10 / 39
2章
10 黒い獣 ②
しおりを挟むスーリアはゆっくりと近づき、黒ヒョウの前で膝を突く。
その銀色の瞳に吸い寄せられるように手を伸ばし、指先でそっと頭に触れた。
一瞬ぴくりと震えた黒ヒョウだったが、スーリアが優しく頭を撫でると気持ちよさそうに目を閉じる。
「か……かわいいわ」
大きな猫とでも思えば恐怖心は薄らぐ。それどころか、スーリアの手のひらに顔をすり寄せてくるその姿は、むしろただの猫にしか見えない。
「随分人に慣れているようだけど、もしかして誰かが飼っているのかしら?」
そういえばこの王城で庭師として働き始めた頃、第二王子が特殊な獣を飼っていることを説明された覚えがある。
その頃は働けるようになった嬉しさから、興味のない話は聞き流していた。そのためあまりよく覚えていないのだが、確か騎士団の訓練所の方で大型の獣を飼育していると聞いたような――
「もしかして、この黒ヒョウが第二王子殿下の……?」
ぽつりと呟いた言葉に、黒ヒョウがびくりとその黒い体を大きく揺らした。
「あなたが第二王子殿下が飼われているこなの?」
その質問に、黒ヒョウは視線を彷徨わせた後、わずかに首を上下に動かした。
このしぐさは肯定だろうか。なんだか言葉が通じているようで、少しだけ嬉しくなった。
「脱走したのかしら……それともお散歩中? どちらにしろこんな所にいたら、皆びっくりしてしまうわ」
騎士団本部まで行って知らせるべきだろうか。
しかし、スーリアが離れている間にどこかに逃げてしまったら意味がない。
一緒に連れて行くのが一番だろうが、言うことを聞いてくれるか分からない。獰猛な見た目に似合わず人懐っこい性格をしているようなので、意外となんとかなるかもしれないが。
そう考えて、立ち上がる。
「あなたのご主人様のところに行こうと思うのだけれど、ついてきてくれる?」
言葉を理解したのかは分からないが、黒ヒョウは体を起こすと、スーリアの後を追うように歩き出した。
植木の間を抜け、庭園の開けた場所に出る。
騎士団の訓練所はどこから行くのが近かったかと、王城内の構図を思い浮かべていると、こちらに向かって駆けてくる人物が目に入った。
「アル!」
金髪を頭の後ろでひとつに結った黒い隊服を着たその人は、慌てた表情でスーリアの後ろにいる黒ヒョウのもとまでやってくる。隊服の色からして、彼は近衛騎士だろう。
「アル?」
疑問を口にしたスーリアの言葉を、その金髪の騎士は聞いていたようで、姿勢を正して言った。
「あぁ、失礼しました。自分は近衛騎士団所属のクアイズ・フォーラスと言います。先ほどアルの鳴き声を聞いた者がいたようで急いできたのですが、まさかあなたと一緒にいたとは」
「アルっていうのは、この黒ヒョウの名前ですか?」
「ええ」
「ってことは、やっぱりこのこが第二王子殿下が飼われている大型の獣?」
「……そうです。諸事情で今日は外に出していたのですが――」
フォーラスと名乗った騎士は黒ヒョウに視線を向けて、何故か言葉を濁した。
黒ヒョウも何故かじっと騎士を見ている。
二人の間に何とも言えない微妙な空気が流れた。
訪れた沈黙に耐え切れなくなったスーリアは、空気を裂くように言葉を口にする。
「あの、ちょうど騎士団のもとに連れて行こうと思っていたので、あとはお願いしても?」
「あ……はい。こちらで引き受けます」
これでやっと昼食をとれると踵を返そうとした時、再び声がかかる。
「そういえば、今日は髪を下ろされているんですね」
「え?」
「あぁ、失礼。いつもは髪をまとめていらしたので、珍しいなと」
確かに今日の髪型はいつもと違うが、何故そのことをこの騎士が知っているのだろうか。
胡乱な視線を向けると、彼はばつの悪い表情をして理由を話す。
「えーと……女性の庭師の方は珍しいので、噂になっていて……」
それは初めて聞いたが、確かに女性の庭師はここ何年もいなかったようなので、その珍しさから噂になっていてもおかしくはない。中にはスーリアが伯爵令嬢だと知っている者がいるかもしれないので、そのせいで顔が知れてしまうのは本意ではないのだが。
「そうだったんですね。今日は髪紐を忘れてしまって、鬱陶しくて困っているんです」
「それなら、これを」
そういってクアイズは自分の髪を結っている髪紐をほどき、スーリアに手渡してきた。
「えっ!? いや、悪いです!」
「自分は控えがあるので、良かったら使ってください」
そういって彼が強引に髪紐を渡した瞬間、側にいた黒ヒョウが大きな声で鳴いた。
地に響くような低い声で唸り声をあげている。
その様子を見て、スーリアは驚くのと同時に、全身が恐怖に震えるのを感じた。
先ほどまでの人懐っこい雰囲気は完全に消え、今は獰猛な獣の本性があらわになっている。
「ア、アル……」
クアイズが額に汗を滲ませて、横目でスーリアを見てくる。
視線の先を追った黒ヒョウが、恐怖に竦むスーリアの姿を銀色の瞳に映した。
その途端、糸が切れたように黒ヒョウは大人しくなる。銀色の瞳を見開いて、そのまま駆けだした。
「アル! ああすみません! 自分は行きますので」
何がなんだか分からないうちに、騎士と一頭は庭園の奥へと消えていった。
あとに残されたスーリアは、呆然と手の中に残る髪紐を見つめていた。
10
お気に入りに追加
1,769
あなたにおすすめの小説
うたた寝している間に運命が変わりました。
gacchi
恋愛
優柔不断な第三王子フレディ様の婚約者として、幼いころから色々と苦労してきたけど、最近はもう呆れてしまって放置気味。そんな中、お義姉様がフレディ様の子を身ごもった?私との婚約は解消?私は学園を卒業したら修道院へ入れられることに。…だったはずなのに、カフェテリアでうたた寝していたら、私の運命は変わってしまったようです。
婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです
青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています
チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。
しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。
婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。
さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。
失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。
目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。
二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。
一方、義妹は仕事でミスばかり。
闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。
挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。
※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます!
※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。
二度目の召喚なんて、聞いてません!
みん
恋愛
私─神咲志乃は4年前の夏、たまたま学校の図書室に居た3人と共に異世界へと召喚されてしまった。
その異世界で淡い恋をした。それでも、志乃は義務を果たすと居残ると言う他の3人とは別れ、1人日本へと還った。
それから4年が経ったある日。何故かまた、異世界へと召喚されてしまう。「何で!?」
❋相変わらずのゆるふわ設定と、メンタルは豆腐並みなので、軽い気持ちで読んでいただけると助かります。
❋気を付けてはいますが、誤字が多いかもしれません。
❋他視点の話があります。
お飾りの側妃ですね?わかりました。どうぞ私のことは放っといてください!
水川サキ
恋愛
クオーツ伯爵家の長女アクアは17歳のとき、王宮に側妃として迎えられる。
シルバークリス王国の新しい王シエルは戦闘能力がずば抜けており、戦の神(野蛮な王)と呼ばれている男。
緊張しながら迎えた謁見の日。
シエルから言われた。
「俺がお前を愛することはない」
ああ、そうですか。
結構です。
白い結婚大歓迎!
私もあなたを愛するつもりなど毛頭ありません。
私はただ王宮でひっそり楽しく過ごしたいだけなのです。
記憶喪失になったら、義兄に溺愛されました。
せいめ
恋愛
婚約者の不貞現場を見た私は、ショックを受けて前世の記憶を思い出す。
そうだ!私は日本のアラサー社畜だった。
前世の記憶が戻って思うのは、こんな婚約者要らないよね!浮気症は治らないだろうし、家族ともそこまで仲良くないから、こんな家にいる必要もないよね。
そうだ!家を出よう。
しかし、二階から逃げようとした私は失敗し、バルコニーから落ちてしまう。
目覚めた私は、今世の記憶がない!あれ?何を悩んでいたんだっけ?何かしようとしていた?
豪華な部屋に沢山のメイド達。そして、カッコいいお兄様。
金持ちの家に生まれて、美少女だなんてラッキー!ふふっ!今世では楽しい人生を送るぞー!
しかし。…婚約者がいたの?しかも、全く愛されてなくて、相手にもされてなかったの?
えっ?私が記憶喪失になった理由?お兄様教えてー!
ご都合主義です。内容も緩いです。
誤字脱字お許しください。
義兄の話が多いです。
閑話も多いです。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
虐げられ令嬢、辺境の色ボケ老人の後妻になるはずが、美貌の辺境伯さまに溺愛されるなんて聞いていません!
葵 すみれ
恋愛
成り上がりの男爵家に生まれた姉妹、ヘスティアとデボラ。
美しく貴族らしい金髪の妹デボラは愛されたが、姉のヘスティアはみっともない赤毛の上に火傷の痕があり、使用人のような扱いを受けていた。
デボラは自己中心的で傲慢な性格であり、ヘスティアに対して嫌味や攻撃を繰り返す。
火傷も、デボラが負わせたものだった。
ある日、父親と元婚約者が、ヘスティアに結婚の話を持ちかける。
辺境伯家の老人が、おぼつかないくせに色ボケで、後妻を探しているのだという。
こうしてヘスティアは本人の意思など関係なく、辺境の老人の慰み者として差し出されることになった。
ところが、出荷先でヘスティアを迎えた若き美貌の辺境伯レイモンドは、後妻など必要ないと言い出す。
そう言われても、ヘスティアにもう帰る場所などない。
泣きつくと、レイモンドの叔母の提案で、侍女として働かせてもらえることになる。
いじめられるのには慣れている。
それでもしっかり働けば追い出されないだろうと、役に立とうと決意するヘスティア。
しかし、辺境伯家の人たちは親切で優しく、ヘスティアを大切にしてくれた。
戸惑うヘスティアに、さらに辺境伯レイモンドまでが、甘い言葉をかけてくる。
信じられない思いながらも、ヘスティアは少しずつレイモンドに惹かれていく。
そして、元家族には、破滅の足音が近づいていた――。
※小説家になろうにも掲載しています
婚約者と義妹に裏切られたので、ざまぁして逃げてみた
せいめ
恋愛
伯爵令嬢のフローラは、夜会で婚約者のレイモンドと義妹のリリアンが抱き合う姿を見てしまった。
大好きだったレイモンドの裏切りを知りショックを受けるフローラ。
三ヶ月後には結婚式なのに、このままあの方と結婚していいの?
深く傷付いたフローラは散々悩んだ挙句、その場に偶然居合わせた公爵令息や親友の力を借り、ざまぁして逃げ出すことにしたのであった。
ご都合主義です。
誤字脱字、申し訳ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる