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七
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恥ずかしさもてっぺんまで突き抜ければ後は落ち着ていくだけ。冷静になった華恋はふとある可能性に気づいた。
勢いよく顔を上げ、森を見る。その勢いに驚いたのか森は数回瞬きをした。
「ま、まさかと思うけど……伊藤さんも私がファンだってことを知っていたり?」
声が震える。どうか、違うと否定して欲しい。
華恋が伊藤のファンだということがバレるのは百歩譲っていいとしよう。
ただ、あの時、華恋は「ない」と答えてしまった。そのことが不安を煽った。
いったい今伊藤に華恋はどう思われているのだろうか。
――――害悪なファンだと思われていたらどうしよう。
華恋の心境はまさに崖っぷちだった。改めて説明をしたいところだが、藪をつつきかねない。
華恋は「あの時正直に答えればよかった~」と頭を抱えた。
「あの時って?」
頭を抱えていた手を外し、のろのろと顔を上げる。無表情の森と目があった。ギクリと肩が揺れる。責められている気分だ。
よくよく考えてみればそれも当たり前か。森さんと健ちゃんは昔馴染みで今も仲が良さそうだった。何より、森さんのお姉さんは健ちゃんと結婚している。森さんにとって健ちゃんは身内なのだ。
そんな健ちゃんにこんな怪しいファンを近づけたくないと思うのは至極当然だろう。
ああ、だから森さんは健ちゃんを突き放したのか。私と必要以上に関わらせないようにするために。すとんと腑に落ちた。
観念した犯人のように肩を落とし、華恋は自分から弁明を始めた。
「森さんがお姉さんと話している時に健ちゃん……伊藤さんに「俺達、どこかで会ったことある?」って聞かれたんです。それで、私は「ありません」って答えました。う、嘘を言ったつもりはなかったんです。実際、直接会ったことも会話したこともありませんし。……ファンであることを隠したのは、プライベートな空間を邪魔したくなかったからであって……その、悪気があったわけじゃなくてですね……」
「わかった。わかったから、渡辺さん落ち着いて」
「で、でも」
「いいから。水でも飲んで」
「はい」
差し出された水を渋々受け取り、口をつける。
――――さすが元マネージャー。お世話するのに慣れているんだなあ。……ああ、だからか。
あの夜、甲斐甲斐しく華恋の世話をやいてくれたのもそういう性分だったからか……と腑に落ちた。
「なんだ……」
――――私だったからじゃなかったのか。
そんな考えが一瞬頭を過り、動揺する。
森と目があい、華恋は慌てて首を横に振った。
「何でもないですっ」
「そうか。……そうには見えないけど」
ぽつりと呟きが聞こえたが、華恋は視線を逸らして聞こえないフリをした。
不意に森の手が華恋へと伸びる。
お酒がまだ抜け切れていないのか華恋の熱い頬に森の冷たい指先が触れる。視線と視線が交わった。
華恋の思考が止まった。一瞬か。数分か。
突然、森が華恋の腕を引いた。
顔面から森の胸元に突っ込む。普段は猫背のせいでわからないが森の身長は思った以上に高い。平均以下の身長の華恋はすっぽり森の腕の中に入ってしまった。今度は思考どころか呼吸が止まるかと思った。
すぐ後ろから複数のエンジン音と何やらこちらを揶揄するような声が通り過ぎて行ったのがわかった。ちらりと横目で見ると、数台のバイクのテールライトが横一列に並んでいるのが確認できた。
通り過ぎて行ったライダー達への苛立ちが込み上げてきたが、それ以上に森の腕の中にいるということが華恋の冷静さを失わせた。
森に抱きしめられるのはこれで二回目だ。どちらも、恋愛的な要素は無いとはいえ、男子慣れしていない華恋には少々刺激が強い。一応平静を装っているが、それなりに動揺はしている。
あと、一つわかったことがある。
――――森さんに触られるのは大丈夫だ。
男性との接触は苦手なのだが、森は大丈夫らしい。
前回の記憶はほぼ無いが、今回は酔っているとはいえ意識ははっきりしている。けれど、こうして二人で長時間いても、触れても不快感は一切ない。
むしろ、なんだか心臓がざわついている。悪い意味ではなく、いい意味で。『高揚』している時の感覚に近いかもしれない。これが麻友が言っていた恋というものなのだろうか。
初めての感覚に戸惑っている華恋は気づいていなかった。とっくの昔にバイクは去っているのに未だに二人が身を寄せ合っていることに。
「大丈夫か?」
森に声をかけられて我に返る。慌てて森から離れた。
「だ、大丈夫! も、森さんこそ大丈夫?!」
「ああ。俺も別に」
そういいながら森がさっと後ろに腕を回すのに華恋は気付いた。サッと回り込んでその腕を掴む。「っ」と森の声が一瞬漏れた。
暗いがよく見てみれば擦り傷ができている。
「コレは?」
「いや、それは……」
「今できた傷だよね?」
「ちが」
「本当に?」
じーっと目を見開いて問い詰めれば森が目を逸らし観念した。
「ちょっと掠っただけだ。大丈夫」
「とにかく、うちにきてください」
「は?」
「消毒するんで」
森の返事を待たずに華恋は傷がない方の腕を引く。かすり傷とはいえ、自分を庇ってできた傷だ。放ってはおけない。それに森が家に帰ってから自分で消毒するとも思えなかった。万が一、傷口から悪い菌でも入ったらどうするのだ。
と、心の中でたくさんの言い訳を並べて華恋は森を自宅に連れ込んだ。
今華恋が住んでいるのは実家を出る時に両親が用意してくれたセキュリティーがしっかりしたマンションの一室だ。一人暮らしを希望した際、両親はいくつかの条件を華恋に提示した。その一つが頭を過る。
マンションの扉を開けるのを一瞬ためらった。が、ここまできて引き返すのは無しだろう。
華恋は思い切って扉を開けた。
玄関からリビングまでピンクを基調とした可愛らしいインテリア達。後ろにいる森がためらった気配がしたが、無視して招きいれる。森は恐る恐る靴を脱いだ。
「そっちじゃなくて、こっちです」
「え?」
戸惑いの声を上げた森。それもそのはず。華恋が誘導した先は、リビングではなくベッドがある寝室だ。思わず森が足を止める。
「他の部屋は落ち着かないんでこの部屋に通しただけです。他意はありません」
真顔で告げた華恋に森は数秒固まった後ゆっくりと寝室へと足を踏み入れた。
他の部屋がピンクで可愛らしいのに対して寝室はグレーでシンプルだ。
「なんか……この部屋すごい渡辺さんっぽいな」
森が思わずと言った口調で漏らした。華恋の口元が嬉しそうに緩む。
「よくわかりましたね。この部屋の内装だけは私が決めたんですよ」
「どうりで……」
納得という顔をしながらも森は座らずに立っている。やはり、寝室というので警戒されているのだろう。
「消毒するだけですから、座ってください」
「はい」
華恋がベッドを叩くと森はビクリと一度だけ身体を揺らしてバツが悪そうな顔でベッドの端に腰かけた。
「ちょっと待っていてくださいね」
そう言って華恋はさっと寝室を出て、リビングから薬箱を取ってくる。
寝室の扉を開けると、部屋に一人残された森が石像のように固まっていた。普段猫背の癖に背筋もピンッと伸びている。クスリと笑いそうになって耐えた。
「手、出してください」
森は無言で手を差し出した。消毒する間、二人は無言だった。
明るいLEDの下で見ると、森の手が赤くなっていることがわかる。ただ、傷は本当にかすり傷程度だったのでホッとする。消毒はすぐに終わった。
華恋が片付けを始めると、目の前に座っている森は居心地悪そうに身動ぎをした。
その衣擦れの音で華恋は今どういう状況なのかに気づいた。
前回何もなかったことを考えると、今回も何もない可能性は高い。そもそも、森にとって華恋がそういう対象になるのかどうかすら怪しい。
――――あんなに綺麗なお姉さんがいるんだもん。
ちらりと森の様子を窺う。
「えっ」
つい声が漏れた。森の顔が今までにないくらい険しかったからだ。多分一人くらい〇ってる。それくらいの圧がある。
「どうした?」
「森さん顔怖すぎ」
「わ、悪い」
森が慌てて顔を逸らした。
――――あれ? もしかして……森さん、怒ってるとかじゃなくて……緊張してるだけ?
「水、でも飲みますか?」
「いらな……いや、やっぱり、もらう」
「はい」
キッチンから水を持ってきて、森に渡す。
よほど喉が渇いていたのか、森はゴクゴクと一気に水をあおった。
その様子を華恋はじっとみつめていた。
「森さんは……この部屋のどこを見て私っぽいと思ったんですか?」
何か話題を振ろうとして、気づいたらそんな言葉が口から飛び出していた。
森が困ったように首を傾げながら言う。
「どこをって聞かれても……漠然と思ったことを言っただけけだからな」
「自分で言うのもアレなんですけど、私って他の部屋みたいなピンクの可愛い系のイメージがついていると思ってたんですけど……」
「そうなのか? 俺が知る渡辺はこういうシンプルで落ち着いた色合いの物を好んでいる印象があったんだが……」
「そう、なんですね」
「間違ってたのか?」
「いえ。あってます」
心の中がぽかぽかして、続く言葉が出てこなかった。
「この部屋は唯一私が好きにできる部屋なんです。他の部屋は母が管理しているので」
「そうか」
実家を出て一人暮らしをしたいと両親に告げた時、許可するかわりに部屋はこちらで用意すると言ってきたのは母だ。母曰く、自分達の子供がセンスの悪い家に暮らしているなんて耐えられないかららしい。私に拒否権はなかった。
ただ、何とか交渉して寝室だけは自分の希望を通してもらったのだ。正直、ピンクを基調とした部屋は落ち着かないが仕方ない。立地も良くて、セキュリティもしっかりしている。何より、華恋は早く実家を出たかった。他のことには目をつぶるしかない。
昔から両親にとって私は都合のいい『愛の結晶』だった。二人のいいとこどりをした容姿のおかげで可愛がってはもらえたものの愛情はもらえなかった。いつだって二人の眼に映る私は『私』ではなく二人の『愛の結晶』だ。両親の仲がいいことに不満はなかったが……私自身を見て欲しいという気持ちや、この先私が両親に似なくなったら今のように可愛がってもらえなくなるんじゃないか、そんな考えがいつも付きまとっていた。
それでもいいかと割り切れるようになったのは私に推しという存在ができてからだった。当時の私のメンタルを支えてくれた推しには本当に感謝している。
「伊藤さんの件なんですけど、私……確かに伊藤さんのファンではあるんですけど……その、別にガチ恋とかではなくて……。伊藤さんと繋がりたいとか会いたいとか思ったことも無くってその、なんといいますか……その」
喋れば喋る程怪しい気がして、いっそ全部話してしまおうという気になってくる。
「私にとって伊藤さんって、『なれなかった私』なんです」
昔の私はそもそもアイドルという存在が苦手だった。自分の顔の良さを売りにして、周りに笑顔を振りまく。好意を向けられることが苦手な私には理解ができない職業だったのだ。
でも、ある日伊藤健太のドキュメンタリー番組を目にしてその考えは変わった。少なくとも伊藤健太については。
「家族を大事に思うことも、自分の容姿を受け入れることも、武器にすることも、私にはできなかったから」
それどころか、自分の容姿を隠そうとしたり、家出して両親から逃げようとしたくらいだ。
「伊藤さんはあのドキュメンタリーを見た一部のひねくれた人たちから偽善者だとか嘘松だとか一時期結構叩かれていたじゃないですか。それでも負けずに頑張っているのを見てファンになったんです」
森は何を考えているのかはわからないが、静かに華恋の話に耳を傾けている。
「伊藤さんのようになりたいとは思いませんけど……私にはできないことを頑張っている伊藤さんには幸せになって欲しいな、頑張ってほしいな……とは思うんですよ。……いきなり、変なこと語りだしてすみません」
「いや」
――――やっぱり、森さんって優しいな……。
森さんからしてみれば別に興味もない話だろうに。
でも、森さんには知ってほしかったから……誤解はして欲しくなかったから。華恋はじっと森を見つめた。
勢いよく顔を上げ、森を見る。その勢いに驚いたのか森は数回瞬きをした。
「ま、まさかと思うけど……伊藤さんも私がファンだってことを知っていたり?」
声が震える。どうか、違うと否定して欲しい。
華恋が伊藤のファンだということがバレるのは百歩譲っていいとしよう。
ただ、あの時、華恋は「ない」と答えてしまった。そのことが不安を煽った。
いったい今伊藤に華恋はどう思われているのだろうか。
――――害悪なファンだと思われていたらどうしよう。
華恋の心境はまさに崖っぷちだった。改めて説明をしたいところだが、藪をつつきかねない。
華恋は「あの時正直に答えればよかった~」と頭を抱えた。
「あの時って?」
頭を抱えていた手を外し、のろのろと顔を上げる。無表情の森と目があった。ギクリと肩が揺れる。責められている気分だ。
よくよく考えてみればそれも当たり前か。森さんと健ちゃんは昔馴染みで今も仲が良さそうだった。何より、森さんのお姉さんは健ちゃんと結婚している。森さんにとって健ちゃんは身内なのだ。
そんな健ちゃんにこんな怪しいファンを近づけたくないと思うのは至極当然だろう。
ああ、だから森さんは健ちゃんを突き放したのか。私と必要以上に関わらせないようにするために。すとんと腑に落ちた。
観念した犯人のように肩を落とし、華恋は自分から弁明を始めた。
「森さんがお姉さんと話している時に健ちゃん……伊藤さんに「俺達、どこかで会ったことある?」って聞かれたんです。それで、私は「ありません」って答えました。う、嘘を言ったつもりはなかったんです。実際、直接会ったことも会話したこともありませんし。……ファンであることを隠したのは、プライベートな空間を邪魔したくなかったからであって……その、悪気があったわけじゃなくてですね……」
「わかった。わかったから、渡辺さん落ち着いて」
「で、でも」
「いいから。水でも飲んで」
「はい」
差し出された水を渋々受け取り、口をつける。
――――さすが元マネージャー。お世話するのに慣れているんだなあ。……ああ、だからか。
あの夜、甲斐甲斐しく華恋の世話をやいてくれたのもそういう性分だったからか……と腑に落ちた。
「なんだ……」
――――私だったからじゃなかったのか。
そんな考えが一瞬頭を過り、動揺する。
森と目があい、華恋は慌てて首を横に振った。
「何でもないですっ」
「そうか。……そうには見えないけど」
ぽつりと呟きが聞こえたが、華恋は視線を逸らして聞こえないフリをした。
不意に森の手が華恋へと伸びる。
お酒がまだ抜け切れていないのか華恋の熱い頬に森の冷たい指先が触れる。視線と視線が交わった。
華恋の思考が止まった。一瞬か。数分か。
突然、森が華恋の腕を引いた。
顔面から森の胸元に突っ込む。普段は猫背のせいでわからないが森の身長は思った以上に高い。平均以下の身長の華恋はすっぽり森の腕の中に入ってしまった。今度は思考どころか呼吸が止まるかと思った。
すぐ後ろから複数のエンジン音と何やらこちらを揶揄するような声が通り過ぎて行ったのがわかった。ちらりと横目で見ると、数台のバイクのテールライトが横一列に並んでいるのが確認できた。
通り過ぎて行ったライダー達への苛立ちが込み上げてきたが、それ以上に森の腕の中にいるということが華恋の冷静さを失わせた。
森に抱きしめられるのはこれで二回目だ。どちらも、恋愛的な要素は無いとはいえ、男子慣れしていない華恋には少々刺激が強い。一応平静を装っているが、それなりに動揺はしている。
あと、一つわかったことがある。
――――森さんに触られるのは大丈夫だ。
男性との接触は苦手なのだが、森は大丈夫らしい。
前回の記憶はほぼ無いが、今回は酔っているとはいえ意識ははっきりしている。けれど、こうして二人で長時間いても、触れても不快感は一切ない。
むしろ、なんだか心臓がざわついている。悪い意味ではなく、いい意味で。『高揚』している時の感覚に近いかもしれない。これが麻友が言っていた恋というものなのだろうか。
初めての感覚に戸惑っている華恋は気づいていなかった。とっくの昔にバイクは去っているのに未だに二人が身を寄せ合っていることに。
「大丈夫か?」
森に声をかけられて我に返る。慌てて森から離れた。
「だ、大丈夫! も、森さんこそ大丈夫?!」
「ああ。俺も別に」
そういいながら森がさっと後ろに腕を回すのに華恋は気付いた。サッと回り込んでその腕を掴む。「っ」と森の声が一瞬漏れた。
暗いがよく見てみれば擦り傷ができている。
「コレは?」
「いや、それは……」
「今できた傷だよね?」
「ちが」
「本当に?」
じーっと目を見開いて問い詰めれば森が目を逸らし観念した。
「ちょっと掠っただけだ。大丈夫」
「とにかく、うちにきてください」
「は?」
「消毒するんで」
森の返事を待たずに華恋は傷がない方の腕を引く。かすり傷とはいえ、自分を庇ってできた傷だ。放ってはおけない。それに森が家に帰ってから自分で消毒するとも思えなかった。万が一、傷口から悪い菌でも入ったらどうするのだ。
と、心の中でたくさんの言い訳を並べて華恋は森を自宅に連れ込んだ。
今華恋が住んでいるのは実家を出る時に両親が用意してくれたセキュリティーがしっかりしたマンションの一室だ。一人暮らしを希望した際、両親はいくつかの条件を華恋に提示した。その一つが頭を過る。
マンションの扉を開けるのを一瞬ためらった。が、ここまできて引き返すのは無しだろう。
華恋は思い切って扉を開けた。
玄関からリビングまでピンクを基調とした可愛らしいインテリア達。後ろにいる森がためらった気配がしたが、無視して招きいれる。森は恐る恐る靴を脱いだ。
「そっちじゃなくて、こっちです」
「え?」
戸惑いの声を上げた森。それもそのはず。華恋が誘導した先は、リビングではなくベッドがある寝室だ。思わず森が足を止める。
「他の部屋は落ち着かないんでこの部屋に通しただけです。他意はありません」
真顔で告げた華恋に森は数秒固まった後ゆっくりと寝室へと足を踏み入れた。
他の部屋がピンクで可愛らしいのに対して寝室はグレーでシンプルだ。
「なんか……この部屋すごい渡辺さんっぽいな」
森が思わずと言った口調で漏らした。華恋の口元が嬉しそうに緩む。
「よくわかりましたね。この部屋の内装だけは私が決めたんですよ」
「どうりで……」
納得という顔をしながらも森は座らずに立っている。やはり、寝室というので警戒されているのだろう。
「消毒するだけですから、座ってください」
「はい」
華恋がベッドを叩くと森はビクリと一度だけ身体を揺らしてバツが悪そうな顔でベッドの端に腰かけた。
「ちょっと待っていてくださいね」
そう言って華恋はさっと寝室を出て、リビングから薬箱を取ってくる。
寝室の扉を開けると、部屋に一人残された森が石像のように固まっていた。普段猫背の癖に背筋もピンッと伸びている。クスリと笑いそうになって耐えた。
「手、出してください」
森は無言で手を差し出した。消毒する間、二人は無言だった。
明るいLEDの下で見ると、森の手が赤くなっていることがわかる。ただ、傷は本当にかすり傷程度だったのでホッとする。消毒はすぐに終わった。
華恋が片付けを始めると、目の前に座っている森は居心地悪そうに身動ぎをした。
その衣擦れの音で華恋は今どういう状況なのかに気づいた。
前回何もなかったことを考えると、今回も何もない可能性は高い。そもそも、森にとって華恋がそういう対象になるのかどうかすら怪しい。
――――あんなに綺麗なお姉さんがいるんだもん。
ちらりと森の様子を窺う。
「えっ」
つい声が漏れた。森の顔が今までにないくらい険しかったからだ。多分一人くらい〇ってる。それくらいの圧がある。
「どうした?」
「森さん顔怖すぎ」
「わ、悪い」
森が慌てて顔を逸らした。
――――あれ? もしかして……森さん、怒ってるとかじゃなくて……緊張してるだけ?
「水、でも飲みますか?」
「いらな……いや、やっぱり、もらう」
「はい」
キッチンから水を持ってきて、森に渡す。
よほど喉が渇いていたのか、森はゴクゴクと一気に水をあおった。
その様子を華恋はじっとみつめていた。
「森さんは……この部屋のどこを見て私っぽいと思ったんですか?」
何か話題を振ろうとして、気づいたらそんな言葉が口から飛び出していた。
森が困ったように首を傾げながら言う。
「どこをって聞かれても……漠然と思ったことを言っただけけだからな」
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「間違ってたのか?」
「いえ。あってます」
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「そうか」
実家を出て一人暮らしをしたいと両親に告げた時、許可するかわりに部屋はこちらで用意すると言ってきたのは母だ。母曰く、自分達の子供がセンスの悪い家に暮らしているなんて耐えられないかららしい。私に拒否権はなかった。
ただ、何とか交渉して寝室だけは自分の希望を通してもらったのだ。正直、ピンクを基調とした部屋は落ち着かないが仕方ない。立地も良くて、セキュリティもしっかりしている。何より、華恋は早く実家を出たかった。他のことには目をつぶるしかない。
昔から両親にとって私は都合のいい『愛の結晶』だった。二人のいいとこどりをした容姿のおかげで可愛がってはもらえたものの愛情はもらえなかった。いつだって二人の眼に映る私は『私』ではなく二人の『愛の結晶』だ。両親の仲がいいことに不満はなかったが……私自身を見て欲しいという気持ちや、この先私が両親に似なくなったら今のように可愛がってもらえなくなるんじゃないか、そんな考えがいつも付きまとっていた。
それでもいいかと割り切れるようになったのは私に推しという存在ができてからだった。当時の私のメンタルを支えてくれた推しには本当に感謝している。
「伊藤さんの件なんですけど、私……確かに伊藤さんのファンではあるんですけど……その、別にガチ恋とかではなくて……。伊藤さんと繋がりたいとか会いたいとか思ったことも無くってその、なんといいますか……その」
喋れば喋る程怪しい気がして、いっそ全部話してしまおうという気になってくる。
「私にとって伊藤さんって、『なれなかった私』なんです」
昔の私はそもそもアイドルという存在が苦手だった。自分の顔の良さを売りにして、周りに笑顔を振りまく。好意を向けられることが苦手な私には理解ができない職業だったのだ。
でも、ある日伊藤健太のドキュメンタリー番組を目にしてその考えは変わった。少なくとも伊藤健太については。
「家族を大事に思うことも、自分の容姿を受け入れることも、武器にすることも、私にはできなかったから」
それどころか、自分の容姿を隠そうとしたり、家出して両親から逃げようとしたくらいだ。
「伊藤さんはあのドキュメンタリーを見た一部のひねくれた人たちから偽善者だとか嘘松だとか一時期結構叩かれていたじゃないですか。それでも負けずに頑張っているのを見てファンになったんです」
森は何を考えているのかはわからないが、静かに華恋の話に耳を傾けている。
「伊藤さんのようになりたいとは思いませんけど……私にはできないことを頑張っている伊藤さんには幸せになって欲しいな、頑張ってほしいな……とは思うんですよ。……いきなり、変なこと語りだしてすみません」
「いや」
――――やっぱり、森さんって優しいな……。
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