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第五章 あなたと家族と明日のこと
1.そういうのじゃない
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窓から吹き込む風は、じんわりと夏の気配をまとっている。
夕暮れの涼しさに、入り混じる雨の予感がじっとりと暑い。
もうすぐ梅雨がきて、そして夏になるのだろう。
机の上でのんびりと読書をしていた直は、ふと顔を上げた。
視線の先で、机においたままのスマホが鳴る。
画面をタップし、にこやかに電話に出た。
「はい、多比良オフィスレンタルサービス株式会社、お客様サポートコールセンターです」
慣れた名乗りが、すらりと口を滑り出る。
手際よく会話を終わらせ電話を切ると、スクリーンセーバーのかかっていたパソコンに向かった。
画面には、多比良の顧客リストが表示されている。
リストの情報をもとに、今の電話の内容をファイルに入力していると、一つ下の入力欄でカーソルがちらちらと動き始めた。
どうやら、直以外の誰かが同じファイルをいじっているらしい。
カーソルにくっついているユーザー名から判断するに、相手は流だ。
直の方が先に入力を始めたのに、ぴったり同じタイミングで入力を終わらせるあたりが小憎らしい。
直は画面の上のカーソルを軽く指でつついてから、再び読書に戻った。
瀬央のアイデアは大きく三つ。
一つ、直と流を、今まで通りコールセンターで雇うこと。ただし、正社員ではない。バイトとしてだ。
「流をバイトに雇ったときと同じだよ。多比良では、正社員は社長が面接するけれど、バイトは部署の予算の範囲で勝手に決めていいことになっているから」
「……つまり、こいつらはバイトとしてならまだ働けるんだな」
直が落ち着いたところで、瀬央は関係者である優佑を喫茶店に呼び出した。
突然呼ばれたことに怒りもせず、瀬央の説明を聞いてほっとしたようにうなずいていたのは意外と言うべきか。
まあ、優佑がけして悪人ではないことは直も知っている。
ただ、なんというか……直とは価値観が違うだけなのだ。
もちろん、働き続けられると知って直も喜んだ。
だが、不安もある。直は恐る恐る片手を上げた。
「その……でも、私も流も、多比良の敷地に入ると目立ちませんか?」
「そうだね、そこで二つ目の提案。それはね――」
――瀬央が提案してきたのが、この勤務形態。
つまり、遠隔通話である。
直は自宅で、流はいわゆるコワーキングスペース――レンタルオフィス的なワークスペースで電話をとっている。
二人のパソコンは多比良の事務所に置いてあるパソコンを遠隔で動かす形態をとっており、データを外に持ち出している訳ではない。事務所のパソコンの電源を落とせば、すべてのデータは直のパソコンからはアクセス不能となる。
セキュリティもクリアしているし、導入にさしたるお金もかかっていない。働き方改革の一環でシステム導入への助成金も出るため、予算の範囲内であると優佑が言っていた。
直は、慣れた椅子に深々と座って、ぐいと背を伸ばした。
バイトだから暇な時間は好きに過ごしていいとは言われているが、座りっぱなしなのは身体に悪い。
通勤の時間が必要ないのは楽だが、事務所にいるのとは違って、どうしてもリラックスし過ぎてしまう気もする。
少し身体でも動かそうかと考えたところで、扉をノックする音が聞こえた。
「なーにー」
どうせ母親の有希子だろうと、だらけた声で答える。
コンビニくらいまでは出かけても許されそうな、部屋着より少しだけマシなTシャツとジーンズでぽりぽりと頭をかく。
肩の力を抜きすぎている直の耳に、意外過ぎる声が入って来た。
「直ちゃん、僕だ。差し入れ持ってきたよ」
「――せ、せせせせせ瀬央さんっ!?」
直は大急ぎで立ち上がり、扉を開けようとして、直前で方向を変えた。
首まわりが伸びかけのTシャツも問題だが、なにより今はすっぴんである。
瀬央に会うならせめてファンデーションを、とメイクミラーに向かったところで、背後で扉の開く音がしたのだった。
「なーおー、あんたなにやってんの。イケメンのお客様が来てるってのに、もたもたしてんじゃないわよ」
「母さんっ! なんで開けるの!?」
「なんでって、待たせる訳には……あーあー、もう。なによその姿。他人と会うのに、ノーメイクはないわよ、ノーメイクは」
「違うっ、だから今しようと思ってたの!」
「今からじゃ遅いに決まってるでしょ、ばかな子ねぇ。あの、どうぞ中に入ってくださいな。汚い部屋ですけど」
「あ、いえ……その、突然来た僕の方が悪いんです」
「いいえぇ、家の中だからって仕事なのにあんなだらけた格好してるあの子が悪いんですよぉ」
「母さんってば!」
「ほんとのことでしょ。もうねえ、この子ほんとに男っ気がなくて。会社ではどうなんですか? なんだかこないだまで付き合ってたひとともうまくいってないようだし――」
「もういいから出てって!」
直のぶん投げたクッションは、有希子がとっさに引いた扉にぶつかって落ちた。
その向こうで、けらけら笑う声が遠ざかっていく。
有希子のことは嫌いではないが、こういうあけすけな言いざまをされると、もう二度と会いたくないと思ってしまう。
「……瀬央さん、あの……すみません」
直は頭を下げて、蚊の鳴くような声を絞り出した。
くくっと笑った瀬央が、片手にさげた袋を差し出してくる。
「いや、まあ母子ってそういうものだよね。うちもだいたい似たようなもんだから、安心して」
「いやいやいやいや、瀬央さんちはもっとエレガンスですよ、絶対。うちの母はさすがにちょっと行き過ぎです」
「そうでもないよ。僕は実家を出たから毎日会うことはさすがにないけれど、顔を合わせるとすぐ、結婚はいつするとか恋人はできたかとか聞いてくる」
「瀬央さんのお母さまも……そうなんですか?」
苦笑いの切実さを見るに、どうやら本当らしい。
直は少しだけ救われた気持ちで、差し出された手土産を受け取った。
「あの、クッションしかないですけど、どうぞ座ってください。えっと……飲み物を」
「あ、いや、お構いなく。今日はちょっとした報告に来ただけだから」
「報告、ですか?」
にこりと笑った瀬央は、胸の前でピースサインを作って見せた。
「社長――僕の父親から、今度の土曜日に会って話そうと言われた。どうやら、佐志波はうまく話をを通してくれたようだ」
バイトも遠隔通話も、根本的な解決にはならない。
瀬央の考えた三つ目のアイデアは、優佑を通して例の大顧客の社長――多比良社長の高校時代の同級生に働きかけて、直談判するというものだった。
友人であり顧客でもある相手から諭されれば、話くらいは聞く気になるんじゃないか、というのが瀬央の予想であったのだが。
「あの……ちょっと意外です。優佑がこんなにうまく事を運べるなんて」
「あいつ、押しが妙に強いんだ。営業としてはいい腕持ってる。もうちょっと気配りができたら最高だけど……ま、そういうのは一長一短なのが当然だから」
「いえ、優佑の問題っていうよりも、その……」
直は少しだけ口ごもった。
率直に言うことに少し抵抗がある。父親なんだったら、瀬央が頼めば普通に会ってくれるんじゃないか、なんて。
が、言葉が出てこなかったことで、瀬央は逆に察してしまったのだろう。
ああ、と呻くようにうなずくと、直から目を逸らして窓の外を見た。
「……父子って言っていいのかな、僕ら。親らしいことも子どもらしいことも、なにもしないままここまで来てしまったから」
「そんな。あの……色々複雑なのは、なんだか……その、お察ししますけど」
「そうそう、複雑なんだ。……色々ね」
ぽつりと呟いた声には、じわりと梅雨の色が滲んでいるように見えた。
どう慰めようか、直がおたおたしている間に、瀬央はいつもの微笑みを取り戻して直を見る。
「君を否応なしに巻き込んじゃったしね、僕も流も。事情くらいは話しておこうか」
その声は既にいつもの優しくて穏やかな瀬央の声で、それだからこそ直は切ない。
その笑顔の裏に完璧に隠された寂しさを、直自身も知っているような気がして。
夕暮れの涼しさに、入り混じる雨の予感がじっとりと暑い。
もうすぐ梅雨がきて、そして夏になるのだろう。
机の上でのんびりと読書をしていた直は、ふと顔を上げた。
視線の先で、机においたままのスマホが鳴る。
画面をタップし、にこやかに電話に出た。
「はい、多比良オフィスレンタルサービス株式会社、お客様サポートコールセンターです」
慣れた名乗りが、すらりと口を滑り出る。
手際よく会話を終わらせ電話を切ると、スクリーンセーバーのかかっていたパソコンに向かった。
画面には、多比良の顧客リストが表示されている。
リストの情報をもとに、今の電話の内容をファイルに入力していると、一つ下の入力欄でカーソルがちらちらと動き始めた。
どうやら、直以外の誰かが同じファイルをいじっているらしい。
カーソルにくっついているユーザー名から判断するに、相手は流だ。
直の方が先に入力を始めたのに、ぴったり同じタイミングで入力を終わらせるあたりが小憎らしい。
直は画面の上のカーソルを軽く指でつついてから、再び読書に戻った。
瀬央のアイデアは大きく三つ。
一つ、直と流を、今まで通りコールセンターで雇うこと。ただし、正社員ではない。バイトとしてだ。
「流をバイトに雇ったときと同じだよ。多比良では、正社員は社長が面接するけれど、バイトは部署の予算の範囲で勝手に決めていいことになっているから」
「……つまり、こいつらはバイトとしてならまだ働けるんだな」
直が落ち着いたところで、瀬央は関係者である優佑を喫茶店に呼び出した。
突然呼ばれたことに怒りもせず、瀬央の説明を聞いてほっとしたようにうなずいていたのは意外と言うべきか。
まあ、優佑がけして悪人ではないことは直も知っている。
ただ、なんというか……直とは価値観が違うだけなのだ。
もちろん、働き続けられると知って直も喜んだ。
だが、不安もある。直は恐る恐る片手を上げた。
「その……でも、私も流も、多比良の敷地に入ると目立ちませんか?」
「そうだね、そこで二つ目の提案。それはね――」
――瀬央が提案してきたのが、この勤務形態。
つまり、遠隔通話である。
直は自宅で、流はいわゆるコワーキングスペース――レンタルオフィス的なワークスペースで電話をとっている。
二人のパソコンは多比良の事務所に置いてあるパソコンを遠隔で動かす形態をとっており、データを外に持ち出している訳ではない。事務所のパソコンの電源を落とせば、すべてのデータは直のパソコンからはアクセス不能となる。
セキュリティもクリアしているし、導入にさしたるお金もかかっていない。働き方改革の一環でシステム導入への助成金も出るため、予算の範囲内であると優佑が言っていた。
直は、慣れた椅子に深々と座って、ぐいと背を伸ばした。
バイトだから暇な時間は好きに過ごしていいとは言われているが、座りっぱなしなのは身体に悪い。
通勤の時間が必要ないのは楽だが、事務所にいるのとは違って、どうしてもリラックスし過ぎてしまう気もする。
少し身体でも動かそうかと考えたところで、扉をノックする音が聞こえた。
「なーにー」
どうせ母親の有希子だろうと、だらけた声で答える。
コンビニくらいまでは出かけても許されそうな、部屋着より少しだけマシなTシャツとジーンズでぽりぽりと頭をかく。
肩の力を抜きすぎている直の耳に、意外過ぎる声が入って来た。
「直ちゃん、僕だ。差し入れ持ってきたよ」
「――せ、せせせせせ瀬央さんっ!?」
直は大急ぎで立ち上がり、扉を開けようとして、直前で方向を変えた。
首まわりが伸びかけのTシャツも問題だが、なにより今はすっぴんである。
瀬央に会うならせめてファンデーションを、とメイクミラーに向かったところで、背後で扉の開く音がしたのだった。
「なーおー、あんたなにやってんの。イケメンのお客様が来てるってのに、もたもたしてんじゃないわよ」
「母さんっ! なんで開けるの!?」
「なんでって、待たせる訳には……あーあー、もう。なによその姿。他人と会うのに、ノーメイクはないわよ、ノーメイクは」
「違うっ、だから今しようと思ってたの!」
「今からじゃ遅いに決まってるでしょ、ばかな子ねぇ。あの、どうぞ中に入ってくださいな。汚い部屋ですけど」
「あ、いえ……その、突然来た僕の方が悪いんです」
「いいえぇ、家の中だからって仕事なのにあんなだらけた格好してるあの子が悪いんですよぉ」
「母さんってば!」
「ほんとのことでしょ。もうねえ、この子ほんとに男っ気がなくて。会社ではどうなんですか? なんだかこないだまで付き合ってたひとともうまくいってないようだし――」
「もういいから出てって!」
直のぶん投げたクッションは、有希子がとっさに引いた扉にぶつかって落ちた。
その向こうで、けらけら笑う声が遠ざかっていく。
有希子のことは嫌いではないが、こういうあけすけな言いざまをされると、もう二度と会いたくないと思ってしまう。
「……瀬央さん、あの……すみません」
直は頭を下げて、蚊の鳴くような声を絞り出した。
くくっと笑った瀬央が、片手にさげた袋を差し出してくる。
「いや、まあ母子ってそういうものだよね。うちもだいたい似たようなもんだから、安心して」
「いやいやいやいや、瀬央さんちはもっとエレガンスですよ、絶対。うちの母はさすがにちょっと行き過ぎです」
「そうでもないよ。僕は実家を出たから毎日会うことはさすがにないけれど、顔を合わせるとすぐ、結婚はいつするとか恋人はできたかとか聞いてくる」
「瀬央さんのお母さまも……そうなんですか?」
苦笑いの切実さを見るに、どうやら本当らしい。
直は少しだけ救われた気持ちで、差し出された手土産を受け取った。
「あの、クッションしかないですけど、どうぞ座ってください。えっと……飲み物を」
「あ、いや、お構いなく。今日はちょっとした報告に来ただけだから」
「報告、ですか?」
にこりと笑った瀬央は、胸の前でピースサインを作って見せた。
「社長――僕の父親から、今度の土曜日に会って話そうと言われた。どうやら、佐志波はうまく話をを通してくれたようだ」
バイトも遠隔通話も、根本的な解決にはならない。
瀬央の考えた三つ目のアイデアは、優佑を通して例の大顧客の社長――多比良社長の高校時代の同級生に働きかけて、直談判するというものだった。
友人であり顧客でもある相手から諭されれば、話くらいは聞く気になるんじゃないか、というのが瀬央の予想であったのだが。
「あの……ちょっと意外です。優佑がこんなにうまく事を運べるなんて」
「あいつ、押しが妙に強いんだ。営業としてはいい腕持ってる。もうちょっと気配りができたら最高だけど……ま、そういうのは一長一短なのが当然だから」
「いえ、優佑の問題っていうよりも、その……」
直は少しだけ口ごもった。
率直に言うことに少し抵抗がある。父親なんだったら、瀬央が頼めば普通に会ってくれるんじゃないか、なんて。
が、言葉が出てこなかったことで、瀬央は逆に察してしまったのだろう。
ああ、と呻くようにうなずくと、直から目を逸らして窓の外を見た。
「……父子って言っていいのかな、僕ら。親らしいことも子どもらしいことも、なにもしないままここまで来てしまったから」
「そんな。あの……色々複雑なのは、なんだか……その、お察ししますけど」
「そうそう、複雑なんだ。……色々ね」
ぽつりと呟いた声には、じわりと梅雨の色が滲んでいるように見えた。
どう慰めようか、直がおたおたしている間に、瀬央はいつもの微笑みを取り戻して直を見る。
「君を否応なしに巻き込んじゃったしね、僕も流も。事情くらいは話しておこうか」
その声は既にいつもの優しくて穏やかな瀬央の声で、それだからこそ直は切ない。
その笑顔の裏に完璧に隠された寂しさを、直自身も知っているような気がして。
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