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第四章 今なら、きみと

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 波の音を聞きながら、梨菜がぽつりと呟く。

「こうやってると、なんかずっとここにいてもいいかなって気になるよね」

 帰らなきゃいけないことは、梨菜だって分かってるはずだ。
 だから、私は返事をしなかった。
 代わりに、全然違う答えを返した。

「頼りないかもしれないけどさ、私が傍にいるよ」
「あんたが?」
「そう。一人じゃ辛くても、二人ならきっと今より強いはずだもん」

 それしかできないけど、と付け足すと、梨菜は笑った。

STAND BY MEそばにいてって言わなくても、いてくれる人がいるなんて、便利じゃないの」
「べ、便利とかそういうことじゃないでしょ」
「分かってるよ。もう」

 スカートの中に顔を伏せて、口の中でもごもご言っている。
 その様子をよーく見ているうちに、ようやく梨菜の態度の理由が分かってきた。

「ねえ、梨菜……もしかして」
「なによ」
「梨菜、今、照れてる?」
「……知らないし!」

 音を立てて立ち上がった梨菜が、ざっしゅざっしゅと砂浜を駆けて海へ向かって行く。
 慌てて追いかけたけど、その時には梨菜は波打ち際まで辿り着いていた。
 くるりと振り向いた梨菜の、長い髪が風に煽られてはためく。
 その髪の隙間から、真っ赤になった顔がちらちらのぞいている。

「あんたさあ! ほんっとおせっかいのいい子ちゃんだね!」

 梨菜の言う「いい子ちゃん」に、もう、嫌な思いなんて感じなかった。


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「サボるならもっとうまくやりなさいな。あんた、こういうの本当に慣れてないねぇ」

 砂まみれで帰ってきた私に、おばあちゃんはお小言を口にしつつも楽しそうだった。

 テレビから流れている今日の映画は『ローマの休日』。
 お忍びの王女と、若い新聞記者がたった一日だけのデートをする話。
 今流れているのは、ちょうど二人が満喫しているデートのシーンだ。
 最高に幸せで楽しいシーンだから、おばあちゃんもご機嫌なのかも。

 私が梨菜と海に行っている間に、担任の先生から慌てた声で連絡があったらしい。
 普段の様子から、サボりなんて思いもよらなかったのだろう。事件か何かに巻き込まれたんじゃないかとすごく心配した声だったと言う。
 電話をとったおばあちゃんが、とっさの機転で「体調を崩して家に戻ってきてます」と誤魔化してくれたそうだ。

「こういうときはね、ちゃんと共犯者にアリバイを頼んどくもんだ。具体的に言うなら、サボる前にあたしのとこに連絡して、「よろしく」って言っとくのよ。そうすりゃ、慌てずに誤魔化せるんだからさぁ」
「そんな、誤魔化すなんて……」
「じゃないと大事になっちゃうでしょうが。これだから慣れない子は……ばあちゃんの若い頃なんて、友達と口裏合わせて、交替で仕事サボって太陽館で映画見てねぇ」
「いや、そこはサボっちゃだめでしょ」
「そのおかげであんたの父さんが生まれたんだから。感謝しなさい」

 くっくっと含み笑いを漏らす様子からすると、よほど素敵なデートの思い出らしい。
 だけど、私の口は反射的に動いて、言い返した。

「……そんな風にして生まれたから、お父さんはああなんじゃない?」
「遥花……」

 おばあちゃんが言葉に詰まる。その顔を見て、私自身もはっとした。

「ご、ごめんなさい。今のは関係なかったね」
「いや、あたしの方が先に関係ない話をしたのさ。あんたに気を遣わせる辺りが、我が子ながら情けないけど……」

 おばあちゃんの深いため息。
 気まずい空気に耐え切れず、自分の部屋に向かうことにした。
 一応、最後にお詫びとお礼だけは言い残して。

「……あの、とにかくごめんね。それから、ありがとう」
「あんたがやるべきことをやったんなら、それでいいのよ。オードリー・ヘップバーンだって言ってるでしょう? 『私が義務を知らなかったら、永遠に帰ってこなかったでしょう』って。色んなことを経験して、人は自分のやるべきことを知っていくものよ」

 そうかもしれない。私には、休日の経験が足りないのかも。
 たった一日だけど、梨菜がどんな風に考えてるのか分かった気がする。
 悪いと思ったら、ちゃんと謝る子だってことも、初めて知った。
 それに、案外照れ屋だってことも。

 職場でもあんな風にちゃんと話せば、きっとうまくいってたのかもしれない。
 「仕事だけちゃんとして」なんて、表向きのことばかり言わずに。

 もしもそれができる私だったなら、お父さんともちゃんと話ができただろうか……。
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