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第一章 失恋・左遷・コールセンター
4.佐志波という男
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付き合っていた頃から、優佑には多少強引なところがあった。
直が自分の意に沿わないことをすると、その場で延々と説教をするとか。
それも直接的には言わず、皮肉を交えて遠回しに伝えてくるので、直はその意図を察するのにずいぶん苦労した。
外食中、少し軽口を叩いただけでも、料理が冷めるまで手をつけさせて貰えなかったり。なにが理由で怒っているのか突き止めるだけで、時間を要してしまったのだ。
一か月ごとに記念日を祝うのも面倒に感じはしたが、愛してるから大事にしたいんだ、と言われれば納得した。忘れたときにひどく叱られるのには困ってしまったが。
それでも、普段は優しかったし、直のことを好きだとちゃんと言ってくれたから。
そういうあれこれは、お互いの価値観の差異だと思っていたのだ。
すり合わせて、やっていけるものだと。
今思えば、合わせていたのは直の方ばかりだったかもしれない。
優佑が折れることなんて、なかったような。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「やあ、瀬央。いつの間にか事務所で姿を見かけなくなったと思ったら、昇進したって聞いたからびっくりしたぜ。いや、おめでとう」
「辞令見てなかったのか。うん、ありがとう」
皮肉な優佑の声に、瀬央はあっさりと笑って返した。
その様子でなおさら優佑がヒートアップしたことに、少なくとも直は気付いた。
「まあ、昇進って言っても事務所もここだしなぁ。営業みたいに売り上げがモノを言う部署じゃないから、今までのノウハウも生かしにくいだろう。苦労するよな」
「ああ、対面と電話じゃ違いも大きいだろうしね、一から勉強だ」
「だろうだろう。それに部長って言っても部下はたった一人……しかも煙咲だからな」
瀬央しか見ていなかった優佑の目が、ようやく直に向かった。
負けない、ムカつくと思っていたのに――目を逸らしたのは直の方だった。
突然、いらないと言われた。
だけど、直の中ではまだ、優佑を好きな気持ちは消せてはいない。
「煙咲だから?」
瀬央が穏やかな声できき返す。
その声で優佑は再び瀬央に視線を戻した。
プレハブの入り口を塞ぐように、扉の枠に背を預けて腕を組んでいる。
「そいつ、気合だけは一人前だが、基本的なスペックが低すぎるんだよな。ものおぼえ悪いし、ミスもあるし、並行作業苦手だし……ほら、コールセンターってそういうの大事じゃない? たった一人の部下が使えないなんて、ご愁傷様だなぁ」
「っ……」
確かに、付き合っていた頃からいつも、優佑は直の仕事に厳格だった。
仕事が雑だ、手が遅いとよく言われていた。公私混同しない方が直にとっても好ましかったから、どちらかと言えばそれを気にして落ち込むより、頑張って仕事ができるようになろうと思っていた。まだ二年目、これから仕事を本格的に身につけていく時期だと考えていたから。
だが、それを瀬央への皮肉に使われるのは、さすがにつらい。
そもそもこれは、直自身への指摘ではない。直を育てるための辛辣な言葉ではないのが、明確である。
事実ではあるのでうまく否定できず、さりとてどう言えばいいのかわからず、直は口をぱくぱくさせた。
そのときだ。
とん、と瀬央が優佑の肩を叩いた。
「うちの部下の仕事の良し悪しは、僕が決めるよ、佐志波」
直の方からは、瀬央の背中しか見えない。
だが、対峙する優佑がひどく驚いた様子で目を見開いているのが見えた。
「瀬央……お前」
「今まで社内にない部署なんだ、誰だって初めてだよ。ゆっくりおぼえてもらうつもりだから、君に色々言われなくても大丈夫」
「俺が余計なことしてるとでも言いたいか?」
「ううん。でも、定時だからもう帰りたいかな。幸い、新設部門にはまだ全然仕事の余裕があってねぇ……そこ、どいてくれる?」
特に力が入っているようには見えない。
軽く押すような瀬央の手に揺らされて、優佑は後ずさりした。
「おい、瀬央」
「さて、僕は営業二部に顔出してくるけど、煙咲さんは帰るよね? 途中まで一緒に行こうか」
振り向いて、直に手を差し出した瀬央はいつもの笑顔を浮かべていた。
その表情を横から睨みつけ、優佑は声を荒げる。
「瀬央! お前、調子に乗ってんなよ。お前が庇うのは勝手だが、そいつは俺の女だったんだぞ!」
直は思わず耳を疑った。
職場には内緒にしよう、と優佑から言ったくせに。
同僚にも言えず、ひた隠す寂しさに直が弱音を吐くたびに、𠮟りつけたくせに。
別れたとたんに、この扱いか。
「優佑! あなたね――」
「上司顔しても、お前なんかより俺の方がよっぽどそいつのこと知って……うわっ」
優佑が再び後ずさる。
直が、扇風機の風量を最大にしたことで、顔に思い切り強風があたったからだ。
まだ使える扇風機だが、リミッターが壊れたのか「強」のパワーが尋常ではなくなってしまったため、かつて直がこの倉庫――もといプレハブ事務所に押し込んだのだった。
乱れた髪と揺れるネクタイに辟易して、優佑は両手で顔を庇う。
その隙に、直は瀬央の手を取った。
「おつかれさまでしたー!」
「クッソ、お前らなぁ!?」
慌てる優佑の横を、二人は急ぎ足で駆け抜けた。
後ろは絶対に振り返らないようにして。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「……部長、瀬央部長!」
ぐいぐいと直の手を引く上司に、直は後ろから呼びかけた。
「部長、あの……もうこの辺で大丈夫かと」
「あ、そっか。うん、ごめん」
はっとした顔で振り向いた瀬央が手を放す。
どちらからともなく立ち止まり、沈黙が落ちた。
「……あの、いろいろ、その。すみませんでした……」
「今のは、煙咲さんが謝る必要ないでしょう。悪いのは佐志波で」
「いえ、私が優佑と付き合ってたこと、黙ってて……今回の人事、瀬央部長が悪いわけじゃないのに、ずいぶん気にさせてしまったので」
「ああ、うん……いや、でもそんなプライベートな話、僕においそれと話せないのはわかるから。それに、実は……君たちが付き合ってること、以前から知ってたんだ」
「え!?」
瀬央は頭をかきながら、ぼそりと呟いた。
「以前、営業一部二部の合同飲み会で、酔っぱらった佐志波から聞いたことがあって……あいつは忘れてたんだろうけど。だから、謝らなきゃいけないのは僕の方だ」
「えっ、部長が謝ることなんてないです」
「いや、正直、少しだけ疑ってたんだ。佐志波が今回の企画を潰すために送り込んできたのかな、なんて」
「ああ……」
確かに、瀬央の方からはそう疑うのも当然だろう。
直がうつむくと、瀬央は慌ててように言葉をつづけた。
「いや、だけど昨日の段階でそうじゃないのはわかった。僕が専務のお嬢さんの話をしたとき、君、本気で驚いて……ショックを受けてたし。それに、今日も君がやる気をもって出勤してきてくれたこと、伝わったよ」
「はい……」
伝わっていた、ということが嬉しかった。
信じて貰えていることが。
「まあ、さっきのでますます確信したけどね。佐志波もバカだなぁ。たぶん、僕が君に親しげにしてるのに腹が立って、言わなくてもいいことを口にしたんだろう」
「そうでしょうか。瀬央部長に私のことを疑わせたかったのでは」
「まあ、それが目的なら更にバカだよね。大失敗してるんだから」
いたずらっぽく笑った瀬央が、ふと真剣な顔で向き直る。
「あの、もしよければなんだけど」
「はい……?」
「その、部長ってつけるの、違う呼び方にしてもらっていい? 営業二部でも、僕いつも部長代理とか呼ばれるの苦手で。二人きりの部署だし、これから一緒に試行錯誤でやってく仲間でしょ。上司部下より同僚であることを意識したいから」
「あの、皆さんはなんと?」
「単に瀬央さんって呼んでたよ。いや、君も抵抗がなければ、だけど」
「あ、じゃあ……瀬央さん、とお呼びしますね」
「うん、改めてよろしく、煙咲さん。明日も元気で来てね」
手を振って営業二部へ向かう瀬央の背中は、直には、昨日よりもなんだか優しく見えた。
直が自分の意に沿わないことをすると、その場で延々と説教をするとか。
それも直接的には言わず、皮肉を交えて遠回しに伝えてくるので、直はその意図を察するのにずいぶん苦労した。
外食中、少し軽口を叩いただけでも、料理が冷めるまで手をつけさせて貰えなかったり。なにが理由で怒っているのか突き止めるだけで、時間を要してしまったのだ。
一か月ごとに記念日を祝うのも面倒に感じはしたが、愛してるから大事にしたいんだ、と言われれば納得した。忘れたときにひどく叱られるのには困ってしまったが。
それでも、普段は優しかったし、直のことを好きだとちゃんと言ってくれたから。
そういうあれこれは、お互いの価値観の差異だと思っていたのだ。
すり合わせて、やっていけるものだと。
今思えば、合わせていたのは直の方ばかりだったかもしれない。
優佑が折れることなんて、なかったような。
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「やあ、瀬央。いつの間にか事務所で姿を見かけなくなったと思ったら、昇進したって聞いたからびっくりしたぜ。いや、おめでとう」
「辞令見てなかったのか。うん、ありがとう」
皮肉な優佑の声に、瀬央はあっさりと笑って返した。
その様子でなおさら優佑がヒートアップしたことに、少なくとも直は気付いた。
「まあ、昇進って言っても事務所もここだしなぁ。営業みたいに売り上げがモノを言う部署じゃないから、今までのノウハウも生かしにくいだろう。苦労するよな」
「ああ、対面と電話じゃ違いも大きいだろうしね、一から勉強だ」
「だろうだろう。それに部長って言っても部下はたった一人……しかも煙咲だからな」
瀬央しか見ていなかった優佑の目が、ようやく直に向かった。
負けない、ムカつくと思っていたのに――目を逸らしたのは直の方だった。
突然、いらないと言われた。
だけど、直の中ではまだ、優佑を好きな気持ちは消せてはいない。
「煙咲だから?」
瀬央が穏やかな声できき返す。
その声で優佑は再び瀬央に視線を戻した。
プレハブの入り口を塞ぐように、扉の枠に背を預けて腕を組んでいる。
「そいつ、気合だけは一人前だが、基本的なスペックが低すぎるんだよな。ものおぼえ悪いし、ミスもあるし、並行作業苦手だし……ほら、コールセンターってそういうの大事じゃない? たった一人の部下が使えないなんて、ご愁傷様だなぁ」
「っ……」
確かに、付き合っていた頃からいつも、優佑は直の仕事に厳格だった。
仕事が雑だ、手が遅いとよく言われていた。公私混同しない方が直にとっても好ましかったから、どちらかと言えばそれを気にして落ち込むより、頑張って仕事ができるようになろうと思っていた。まだ二年目、これから仕事を本格的に身につけていく時期だと考えていたから。
だが、それを瀬央への皮肉に使われるのは、さすがにつらい。
そもそもこれは、直自身への指摘ではない。直を育てるための辛辣な言葉ではないのが、明確である。
事実ではあるのでうまく否定できず、さりとてどう言えばいいのかわからず、直は口をぱくぱくさせた。
そのときだ。
とん、と瀬央が優佑の肩を叩いた。
「うちの部下の仕事の良し悪しは、僕が決めるよ、佐志波」
直の方からは、瀬央の背中しか見えない。
だが、対峙する優佑がひどく驚いた様子で目を見開いているのが見えた。
「瀬央……お前」
「今まで社内にない部署なんだ、誰だって初めてだよ。ゆっくりおぼえてもらうつもりだから、君に色々言われなくても大丈夫」
「俺が余計なことしてるとでも言いたいか?」
「ううん。でも、定時だからもう帰りたいかな。幸い、新設部門にはまだ全然仕事の余裕があってねぇ……そこ、どいてくれる?」
特に力が入っているようには見えない。
軽く押すような瀬央の手に揺らされて、優佑は後ずさりした。
「おい、瀬央」
「さて、僕は営業二部に顔出してくるけど、煙咲さんは帰るよね? 途中まで一緒に行こうか」
振り向いて、直に手を差し出した瀬央はいつもの笑顔を浮かべていた。
その表情を横から睨みつけ、優佑は声を荒げる。
「瀬央! お前、調子に乗ってんなよ。お前が庇うのは勝手だが、そいつは俺の女だったんだぞ!」
直は思わず耳を疑った。
職場には内緒にしよう、と優佑から言ったくせに。
同僚にも言えず、ひた隠す寂しさに直が弱音を吐くたびに、𠮟りつけたくせに。
別れたとたんに、この扱いか。
「優佑! あなたね――」
「上司顔しても、お前なんかより俺の方がよっぽどそいつのこと知って……うわっ」
優佑が再び後ずさる。
直が、扇風機の風量を最大にしたことで、顔に思い切り強風があたったからだ。
まだ使える扇風機だが、リミッターが壊れたのか「強」のパワーが尋常ではなくなってしまったため、かつて直がこの倉庫――もといプレハブ事務所に押し込んだのだった。
乱れた髪と揺れるネクタイに辟易して、優佑は両手で顔を庇う。
その隙に、直は瀬央の手を取った。
「おつかれさまでしたー!」
「クッソ、お前らなぁ!?」
慌てる優佑の横を、二人は急ぎ足で駆け抜けた。
後ろは絶対に振り返らないようにして。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「……部長、瀬央部長!」
ぐいぐいと直の手を引く上司に、直は後ろから呼びかけた。
「部長、あの……もうこの辺で大丈夫かと」
「あ、そっか。うん、ごめん」
はっとした顔で振り向いた瀬央が手を放す。
どちらからともなく立ち止まり、沈黙が落ちた。
「……あの、いろいろ、その。すみませんでした……」
「今のは、煙咲さんが謝る必要ないでしょう。悪いのは佐志波で」
「いえ、私が優佑と付き合ってたこと、黙ってて……今回の人事、瀬央部長が悪いわけじゃないのに、ずいぶん気にさせてしまったので」
「ああ、うん……いや、でもそんなプライベートな話、僕においそれと話せないのはわかるから。それに、実は……君たちが付き合ってること、以前から知ってたんだ」
「え!?」
瀬央は頭をかきながら、ぼそりと呟いた。
「以前、営業一部二部の合同飲み会で、酔っぱらった佐志波から聞いたことがあって……あいつは忘れてたんだろうけど。だから、謝らなきゃいけないのは僕の方だ」
「えっ、部長が謝ることなんてないです」
「いや、正直、少しだけ疑ってたんだ。佐志波が今回の企画を潰すために送り込んできたのかな、なんて」
「ああ……」
確かに、瀬央の方からはそう疑うのも当然だろう。
直がうつむくと、瀬央は慌ててように言葉をつづけた。
「いや、だけど昨日の段階でそうじゃないのはわかった。僕が専務のお嬢さんの話をしたとき、君、本気で驚いて……ショックを受けてたし。それに、今日も君がやる気をもって出勤してきてくれたこと、伝わったよ」
「はい……」
伝わっていた、ということが嬉しかった。
信じて貰えていることが。
「まあ、さっきのでますます確信したけどね。佐志波もバカだなぁ。たぶん、僕が君に親しげにしてるのに腹が立って、言わなくてもいいことを口にしたんだろう」
「そうでしょうか。瀬央部長に私のことを疑わせたかったのでは」
「まあ、それが目的なら更にバカだよね。大失敗してるんだから」
いたずらっぽく笑った瀬央が、ふと真剣な顔で向き直る。
「あの、もしよければなんだけど」
「はい……?」
「その、部長ってつけるの、違う呼び方にしてもらっていい? 営業二部でも、僕いつも部長代理とか呼ばれるの苦手で。二人きりの部署だし、これから一緒に試行錯誤でやってく仲間でしょ。上司部下より同僚であることを意識したいから」
「あの、皆さんはなんと?」
「単に瀬央さんって呼んでたよ。いや、君も抵抗がなければ、だけど」
「あ、じゃあ……瀬央さん、とお呼びしますね」
「うん、改めてよろしく、煙咲さん。明日も元気で来てね」
手を振って営業二部へ向かう瀬央の背中は、直には、昨日よりもなんだか優しく見えた。
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