聖女の拳は暗黒魔術

狼子 由

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序章 チンピラ、聖女になる

2.チンピラ、拳をふるう

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 近くにあった泉に顔を映し、俺は正面やら斜め後ろやらをぐるりと確認した。
 脱ぎ捨てた服を着る気力すら出ない。
 上も下も、前も後ろも、どこからどう見てもただの圧倒的美少女である。

 俺は愕然として、その場に膝をついた。
 水面が近付いて、自分の姿が丸ごと視界に入ってくる。

 長い髪はつややかな金色で、もとのブリーチのし過ぎでぱさぱさになった赤茶けた短髪は見る影もない。
 碧眼は宝石みたいにきらきらと輝いていて、死んだ目をした男の印象は消え失せている。
 桃のように柔らかな頬は薄ピンクで、唇はほころぶ花びらのようだ。

 愕然とした思いで泉を覗き込む。
 鏡面のような水に映る切なげな表情は、自分のものとは思えなかった。

「……なんだよ、こりゃ」

 それでも、俺がしゃべれば美少女の唇が動き、俺が頭を抱えようとすれば美少女が髪に手を伸ばす。
 嫌でももう、この身体が俺なのだと理解せざるを得ない。
 俺は美少女、美少女は俺だ。

「元の俺は死んで……生まれ変わったってことか?」

 こうまで姿が変わっているのだから、そうなのだろう。多分。
 だが、それならばそれで、この美少女になってから、幼少期の記憶はどうなったのかという疑問が残るのだが……

 がさりと草の鳴る音とともに、背後に人の気配を感じ、俺は勢いよく振り向いた。

「――誰だ!?」
「おっ? なんだ、知らない顔だな」

 振り返った先にいたのは、ぼろい革鎧を身に着けた一人の中年男だ。
 鎧のあちこちを黒く汚しているのは、血の跡だろうか。目を丸くしてこちらを見ている。
 とっさに立ち上がり、俺は男の前で胸を張って威嚇した。

「なんだとはなんだ、てめぇ。人に尋ねるなら、自分から名乗れや」

 いつもの調子でガンつけてから、鈴を鳴らすように可憐に響く声に気付いたが、時すでに遅し。
 中年男は下卑た目で、俺の身体を上から下まで舐め回すように見始めた。
 目線のいやらしさに思わず胸元を隠しそうになったが、ぎりぎりのところでプライドが手を止める。姿がちっとばかり美少女めいたくらいで、動作までか弱い娘のようになってたまるか。

 両手をだらりと下げたまま目に力をこめ、睨み付けた。
 元の世界なら、そこらの素人ははだしで逃げ出す眼力だ。
 が、どうやら目の前のおっさんに、その迫力は通用しないようだった。
 中年男は俺の脅しを無視して、こちらへ手を伸ばしてくる。
 その顔はにやけていて、どう見ても気持ち悪い。

「嬢ちゃん、どこのもんだ。こんなとこで水浴びか? 危ねぇなあ。お兄ちゃんが守ってやろうか」
「誰がお兄ちゃんだ、この下品なおっさんめ! こっち来るんじゃねえ!」

 自分が美少女になっている自覚はない。自覚はないが、体格差は分かる。
 正面から迫ってくるおっさんに本能的な恐怖を覚え、俺は無意識に拳をふるった。
 ……客観的に言えば、拳というか、ただいやいやと手を振ったのがたまたまおっさんの方へ向かっただけみたいなものだが。

「おいおい、怪我でもしたらどうすんだ。大人しくしてりゃ、痛いことはねえからよ」
「離れろっつってんだよ!」

 力いっぱい突き放そうとしたはずだが、想像をはるかに劣るのろさで、俺の手はおっさんに近寄った。
 へろへろのパンチを、おっさんは軽々と手のひらで受ける。

 ――が、どう考えても何の威力もない俺の手が触れた瞬間。
 ばちっ、と俺たちの間で電気が走った。
 一拍おいて、真っ白な火柱がおっさんの足もとを起点として立ち上がる。
 身を引こうとしたおっさんが、驚愕した表情のまま俺を見ている。

「な、なんだこれっ!?」
「知るかよ!?」

 そんな顔で見られたって、俺だってわかりゃしない。
 おっさんはしばらくわたわたしていたが、ふと、その表情が真剣みを帯びたかと思うと、みるみる眉が歪んで泣きそうな顔になった。

「――も、も、申し訳ありません!」

 とつぜん、おっさんが勢いよく土下座した。
 それも、背筋を曲げ地面に額をこすりつける完璧な土下座だ。

「大変失礼いたしました! 御身に触れようなどと不埒なことを――即座に距離を取ります!」
「……はあ?」

 突然恭しい態度を取られても、なにがなんだか分からない。
 が、おっさんは言葉通りその姿勢のまま後ずさり、ぎりぎり俺の視界に入る距離に控えた。

「おい、おっさん!?」
「申し訳ありませんでした!」
「……はあ? なんだよ、それ」

 しかし、おっさんを追いかけて問い詰める余裕もなく、俺はすぐに木々の向こうへ視線を戻した。
 枝を揺らして駆け寄ってくる数人の足音が聞こえてくる。

「聖女さま! どちらですか!?」
「ご無事ですか!」
「あっ、あそこに……!」

 口々に声を上げているのは、白いワンピースの娘たちだった。どことなく俺が最初に着ていたものと似たデザインに見える。全体に俺の方が宝石や細工が多かったように感じるが。

「聖女さま――!」
「聖女リュイーゼさま、ご無事でしたか!」

 慌てた声で叫びながら、女たちは俺の傍に駆け寄ってきた。
 その滑らかな手に次々に抱き寄せられもみくちゃにされて初めて、俺は自分がなにも分かっていないことをようやく認識したのだった。
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