虎藤虎太郎

八尾倖生

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★ 六月

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★ 六月

 おはよう諸君。人によってはこんにちは諸君。こんばんは諸君。もしくは初めまして、諸君。
 こういう挨拶を惜しげもなくできるのも、今というこの瞬間を大切にしているだからだと改めて感じる。私は諸君らの顔も名前もわからないし、同様に諸君らも私の顔も名前もわからない。しかしながら私たちは、どこかに共通の意志があって、同じものを眺められる。生まれや育ちは違っても、好きな食べ物や音楽、嫌いな季節や有名人が何もかも違っても、私たちは一つの事柄に対して同じ意志を持ち、同じ感情を共有して、今という瞬間に歓びを見出す。たった一つの事柄に過ぎないのに、そのたった一つの事柄が、私の中でいつの間にか大きく広がっていたのだ。

 そのたった一つの事柄とは、何を隠そう、虎藤虎太郎である。
 私が虎藤虎太郎を探し始めてから相応に時は経過したが、おそらく、世の中は何も変わっていない。それもそのはず、虎藤虎太郎はいくら行方不明という身の上とはいえ、実際にその事実を知っているのは家族や友人を始めとする虎藤虎太郎に近しい人物か、このアパートで騒ぎに出くわした周辺の人間か、はたまたその周辺の人間から話を聞いた、私のような完全に直接のかかわりのない野次馬たちくらいだろう。虎藤虎太郎は言わば、世間から忘れられた存在である。ニュースで報道されるわけでもない、懸命な捜索活動がなされるわけでもない、世界のごく限られた人々だけが知り、そのごく限られた人々でさえいつしか忘れてしまう、光ることもなく死んでいった星のような存在が、虎藤虎太郎という男なのだ。
 だが私は、相応の時を虎藤虎太郎の捜索に費やしてきた。虎藤虎太郎を知るごく限られた人々の中で最も距離の遠い、話を聞いただけの野次馬の象徴のような私が、虎藤虎太郎を今でも探している。この世界のどこかで今でも生きていると、何の根拠もなく確信している。もちろん私以外にも虎藤虎太郎を探している人間はいるであろう。もしかしたら警察の方でも、依然として捜索活動は続いているのかもしれない。しかし世間的に見れば、虎藤虎太郎という一人の人間の行方不明は「終わった事件」であり、それどころか「無かった事件」なのである。見つかったところでニュースになることはなく、警察や国家の利益になることもない、「個人の問題」のそれ以上でもそれ以下でもないのだ。

 それでも私が虎藤虎太郎を探すのはなぜか。
 それはきっと、虎藤虎太郎という存在が、いつの間にか「私個人の問題」になっていたからだ。
 私は虎藤虎太郎という存在に出会えて、おそらく自分の中の価値観というものに大きな変化が生じた。もちろんその話を初めて聞いた際、私が知っていた虎藤虎太郎に関する情報はその名前と、以前私の部屋の隣に住んでいて突然行方不明になったという大まかな概要だけである。何度も言ったように、私は虎藤虎太郎について何も知らなかった。はっきり言って、知りたい気にもならなかった。もう私が住み始めた頃には隣の部屋は空室になっていて、その男が行方不明になった時期に居合わせたわけでもなく、大家も差し当たり探し出してほしいと思ってその話をしたわけでもない。単なる世間話の延長線上にいて、なんとなく非日常的なものを味わう一コマとして、虎藤虎太郎は私たちの頭の片隅に居ただけだった。
 それがいつからか、虎藤虎太郎を見つけ出したいという自然な感情に変わっていった。
 きっかけは、たぶん、何もない。大家から頼まれたわけでは当然ないし、虎藤虎太郎の家族に同情したわけでもない。
 ではなぜ、私は虎藤虎太郎を探し始めたのだろうか。虎藤虎太郎を、見つけ出したいという感情になっていったのだろうか。
 それは間違いなく、自分自身のためであった。何もない自分の人生の空白に、虎藤虎太郎という存在がすっぽりとまると直感したからだった。虎藤虎太郎という今までの自分の人生では類を見ない不確かな要素が、自分の人生までもを不確かで刺激的に変えてくれると直感したからだった。
 そういう風に私は、いつしか虎藤虎太郎という存在に刺激を求めるようになった。虎藤虎太郎という存在で空白を埋めようとした。それは言い様によっては依存に当てまるのかもしれない。虎藤虎太郎を探すという行為で何かに打ち込める対象を得て、知らず知らずのうちに充実した人生のような居場所を作り出していたのかもしれない。一人の人間を探す行為が充実した人生に繋がるだなんて、誰にも理解してもらえない浅はかな考えなのは自分でも納得している。それで自ら依存に嵌まっていくなど、愚行以外の何物にも表現する余地はないだろう。
 それでも私は、これからも虎藤虎太郎を探すつもりだ。ここまで過ごした無駄としか言えない月日を尊び、これからも無駄な月日を過ごしていくつもりだ。私がしてきたことはただの人探しで、虎藤虎太郎は、ただの行方不明者という存在だった。それでいい。もし虎藤虎太郎が見つかって、それで事を終わらせられるなら、今まで過ごした無駄な月日を細やかに祝福して、また新しい人生を歩めばいい。また新しいものを探し始めればいい。
 そうやって人は前に進んでいき、時を追い越していく感覚を身に染み込ませながら、いつしか成長している気分を味わっている。そうやって私は、虎藤虎太郎を探して、虎藤虎太郎がどこかにいるという感覚を身に染み込ませながら、日々を生きていこうと思うのだ。

 おそらく虎藤虎太郎は、それほど遠くない場所に今もいるのだろう。ラーメン屋や喫茶店を中心に近所を徹底的に張り込めば、虎藤虎太郎と対面する日も遠くないと思う。だが、果たして自分がそうしたいのかはわからない。虎藤虎太郎を見つけ出して、声をかけて、それで全てを終わらせたいのかは、今の私にはわからない。
 だから私は虎藤虎太郎と共に、自分の中の答えを探そうと思う。私は今までの人生、何かを探すことで生きる意味を見出してきた。そして訪れた、虎藤虎太郎という最大の不確定要素。「変化のない日常」という確定要素しか持ち合わせなかった私の人生に、答えのない不確定要素が流れ星のように突然現れた。
 その不確定要素が目に映っている今だからこそ、本当の自分の胸に問いかけて、自分の答えを探そうと思う。自分の言葉で、自分にしか出せない答えを探そうと思う。その意志をいつか、諸君らにも届けたいと思う。このサイトはそうやって、小さな産声を上げたのだから。

 それでは、また会う日まで。
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