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第一部 第四章 現在
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しおりを挟む昼食を終え彼女は食事の後片付け等を済ませると診療所を後にして市場へ、噴水近くにある馴染みの肉屋へとゆっくり歩いていた。
少しずつ市場へ近づくにつれて人々は行きかい活気が満ち溢れている。
彼女はこの活気溢れる風景を見ているのが何よりも楽しいと感じていた。
そうたった4年前まで戦争をしていたとは思えないくらいの賑わいなのだ。
きっとこれも紙切れ上の夫とはいえ、彼が国政を真面目に取り組んでいるからこそ今日の繁栄があるのだとフィオは感じていた。
顔も知らない……正確には顔も覚えてもいない夫であるルガート王。
ただ覚えているのは大きくて冷たい感じの男性だという事。
もし、如何しても王妃として傍にいなければならないのであれば、自分の作った料理を美味しいと言って食べてくれるエルさんの様な男性ならばまだ良かったのに……と埒もあかない事をフィオはふと考えてしまったその刹那――――っっ!?
どんっっ!?
「あっ、つっ……ってちょっと待ってっっ!!」
待ってと言われて古今東西待つ人間等いやしない。
フィオへ体当たりをし彼女の鞄を奪った少年は、一目散に彼女の目の届かない所へと逃げていく。
だがしかし彼女も簡単には諦めない。
奪われたモノは彼女の血と汗は確実で涙は???だけれど、間違いなく自身で働き稼いだお金なのだっっ!!!
簡単に奪われたからといって諦められるモノではない!!。
例えスリを追いかけるという行為が王妃らしくないと言われても、最早そんな事等如何でもいい!!
ただ、盗られたモノを取り返すっっ!!
だからその少年を追って寂しい路地裏へ入って行っても何も躊躇わなかったのだ。
それがどんなに危険な行為だとも考えずに……。
そうして暫く追いかけている間にフィオは全く見知らぬ道へ入りこんでいる事に気がついた。
このままスリ少年を追いかけたい気持ちと急に言いようのない不安が彼女の胸に湧き起こり、彼女の駆ける足の速度は徐々に速度が落ちていく。
それに太陽はまだ沈んでいないというのに、如何してここはこんなにも薄暗いのだろう?
殆ど表通りしかで歩いていないフィオには全く未知の場所だ。
おまけに所狭しと薄汚れた掘っ立て小屋が乱立している光景は、彼女の心を怯えさせるのには十分過ぎるもの。
そして完全に歩みを止めたフィオはこのまま進むべきか、はたまた元来た道を戻るべきかと思案していたら――――っっ!?
「よぉ、ねえちゃん、あんたこんな所で何してんだぁ?」
「――――っっ!?」
「へへっ、ねえちゃんあんた結構な別嬪さんじゃねぇか、こんなトコに態態やってきたんだ、俺があっちで目一杯可愛がってやるよ」
「やっ、いっっ!?」
そう言い終わらない間にぐいっと力強く、そして石の様に硬い手でフィオの細い腕が捕まえられた。
おまけにボサボサの髪に薄汚れ着崩した様相の中肉中背で厭らしい眼つきをした男は、自分の腕の中へと彼女を無理に引き寄せる。
男の腕の中へと引き寄せられたフィオは、その何とも言えない安酒交じりの口臭と何日の入浴していないだろう饐えた体臭が、彼女に呼吸させるのを困難にしていく。
きっとこの臭いを嗅いでしまったら、さっき食べたモノ全て吐き出してしまうに違いないっっ!!
フィオにとって必要最低限度の呼吸を余儀なくされるという事は、当然抵抗するにも力が入らない。
それを男はフィオが観念したとでも思ったのか、「へへっ、直ぐに良い思いさせてやるさ」と言いながらズルズルと彼女を引き摺る様に少し離れた小屋へと向かう。
彼女は男に触れられている部分より悪寒を感じながらも、このままでは何をされるのかわからない恐怖で男の言う良い思いが全く当てにならないではないかと心の中で1人突っ込みを入れてから、意を決した様に臭い中で思いっきり叫んだっっ!!
「いやっ、離してっっ!! 汚らわしいその手を離しなさいっっ!!」
「っ、何をっ、この女っ、何調子こいてやがんだっっ!! ちったぁ痛い目に合わせりゃ大人しくなるってモノかっっ!!」
「なっ、ぐっ!?」
男は徐にフィオの胸座を掴み、その拳で彼女の頬を叩こうとした瞬間――――っっ!?
「――――おい、お前何をしている?」
「んあ゛あ゛……?」
フィオ達の前に現れたのは、鮮やかな緑色の髪に黒い瞳をしたやや神経質そうな面持ちの青年が雪の様に白い馬に騎乗し、こちらを睨みつけていた。
「もう一度言う、お前その娘に何をしようとしているのだ?」
20代後半から30歳前半、やや神経質そうなイケメンだが角度を変えれば若干思ったよりも若くも見えるその青年は、馬より降りる事なくフィオと正確には彼女をその腕に抱え込んでいる薄汚れたならず者の男を悠然と見降ろして問い質していた。
しかし見降ろされているならず者からしてみると実に面白くない。
これからフィオを凌辱しようとしていた矢先にとんだ邪魔が入ったのだから……。
そしてごく当り前の様に男は青年に向けて口汚く罵る。
「おうおうっ、何カッコつけてんだよ貴族のにーちゃんがっ、ここはあんたらお貴族様が来る所じゃねーんだよっ!! 俺はこれからこの姉ちゃんと仲良くしけ込もうっていう時に邪魔なんかすんじゃねぇっっ!! わかったらとっととこっからここから出ていきやがれ!!」
唾を飛ばしながら男は馬上にいる青年に毒づいている。
その様子を目の前で見ていたフィオは――――。
いやっ、汚いっ、唾を飛ばさないでっっ!!
拘束されている中で身を縮込ませて眉間に皺を寄せ、男から飛ばされるであろう唾を出来る範囲でフィオは避けていた。
そして男が青年に気を取られている一瞬の隙に彼女は身体を捩らせ渾身の力を込めて男の股間へ自身の膝で切り上げ、そして男の足の甲の真ん中辺りを少しヒールのついた踵で力一杯に振り落とし、最後の仕事と言わんばかりに打ちすえた部分をご丁寧にぐいっぐいっと捩じりつけた。
本当ならば罷り間違っても男性の股間等蹴り上げるどころか触れたくもないっっ!!
ましてやこんな汚い男のモノになんて論外にも程がある!!
だけどもう何年もアナベルより護身用にと体術を覚えさせられていたのだ。
アナベル曰く――――いざという時に己を護るのは自分自身でしかない!!
そう、だからアナベルの長年に渡る指導に基づいて彼女は実行したまでだ。
今までそういう機会がなかった所為で実際自分が何処まで出来るのかがわからなかったのだが、確かにアナベルの教えた体術は役に立っている様だった。
その証拠に今まで拘束していた男はその場で股間と足の甲を抑えて蹲り悶絶している。
「うぐっ、ちき……しょうっ、こんな小娘なんかにっ!!」
悪態を吐いても間抜けなくらい男はその場より起きる事も叶わない。
フィオはその男の傍より素早く離れると馬上の青年と瞳が合った――――というか、視線が絡みつく様な感じがしたのだ。
そう、見つめ合ったのはほんの数秒だったに違いない。
しかしお互いその瞳を逸らす事が出来なかった。
だから自然と青年の方より手が差し伸べられるとフィオはほんの少し躊躇ってからおずおずと彼の手に自身の手を重ねた。
そして青年はぐいっと彼女を引き寄せ、彼女はあれよあれよという間に馬上の人となったのだ。
「申し訳ありませんが男が起きない間にこの場を駆け去りますので、私にしっかり掴っていて下さい」
「はっ、はいっっ」
「はっ!!」
青年は手綱を引き締め馬の脇腹を蹴るとその場所より勢いよく馬は走り始める。
フィオは馬の首に捕まる訳にもいかず結局言われるままにその青年の胸へ抱きつく形となる。
さっきは咄嗟に動いて事なきを得たけれども、本当は声が出ないくらい怖かったのだがしかし、こうして青年の胸に身体を預けて彼女の耳より聞こえてくる青年の規則正しい心音は、今まで得た事のない安堵感、そして心地良さを彼女に与えた。
不思議……出来るならずっとこのままでいたいくらい。
なんて気持ちいいのかしら……?
馬に揺られて見知らぬ青年の温かな腕の中でフィオは甘酸っぱい様でいて胸がドキドキする様な、それでいて何処か落ち着く様で落ち着かない不思議な気持ちが小さく芽生え始めていた。
初めて会った男性だというのに……陛下と初めてお会いした時にもこの様な感情を抱いた事もなかったというのに如何して???
フィオの胸に微かに咲き始めようとする感情の名前を彼女は知らない。
まだ咲いてもいない蕾がほんの少し綻び掛けた状態。
その想いの表現を彼女はどう説明していいのかわからない。
けれどもただただその温かい腕の中がフィオにとっては酷く心地のいいのもだったのだ。
だからその心地の良い時間に終わりを迎えた時、彼女の心は凄く寂しい……と素直に感じてしまった。
「お嬢さん、貴女のお宅までお送りさせて頂く栄誉を私に与えて下さいますか?」
フィオの様子を窺う様な優しい声音で彼は言う。
「は、はっ、あっ、いっ、あのっ、おっ、お気持ちは凄く嬉しいのですが……」
フィオはその問いかけに返事をしそうになった瞬間――――アナベルの怒った顔を思い出したのと、まさか『自宅は王宮裏にある離宮です』等とは死んでも口に出来ないと思い至り、嬉しい想いと残念な気持ちが綯い交ぜ状態となって返事も最後には尻すぼみとなり、フィオは思っている事を上手く青年に伝えられない。
本当はまだこうしていたいという気持ちが上回っていたのだが、心の隅っこにあった自分の立場――――ルガート王国の紙切れ上の王妃という枷が彼女を現実へと連れ戻してしまう。
今までほかほかだった心が急に冷たくささくれ立った棘が見る間に心の中へと広がり冷たく乾いていく。
こんな感情の名も知らないと、フィオはただただ初めて味わう感情に振り回されるだけ。
何をしたらいいのか、如何したら、如何すれば心が落ち着くのかわからない。
「――――些か時期尚早……と言ったところでしょうか? 私は貴女を一目見て柄にもなく少々浮かれてしまったようですが、貴女はそうではなかったよう……ですね。いや、失礼、これはなかった事に致しましょう」
青年は馬をゆっくりと歩かせながら優しくフィオに話し掛けた。
フィオが困らない様に……。
だがフィオはそんな青年の言葉が何故か悲しく感じてしまったのだ。
少し哀しげな彼の黒い双眸にフィオはどうしようもなく惹かれてしまう。
如何してこの男性はこんなに悲しみを湛えた瞳をしているの?
如何したら心の底より笑ってくれるのかしら……。
フィオはちらちらと何度も彼の顔を見ながらふとそんな事を思ってしまった。
だがその何とも甘い様で甘くない時間は突然終わりを迎えた。
「フィオっ、遅いですよ!!」
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