ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 10-1

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「向こうの世界の記憶が、ねぇ……?」
 ルイから聞いた話を伝えると、皆、うーん、と唸った。
 五人は初日の授業が終わると、皆一緒に有吉の部屋へ来た。
 みちるの言っていた通り、カウンターキッチン付きの広めのアパートメントだった。ベランダからは濃い緑のうっそうとした森がずっと向こうまで見えた。
 山口とみちるとまどかはソファに掛けて、吉野と有吉は毛足の長いダークブラウンの絨毯の上に座っていた。小さなテーブルの上に、オリーブとチーズとクラッカー、それから、みかんが篭に入って乗っていた。
「でも、分かる気がする」
 みちるは言った。
「私と覚はよく部屋で日本のこととか一緒に話すけど、すでに結構思いだせないこともあってさ。店の名前とか芸能人の名前とか……」
「いや、おまえそれは年のせいじゃねーの。忘れっぽくなるのは」
「何言ってんのよ。アンタだってこの間、何か変なこと口走ってたじゃない。なんだっけ……えっと……アレだ。あはは」
 みちるは思い出し笑いで腰を折りながら「聞いてよ……」と続ける。
「おととい、覚と下のデリで買ったデザートを部屋で食べてたんだけど、覚が『このムースの口答えがさあ……』って言うの。えー? 『口答え』って、この場合使わないでしょ、ってツッコんだら、『じゃあ、なんだ、歯触りか?』いや、なんかそれもムースには使わないんじゃ……『舌触り』? とか、とにかく、なんだか急に表現力が、ボキャブラリーの数が減って来たかんじ。もしくはすぐにパッと適切な言葉が出て来なくなったのよね。そんなことが最近良くある」
「で、『口当たり』で話しは落ち着いたんだけどよ」
 山口は付け加える。
「まあ、でも俺もそれにはちょっと危機感持つな。人間てもともと忘れる動物じゃん。忘れるから、生きていける。特に嫌なこととか。それで、今みたいに新しい、今までと全く違う環境に於いて、人はそれに順応しようと、新しいことをいろいろ経験して吸収するわけだろ。古いこと、必要の無いことはどんどん忘れるっのは、すごく理にかなってる気がする」
 吉野は空いたグラスにワインを注いだ。
「あ、認知症予防にね、物の名前とか出てこない時に、思い出すまで自分一人で考えた方がいいんだって。人が教えちゃダメらしいよ。思いだす力が弱くなるって、母が言ってた」
 みちるも吉野にグラスを差し出した。
「だからおまえと話してると話が途中で中断されるんだよな。思い出すまで」
 山口の言葉に皆が一斉に笑った。
「じゃあ、毎日は無理だけど、たまにこうやって皆で会って日本のことを話すのはどうかな」
 吉野が提案した。
「あ、それ賛成」
 有吉も頷く。
「いいね」
 まどかほか二人も同じ意見だった。
 それから五人はそのまま学生時代の思い出を酒の肴に盛り上がり、かなり飲んだかな、と思い始めたのは、有吉が四本目のワインを空にした頃だった。彼は空のボトルを軽く上げて「もう一本開ける?」と皆の顔を見回した。
「いや! 私もう寝るから帰る!」
 やけにはっきりと言ったのは、既に目の据わったみちるだった。
「俺もちょっと頭が痛くなってきたわ……」
 山口が言い、吉野はその横で大きな欠伸をした。
「じゃあ、解散かな。明日もあるし」
 時計を見ると日付が変って少し経っていた。
(鳳乱はまだ帰ってないかな……)
 『シャムに早速こき使われて』とこぼした鳳乱は、今夜も遅くなると言っていた。
「吉野、山口とみちるを送ってやってよ。階段下りなきゃいけないから、こいつら危なっかしいだろ」
「うん。俺どうせ下の部屋だし」
 吉野はまだこの酒の量では『ほろ酔い』くらいらしい。
 皆、だらだらと靴を履いた。
 まどかもパンプスにつま先を入れかけると、有吉が
「金目はオレが送って行くから、ちょっと待ってて」
 と言った。
「いいよ、一人で大丈夫」
 まどかは少し重い頭をゆっくり振った。
 有吉はきまり悪そうににっと笑って言う。
「いや、ちょっと片付けを手伝って、が、本音」
「なんだ。そんなこと。うん、いいよ」
 そして吉野は足元のふらつくみちると山口の後を歩きながら振り返り「おやすみ」と、手を振った。
 それから有吉とまどかは部屋に戻り、テーブルの上の、皆で作った夜食の残りなどを片付け始めた。有吉は隣でグラスを集めて重ねた。
「しっかし、結構飲んだね……。私もだけど」
 まどかが絨毯の上に転がる空のボトルに手を伸ばしたとき、突然横から「どん」と押され絨毯の上に横倒れになった。
「いたっ」
 強く肩を打った。
「何するの、いきなりー……」
 体を起こそうとしたまどかの視界が暗くなる。有吉の体が天井の明かりを遮っていた。
 すぐに、彼の手が両手の自由を奪った。
「ちょっと、有吉……」
 彼の手を押し返したが、それは全く動かない。
 彼は黙ったまま、体を屈めて距離を縮める。相手の息に含まれた、ワインの香りが濃くなる。
 まどかはイヤイヤ、と子供のように首を振って、彼の唇から逃れようとした。有吉は素早く片方の手で顎を捕らえ、自分の唇を重ねた。
 まどかは固く瞼を閉じる。
「ん……」
 彼の柔らかい唇が優しく、啄むようにキスを落とした。
 まどかは最初抵抗を試みたが、有吉のその、どこか切なさを伝えるキスに体の力を緩めた。彼はまだ、ギリギリのところで自分の感情を抑えている、そんなふうに思えた。
 まどかの緊張が解けたのがわかると、彼は舌で唇を割った。まだ口腔内で怯えているまどかの舌を探す。そっと誘い出し、安心させるように触れ、絡まり、優しく吸い上げる。
 体中で快感の粒が弾けた。
 有吉は今は完全に手首を解放し、体を肘で支え、空いた方の手はスカートの中に入り、腿の内側を撫でていた。
「ヤッ……有吉、止めて……」
 彼の胸を押し返した。
 有吉は顔を少し傾けて顔を覗き込む。切羽詰まったその顔が、苦しそうに歪んだ。
「金目……オレ、ダメだ。我慢出来ない。もう、全然こういうことしてないし……。ほんと、やばいんだ……」
 彼は喉から声を絞り出すと、動きを封じるように自分の体重をかけて、胸に顔を埋めて気た。スカートの中にあった手は、今は胸のボタンを一つ一つ弾いていた。
「いやっ! お願いだから、離して……」
 まどかは身を捩ったが、彼の腕から逃れられない。自由な片方の手は彼の肩を押し返そうと努力していたが、まるで効果がなかった。胸に熱い吐息がかかったと思うと、手は下から乳房を押上げ、湿った舌が肌をねぶった。
「やぁ……」
 何度も何度も、執拗に繰り返される。
 酔いの回った熱い体は、その愛撫にすぐに反応した。膨らみの頂が固くなる。彼は下着の上から、少し突き出て形作っているそれに歯をたてた。
「ああっ」
 一瞬、意識が揺れた。
 まどかは思い切り身を捩った。彼の体に手をかけた時、髪が手に触れた。
ーーちがう。鳳乱じゃない。
 そう思ったとたん、涙が一筋、流れた。
「お願い……有吉……そんなことしたら、有吉のこと嫌いになる……」
 哀願の声は、もう涙声だった。抱きしめている腕の力が緩んだ。
「……それは困るな……」
 彼は体の動きを止め、耳をぴたりと胸に付け、頭を預けた。
 まどかも彼も身動き一つしなかった。彼が呼吸をする度に、制服のはだけた胸を熱い息がくすぐった。有吉はおもむろに上体を起こした。そして乱れた前髪の隙間から、床にまだ仰向けになっているまどかを見下ろした。
 その有吉をまどかはぼうっと見ていた。
 彼は手を伸ばして手を取り、体を起こすのを手伝った。そのまましばらく二人は無言で顔を背けていた。
 有吉の少し湿った手のひらが、まどかの手に重ねられていた。
「ごめん……オレ、本当にどうかしてた……」
 まどかは顔を少し彼の方へ向けた。
 俯いた綺麗な横顔は、流れる前髪で半分隠れていた。
「正直、ほんとに苦しいぐらいに女に対する欲望が高まって……ずっとヤッてないから……女のおまえにこんなこと言ってもピンと来ないと思うけど。健全な男にとっては結構辛いんだ」
 彼は手を放し、立てた両膝の上に腕をあずけて、その間にがくりと頭を落とした。
 まどは有吉ににじり寄った。腕にそっと触れる。彼は顔を上げた。薄茶の瞳が許しを請うように、揺れた。
「もう、何もしない?」
「何もしない」
 彼が静かに両腕を広げたので、まどかはもう少し近寄り、その膝の間に収まった。後ろからそっと包み込まれる。
「ホントにごめんな。おまえ、震えてるな」
 有吉に言われるまで気がつかなかった。やはり急に男になった彼に、そんな顔を初めて見せた彼に、女として少しでも怯えたのだろうか。
「うん。ショックだった」
 彼はまどかの肩に顎を置いた。
「たばこが手に入らなかった時期も辛かったけど、性欲の方は後からじわじわきた。女の肌の温もりとか、柔らかさとか、包み込まれる感じが恋しくてたまらない」
「うん」
 だんだんと心が落ち着いてくる。寄りかかっている有吉の胸の鼓動が背中に伝わる。とくとくとく、とそれは速い。
「……酔ってたんだよね?」
 有吉は答えない。
 まどかは体をひねって有吉を見た。顔が近い。
「そういうことに、しよう? ね?」
 今起こったことはそうやって片付けるのが二人にとって一番無難で、自然に思えた。
 しぶしぶ、と言った声色で彼は「わかった」と承諾した。
 そしてすぐに頰を染め、その顔を壁の方へ向けて、「制服の前……閉めて。それ、かなりやばいから……」と言った。
 慌てて胸元を見ると、はだけた制服の間から、下着に押されて胸が盛り上がっているのが丸見えだった。
 まどかは耳まで熱くなるのを感じながら、素早く服を整えた。
 そして私は「送って行く」と言い張る有吉をどうにか玄関で押しとどめて、自分の部屋へ戻った。
 外は闇の中に外灯の光が浮かび上がっていた。暖かくも寒くもない風が肌を撫でた。やっと、深く息を吸う。
 青い芝生を踏みながら、有吉の気持ちを考えると何故かとても寂しくなった。
 ーー私は何もできない。友達なのに。友達だから。
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