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3章

15話 きっかけ

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 シュニーはご機嫌だった。
 それはもう、浮かれすぎて仕事が手に付かないほどに。

「殿下、また腑抜けになっておりますよ」

 両手で机に肘を突き、その手に顔を乗せ、惚けたように天井を見つめる主人に、ジェフはピシャリと言い放った。
 ここ数日ずっとこの調子だ。諌めてもいつの間にか元に戻っている。おかげで書類は溜まる一方だ。

 ロマリアの訪問から三日が経つ。
 あの日から、朝の抱擁に唇へのキスが追加されたのだ。
 シュニーとセレナは最初から距離が近かった分、逆に今まできっかけがなくて、口付けは頬止まりであった。
 また、セレナを祖国から強引に奪った負い目も多少はあったシュニーは、過剰なスキンシップの中でも一線は踏み越えられないでいたのだ。

 それを破ったきっかけが、皮肉なことにロマリアなのである。
 彼女にされた仕打ちを考えると胸にしこりは残るが、きっとあれがなければ今のこの幸せはなかっただろう。あれで良かったんだと、今では思う。

 セレナとはあの後真面目に話をした。
 シュニーの口からきちんと聞きたいと言う彼女に、あの時あったこと、そしてロマリアとのことを包み隠さず話した。

 シュニーはあの日、ロマリアの反応を確認するために猫の姿で彼女の前に姿を現した。猫になるには眠気を催せば良いので、やろうと思えば簡単だ。
 結果、傷を負い、逃げ帰ることになったのだが。
 まさか、ロマリアがあそこまでの動物嫌いだとは。庭園に現れた猫をいきなり蹴り飛ばすなど、思ってもみなかったのである。

 傷自体は大したことはなかったが、痕が残ってしまった。幸い髪で隠せるし、シュニー本人は心の傷はどうあれ、こめかみの傷はさして気にしてはいなかった。
 しかし、彼のかわいい飼い主さまは違ったようだ。以前の婚約者に付けられた傷が相当気に食わないようで、私も殿下に傷を付けます!なんて言うものだから、シュニーは思わず笑って聞き返してしまった。

『どうやって僕に傷をつけるの?』
『それは……そうだ!キスマークがあります!』
『……待ってセレナ。キスマークなんて僕も君に付けたことがないのだけど。そもそもやり方を知っているのかな?』
『…………調べて練習しておきます!』

 誰とどうやって練習するんだ、と頭を抱えたのは言うまでもない。最近分かってきたことだが、セレナは少し天然なところがある。そこもまた可愛いのだが。

『練習するなら一緒にしよう?ね?』
『練習は一人でするので、シュニー様もお一人でなさってください!』

 なんて連れない。
 一人でキスマークをつける練習をしている彼女を想像して、シュニーが笑ってしまったのは内緒だ。

 きっかけと言えばもうひとつある。
 あの日からセレナが『殿下』ではなく、『シュニー様』と呼んでくれる時があるのだ。毎回ではないから、彼女も無意識にそう呼んでいるのだろう。指摘したら殿下に戻ってしまいそうなので、あえて言わないことにした。
 その内呼び捨てにしてくれたら嬉しいと思うが、きっと心の距離が近くなれば、今回みたいに自然とそうなるだろうと思う。今は無理強いせず、彼女がしたいように呼んでくれれば良い。

 そんな発見もありつつ、あの日は二人でたくさん話をして、眠りについたのだ。



「殿下、本日はこの書類を全て捌くまで、お帰りにはなれませんからね?」

 あの日のことを思い出して、動かしかけた手が再び止まっていたシュニーを、現実に引き戻すようにジェフが言った。

「分かった、真面目にやる」

 帰りが遅くなるのはまずい。
 セレナと過ごす時間が減るのは、シュニーも本望ではないのだ。
 手を動かし始めたシュニーは、一つの書類を手に取った。

「……南方の治水事業、レインテッド公爵は僕の案を通したのか」
「その様ですね。ルディオ殿下が今朝そちらの資料を持ってこられました。なんでも、公爵様が直々にこの案で行きたいと申してきたらしいですよ」
「へぇ……」

 どうやらレインテッド公爵はシュニーのことを赦したらしい。元より悪いのはあちらだったのだが。

 ロマリアからはセレナと面会をした翌々日に、書面にて正式な謝罪が送られてきた。
 シュニーが望むのであれば罰を受ける覚悟があると記されていたが、今更事を荒立てたくもないので、もうお互いに忘れるようにと返事を出した。セレナの手前、ロマリアとは関わらないのが一番なのだ。

 あとあと知るのだが、ロマリアは公爵にこう説明したらしい。

『殿下の大切にされている世界に一株だけの薔薇を、わたくしは手折ってしまったようです。再生が難しいほど酷く傷を付けてしまったので、殿下はお怒りになられたのです』

 たかだか薔薇如きで、と公爵は思ったようだが、娘の甚く憔悴した様子に余程のことをしでかしたらしいと気付いたようだ。
 ここ数カ月はシュニーのやることに嫌がらせのようなことをしてきていたのだが、それももう終わりになりそうで胸を撫で下ろした。


「セレナ様に感謝をせねばなりませんね」
「まったく…僕の飼い主さまは、どれだけ僕を救ってくれるのか…」

 嬉しいような、切ないような、そんな複雑な思いで書類に目を通すのだった。


「そう言えば、例の件はセレナ様にはまだ?」

 思い出したようにジェフが聞いてきた。
首を横に振り、それに答える。

「まだだ。ロマリアの事があったから、少し落ちついてからにしようかと」
「なるほど。しかし、そろそろ返事を出さねばなりませんね」
「分かってる。正直めんどうだが…セレナが望むようなら全力で支えるしかない」
「承知しております」

 シュニーは一通の招待状を手に取る。
 それはセレナとシュニー宛のものであった。
 そこにはハスール王、メルセド・ファルド・ハスールの誕生日を祝す夜会が開かれる事。また、それへの参加の可否を問う内容が記されていた。

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