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第二章 出会い・前進・家族の問題

5.甘い話

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「あら、おかえり、なお
「うん……お母さん、デート?」

 キッチンで洗い物をしている後ろ姿が普段着ではないことに、直は気が付いた。
 有希子ゆきこが、。振り返ってあっさりと頷く。

「そうよ、もうちょっとしたら出るわ」
「あんまり遅くならないでね……ってか、泊まりかな」
「まあね。うふふ……そうなるかも」

 うら若き少女のように頬を赤らめる母親を、直は呆れ半分で眺めた。
 いい年して――と、直自身は思うし、実際、母親に向かってそう口にすることはある。
 だが、矛盾するかもしれないが、他の誰かに家族のことをけなされるのは腹が立って仕方ない。
 たとえば、優佑ゆうすけなんかに、父親がいないことをさも問題であるかのように言われることは。

 直が思い出し怒りをしていることに気づかぬ様子で、有希子がふと呟いた。

「そういえば、あんたの彼氏は今どうしてんの? 最後のデートはいつだっけ……先週?」
「ああ……」

 別れた、とあっさり言い切れるほど吹っ切れた訳でもない。
 なんとなく言葉を濁したことで、不穏な空気を有希子も悟ったようだった。

「ちょっと、どうしたの。喧嘩? 早く仲直りしなよ。割とイケメンだしなにより仕事できそうじゃん、直にはもったいないくらいでしょ」
「いや、うん」

 いつもの軽口だとわかっている。
 だが、今の状況では、直を下げられて優佑を褒められることに無性に腹が立つ。
 その感情をごまかすために、直は母親に話を振った。

「そんなことより、自分のことでしょ。お母さんだって別れてるじゃない。私のお父さんと」
「古い話持ち出すわねぇ」

 そう言いつつも、さして嫌そうな様子ではない。
 もうなんども直に話していることだし、時間も経過している。それになにより今は幸せだからだろう。

「そうよ、あんたのお父さん、どうしょうもない男なんだもの。仕事は続かなくてなんども転職したし、それでいて女にはだらしないんだから。別れて働く方がまだマシだったの」
「そもそも、なんで結婚したの?」
「好きだったのよ、その頃は……愛があればなんとかなるって思ってたしさぁ」

 遠い目をして呟いてから、有希子ははっと気づいたように時計を見た。

「いっけない、遅れちゃう。ま、とにかくあんたは『愛があれば大丈夫』なんて甘いこと考えないで、自分の仕事きっちりしなさいね。世の中、そんな甘い話はないんだから」
「わかってるよ」
「恋も愛も、そんな重大事じゃないのよ。うつつを抜かしちゃだめ。それより生活がいちばん大事。つまりお金、仕事。わかった?」
「わかってる」

 答えつつ、母親の背中を見送って――直は心の中だけで呟いた。
 だけど、そう言うお母さんが、いちばん恋愛にうつつを抜かしてるじゃない。

 母親のことは大好きだ。女手で育ててくれた恩もある。
 だが、そう言いたくなる自分が、直の中には確かにいる。
 それを認めたくなくて――直は通勤用のバッグから手帳を取り出した。

 今日、板来いたらいが言っていたことを振り返って、自分なりの対策を考えるつもりだ。
 仕事のことも、優佑のことも、ぜんぶこの仕事がうまくいけばうまくいく。
 優佑が直を見直してくれることはなくても、仕事で見返すことができれば諦められるような気がするのだ。

 メモ帳に思いつくまま書きながら、直は母親のことを頭から追い出した。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 翌日――土曜の朝だが、平日と同じ時間に出勤する。
 一応、汚れても問題のない、動きやすい服装ということで、ジーンズとTシャツ、そしてスニーカーだ。

 出迎えた瀬央せおもトレーナーに膝丈のワークパンツで、かなりカジュアルな格好だ。
 直の後に来た板来いたらいだけが、普段通りのゴスロリワンピースである。

「……その踵、こけたりしない? 大丈夫?」
「あんたが夜道でうずくまったりしてなけりゃな」
「やな言い方。心配してあげてるだけなんだけど」
「俺もだよ。あんたにつまづいてこける人の怪我を心配してあげてんだ」
「こんの……!」
「はいはい、じゃれ合いはそこまで。さあ、お引越しを始めようか」

 ぱん、と手を打った瀬央の合図をきっかけに、三人はそれぞれに動き始めた。

 移動先は既に、瀬央が確保してあるらしい。
 彼の案内によると、営業と同じフロア、廊下の奥――出勤退勤の際に必ず営業一部の前を通らなければならない場所だ。

 少し気まずいのは確かだが、それでもプレハブよりはよほどマシだ。
 どちらにせよ同じ敷地にいる限り、優佑とはばったり会う可能性がある。
 変に気にするよりも、とにかく新しい事務室を喜ぼう、と直はせっせと働いた。

 今度の事務室には机も電話も三つある。
 奥の席を瀬央に、左右を直と板来に割り振った。

 机上の整理をしつつ、直は対面の板来に声をかけた。

「ねえ、板来くんが昨日言ってくれたこと、私考えたんだけど」
「あ?」
「私が、気付かずにお客様の話を遮ってるって件。思い出しても、私、そんな記憶ないのね」
「……で?」

 呆れた顔の板来に、直は大きく頷いた。

「だからさ、来週の私の電話、録音してみようと思うんだけど」
「……いんじゃね。他のコールセンターでもやってるぜ、そういうの」
「そっか、ありがと」

 笑顔を浮かべた直から、板来は黙って目を逸らした。

「なんで目を逸らすかな」
「いや……別に悪い意味じゃなくて。あんたの笑顔初めて見たって話で」
「……そうだっけ?」

 返事はなかった。
 瀬央がくすっと笑う声だけが、荷物の少ない事務室に微かに響いた。
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