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第三章 成功・拡大・思わぬ罠

4.いつもと違って

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 約束の日、バス停にはすでに瀬央せおが座っていた。
 駆け寄る足音で気付いたのだろう。手元の文庫本から顔を上げ、なおに向かって手を振る。

 普段スーツの瀬央の私服を見たのは、これで二回目だ。
 一度目は引っ越しの日のトレーナー姿。
 二度目の今日はビジネスカジュアルを意識した、カフェモカ色のテーラードジャケットに、黒のパンツ。明るめの茶のトートバッグが差し色になっている。
 元々瀬央はくせのある毛質だ。いつもはかっちりまとめているが、今日は軽めのワックスでまとめ、空気感を出して仕上げている。

 普段と違う雰囲気に、挨拶の後の言葉が出てこない。整った顔立ちの人だというのはわかっていたが、こうして職場外で見るとそれがよく見える。
 もじもじしていると、瀬央の方が立ち上がって近づいてきた。
 直が自分の服装を凝視していたことに気付いたらしい。照れ臭そうに笑って頭をかいた。

「や、今日も煙咲たばさきさんは素敵だね」
「ありがとうございます。瀬央さんこそいつもと違う雰囲気で……私なんかいつもと同じです」

 言葉通り、直の方は平日とほぼ同じ服装だ。淡いグレーのパンツにベージュのシャツ、カーディガンだけは薄桃色で春の空気がうかがえる。女らしさと言えばそれくらいだ。
 もともとあまりおしゃれに気を遣う方ではなかったが、優佑ゆうすけと別れて以降、それが加速している気がする。
 着飾ること自体がばかばかしく思えてしまって。

 優佑は、直の服装にひどくうるさかった。
 スカートが一番だとか、流行を追いすぎるなとか。
 一年の間、人の趣味に合わせるためにびくびくしていたら、自分の趣味がわからなくなってしまったらしい。

 俯く直の顔を、瀬央は横から覗き込んだ。

「普段から煙咲さんは素敵だよ。僕はあんまり外見については言及しないけれど、えっと……本当はいつも素敵だと思ってる。だけど、それはあの……僕らの関係だとセクハラになるからね。だからあんまり言わないようにしてて……」
「あっ、えっ……は、はい。いえ、あの」

 思わぬ言葉に、びくりと肩が動く。
 瀬央はすぐに姿勢を正し、一歩離れた。

「いや、ごめん。違うんだ。そういう意味じゃない。今のは僕が悪かった。ごめんなさい」
「あっ、いえ……私こそ。あの、瀬央さんは私が勝手に落ち込んだのを元気づけてくれようと……心にもないこと言わせて、だから私がごめんなさいで……」
「違う。心にもないことなんか言わないよ。これは心からの言葉……いや、待って。そうじゃない。とにかく僕が悪いんだ。君は悪くない、すまない」
「いえ、やっぱり私が」
「いや、僕が」
「――なにやってんすか」

 ぺこぺこ頭を下げ合う二人の横から、不機嫌な低音が響いた。
 はっと顔を上げた直の目に、ひどく整った顔立ちの男の子が映る。紺色のだぼっとした七分袖シャツと細身のジーンズ。華奢な体つきなのに、怒ったような目元は頼りがい――を通り越してむしろふてぶてしい。
 その声に聞き覚えがある気がして、直は目を見開いた。

「……えっと、もしかして、板来いたらい……くん?」
「もしかしてもなにも、俺以外に誰が来んだよ」
「いや、いつもとあんまり違いすぎるから……え、今日はどうして?」
「私服でいいだろ、業務外なんだし」
「いいけど……でもこないだの引っ越しのときはいつものワンピースだったじゃん。なんで今日に限って」
「しつこい。俺が何着ようが俺の勝手だろ」

 ぴしゃりと言いきられて、直は思わずあとずさった。
 瀬央が隣で深い息をつく。

ながれ……お前なぁ。もうちょっと言い方あるだろう?」
「……えっ、ながれ? ながれって……」

 問いかけた直には、板来自身が答えた。

「俺の下の名前、ながれっていう。瀬央さんは昔からそっちで呼んでる。社内では一線引くために板来って呼んでもらってるだけ」
「小さい頃からの付き合いとは聞いてたけど、瀬央さんと板来くんってそんなに仲いいんですか?」
「あれ、その辺もう話したんじゃなかったの、流?」
「いや、まだっす。あのアホ部長のこともあったし……色々めんどくて」
「ああ、まあ……お前は口下手だもんなぁ」
「すんません」

 ぺこりと頭を下げた板来から、瀬央は直の方へ視線を戻した。

「あの、とにかく、流も悪気はないんだ。説明すると長くなるけど……」
「あー、バス来ましたよ、瀬央さん」
「あ、うん。ごめん、この話はまた今度」
「は、はい……」

 板来に話を止められ、直は大人しく頷いた。
 ちょうど近づいてきたバスが目の前に停車する。

 三人は順にステップを上がった。
 社内で一つだけ空いた椅子に、レディファーストを主張する瀬央と上司優先を主張する直で言い争いになったが、板来の「いちばんの年寄りが座るべき」という判定によって、結論が出た。
 ひどく顔をしかめた瀬央は、次のバス停で乗ってきたご老人に嬉々として席を譲ったのだった。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

 バスを降りてすぐに、広い敷地が広がっていた。
 板来の案内で正門に向かい、門の脇の守衛室で受付の手続きを済ませる。
 そこに、後ろから声がかかった。

「――やあ、よく来たね。流!」

 振り向けば、恰幅のよい男が立っている。
 ジーンズにTシャツのラフな格好で、髪も寝ぐせそのままだ。眼鏡の奥の瞳はおっとりとしていて、板来を見る表情は優しい。

「あ、ヤマモっさん」
「やあやあ、よく来たね。一か月ぶりかな、元気そうでなによりだ!」

 肩を叩くヤマモっさんに、板来はきれいな角度のお辞儀をした。

「今日はありがとうございます。すんません、急な話で」
「いやいや、全然いいよ。いつか来るだろうなって思ってたし。それよかさぁ、なんなら電話とってく?」
「いやっす」

 この上なく端的な返事に、ヤマモっさんは機嫌よく笑っているだけだ。
 もとから冗談だったようだが、板来の口の悪さをよく知っている直は正直ハラハラしている。
 瀬央はさすがに落ち着いていて、名刺を差し出してヤマモっさんに近づいた。

「初めまして。今日は見学をご快諾いただき、本当にありがとうございます。多比良たいらオフィスレンタルサービス株式会社、僕は瀬央、こちらは部下の煙咲たばさきです」
「こんにちは、煙咲です」
「これはこれは。アイギスパソコンサービスの山本です。流くんと同じく、ヤマモっさんと呼んでください」

 直が山本から受け取った名刺の社名は、アイギス株式会社。パソコンサービス部ソリューションセンターと部署名が書いてある。アイギスと言えば、BTOパソコンのメーカーである。かなり大手で、多比良たいらでも他社へのレンタル用に取り扱っているメーカーだ。
 そのお客様サポート用のコールセンター長が、山本ということらしい。

「折角のお時間です。センターの運営についてなど、いろいろお話をうかがえればうれしいです」
「他社の取り組みを知れる機会はなかなかないですからねぇ。私もお話するの楽しみにしてましたよ、今日はよろしく」

 両社の部長が挨拶をする間、板来は守衛さんと話し込んでいた。
 直は肩にかけたカバンからメモを取り出す。
 せっかくのチャンスだ。できるだけ多くのことを持ち帰ろうと、握るペンに力を入れた。
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