比翼連理

八尾倖生

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13-①

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13-①

 翌日、花音は勤務に来なかった。体調不良で欠勤したいという連絡があったと代わりにシフトに入った店長が言っており、その連絡は謝罪と共に僕にも来ていた。花音が欠勤することなど初めてだったので店長は若干驚いていたが、僕にその詳細を訊ねてくることはなかった。花音自身がその詳細を僕に伝えてくることもなかった。
 日曜日、約束通り洗濯した修一の服を持って職場に行くと、バックヤードには既に花音がいた。休憩用の椅子に座っていた花音はドアの開く音が聞こえると、僕の方を振り返った。その様相は、いつも通りと言っても何ら差し障りはなかった。
「おはよう、隆也くん!」
 清々しい朝の挨拶が、僕の耳を通り過ぎる。
「一昨日、休んじゃってごめんね。朝起きたら熱出ちゃって、店長には悪かったんだけど、来週から学校も始まるし無理しない方がいいかなって……」
 相槌と共に軽くフォローする言葉をかけると、花音は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「隆也くんと一緒に帰るの、楽しみだなあ。一昨日も夜には体調良くなったから、帰り道だけ待ち伏せて一緒に帰ろうと思ったんだから」
 今までで一番と言っていいほど楽しげに話す花音を見て、不思議と居たたまれなくなった。
「花音、そろそろ行こう」
「え? まだあと三分もあるよ?」
「今まで遅れて行って迷惑かけたこともあるんだから、今日くらい早めに代わってあげよう」
 喜色が富んでいた表情は、見る見るうちに霞がかっていく。
「う、うん、わかった。隆也くんがそう言うなら……」
 売り場へと向かう僕の背に、花音がついてくる。僕がそうしたいと導けば、花音は有無も言わずに従ってくれる。
 それは、かつて僕が思い描いた真の翼と、果たして同じだろうか。

 まだ一応こよみ的には夏に該当する頃合いだろうが、ここ二、三日で猛暑は蓋をしたように鎮まり、自然の背景音も役目を終えてしまった。
「隆也くん、私が髪型変えたこと気付いてないでしょ?」
 人間にとっては、それは都合の良い事柄なのかもしれない。過ごしやすい気温になり、煩わしい騒音が消える。有用で、便益で、目で見ることに集中できる。もし技術革新で何もかもがコントロールできるようになったら、夏や冬はこの世からなかったことにされるだろう。
「それで昨日ね、美容室の後に中学のときの友達と久しぶりに会って、映画観てきたんだ。ほら、最近すごいテレビ出てるあの俳優の人が主演したやつ。周りみんな女の子だったからビックリしちゃったよ」
 人間ももしかしたら、取捨選択の中に含まれているのかもしれない。
 観る側と観られる側が存在するように、必要な人間と不必要な人間を区別するのは難しいことではない。
「正直あんまり面白くなかったけど、同じ映画館ですごく面白そうなの見つけたんだ! だから今度、一緒に行こうね! 絶対、隆也くんも気に入ってくれると思うから!」
 だが、平和で平等な世界では、不必要な人間にも対価が与えられる。
 それ故に必要な人間たちは、不必要な人間の嗜好しこうを操作することで、流出した富を回収している。価値と対価の溝を目に見えやすいもので埋めて、俗世に釣り糸を垂らしている。
「ねえ、さっきから聞いてる……?」
 そうやって飽くなき至上主義は、蜜語の陰に隠れて大衆に忍び寄ってくる。独裁国家が不満分子を消すような大々的なものではなく、人類の発展という名において、歯車が回るごとに選別は進んでいく。本当に恐ろしいものは、目には見えないフィクションとなって、いつか、人間の罪の前に現れる。
「ん? ああ、映画楽しみだな。髪も似合ってるよ」
「え? う、うん。ありがと」
 不意を突かれたのか、花音は一瞬動きが止まり、繋いだ僕の右手に引っ張られる形になった。それからはどれだけ花音に合わせて歩く速度を落としても、花音はなぜか頑なに僕の少し後ろを維持し、横並びになることを拒んだ。
「……ねえ、隆也くん」
 大通りの信号で立ち止まったところで、花音が口火を切った。されど花音は今でも隣ではなく、僕のかかとの辺りに爪先を置いている。
「明日から私、学校始まって、バイト以外だとあまり会えなくなるじゃない?」
 花音は繋いだ左手に力を込める。僕を咎めるとき、恥じらいを紛らわすとき、自分に決心をつけるときと、花音の力の込め方には毎回僕なりの解釈が当てまっていたが、今回に関してはどれも的外れのような気がした。
「だけど私は、バイト以外でも隆也くんとたくさん一緒に居たい。隆也くんがもしいいなら、この夏みたいに、放課後でもいろんな所に行ってみたい」
 というより、僕は花音のことを解釈できなくなっていた。花音がなぜ急にこんなことを言い出したのか、僕には理解できなかった。
「だから、これからも、一緒に居てくれる……?」
 簡単な問いだと思った。簡単に答えられると思った。
 花音がなんて答えてほしいか、僕にはよく解っていた。
「……わからないな」
 しかし、いや、だからこそ、僕にはそれができなかった。
「花音はこれからが大事な時期だし、バイト中だって帰り道だって、いくらでも話はできる。俺なんかのために時間を無駄にするのはもったいないよ。花音には、大事な将来があるんだから」
 本心なのか出任せなのかすらわからない言葉が、すらすらと口から出てくる。花音がそれをどんな風に受け取るかなど、僕には考えられなかった。
「将来なんかより、私は今が……」
「お母さんのことだってあるだろ? お母さん楽にさせるために、修一みたいに国立大学入るんだろ?」
 信号が青に変わる。それに従い歩き出そうとしたが、花音は繋げた左手で抵抗した。
「花音、青だぞ」
「……うん」
 渋々横断歩道へと歩き出したが、足取りはすこぶる重い。これでは渡り切れないと思い手を放して先に行こうとすると、途端に花音は足取りを早め、横断歩道を渡り切った。
「じゃあせめて、一緒に居るときだけは、……優しくして」
 僕に追いつくや否や、放れた右手に今度は腕ごとしがみついた。
「……周りの人見てるだろ」
 できるだけ力を込めずに引き剥がそうとしたが、花音を傷つけないようにそれを実現するのは不可能なほど、花音の決心は強かった。
「お願いだから、一緒のときだけは……」
「わかったわかった」
 仕方がないので、そのまま花音が右腕にしがみついた状態で歩き出した。
 傍から見ればそれは男女が身体を一つにする仲睦まじい光景に相違ないのかもしれないが、当事者であり本物を知っている僕は、むしろその対極にいるとしか思えなかった。
「幸せだね」
 程なくして、僕の家がある住宅街の小路が見えてくる。
「……ああ」
 そこを曲がろうとすると、花音は一瞬足を踏ん張ったが、すぐに力を抜いて僕に従った。
「本当に、……幸せだね」
 花音の額から落ちた汗が、肩口に付着する。それを左手で拭うと、僕の家が見えてきた。
「じゃあ、俺この辺で」
 花音と身体を切り離すために立ち止まろうとするも、花音は逆に足を止めようとはしなかった。
「花音、俺、帰るから」
 少し強めに言うと、漸く花音は足を止めた。
「……わかった」
 緊張をほぐすようにゆっくりと力を抜き、僕の腕を放していく。自由になって初めて気付いたが、掴まれていた部分が若干腫れ上がるほど、花音は僕の左側に居られることを望んでいた。
「じゃあ、またな」
「……うん」
 花音が帰っていく。僕に背中を向けて、一人で自分の家へとそぞろ歩く。
「あ、そうだ。花音、ちょっといいか?」
 その姿を見て、僕はあることを思い出した。
「え……?」
 こちらを振り向いた花音の瞳は、僕がいつも花音を家まで送り届けていることを思い出したというような期待で溢れていた。
「修一の服、返すの忘れてた」
 いつもよりパンパンに膨れ上がったバッグから修一の服を取り出し、花音に手渡す。色彩を帯びた瞳は事実に落胆していたが、身体は正直に兄の抜け殻を受け取った。
「……私の下着は、ないんだね」
 唐突に、花音はそう言った。
 服を入れた袋の中身を確認していないにもかかわらず、花音は真実を見極めた。
「悪い、入れ忘れたかもしれない。そっちは次に会うときに──」
「ううん。もう、そっちはいいから」
 視線を逸らそうとする僕に対し、花音の瞳は真っ直ぐだった。
「せめて、隆也くんが言った通り、私のとして使って」
 真っ直ぐで、とても純粋だった。それが、花音の強さだと確信した。
「じゃあまたね、隆也くん」
 しかし、振り返った背中は先ほどと同じものに見えた。歩いていく背中は、行き場を失った流浪の異邦人に見えた。
 それが自分の姿となった夢の後以上に、目覚めの良い朝はないと断言できる。

 一週間という時間は、負けているときのサッカーのアディショナルタイムのように短い。だが、例えとしてそれは適切ではない。アディショナルタイムの終わりは来てほしくないものと言い切れるが、僕にとっての一週間の経過は、来てほしくないようで、来てほしかった時間だった。一週間後の木曜日の勤務、そこに生まれる不安と恐怖は迫り来る残り時間と共に僕をさいなみ続けたが、計り知れない所望もまた、理性の裏側で激しく跋扈ばっこしている。
「おはようございます」
 挨拶をしながらバックヤードに入ったが、空振りに終わった。まだ、彼女は来ていない。花音と同様、大抵僕より早く来るのが常だっただけに、彼女の変化が透けて見える。それもまた起きてほしくないことであり、起きてほしいことだった。
「……おはようございます」
 三分後、小さく挨拶する彼女の声が聞こえた。振り返って見ると、彼女はいつもより派手で薄着な出で立ちをしており、心なしか、化粧がいつもより濃い気がした。
「おはようございます、山岸さん」
「おはよう、橋内くん」
 その後は通常通りの挨拶が並び、お互い更衣室に入り制服に着替えた。着替え終わるとそれはやはりいつもの彼女で、二十代前半に買ったものを久しぶりに引っ張り出して着飾ったというような幼気いたいけさは、今になって着けていることに気付いた仮面の下で鳴りを潜めている。
「じゃあ、今日も一日頑張ろうね」
「はい」
 バックヤードから出る前の掛け声は、一週間前以外と何も変わらない。そのまま足取りも、何も変わらないと思っていた。
「……さっきの服、似合ってた?」
 ドアの前で、彼女が立ち止まる。目の前で髪の毛を結うその仕草は、もはや追憶に近かった。
「……似合ってました、文子さん」
 彼女は結う手を止めなかった。それは、僕たちの間の垣根が壊れてしまった何よりの証左だった。
「ありがとう、隆也くん」
 ドアを開けて彼女が売り場に出る。それから五秒空けて、僕も売り場に向かった。本来の日常という風紀の空間が、鎖の解かれた二人を理性で繋ぎ止める。
 それが無くなったとき、僕たちは不必要とされた人間同士、持て余した本能を再び果たし合うだろう。
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