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第一章 失恋・左遷・コールセンター

2.幸福な家庭のはなし

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「……本当に、ここを新しい事務所にするんですか?」

 なおのどんよりした視線にもめげず、瀬央せおは爽やかな微笑みを崩さなかった。
 が、目の前に広がっているのは、そんな爽やかさとは無縁の室内である。

 プレハブの中に雑に押し込まれているのは、廃棄するかどうか迷って、とりあえずとっとくか、となった備品たち。
 奥に転がっているくたびれた椅子は、一応壊れてはいない。
 汚い机も、あちこち塗装が剥げかけてはいるが、ひとまず机としては使えそうだ。
 床上には型落ちながらパソコンも置いてあって、仕事はできなくはない、とも考えられる。

「あの……ここって、以前は倉庫じゃありませんでした?」

 倉庫というか、ゴミ寸前の備品置き場というか。
 直も以前、壊れた扇風機を置きに来た記憶がある。

「以前は、なんて話じゃないよ。今でも倉庫だ。僕らは間借りしてるだけ」
「間借り……」
「まあ、そのうち誰かがゴミ……じゃない、備品を置きにきたりもするだろうね。最初だし、こんなもんさ。僕としては、幸運な方――駐車場よりましだったなって思ってるよ」
「駐車場って……」

 直の脳内に、社屋の半地下駐車場が浮かんできた。
 車を三台も停めればいっぱいになるような狭いスペースだが、現状、社有車は一台しかない。デスクを置くくらいのスペースはあるだろう。壁がない分、埃や風雨には弱そうだが。

 いずれにせよ、これまで過ごしてきた営業一部の事務所とは段違いである。
 同じ敷地内ではあるから、給水所やトイレは、ビル内の設備を使わせてもらうにしても、だ。

「あの、お客様サポートコールセンターには、ちゃんとした事務所はないんですか?」
「ない。申し訳ないけど、必要最低限のものがあるだけで、我慢してもらうしかないね」

 しれっと答える瀬央の視線の先に、それだけは新品の電話機が三つ置かれていた。

「必要って、電話機のことですか?」
「そう、コールセンターだからね。それと、まじめに働く部下のことさ」

 不意打ちで爽やかな笑顔を向けられて、直は思わず目を逸らした。
 このプレハブは少しばかり、異性が二人きりでこもるには狭すぎる……かもしれない。

 さりげなく隙間のある扉を振り返ってから、直はそうっと息を吐いた。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 とりあえず初日は、倉庫の中を使える程度に片付ける作業に費やされた。
 邪魔な備品を奥へ移動し、なんとか二人が机に座れるスペースを作り、電話線をつなぐ。
 それだけのことを、定時までかかってなんとか果たした。

「いや、君がいてくれて助かったよ。僕一人じゃさすがに荷物移動はキツいから」

 などと言いつつ、僕の方が力はあるから、と重いものはだいたい瀬央が運んでしまった。
 部長の肩書に合わないフットワークの軽さが、お客様にも社内でも好評の所以なのだろうか。

「部長って、褒め言葉多いですよね」

 作業のたびに「えらい」「ありがとう」と言われるのだ。
 最初はいちいち照れていたが、どうやらこういうひとだとわかってからは、平静な顔で受け入れられるようになった。

「そうかな? 自分ではよくわからない」
「部下の掌握法とかで心がけている……ってことじゃないんですか?」
「掌握法? そんなのあれば僕が教えてほしいよ。あー、まあ正直言って、部下より上司の方を掌握したいところだけど」
「おお……さすが、部長はやり手ですね」
「いや、違くて」

 瀬央が困った顔で、頭をかいた。

「そういうことができてれば、今回みたいな左遷はなかったし、それに君を巻き込むようなこともなかっただろうなってだけ。ごめんね、本当に」
「あ、いえ……そんな。別に、瀬央部長の方から私を指名したとかそういう訳ではないんですよね?」
「あんまりこういう人事関連の話は表に出さない方がいいんだろうけど、それについては君の言う通りだ、と答えておく。僕もさすがに、この待遇に誰かを巻き込もうとは思ってなかったから。……って、巻き込んでるんだけどね、ごめん」

 本気で恐縮している様子を見ると、直の方も首を振るしかない。
 別に瀬央がなにをしたわけでもない。巻き込まれたのは事実だろうけれど、そこにはやはりそれなりの、直自身の理由があるのだ。

「あの、なにがあったんですか? 私はともかくとして、部長は売り上げだってトップだし、左遷される理由なんかないと思うんですけど」
「あー、それには三つほど理由があってね……」
「三つ、ですか」
「まず一つ、そもそも当社にもお客様コールセンターを作った方がいいのでは、と提案したのが僕だから」
「えっ」

 それが事実なら、確かに言い出した者が統括するのは妥当な流れかもしれない。
 ただ……その場合は。

「うん、まあそれだけなら、もっとまともにテコ入れしてくれていいだろって、そりゃ君も思うところだろうね。で、二つ目の理由が、僕が上層部に嫌われたから」
「嫌われた?」
「具体的には、専務の娘さんがそろそろ結婚適齢期でね。お見合いしないかって声をかけられた」
「それは、もしかして……」
「まあ、そういうこと。当社はそんなに大きいわけでもない。業界では古株でも、社員数だってせいぜい三百人。その中でプライベートを捨てて出世することにそんなに意味があるかな?」
「えっと、まあ……それは人によっては」
「ああ、うん。別に出世を希望するしないはその人の自由だね、確かに。僕の場合はそう思ったっていう言葉を付け足しておこう。そんな訳で、ただいま僕は、絶賛専務から毛嫌いされてるところなんだ」

 微笑みが陰ったように見えたのは、直の勘違いではないだろう。
 なにか慰めを口にしようとしたが、それより早く、瀬央は三本目の指を立てた。

「で、三つ目の理由として、これは推測なんだけど……」
「はい」
「どうやら、その専務の娘さんとは結局、僕の同期の佐志波さしばが見合いをしたらしいんだ」

 佐志波優佑――その名前が出たことで、直の中ですべてが繋がったような気がした。
 つまり、直が振られたのもたぶん、同じ理由だってことが。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 直には父親がいない。
 いなくなったのではなくて、最初からいないのだ。
 母は、女手一つで直を育ててくれた立派なひとだけど、このことに関しては一貫して口をつぐんだ。
 だから、直は、自分の父親のことを一つも知らない。

 だけど、だからって。
 ううん、だからこそ。
 専務の娘だとか、そういうことを気にする男だからこそ、そのことを別れの理由にしたのだろう。
 ――だったら、直の方にだって考えがある。

「瀬央部長」
「ん、なんだい?」

 なにげなく振り向いた瀬央が、直の顔を見てぎょっとした。
 たぶん、直があまりにも思い詰めた顔をしていたからだろう。

「お客様コールセンターは必要なんだって、だから提案したって言いましたね?」
「あ、ああ。言ったけど」
「じゃあ、このコールセンターが絶対必要な部署だって認められたら、今の待遇もだいぶマシになりますよね?」
「マシっていうか……当然、本腰入れてちゃんとした部署にすることになるだろうね。横やり入れてるのは専務の独断専行だから、これがバレれば他の役員からは適切な評価を受けられるはずだ」
「――では、実際にそうなればよろしいですね?」
「え、ま、まあ……僕もそのつもりではあるけれど。どうして突然そんなやる気に……?」

 問いかけに応えないまま、直はぎゅっと拳を握った。
 このコールセンター計画をなんとか成功させる。

 どうやらそれが、公私ともに状況を打開する術であるようだ。
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