされたような気がするが、ここは甘んじて受けておこう。
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