上 下
12 / 39
第二章 出会い・前進・家族の問題

5.甘い話

しおりを挟む
「あら、おかえり、なお
「うん……お母さん、デート?」

 キッチンで洗い物をしている後ろ姿が普段着ではないことに、直は気が付いた。
 有希子ゆきこが、。振り返ってあっさりと頷く。

「そうよ、もうちょっとしたら出るわ」
「あんまり遅くならないでね……ってか、泊まりかな」
「まあね。うふふ……そうなるかも」

 うら若き少女のように頬を赤らめる母親を、直は呆れ半分で眺めた。
 いい年して――と、直自身は思うし、実際、母親に向かってそう口にすることはある。
 だが、矛盾するかもしれないが、他の誰かに家族のことをけなされるのは腹が立って仕方ない。
 たとえば、優佑ゆうすけなんかに、父親がいないことをさも問題であるかのように言われることは。

 直が思い出し怒りをしていることに気づかぬ様子で、有希子がふと呟いた。

「そういえば、あんたの彼氏は今どうしてんの? 最後のデートはいつだっけ……先週?」
「ああ……」

 別れた、とあっさり言い切れるほど吹っ切れた訳でもない。
 なんとなく言葉を濁したことで、不穏な空気を有希子も悟ったようだった。

「ちょっと、どうしたの。喧嘩? 早く仲直りしなよ。割とイケメンだしなにより仕事できそうじゃん、直にはもったいないくらいでしょ」
「いや、うん」

 いつもの軽口だとわかっている。
 だが、今の状況では、直を下げられて優佑を褒められることに無性に腹が立つ。
 その感情をごまかすために、直は母親に話を振った。

「そんなことより、自分のことでしょ。お母さんだって別れてるじゃない。私のお父さんと」
「古い話持ち出すわねぇ」

 そう言いつつも、さして嫌そうな様子ではない。
 もうなんども直に話していることだし、時間も経過している。それになにより今は幸せだからだろう。

「そうよ、あんたのお父さん、どうしょうもない男なんだもの。仕事は続かなくてなんども転職したし、それでいて女にはだらしないんだから。別れて働く方がまだマシだったの」
「そもそも、なんで結婚したの?」
「好きだったのよ、その頃は……愛があればなんとかなるって思ってたしさぁ」

 遠い目をして呟いてから、有希子ははっと気づいたように時計を見た。

「いっけない、遅れちゃう。ま、とにかくあんたは『愛があれば大丈夫』なんて甘いこと考えないで、自分の仕事きっちりしなさいね。世の中、そんな甘い話はないんだから」
「わかってるよ」
「恋も愛も、そんな重大事じゃないのよ。うつつを抜かしちゃだめ。それより生活がいちばん大事。つまりお金、仕事。わかった?」
「わかってる」

 答えつつ、母親の背中を見送って――直は心の中だけで呟いた。
 だけど、そう言うお母さんが、いちばん恋愛にうつつを抜かしてるじゃない。

 母親のことは大好きだ。女手で育ててくれた恩もある。
 だが、そう言いたくなる自分が、直の中には確かにいる。
 それを認めたくなくて――直は通勤用のバッグから手帳を取り出した。

 今日、板来いたらいが言っていたことを振り返って、自分なりの対策を考えるつもりだ。
 仕事のことも、優佑のことも、ぜんぶこの仕事がうまくいけばうまくいく。
 優佑が直を見直してくれることはなくても、仕事で見返すことができれば諦められるような気がするのだ。

 メモ帳に思いつくまま書きながら、直は母親のことを頭から追い出した。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 翌日――土曜の朝だが、平日と同じ時間に出勤する。
 一応、汚れても問題のない、動きやすい服装ということで、ジーンズとTシャツ、そしてスニーカーだ。

 出迎えた瀬央せおもトレーナーに膝丈のワークパンツで、かなりカジュアルな格好だ。
 直の後に来た板来いたらいだけが、普段通りのゴスロリワンピースである。

「……その踵、こけたりしない? 大丈夫?」
「あんたが夜道でうずくまったりしてなけりゃな」
「やな言い方。心配してあげてるだけなんだけど」
「俺もだよ。あんたにつまづいてこける人の怪我を心配してあげてんだ」
「こんの……!」
「はいはい、じゃれ合いはそこまで。さあ、お引越しを始めようか」

 ぱん、と手を打った瀬央の合図をきっかけに、三人はそれぞれに動き始めた。

 移動先は既に、瀬央が確保してあるらしい。
 彼の案内によると、営業と同じフロア、廊下の奥――出勤退勤の際に必ず営業一部の前を通らなければならない場所だ。

 少し気まずいのは確かだが、それでもプレハブよりはよほどマシだ。
 どちらにせよ同じ敷地にいる限り、優佑とはばったり会う可能性がある。
 変に気にするよりも、とにかく新しい事務室を喜ぼう、と直はせっせと働いた。

 今度の事務室には机も電話も三つある。
 奥の席を瀬央に、左右を直と板来に割り振った。

 机上の整理をしつつ、直は対面の板来に声をかけた。

「ねえ、板来くんが昨日言ってくれたこと、私考えたんだけど」
「あ?」
「私が、気付かずにお客様の話を遮ってるって件。思い出しても、私、そんな記憶ないのね」
「……で?」

 呆れた顔の板来に、直は大きく頷いた。

「だからさ、来週の私の電話、録音してみようと思うんだけど」
「……いんじゃね。他のコールセンターでもやってるぜ、そういうの」
「そっか、ありがと」

 笑顔を浮かべた直から、板来は黙って目を逸らした。

「なんで目を逸らすかな」
「いや……別に悪い意味じゃなくて。あんたの笑顔初めて見たって話で」
「……そうだっけ?」

 返事はなかった。
 瀬央がくすっと笑う声だけが、荷物の少ない事務室に微かに響いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

叔父と姪の仲良しな日常

yu-kie
ライト文芸
社会人になった葉月魅音(ハヅキミオン)はひとり暮しするならと、母の頼みもあり、ロッティー(ロットワイラー:犬種)似の叔父の悪い遊びの監視をするため?叔父の家に同居することになり、小さなオカンをやることに… 【居候】やしなってもらう感じです。 ※同居と意味合いが違います。なので…ここでは就職するまで~始め辺りから順に同居と表現に変えて行きます(^^)/

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

二分で読めるショートストーリー

佐賀かおり
ライト文芸
二分で読めるおもしろいお話です。最新話【空気の読めない神様】投稿中

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

【完結】愛してくれるなら地獄まで

おのまとぺ
ライト文芸
婚約破棄してきた元恋人に突撃するために東京を訪れた及川真。慣れない都心での運転で、車をぶつけた相手はなんと大手財閥の御曹司。慌てて謝り倒すも「秘密を知られた」という理由で拉致されて、彼の元で一週間の住み込みバイトをすることになってしまう。 ◆心に傷を負った主人公が年下の誘拐犯に振り回されながら自分を取り戻していく話 ◆ライト文芸大賞エントリー中

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

処理中です...