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第二章「契約更新は慎重に」
19.おうちにお邪魔したら、なぜか修羅場に巻き込まれた件について
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踏み入ってまず感じたのは、部屋全体の薄暗さだ。
とても日中とは思えないほどの暗闇が広がっており、まるで暗室の扉を開けたようだった。かろうじて目が慣れてくると、窓は締め切られており、日の光はカーテンで遮られているのがわかった。
寝室は狭く、壁際にそなえつけられている寝台が半分以上のスペースを占めている。寝台の上には夏だというのに羽布団がかけられており、ずんぐりと膨らんでいるのが見てとれた。
――間違いなく、いる。
寝起きが悪いとは予想外である。
起こしたところで、不機嫌そうに睨めつけられるのがいいところだろう。
とはいえ、乗り掛かった船である。もうどうにでもなれと半ば投げやりになりながら、一歩ずつ、寝台に近づいて布団に手をかけた。
「起きてくださいよ! とっくに朝です!」
思えば、九遠堂に到着した時点で熟考するべきだった。
扉は開いていて、あとは開店準備を整えるばかりの状況はできあがっていたのだ。
いつもなら帳場で待ち構えている店主に挨拶を済ませてから……。箒とちりとりで店内外を掃除して、珍妙な品々を軽く物色してはたしなめられ、前触れなく店を空ける椎堂さんに留守番を頼まれ、閑古鳥とよろしくやりながら、家から持ってきた文庫本でも読みながら悠々と過ごすのが日常になりつつあった。
後悔先に立たずの格言が頭をよぎる。
なにもかも遅すぎたのだ。
愚かしいことに、こんなイレギュラーな状況に陥るまで、僕はその可能性に思い至りもしなかった。
寝台に転がっていたのは、椎堂さんではなかった。
布団の下から出てきたのは――。
うら若い女性だった。
それも目をみはるほどの美女だ。
艶やかな黒髪は腰まで届くほど長く、Tシャツ一枚の薄着で、起伏に富んだボディラインがあらわで目のやり場に困る。
いちおう、確認しておくが、ここは椎堂さんが寝起きしているベッドのはずだ。
「千幸くん? あいつ、起きた?」
間髪入れず、佳代さんが背後から声をかけてくる。
――やばい。
直感的にそう悟った。
慌てて隠そうと試みるが、しかし、間の悪いことに、眠れる美女はむくりと起き上がった。
「うー……むにゃむにゃ、しどぉ……?」
上体を起こして、まなこを擦りながら、夢見心地で呼ぶ名前は。よりにもよって――。
「あれぇ? あなた、どなた?」
大きな瞳を揺らして、問いかける先に居たのは、僕ではなかった。
「――あなたこそ、どなたかしら?」
背筋が凍った。
急に室温が氷点下に落ちたのかと疑いたくなる。
佳代さんの声はこれまで聞いた誰のものよりも冷ややかで、歴然とした敵意が感じとれた。こらえきれない怒りの感情がまるで空気を震わすようにありありと伝わってくる。
まずい。これは、非常にまずい。
虎と龍の間に居合わせてしまったような、蛇とマングースに挟まれてしまったような、この上ない緊迫感が場を支配している。
どうして僕はここに居合わせてしまったのか――と奥歯を噛み締めるのも束の間。
「そこで何をしている」
救いの手は階下から差し伸べられた。
この時ばかりは姿を現した男――椎堂さんがお釈迦様に見えた。
地獄に一本ばかり垂らされた蜘蛛の糸に我先にとすがりつくつもりで、名前を叫ぶ。
「椎堂さん……!」
この場を無事に切り抜けたい一心だった。「助けてください」と泣きつけばいいのか「よくもこの野郎」と罵ればいいのか、今の僕には判断がつけられなかった。
佳代さんは椎堂さんと目が合うなり、眉をひそめて応じる。
「椎堂……。久しぶり、去年の正月以来ね。どうせ霞でも食べながら生きてるだろうとは思ってたけど、その生白い顔見たら安心したわ。あまりにも変わってなくて」
「曽根河か。そこの小間使いを連れて上がりこんだのは、別に構わんが。しかし、珍しいな。しばらく顔を見せられないと聞いた覚えがあったか」
「……こっちの支社配属になったの。だから……挨拶よ。せっかくだし、これからはもう少し頻繁に覗きにくるつもりだったけど、余計なお世話だったわよね」
「頼んだつもりはないな」
「ええ、そうね。わたしが勝手に押しかけてるだけ。……迷惑なら言ってよ」
最後のつぶやきはひどく弱々しく響いた。
おそらく、佳代さんは気を張っていたのだろう。緊張の糸がふつりと途切れる瞬間を、僕は見てしまった。
「帰ります」
佳代さんはハンドバッグを肩にかけ直すと、椎堂さんにも謎の美女にも目もくれずに階段を下りていった。
靴音さえもが痛々しい。
とり残されて、僕は呆然と立ち尽くすほかになかった。
「なぁに? シドーってばいつの間にお友達が増えたの?」
ベッドから起き上がった美女が、椎堂さんの腕にぬるりとまとわりつく。のんびりと控えている彼女は、台風の目の中心地にいるというのに愉しそうな微笑を絶やそうともしない。
泰然自若そのものだ。
独特の雰囲気があり、どこか底知れない妖艶さは、初対面の折に椎堂さんに感じた空気とよく似ている。
圧倒されそうになるが、僕は慌てて椎堂さんに向き直る。
なにも言わずに消えてしまった佳代さんの代弁も兼ねて、文句くらいは言わせてほしい。
「ただれた浮気男め。朝から部屋に若い女性を連れ込んで淫奔ですか」
「こいつか。昨晩勝手に上がり込んできてな、こちらとしても迷惑をしていた。さして珍しいことでもないが」
「ひどーい。シドーってばつれないんだからー」
自宅に修羅場を発生させておいて、あくまで傲然としている椎堂さんと、その隣でけらけらと笑う美女。
……絶句した。
椎堂さんも大人なのだから、痴情のもつれくらいは日常茶飯事なのかもしれないがこの仕打ちはひどすぎる。
生々しい人間関係を出会って数週間のアルバイトにいきなり暴露しないで欲しい。
「まあ、落ち着け。店を出て通りを南に進んだ先に老舗の中華料理店がある。おまえは知る由もないだろうが、あの店ならば昼間から酒類の提供を行っている」
追いかけろと。
なぜ僕がこの人の尻拭いをしなければいけないのだろう、とふつふつと怒りがこみ上げてくる。とはいえ促されるままに椎堂さんの私室を覗いてしまった僕にも非はある。
「あとでちゃんと説明してくださいよ」
佳代さんを追いかけよう。謎の美女と椎堂さんに背を向けて、僕は九遠堂をあとにした。
とても日中とは思えないほどの暗闇が広がっており、まるで暗室の扉を開けたようだった。かろうじて目が慣れてくると、窓は締め切られており、日の光はカーテンで遮られているのがわかった。
寝室は狭く、壁際にそなえつけられている寝台が半分以上のスペースを占めている。寝台の上には夏だというのに羽布団がかけられており、ずんぐりと膨らんでいるのが見てとれた。
――間違いなく、いる。
寝起きが悪いとは予想外である。
起こしたところで、不機嫌そうに睨めつけられるのがいいところだろう。
とはいえ、乗り掛かった船である。もうどうにでもなれと半ば投げやりになりながら、一歩ずつ、寝台に近づいて布団に手をかけた。
「起きてくださいよ! とっくに朝です!」
思えば、九遠堂に到着した時点で熟考するべきだった。
扉は開いていて、あとは開店準備を整えるばかりの状況はできあがっていたのだ。
いつもなら帳場で待ち構えている店主に挨拶を済ませてから……。箒とちりとりで店内外を掃除して、珍妙な品々を軽く物色してはたしなめられ、前触れなく店を空ける椎堂さんに留守番を頼まれ、閑古鳥とよろしくやりながら、家から持ってきた文庫本でも読みながら悠々と過ごすのが日常になりつつあった。
後悔先に立たずの格言が頭をよぎる。
なにもかも遅すぎたのだ。
愚かしいことに、こんなイレギュラーな状況に陥るまで、僕はその可能性に思い至りもしなかった。
寝台に転がっていたのは、椎堂さんではなかった。
布団の下から出てきたのは――。
うら若い女性だった。
それも目をみはるほどの美女だ。
艶やかな黒髪は腰まで届くほど長く、Tシャツ一枚の薄着で、起伏に富んだボディラインがあらわで目のやり場に困る。
いちおう、確認しておくが、ここは椎堂さんが寝起きしているベッドのはずだ。
「千幸くん? あいつ、起きた?」
間髪入れず、佳代さんが背後から声をかけてくる。
――やばい。
直感的にそう悟った。
慌てて隠そうと試みるが、しかし、間の悪いことに、眠れる美女はむくりと起き上がった。
「うー……むにゃむにゃ、しどぉ……?」
上体を起こして、まなこを擦りながら、夢見心地で呼ぶ名前は。よりにもよって――。
「あれぇ? あなた、どなた?」
大きな瞳を揺らして、問いかける先に居たのは、僕ではなかった。
「――あなたこそ、どなたかしら?」
背筋が凍った。
急に室温が氷点下に落ちたのかと疑いたくなる。
佳代さんの声はこれまで聞いた誰のものよりも冷ややかで、歴然とした敵意が感じとれた。こらえきれない怒りの感情がまるで空気を震わすようにありありと伝わってくる。
まずい。これは、非常にまずい。
虎と龍の間に居合わせてしまったような、蛇とマングースに挟まれてしまったような、この上ない緊迫感が場を支配している。
どうして僕はここに居合わせてしまったのか――と奥歯を噛み締めるのも束の間。
「そこで何をしている」
救いの手は階下から差し伸べられた。
この時ばかりは姿を現した男――椎堂さんがお釈迦様に見えた。
地獄に一本ばかり垂らされた蜘蛛の糸に我先にとすがりつくつもりで、名前を叫ぶ。
「椎堂さん……!」
この場を無事に切り抜けたい一心だった。「助けてください」と泣きつけばいいのか「よくもこの野郎」と罵ればいいのか、今の僕には判断がつけられなかった。
佳代さんは椎堂さんと目が合うなり、眉をひそめて応じる。
「椎堂……。久しぶり、去年の正月以来ね。どうせ霞でも食べながら生きてるだろうとは思ってたけど、その生白い顔見たら安心したわ。あまりにも変わってなくて」
「曽根河か。そこの小間使いを連れて上がりこんだのは、別に構わんが。しかし、珍しいな。しばらく顔を見せられないと聞いた覚えがあったか」
「……こっちの支社配属になったの。だから……挨拶よ。せっかくだし、これからはもう少し頻繁に覗きにくるつもりだったけど、余計なお世話だったわよね」
「頼んだつもりはないな」
「ええ、そうね。わたしが勝手に押しかけてるだけ。……迷惑なら言ってよ」
最後のつぶやきはひどく弱々しく響いた。
おそらく、佳代さんは気を張っていたのだろう。緊張の糸がふつりと途切れる瞬間を、僕は見てしまった。
「帰ります」
佳代さんはハンドバッグを肩にかけ直すと、椎堂さんにも謎の美女にも目もくれずに階段を下りていった。
靴音さえもが痛々しい。
とり残されて、僕は呆然と立ち尽くすほかになかった。
「なぁに? シドーってばいつの間にお友達が増えたの?」
ベッドから起き上がった美女が、椎堂さんの腕にぬるりとまとわりつく。のんびりと控えている彼女は、台風の目の中心地にいるというのに愉しそうな微笑を絶やそうともしない。
泰然自若そのものだ。
独特の雰囲気があり、どこか底知れない妖艶さは、初対面の折に椎堂さんに感じた空気とよく似ている。
圧倒されそうになるが、僕は慌てて椎堂さんに向き直る。
なにも言わずに消えてしまった佳代さんの代弁も兼ねて、文句くらいは言わせてほしい。
「ただれた浮気男め。朝から部屋に若い女性を連れ込んで淫奔ですか」
「こいつか。昨晩勝手に上がり込んできてな、こちらとしても迷惑をしていた。さして珍しいことでもないが」
「ひどーい。シドーってばつれないんだからー」
自宅に修羅場を発生させておいて、あくまで傲然としている椎堂さんと、その隣でけらけらと笑う美女。
……絶句した。
椎堂さんも大人なのだから、痴情のもつれくらいは日常茶飯事なのかもしれないがこの仕打ちはひどすぎる。
生々しい人間関係を出会って数週間のアルバイトにいきなり暴露しないで欲しい。
「まあ、落ち着け。店を出て通りを南に進んだ先に老舗の中華料理店がある。おまえは知る由もないだろうが、あの店ならば昼間から酒類の提供を行っている」
追いかけろと。
なぜ僕がこの人の尻拭いをしなければいけないのだろう、とふつふつと怒りがこみ上げてくる。とはいえ促されるままに椎堂さんの私室を覗いてしまった僕にも非はある。
「あとでちゃんと説明してくださいよ」
佳代さんを追いかけよう。謎の美女と椎堂さんに背を向けて、僕は九遠堂をあとにした。
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