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第一章 回想
5 柾Side
しおりを挟むプルルルル。
プルルル……!?
救命センターのホットラインが鳴り響く。
新米外科医の僕は率先してコールを取り救急要請の内容を訊く。
53歳女性。
暴走してきた乗用車より傍にいた子供を庇って意識不明、頭部受傷の可能性あり。
レベル3ケタ。
荷物より身元が分かり名前は――――朝比奈 琴奈……⁉
耳より入ってくる情報をボードへ書き写しながらも最後に聞いた名前で口腔内が一気にカラカラに渇いていく。
琴ちゃん!!
救命センター内の空気が一気に氷点下へと下がっていく。
何故ならここにいるスタッフの殆どが琴ちゃんの元職場であり友達だ。
彼女は美琴を妊娠して直ぐ高齢出産で体調を崩し、周平叔父さんが連日泣き落して無理やり退職させたのだから……。
だからいわばここは琴ちゃんの古巣でもあり僕達家族のいる職場。
『搬送OKですかっっ!!』
「は、はいっ、直ぐに運んで下さい!!」
オンラインの向こうから催促され、慌てて受け入れOKを伝える。
そして誰かが直ぐに伝えたのだろう、周平叔父さんや脳外科の部長達まで走って入ってきた。
勿論その後ろから副看護部長でもあり義姉の母も悲愴な面持ちで入ってきた。
現場が近かったのだろう、間もなく救急車がやってきてストレッチャーに琴ちゃんを横にした状態で救急救命士が馬乗りとなり心臓マッサージをしている。
点滴でルート確保もされていた。
状況説明に警察も同行している。
挿管し気道確保を行いモニター装着、ありとあらゆる処置が一斉に執り行われる。
だが無情にも処置を初めて30分以上経過しても、それでも琴ちゃんの心臓はぴくりとも動く事はなかった。
CTの結果脳幹がやられていた。
脳内の損傷は激しいが表面上では車にぶつかったというのに然程大きな怪我はない。
まるで可愛らしい眠り姫の様だった。
誰もが画像を診てもう助からない。
いやここへ来た時点で既に彼女は亡くなっていたのだ。
しかし周平叔父さんだけは頑として諦めなかった。
「琴っ、琴奈さんっ、頑張るんだっ、こ……と、琴奈っ、絶対諦めるなっっ!!」
汗だくになっても、短期集中の心臓マッサージで何人も交代してやっと心拍が戻るか戻らないかなのに、周平叔父さんは絶望の中たった一人狂った様に琴ちゃんの胸部を圧迫し続ける。
「もう止めて、周ちゃんっ、もう琴ちゃんを休ませてあげてっっ」
「何を言うんやっっ!! 美咲さんは琴奈がいなくなってもいいんかっっ」
「馬鹿な事を言わないでよっっ、他の誰よりも琴ちゃんを失いたくはないのに、失いたくないのにでももう――――琴ちゃんは逝っちゃったじゃない!!」
泣きそうな声で母は周平叔父さんへ向かって叫んだ。
それでも周平叔父さんの手が止まる事はない。
周りのスタッフも次、何時新たな急患が搬送されるかもわからない。
今ある命を助けたい気持ちは誰もが同じ事なのだが、僕達医療従事者は神ではない。
いっその事神であったならば琴ちゃんの命も、他に助けられなかった多くの命も確実に助けられただろう。
だけど悲しいかな僕達は神ではなくただの人間だ。
人間が人間の命を救うには限界というものがある。
僕は医師になって初めてこれを痛感してしまった。
それを知った時から僕は少しでも人間が出来る――――それは本当に小さな事だと思う。
それでもその小さな事でも良くなる事を願って最善を尽くしてきたのだけれど……琴ちゃんは僕ら人間の手には負えるものではなかった。
彼女を生き返らせる事が出来るのはそれこそ神――――だけだっっ。
それは僕だけでなく恐らくこのセンターにいる者全てのスタッフが思い、そして無力な自分達を呪った。
だから無駄――――とわかっていても誰も周平叔父さんを止められない。
また次の命との闘いに備えて準備もしなければいけないのは十分わかっていた。
わかっていてもそう、頭では理解しているっっ。
だからと言って感情を抑えて冷静に次へと備えなければいけないという事はっっ!!
わかっていても……昔の同僚で、自分達の雇用主の奥さんで、僕の大切な叔母なのだ。
誰も周平叔父さんを止める事は出来ない。
だがこの場でたった一人――――副看護部長でもあり義姉でもある母が、皆が言えない言葉を憎まれ役の様に代弁する――――けれども周平叔父さんの心には中々届かない。
二、三回心を鬼にして母は琴ちゃんが最早この世の者でないという事を叫んでいた。
でも母にとっても彼女は頼もしい義妹であり、親友であり掛け替えのない上司だった。
幾らなんでもそれ以上はもう言えない。
何も関係のないただの患者さんだったら、こんなに皆が感情移入される事なんてないというのに……。
甥の僕でさえ何を言っていいのかわからないし、動揺しまくっていたんだ。
「――――院長先生っ、次のホットラインが何時入るかわからないのでっ、もう蘇生を開始してから一時間以上経っています。差し出がましいのは十分覚悟していますがどうか琴先輩の最期の確認を院長先生自らお願いしますっっ」
「っ!? 君は……看護師だろう?」
周平叔父さんは心臓マッサージの手を止めてゆっくりと背後にいる彼女へと振り返る。
その振り返った周平叔父さんの表情を見て皆が一瞬にして竦み上がった。
つい一時間前までの叔父の表情と今の表情では天と地程の差が生じてしまったのだから……。
艶やかだった肌はくすみ、頬は扱け、祖母譲りの青い瞳は妖しいまでに剣呑で鈍い光を放っていた。
おまけに一心不乱になって心臓マッサージをしていたものだから着衣は思いっきり乱れている。
一瞬だけれども本当にこれは何時もの叔父なのか――――と僕は疑ってしまった。
それでも――――。
「全てをわかって言っています。ですがっ、先生がこんな状態では琴先輩は喜びません!! 先輩は、琴先輩は何時も患者さんの事を思っていた人ですっっ。もし自分の所為で助かる命が助けられなかったら琴先輩はなんて思います……か?」
皆が一斉に周平叔父さんの背後にいた一人の看護師を見た。
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