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第二章 だけど、それでも

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「ただいま……」
「おかえりー」

 沈んだ気持ちで玄関をくぐると、廊下の奥からおばあちゃんの声が応えた。

 ダイニングのソファの上、昨日と同じ姿勢で、おばあちゃんは画面に見入っている。
 テレビから響くのは明るい女声コーラス。
 画面の真ん中で黒いスカートを翻す女優の姿を見ただけで、映画の名前はすぐに分かった。おばあちゃんと一緒に何度か見たことがある。

 『天使にラブ・ソングを』――クラブ歌手が、素性を隠すためにシスターの振りをして修道院に入り、傾きかけた修道院の経営をその歌声で盛り返すという、ミュージカルコメディだ。
 夢があって明るいストーリーと、生き生きとした俳優たち、それに楽しげな音楽は、子どもの私もしっかりと楽しませてくれたから、私もこの映画が好きだった。

 ……だけど、今はそんな気分じゃない。

「……おばあちゃん、私、部屋にいるね」
「おや、どうしたの。おやつも食べずに。『Sister Act』一緒に見ないの?」
「ちょっと……頭が痛いから」

 答えた私の顔を見て、一時停止ボタンを押すと、おばあちゃんはゆっくり立ち上がった。

「あらあら、ずいぶん顔色が良くないね。薬は飲んだ?」
「う、うん……」

 頭が痛いというのは嘘なのだから、もちろん薬も飲んでない。
 だけど、飲む飲まないでもめる気になれなかった。
 ぼんやりと立ちすくむ私の前を通り過ぎ、おばあちゃんはキッチンに向かう。

「まあ、お茶でも飲んでからいきなさい。肩に力が入ってると、頭に血が回らなくなるからね」

 その言い方で、思い出す。
 だいたいこういうとき、おばあちゃんには全部ばればれだったなあって。
 友達と喧嘩して帰った日も、先生に叱られた後も、初恋の相手にこっぴどく拒絶されたときも。

 こうやって思い返すと、小さな頃から全然変わっていない自分が情けなくなる。
 小学校のときも、中学生になっても、高校時代も――今だって、私、全然成長していない。

 黙ってソファに座って待っていると、カモミールティの入ったうさぎのカップがそっと差し出された。
 受け取った私の横に、おばあちゃんは再び腰かける。
 温かい湯気と柔らかに立ち上る花の香りが、いつの間にか力の入っていた眉間にじわりと滲むようだった。

「……おばあちゃんはさ、嫌なことしてくるヤツが、同じ目にあってるときに助けてあげたいって思う?」
「私の傘を盗った相手が、傘を盗られそうになってるとか、そういうことかね」
「そう、そういう感じ、かな」

 しばらく沈黙が続いた。
 私もおばあちゃんも口を開かず、ただお茶だけが減っていく。
 カップの底が見えるようになった頃に、おばあちゃんはぽつりと呟いた。

「あんたはもう小学生じゃないから言うけど、あたしね、ものすっごく性格悪いのよ」
「そ、そうなの?」
「そうよ。だってさ、傘を盗られるってすごく嫌じゃない? 雨の日に、持ってきた傘がない、困ったわ、せっかく持ってきたのに濡れて帰らなきゃ……なんてことになったら、しかもその犯人が判明してたら、あたしは容赦しないよ。誰かがそいつの傘を盗る前に、あたしが盗り返してやるわ」

 カップを口元にあて、涼しい顔でそんなことを言う。
 苦笑いで、私は首を振った。

「すごいね。私はあんまり、そんな気持ちになれないな」
「でしょうね。あんた、あたしの孫だとは思えないような、すっごくいい子だもの」

 おばあちゃんの眼差しには本当の温かさが宿っていて、何だかじわりと目元が潤んできた。

 本当は、「いい子」って言われるのは、あんまり好きじゃない。
 いかにも「優等生」「お人好し」って言われてるみたいで、私の変なコンプレックスが疼くのだ。
 だけど、おばあちゃんの「いい子」には、ただ本当に心から「いい」って思っているだけの意味しか感じられないから、素直に受け入れられる。

「あたしの答えとあんたの答えは多分違うでしょう。そもそも、あんたもう、自分で答えが出てるんじゃない?」

 そう言うと、おばあちゃんは自分の分と私の分、二つのカップを持ってさっさとキッチンに引っ込んでしまった。
 カップを洗う水音が、遠い歌のように響く。
 人のいる気配がこんなに優しいなんて、一人暮らしをするまで知らなかった。
 自分が、こんなに寂しがり屋だってことも。

 考えるまでもなく、私の答えなんて一つしかない。
 だって、おばあちゃんみたいには割り切れない、私だから。

 嫌なことは、嫌。
 どんな人だろうと、傘を盗られているところを見るのは、嫌だ。
 たとえ濡れるのが、私の傘を盗っていったヤツだったとしても。

 ――そんな風に決意が決まったところで、改めて、第二の問題が表立った。
 そもそも、私、自分に向いてるいじめさえ止められなかったダメ人間なんだけど。
 梨菜へのいじめをやめさせるって、どうすればできるのかな……?
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