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第四章 恋愛・友情・私の仕事

6.夜のロッククライミング

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 壁と路上で、しばらく黙って見つめ合う。
 口を閉じたままなおはじっと視線を逸らさない。
 先に瀬央せおは諦めたようにずりずりと壁から降りてきた。

 視線の高さが同じになったところで、直はようやく口を開いた。

「こんなとこで、一人でなにしてるんですか、瀬央さん」
「いや、これには深い理由が」
「それはながれくんが会社に来てないことと関係ありますか? 瀬央さんが解決しようとしてるんですか?」
「あっ、まあそうなんだけど」
「……私に声もかけずに、ですか?」

 じわりと涙がにじみそうになったのを、慌てて片手で押さえる。
 流にトラブルがあって、そしてそのことを自分は知らなかった。ここのところひどく心配していたのもあるし、それに……自覚はなかったが、瀬央が別部署に異動して、自分は優佑ゆうすけの傍に置いて行かれたように思っていたのかもしれない。
 些細なことなのに、仲間外れにされたように思えてしまう。

 涙が落ちる前にぬぐったつもりだったが、表情の変化で瀬央にはわかってしまったらしい。
 慌てて駆け寄ってきた。

「た、煙咲たばさきさん……どうしたの!?」
「なんでもありません……」
「いや、なんでもないって顔じゃないでしょう。ちょっとこっち向いて」
「違います、なんでもないんです。私が勝手に仲間だと思ってたってだけで……」
「仲間だよ、いやそれは間違いない。君が僕の部下でなくても、同じ社内……いや、元同じ部署……いやいや、もっとずっと一緒に過ごしてきた関係の深い……その……」

 だんだん声が小さくなっていくのを聞いて、直は顔を上げた。
 片手で顔を押さえた瀬央が、そっぽを向いている。

「……瀬央さん?」
「えっととにかく、仲間外れにしたつもりじゃない。ただ、その……流の家、というか僕の父親というか、にかかわる話だと思ったから、その……」

 それを聞いた途端に、直の顔にも血が上る。
 二人は腹違いの兄弟だ。瀬央が直に声をかけなかったのは、それがとてもプライベートな――具体的に言えば多比良たいら家に関する話題だったからだろう。

「ご、ごめんなさい! 私ったらプライベートに踏み込んで……」
「いや、君が来てくれたことを、流は喜ぶと思う。危ないし、家のことに巻き込みたくなかったから躊躇していたけど、もしよければ……本当にそれでいいなら、一緒に来てほしい」
「もちろんです!」

 直は勢い込んで返事した。
 にこりと笑った瀬央が、その背を軽く押す。

「じゃ、まずは二階だ。君、ロッククライミングの経験はある?」
「えっ……」

 その言葉が指す意味を理解して、直は目の前にそびえたつ白壁をもう一度見上げた。
 さっきまで瀬央がしがみついていたのは、二階のバルコニーを突き抜ける鉄柱と壁の間の補強金具だ。

「あの、もしかして、流くんの部屋って二階、なんですか?」
「いいや」

 あっさりと首を振られて、直はほっと息をつこうとした――が。

「もっと上、三階だ。二階はひとまず中継地点」

 少しだけ意地の悪い笑顔で、瀬央は言葉を続ける。

「で、どうする? 危ないから誘わなかったって、さっきも言ったつもりだったけど」
「……行きます! そう答えたつもりですけど!」

 売り言葉に買い言葉で応えた。
 勇気を振り絞った答えだったが、瀬央は肩を震わせている。

「はは、わかってる、そう言うと思った」
「そんなに笑わなくても……! 私だって流くんの力になりたいのは本当ですけど、落ちるのは怖いですよ!」
「いや、ごめん。煙咲たばさきさ――いや、直ちゃんがあんまり真面目に答えるから」
「な、直ちゃ……」

 改められた呼称にどんな意味があるのかどきどきしてしまう。
 が、瀬央はそのことは説明せずに、指を上へ向けた。

「ここからは見えないけど、二階まで上がればバルコニーから三階までの階段があるんだ。二階までは、見た通り金具がかかってるしね。だから、そんなに気合入れなくて大丈夫。なにかあっても、僕が下で支えるから。絶対落ちたりさせない」
「あ、は、はい……」

 瀬央の指示通りに金具をよじのぼっていく間、瀬央は本当に真下で直の背を支えてくれていた。
 ちょっと過保護なくらいに距離が近くて、ほとんど触れそうになってしまう。
 慌ててのぼったけど、途中で手を滑らせそうになったのは、金具よりも瀬央のせいではないかとちょっと恨めしく思ったりした。

 バルコニーから三階には、瀬央が言った通り梯子がかかっていた。
 上がった先は屋根裏部屋のようだ。小さな扉がある。
 一息つく直を置き、瀬央が先に立って扉を叩いた。

「……流、聞こえるか? ここにいるんだろ?」

 抑えた声で、だが迷いなく声をかける。
 しばらくの後に、内側からがちゃりと扉が開く。

「瀬央さん……」

 くたびれ果てた声をあげたのは、確かに流だった。
 ただし、見慣れたワンピースではなく、濃いめの化粧もしていない、ジーンズにTシャツ姿だったが。
 中はやはり屋根裏の一角で、倉庫のように使われているらしい。
 背の高い棚がいくつも並び、いっぱいに物が置かれている。その隅に小さなベッドがあった。

 どうやら流はここで寝起きしているらしいが、社長令息らしからぬ扱いだ。
 自室というよりは、まるで、倉庫に閉じ込められているかのような。

 瀬央が扉をくぐりながら、頭を乱暴に撫でる。

「やっぱここか。ってことは、想像通り美咲みさきさんに閉じ込められてたって訳だ」
「……そっすよ。俺ももういい年だってのに。いつまで経っても子ども扱いだ」
「ま、そう拗ねるなよ。素敵な応援団が来てくれたんだから。なあ、直ちゃん?」
「応援団……?」

 流の視線が、瀬央の背後へと漂った。

「……や、流くん。元気?」
「直、って――煙咲!?」

 流が驚いて身を引いた途端、その背中が棚に当たった。
 つんざくような音を立て、棚の上から物が落ちる。

「痛ぇっ!? やべっ」
「これはまずいな……」

 流と瀬央が口々に言った直後、扉が――直たちが入ってきたのとは逆の、邸内に繋がる扉が乱暴に叩かれた。

「流!? どうしたの、大丈夫!?」

 こっそり入ってきたことが知れるとまずい。
 そうは思ったが、隠れる暇も場所もなかった。

 がちゃがちゃと鍵を開ける音がして、向こうから扉が開く。
 女性が一人すぐに顔を覗かせ――そして、瀬央と直の姿を見て、目を見開いた。

「あ、あなたたち――!? ……どうしてここに!」
「えっ、そ、それは……あの!」

 直が慌てる隣で、流と瀬央が同時にため息をついた。
 再び瀬央に目を向けた女性は、ひどく顔をしかめる。

仁誉きみたかさん……あなた」
「どうも、ご無沙汰してます。美咲さん」

 そのやり取りを見て、直はようやく気が付いた。
 女性の声は、さっき玄関で優佑ゆうすけを追っ払った声だ。
 そして、流と女性の顔立ちには共通する点がある――つまり、美咲という名の彼女が流の母親なのだということに。
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