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第三章  もう一つの春

8  心の葛藤 柾Side  Ⅱ

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 僕は漆黒の自身が気付かぬ内に生み出したであろうドロドロの慾に塗れた沼の底へと沈んでいく。

 そう、もう僕には残された時間は多分ほんの僅かなんだ。
 それも今は何とか自由に動いてくれている身体は今日明日にでも、何の役にも立たなくなるのかがわからない。
 だとすれば……何時終わりが来ても後悔をしない様に死に逝く者の最期の我儘を、あの頃よりずっと抱き続けてきた己の仄暗い……いや真っ黒に染まりきった望みを叶えても誰も文句は言わないのかもしれ――――。
 
『柾兄っっ』
『柾兄っ、美琴ね、柾兄の事だーい好きだよ』
『美琴を一人にせんといて……』
『――――っ、柾兄の意地悪っっ。勉強の時になったらめっちゃ厳しいんやもん。でも……ね、柾兄は何時も美琴にはめっちゃ優しいよね』


 ずぶずぶと僕の身体が闇の沼へ半分以上沈み込んだ頃に突如僕の視界に眩い光が、眩しい光と共に上を見上げればそれはどれもこれも見覚えのあるあの日、あの時、あの瞬間美琴共に過ごした時間と美琴の屈託なく笑う声と光に満ちた笑顔が視界一杯に沈みかける僕を留めるかの様に声を掛けてくるんだ。

 愛らしい笑顔、頬をぷっくりと膨らませ怒っている体を装った顔、でも直ぐに光が零れんばかりに破顔すればその途端にーっこりと白い歯を見せて思いっきり笑う顔、遠くから僕を呼ぶ顔に少し照れたような少女から大人へと変わる微妙な笑顔……どれもこれも皆僕の愛する、誰よりも愛しくて幸せになって欲しい――――っっ⁉


『みーたんはね、おおきくなっちゃらまちゃにいのね、およめさんになるのっっ』

 最後に現れた美琴はまだ幼稚園へ行き始めた頃の、きっと一緒に家で留守番をしつつ遊んでいた頃のものだった。
 
 可愛らしいツインテールにパステルピンクのフリルで縁取られたワンピース。
 後ろは少し大きめのリボンで括られた可愛らしい美琴は、まるで背中に翼を生えている天使そのものっっ。

 幼い美琴は笑顔のままそっと沈み込んでいく僕へと手を伸ばしてくれる。
 でも駄目だよ……僕の身体はもう慾に塗れて真っ黒なんだ。
 だからそんな僕に触れたりしたら綺麗な美琴はきっと穢れて……。

『だいじょうぶだよ。みーたんはね、まちゃにいのみかただもん』

 美琴っっ⁉

 幼い子供独特のぷくぷくふにふにの腕。
 そうして差し伸べられる手は、何の穢れも知らない小さな紅葉。
 極々普通に差し伸ばされた手は後ほんの数㎝で二人の指は絡め合う事が出来る――――のだがっ、その後数㎝手前で僕は一瞬躊躇ってしまった。

 本当に差し出された手を、いまだ穢れを知らないその優しい手を取ってもいいのだろうか。

 僕には果たして美琴の手を取る資格はあるのだろうか。
 こんなに真っ黒な慾に塗れた僕を美琴は……。


 何をグダグダ考えているやっっ。
 もう答えは出ているんやろ。
 僕の慾にどっぷりと染まる気がないんやったら、とっとと早よう出て行きぃや。
 
 その代わり――――これから僕自身辛く悲しい最期を迎えようとも、それは僕が決めた事やさかいな。

 まあ最期の最後まで時間の許す限り足掻いたらいいんとちゃうの。
 後悔は死んでからゆっくりしたらいいんやし……な。

 ほら、僕達の愛する美琴が待っている。


『まちゃにい……』い

 美琴!!

 僕は今度こそ美琴よりさし伸ばされた紅葉の様な手を取った。


 ぱりぃぃぃぃ――――んっっ


 その音と共に一面に漆黒の世界だったものへ幾つもの亀裂が入ると、音を立ててきらきらと輝きながら木っ端微塵に砕け散っていく。

 そうして世界は真っ白へ、光に満ちた……そう僕はゆっくりと目を覚ました。

 一つのある決断をした瞬間でもあったんだ。 
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