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彼と彼女の重ならない口づけは、甘酸っぱいリンゴの味

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 アベリアは、デルフィーの執務室の扉をノックした。
 嬉し過ぎて、入室の許可も聞かずに扉を開け、「今じゃない」と思った時には既に遅かった。考えるよりも先に、自分の口が動いていた。
「じゃ~ん、お待ちかね! デルフィーとの約束のリンゴジュースが出来ました!」
 気が先走り、真面目に書類を読み込んでいるデルフィーへ、場違いとも言える調子に乗った声をかけてしまった、アベリア。
 上手く出来上がったことを一刻も早くデルフィーに伝えて、彼に喜んで欲しかった。領地の名産品が新たに出来れば、この地の発展に繋がると確信していたから。
 自分への見返りを求めず、心の底から誰かを喜ばせたいと思ったのは、デルフィーが初めてで、浮かれきっていた。
 自分が勝手に張り切り過ぎて、非常識な振る舞いをしてしまった。それに戸惑ったアベリアは、どうしたらいいか分からなくなって、固まっていた。

「くっ、くくっ」俯いたまま、声を殺して笑っているデルフィー。
 彼は本当のところ、彼女がジュースを持って、この部屋へやって来る事に薄々予想が出来ていた。
 いつもの仕事をこなしながら、彼女が楽しそうにここへやって来るのを心待ちにしていて、元気にやって来た彼女のことを「やっぱり来た」と、嬉しくて笑っていた。

 昨日の夕飯に、彼女お手製のパエーリャが食卓に並んでいた。そのおかげで、何か嬉しい事があったのだと分かっていた。
 これまでも、化粧水が売れた時や領地の為の機械を買ったときなど、彼女が嬉しい時にその料理は出されていた。貴重な調味料だから、そうそう作れないと言った割には、頻繁に食卓を眩しくしていた。
 ここ最近、彼女が夢中になっているのは、リンゴジュース作りだった。彼女がパエーリャを作った心当たりは、それしか無かった。
 眉間に寄っていた皺を緩め、おもむろに前を向くデルフィーは、優しく笑ってささやいた。
「私が一番初めですか?」
「あっ、私が一口だけ味見をしたけど、誰よりも先に、デルフィーに味わって欲しくて」
 デルフィーが伝えた本当の意味は、リンゴジュースの味見役の事ではなかったけど、そんな事には気づかないアベリア。

「ふふっ、どんな休憩よりも癒されます。そちらに座っていただきましょう」
 アベリアがこの邸に来てから、この部屋へ運び込んだ応接セットに2人並んで座った。

 リンゴジュースを飲み込むたびに動くデルフィーの喉ぼとけを、無意識に見つめていることにも気づかなかった、アベリア。
 じっと見つめられる視線を感じ、彼はリンゴジュースを飲むのを止めて、ジュースが半分残ったグラスを、スッと静かにアベリアへ差し出した。
 飲みかけのジュースを渡されて、彼女が嫌がらないか案じていたけど、それでもどうしても渡したかったデルフィー。
 すぐ横に座る彼女に見つめられながら、甘酸っぱいリンゴジュースを飲んだことで、彼は抱いた感情をもう抑えきれなかった。

「そんなに飲みたそうに見つめられていたら、これ以上独り占めは出来ませんからね。どうぞ、アベリア様も味わってください」
 デルフィーの飲みかけのグラスに口をつけるのは、少し照れ臭い気持ちのアベリアだったけれど、1つのグラスでジュースを飲めば、彼との距離が、今まで以上に近くなる気がした。
 受け取ったグラスにゆっくりと唇をつけてから傾けると、リンゴの甘酸っぱい味が口中に広がった。デルフィーが自分の事を見つめている事に気がついて、アベリアの心臓の鼓動は早くなった。
 恥ずかしくなって、少し飲んだだけで、グラスを口から外した。

 同時にお互いの瞳を見つめる。
 デルフィーはアベリアの首元の髪の束に触れ、彼女の背中側に流した。
 アベリアの唇へデルフィーの唇が近づき、触れないまま彼の動きが止まる。そして、彼女へ、1つのグラスを分け合ったリンゴジュースへの想い伝えた。
「甘酸っぱくて、とても美味しかったです。これを私が一番初めに味わえたのは、大変光栄なことです。これからも頂けたら……それが、どんなに幸せで、嬉しいことか――」
「えぇ。デルフィーと触れていなくても、同じ味が口いっぱいに広がって、甘くて、酸っぱくて、幸せを感じた……。――うん、このリンゴジュースは2人とも、美味しく感じたんだから領地の名産品になるわ」
 彼の事が好きすぎて、アベリアはもう少しで、自分の抱いている気持ちを口に出してしまいそうだったけど、思い留まった。

 アベリアは、胸がギュッと絞めつけられる苦しさと、ハチミツよりも甘く愛しい気持ちを、彼に抱いていた。
 だけど、その事を伝えてしまい、彼を困らせることは出来なかった。
 これまでは、夫に干渉されないこの生活が幸せだった。
 だけど今は、愛もない夫と、紙でつながっている自分の事が恨めしくなってきていた。

(この邸での暮らしが無くなっても、2人で一緒にいてくれますか?)そんな我がままを伝えたい気持ちは、彼を想って、今はまだ言えなかった。
 自分の想いは、心の中にそっとしまったアベリア。
 デルフィーは、この領地の暮らしが豊かになるように、何年も1人で頑張ってきた。だから、この領地の事が軌道に乗るまでは、自分には、この小さな喜びだけで、十分過ぎる幸せだったアベリア。

 恥ずかしそうに、はにかむ彼女の表情を見て、デルフィーは嬉しそうに笑っていた。本当であれば、彼女の唇に直接触れたかった。もし彼女が、自分の首に手を回してきたら、もはや歯止めは利かなかったと考えていた、デルフィー。
 でも、自分がぶつける気持ちに、彼女が応えてくれたとしても、その後に、彼女が夫に引け目を感じるような、罪悪感を持ってほしくなかった。
 デルフィーは、彼女を自分のものに出来なくても、2人きりの静かな時間が、この先も続くと疑っていなかった。
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